迷い星の話荷物を持ちドアへと手をかける。縋る声に振り向いて何か言葉をかけた気がするが、覚えていない。
ただ、ドアを閉める直前、弟が諦めたように俯いた表情だけは賢汰の目に焼き付いた。
ただいま、と口に出しかけて賢汰は立ち止まった。母は夜勤で帰ってこないことを失念していた。
無人のリビングを通り抜けて、真っ直ぐに自室を目指す。無性にベースに触れたくて、ドアを開けてすぐに荷物を隅へ放った。
ケースを開く。アンプやヘッドフォンを繋ぐ。チューニングをする。
音楽へ没入する。
ふと賢汰が顔を上げた時には、日はとっくに落ちて月が天へ近づいていた。すっかり我を忘れて引き続けていたらしい。
「航海、すまない。今夕飯に」
ヘッドフォンを外した瞬間、音のない空間に賢汰の声が響いて、消える。
ふ、と口の端から笑いが漏れた。この失敗は賢汰にとって初めてではなかった。
先に帰っているはずの弟にただいまを伝えてしまう。二人分の夕食を温める。少し下の視界に赤を探してしまう。
まだ離れて暮らし始めて3ヶ月しか経っていない。そのうち慣れるだろう、と散らばった楽譜へ手を伸ばした。
ぱた、ぱた。
「…?」
楽譜のインクがわずかに滲んだ。水滴がいくつか落ちている。
発生元はすぐに分かった。が、何が起きているのか分からないまま、賢汰は眼鏡を外した。
レンズの内側にもそれは付いていた。
「な、」
なんで、と言いかけて飲み込む。今にも嗚咽になりそうなかすれ声。
なんで俺は泣いているんだ。
賢汰の疑問をよそに涙は次から次へ頬を流れて落ちていく。
3ヶ月前の生活。当たり前にあったもの。
溢れるように賢汰は弟の名前を呟いていた。
目を開けると空白が目立つノートが広がっていた。
ぼんやり寝起きの頭でそれを眺めて、航海はもう一度机へと突っ伏した。
兄が泣いている夢を見た。
「そんなわけ、ない」
都合のいい、こうあってほしいと願った夢。今更こんなものを見たって仕方ない、と航海は強く唇を噛んだ。
今現在、バンド活動は低迷している。仲間たちにも不安が広がっていて、気持ちもまとまらない。
そんな気分で新曲の歌詞作り中にうたた寝をしたらこれだ。
「…最悪」
小声のつもりが思った以上に部屋に響いて、ますます航海の気分は落ち込んだ。
それでも、胸に湧き上がるものがあった。ペンを取り、のろのろと体を起こす。
今の不安を。幼い頃の希望を。
夢を信じたい気持ちを、少しだけ。
泣いてたのは僕だけじゃない。
思わず溢れた声に、航海は口の端だけで微笑んだ。