『特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ』「ねえ、これ。最近、『特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ』って小説、流行ってるだろう?」
ルーシアスは、薄荷とレモングラスを刻んだ茶を危うく吹きそうになった。
目の前のルークは、絹糸色の髪を一筋も乱さず座っている。
『特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ』は、確かに連隊のみならず巷間で流行っている作品だ。
週に2度ずつ、内容を細切れにしたチラシが配られ、それを追えば無料で読むことができる。
主人公のイワン・イワノビッチ・イワノフは正体を隠した特命の公爵で、サイドを刈り上げたテカテカのオールバックが特徴的な人物だった。
野心に満ちた精力的な人物であり、帝国に存在する数々の問題を、主に暴力と下半身で解決していく。
その過程で、社交クラブの給仕の娘やプリマドンナ、娼婦、貴族の令嬢、果ては公爵の妻までを次々と陥落させていく過激な描写が、主に紳士からの支持を得ていた。
無論、従軍適齢期の男が集まる親衛連隊と言えどもその人気は変わらないわけで、新作が発表されると兵舎ががほんのりと生臭くなる。
嗅覚の鋭いルーシアスには、何人もの精が混じったその臭いは、ちょっとした拷問だった。
その、「特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ」の書籍が、机の上に置いてある。
「……んなもん読むなよ……」
「連隊で流行ってるし、僕も女の子の前でかっこよく振る舞いたい。あれが『かっこいい』の共通イメージなんだろう」
ルークは、長靴を履いた脚をすらりと投げ出していた。やや脚を開いて座り、意識的に男性的な仕草をしている。
軍属の装いに、神経質そうなメガネをかけたルークは、『特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ』を最も嫌悪しそうな見た目をしていた。
「あれで、女の子が『ああ〜〜んこんなの初めてぇ〜〜』っていうセリフがよく出てくるけど、なにが『こんなの初めて』なんだろうなぁって」
「なんで俺に聞くんだよ」
黒い詰襟の軍装をやや寛げて、ルーシアスは額に手を当てた。
どうしてこうなった。
「じゃあアリナに聞いてみよ」
「やめろ」
『ああ〜〜んこんなの初めてぇ〜〜』は、『特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ』で名物になっているセリフである。妖艶な女性たちが乱れに乱れ、ふたりの交わりが野砲の演習かくもやという勢いで寝台を揺らすシーンは、物語の〆の定番であった。
ルーシアスは浅黒い肌をやや赤くし、「男のモデルを変なところから学習するな」と頭を抱える。
人間のオスとメスがどういう仕組みで繁殖し、身体にどういう差があるのか、知らぬルークではない。だが、如何せん、男といえばルーシアスしか知らないルークには、『ああ〜〜んこんなの初めてぇ〜〜』の意味が分からないのだと思われる。
かといって、『ああ〜〜んこんなの初めてぇ〜〜』をアリナに説明させるには、そもそも『特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ』を読ませなければならず、それはそれで障りがある。
まさか、アリナが『特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ』などという通俗的なものを読んでいるはずがなかった。
「ルーク、手を見せて」
どこから説明したものか、とルーシアスは唇を噛む。白い手を素直に差し出したルークに、ルーシアスは指を絡ませた。
数多く『ああ〜〜ん』をしている二人の間でも、いざ説明するとなると、何となく気恥ずかしい。
「俺とお前で掌のサイズも指の長さも違うだろ?人によって体格の差があるわけで、『剣』と『剣の鞘』も個体差があるわけ」
それがどうした、という顔でルークは聞いている。
「サーベルの鞘にダガーを納めても、寸が足りてねえだろ。ダガーの鞘にサーベルは入り切らねえしな。曲刀持ちなんて合う鞘がめったに見つからん」
ルーシアスは、生まれたときから今に至るまで、人生の大半を男だらけの環境で生きてきた。風呂の場のみならず、酔うと脱ぐ兄、酔わずとも脱ぐ兄に囲まれ、「肉弾武器庫」のサンプルデータはそれなりにある。
それを受け入れる側の女も、内側は千差万別であり、その日の体調によって事情が異なることも知っていた。「乗り気じゃないときにヤろうとするな」とは、師であるシモンの教えである。「合わない場合も相手のせいではない」というのも、またシモンの教えだった。
