「こんなとこで何やってんだ、アシト。早く練習いけよ」
「あ、オッチャン」
フィールドの近くにあるベンチ。木々の間に隠されるように設置されたそれは、一人になりたい時の穴場ともいえるところだった。なんとなく、そこに立ち寄った福田は先客の姿に目を丸くする。
秋も深まってきて、赤や黄色の鮮やかな色彩が踊って。
秋風が気まぐれのように吹けば、ヒステリックにも思えるほど大げさに枝を揺らした木が絵の具をベタ塗りしたみたいな手のひら大の葉をざぁと降らす。
フィールドからは少し離れた場所。今葦人がいるべき場所ではないはずなのだが。
福田の声に特に驚いた様子もなく振り返って呑気に返事する葦人に、ガサガサと音を立てて落ち葉を踏みつけて近寄れば、凪いだ海のように穏やかな琥珀の瞳が見返した。
なぜだかとても、大人びて見えて。
「いやぁ、なんていうか、うーん」
「……なんだよ」
ぱち、と瞬きをした次の瞬間には幻のようにその顔は消え失せていて、代わりに煮え切らない返事をひねる年相応の少年の姿があった。それに、無性に安心した。わざと軽く聞こえるように催促した声。
突っ立っているのも憚って、葦人の隣に腰かける。―――最初からもう一人来ることがわかっていたかのように開けられていた隙間。
また気まぐれに風が絡まって、フカフカとした絨毯のように地面を覆っていた落ち葉を巻き上げた。
燃えるような赤に、惹きこまれる黄色に、深い焦げ茶の断片がひらひら舞う。コートの前を引き寄せて葦人をぼんやり眺めていた福田の目に映るその一瞬一瞬が鮮烈な絵画のようだった。
その唯一の主役は、なにか得心がいったようにうん、とひとつ頷いた。再度合う瞳。
小さなベンチに並んで腰かけていた二人の距離は思っていたよりも近くて。
福田の視界のど真ん中で、ふわふわした癖っ毛が揺れて、どうにも目が離せなかった。
「なんか、ここに居たらアンタに会える気がした」
「……キャ♡」
ともすれば熱烈な口説き文句みたいな言葉。
真剣な顔して言うもんだから、いつもだったらすぐにできる茶化しさえワンテンポ遅れてしまう。
まただ、と思う。
また、あのドキッとするような顔。無垢で、無知で、鈍感で。そのはずなのに、すべて見透かされているように感じる。
不意に感じる体温。は、と吐息と共に漏れ出た意味のない音。手を取られていた。
つめた、とおかしそうに笑う笑顔は子供そのもの。言葉通り温かい葦人の手はじわじわと温度を移す。なにしてんだよ、と冗談っぽくして緩く外さないといけないとわかっているのに、だんだん曖昧になってくる境界に離し難くなっていく。
「…会ってどうすんだよ。なんか言いたいことでもあったのか」
口を突いて出る、特に感じてもいない疑問。
この体温を離せなくなり始めている自分の時間稼ぎみたいだ、と福田は胸の中で小さく自嘲する。
返ってきた声は、存外きっぱりしたものだった。
「なんもない!」
「…は?」
「なんもない、し。どうもしないんやけど」
す、と隣から小さく息を吸う音が聞こえた。
「―――秋は寂しくなるからなぁ」
外された視線は空を見ていた。秋らしい千切れ雲が消滅を待っていて、抜けるように高い空に向かって風が吹く。
「帰る気はないし、帰れないんやけど。アンタは愛媛の匂いがする、から」
ぎゅ、と強められた力。
もうすっかり同じくらいになった温度はやっぱり暖かくて。寂しかったのか、自分も。とガキみたいな自覚が唐突に目覚める。ちょうどこんな日に、ここに来たのも。コイツに会える予感がしたからなのかも知れない、なんて夢見がち話だ。
この時期の人恋しさのせいにしてもいいか、と思考が掠めた。もともと蠟燭の火のように小さく微かだった感情の炎は、この秋風に煽られて燃え広がっただけだから。
「……愛媛の代わりになる気はねぇぜ」
「はは、しねぇよ。…オッチャンだ、ってわかってやっとる」
返事のように福田が手を握り返すと、ややあってから控えめに肩に預けられる体重。
伝わってくるのは熱だけだろうか。この胸の内のなにかも、一緒に引火しないだろうか、とありもしないことを願ってみる。
もう肌を刺すようになった気温は冬に近くて、冬支度の駆け込みのような落ち葉の雨が二人を覆い隠すようだった。遠くに喧騒が聞こえて、始まったばかりだろう練習に心の中でもう少しだけ、と謝って。福田は肩越しに伝わる緩い体温に静かに目を伏せた。
ーーーーーーーーーーーーーー
ガラス窓を冷たい雨が叩いている。空は暗雲が垂れ込めて、昼間のくせに薄暗い明かりを部屋にもたらしていた。
ぱちんと電気のスイッチを付けた葦人は先ほどまで座っていたソファに逆戻りした。体重に従って沈むスプリングにちらりと見上げる福田の視線。
座面に乗り上げて肘置きに足を伸ばし、福田の肩に背中を預ければ慣れたように腕が回される。
「なぁ、ほんとに何もしなくていいのか?」
心配そうなテノール。背後から響くそれに、何度もした問答を飽きもせず葦人は繰り返す。
「良いんやって。これで」
福田のマンションに、オフの日に度々出かけるようになったのは少しだけ前の話だ。
恋人、なんて聞いているだけでくすぐったくなるような甘い言葉で表される関係。
こうして二人だけで時間を過ごすたび、福田はどこか焦ったようにいろいろなことを提案してくる。サッカー観戦だとか、最近のぐあいを聞いたりだとか、新しい練習法のアドバイスだとか。
最初はそれも楽しくて。声を弾ませてしゃべり倒していたものだったし、みんなの信頼をいっしんに集めてやまない「福田監督」を独り占めできる優越感に自然と口の端が緩んだりもした。
でも、流れるような言葉で葦人に新しい世界を見せ続けてくれる福田のまなざしの中に、不安げな色を見つけてしまって。
その正体は、よくわからないけれど。
監督としてじゃない、福田達也としての一人間と一緒に過ごすことが、特別胸をざわつかせて、それを選んだんだと伝えたくなった。
「きょうは雨やし!これでええの」
はっきりと宣言するとまだ納得のいっていないような戸惑った指が遠慮がちに葦人の髪を梳く。
雨だろうが雪だろうが、極度のものでなければ葦人はフィールドに出る。それは福田も同じことだ。
でも、「雨だから」なんて理由で何もしない贅沢も、好き、な人とだらける幸福も。言葉にするのは小恥ずかしいし言ってやる予定もないけど。きっとこの人だからなんだろう、なんて思って、葦人は預けた背中から薄く感じるゆっくりした心音と囁く雨音に耳を澄ました。
世界を自由に羽ばたく葦人。
そう育て上げたのは自分だと自負しているし、その根幹には自分がいると疑っていない。実際真実で、少し自分より小さい体が質量を持っていないかのように跳ねて、青い声で名前を呼ばれるのは悪くない。
ただ、自分以外の人物が燦然と輝きを放つところで自分以外に吸い寄せられやしないかと不安になるのもまた事実。人間らしくなったな、と言った同期に、どういう意味だと問えば薄く笑われた。
こんなにひとりに感情を動かされるのも、余裕を乱されるのも初めてだ。
葦人を自分の元に一番引き付けておけるのはフィールド上の話。そう思って監督としての顔で余裕を作って見せれば、日光を煮詰めたみたいな瞳が不満げに歪む。
なにもしないでダラダラする、と宣言された今日。なんとなく手持ち無沙汰で、肩にかかる重さや空調の音に紛れて聞こえる呼吸音。独特な静止の中にあるような時間がむず痒くて、思わず窓の外を飽きもせず降る雨を恨めし気に見てしまう。
「……やっぱり落ち着くなぁ」
ぼそりと聞こえた言葉。自分の隣だからか、なんて自惚れが芽生えそうになって、小さく頭を振る。
時計の秒針が規則的に動いて、ふいに雨の勢いが増す。福田が葦人に回した腕がぎゅっと握られて、じんわり滲む温かさが愛しさの形を成して侵食してくる。この時間のむず痒いような居心地の悪さが、雪解けのように変わっていく気がした。
作った顔が剥がれ落ちる夜まで、あと少し。