「つまりだな、今までの相手で鞘と刀が適合する相手がいない場合も少なからずあるわけ」
「はぁ……なるほど」と感心しているルークの目線が、心なしか股間のあたりを向いている気がする。
「色んな女の子や貴婦人としてるのに、イワン・イワノビッチ・イワノビッチはどうして皆と『刀』が合うんだろう」
「俺の股間を見るな。まぁ……ほら……東洋には、仕込み刀でペラペラしたヤツとかあるから……何にでも合うんだろ。身体に巻いたりできるらしいぜ」
苦し紛れに、ルーシアスは言った。正直に言えば知ったことではない。性豪の伯爵イワン・イワノビッチ・イワノフを、ルーシアスは恨んだ。
ルークは、左右対称に研ぎ澄まされた顔を、何の淀みもなくこちらに向けてくる。
「だから……えーと、ヤッたら無条件に『ああ〜〜こんなの初めてぇ〜〜』になるわけじゃなくて、鞘と刀にも相性があるんだよ……ほら、お前も腹の奥んとこ当てるとめちゃくちゃイくじゃん」
「あ、うん……」
ルークが考え込むような仕草をする。
「知らねーと思うから言っとくけど、あれ、誰とでもなるわけじゃねーから」
ルーシアスは、片方の手のひらで筒を作り、もう片手の中指をその中に入れて「突き当り」を模す。
「ほら、奥の袋の前に突き当りがあって、このへんな」
ルーシアスは、中指で、服の上からそのあたりを指す。入れている最中に上から押すと狂うそこは、ルーシアスが丁寧に開発した場所だった。
「『ああ〜〜こんなの初めてぇ〜〜』って言うくらいだから、奥の方だろう。これは、全員が全員『初めてぇ〜〜』ってわけじゃなかろうが」
「はぁ……」
色仕掛けで情報を集めるべく、「女を狂わせる方法」を授けられたルーシアスは、他の男より少しだけ人体の仕組みに詳しかった。それを授けたシモンは、「特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ」だったのだろうか、とバカなことを考える。
「結構色々考えてくれてるんだな、ルーシアス」
ルークは、感じ入ったように頬に手を添える。真面目な顔で「いつもお世話になっております」と言ったルークに、ルーシアスは「こちらこそご愛顧ありがとうございます」と答える。
「で、話は本題に戻るが」
「今のが本題じゃないんだ」
獣色の目を細め、ルーシアスは赤毛の頭を搔く。
「さすがにお前のなりで特命伯爵イワン・イワノビッチ・イワノフをモデルにするのは向いてないと思うぞ」
「特命伯爵イワン・イワノビッチ・イワノフは向いてない!?」
目を丸くしたルークはやはり線が細く、黒光りゴリラでサイド刈り上げのイワン・イワノビッチ・イワノフとは路線が違う。
「特命伯爵イワン・イワノビッチ・イワノフがお前に向いてるわけないだろバカか!」
ルーシアスはノータイムで反復した。
女性を丁重に扱う反面、「男らしい力強さ」が足りない。その評価を、ルーク自身も知っている。それを補うため、乗馬や射撃、剣術を習って身体を作っているのも、ルーシアスは知っている。
だが足りないのだ。決定的に。
具体的には、『モノ』の存在感が、ルークには足りない。
「だってお前、イワン・イワノビッチ・イワノフしてないじゃん」
「何が?」
「ナニが」
ナニがイワン・イワノビッチ・イワノフしていないのかは、言うまでもなかった。
茶のお代わりを持って、侍女のアリナが入ってくる。
「何の話をしてらっしゃるんですか」
「……ナニの話」
その回答を聞いたアリナが、整った眉を怪訝そうに寄せた。その目が卓上の「特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ」を見る。
「あぁ……これ。屋敷のものも読んでますね。お好きなんですか?」
「んー、まぁまぁ」
苦笑したアリナが、茶を取り替える。
「あんな男に惚れちゃだめですよ、姫様。洗ってない手で粘膜触ったりだとか、準備ができてないのにいきなり抱いて傷つけるようなことをするような男は」
さらりと言ったアリナに、薬師の家の娘という経歴を感じさせた。そのへんを気にしている男は、連隊にいなかった気がする。
ルーシアスをちらりと見るアリナに、含みを感じた。牽制である。
「イワン・イワノビッチ・イワノフは物語の中の人物なのでともかく、イワン・イワノビッチ・イワノフに憧れてイワン・イワノビッチ・イワノフの真似をする殿方はいけません」
怒涛のイワン・イワノビッチ・イワノフ連呼を、アリナが言い切った。切れ味の鋭い言葉が、図らずともルークに特大の釘を刺す。
茶を口につけたルークが、頬を赤らめる。「そんなことしないよ」とごく小声で呟いたルークの声に、ルーシアスは肩を震わせるのを堪えつつ顔を背けた。
ルークの部屋の寝台が抜け、『特命伯爵 イワン・イワノビッチ・イワノフ』が「大公家の夫人を籠絡する内容は不敬である」として発禁になるのは、もう少し先のことである。