揃っている ざわざわとまではいかない喧騒が、しかし、一秒毎に賑やかになっていく気がする。もうすぐお目当てのものが始まるから、そのためだろう。
皆、混み合うと知っていながら、こうやって一所に集まるのだ。風物詩というものの影響力はすごい。まあ、自分も例に漏れない訳だが――と、思案しているときだった。こちらへ向かってくる、早い足音が聞こえて。
「遅くなった、ごめん……。……あっ」
菫色がはめ込まれた双眸が揺れて、丸くなる。駆け寄ってきた彼は俺の爪先から肩までを視線でなぞって、呟いた。
「灰色。同じ」
おぼこかった瞳が細められて、今度は艶やかさを纏った。息を切らして紅潮した、いつもは真っ白な頬。額に前髪を貼り付けている汗。そのせいで、余計に色気が助長されている。なにより、彼の出で立ちがいつもとは違うし。
「え、あ、うん。そうだね。それより、浴衣、すごく似合ってる」
ごくりと喉を鳴らしながら、何を言われたか、ろくに噛み砕かないまま返事をしてしまう。すると上の空なことに気が付かれたのか、少しだけ眉間に皺を寄せられた。慌てて投げかけられた言葉を反芻して、ああ、と納得する。浴衣の色か。
「お揃い」
頷かれる。ファウストがもう口を開かないのは、少し照れているからなのかもしれない。合わなくなってしまった視線に、そう語られている。
あはは、可愛い、といつものように揶揄って、さあ、とその手を取ってしまえばいいことはわかっている。だが、すぐには体が動かなかった。おそらく自分のために着飾ってきたのであろう彼が纏う眩さに、お前に触れられる代物ではないと囁かれている気がして。
「……それ、どうしたの」
「買った」
「そう。着付けは?」
「祖母に聞きながら、自分で」
ふうんと頷きながら、ぽっと胸の内を熱くした。わざわざ、自らの手で……自分のためにだと思って、浮かれてもいいだろうか。めでたいことを考えていると、ファウストは爪先で地面を擦りながら呟いた。
「だから、ちゃんとできてないかもしれない。あんまりじろじろ見ないで」
「大丈夫だよ。崩れたらすぐ俺の家に帰ろう」
「また、そういうことを……」
彼がくすりと笑った拍子に、耳にかけられた暗い亜麻色の髪の毛が落ちる。意識されてそうなったわけじゃない。だが、その些細な変化でさえも、今の自分には毒だった。再び生み出された言葉のない空間に、どきどきと自分の胸の音が響く。まさか、周囲の賑やかさに感謝する日が来るとは思わなかった。
何を口にすべきか迷っているうちに、ファウストがまた口を開いた。
「行かないの?」
「……ううん」
痺れを切らした彼が、ちらりと上を向く。その控えめな視線がまた愛らしくてたまらず、抱きしめたくなるのだけれど、堪えて、指先を捕まえにいく。触れた瞬間、びくりと震えるものだから、「駄目?」と確かめると、今度は彼がううんと首を振った。
割れ物を扱うよりも丁重にその手を取って、ゆっくり指を重ね合わせていく。繋がったことを確かめるように軽く揺らしてから、じゃ、と声を掛けた。
「行こっか」
「うん」
そうして歩き出した。合わせた掌は、ぴとりとくっついている。しっとりとした触れ合い方が、ただ外気のせいで暑いから滲んできた汗のせいなのか、それともほかに理由があるのか……それに、どちらからも追求することがないのは、あえて、だろう。
「あー凄かった。近くで見るとやっぱり大きいね」
「うん、本当に。今日だけで何発上がったんだろう。ひっきりなしに、大きいのを見れたけど」
「ね」
帰り道、鼻息荒く話すファウストの幼い様子が可愛らしくて、フィガロはふふっと細かい吐息をこぼした。自分も同じことを思っていたけれど、途中から、興奮の色は薄くなっていった。だが彼は最後まで空に釘付けで……なぜ知っているのかというと、飽きて目線を向けた先がその横顔だったからだ。気づかれてしまうと怒られそうな気がして、程々に空に目も向けていたが、結局、強く思い出に残ったのはその瞳の中に反射していった火の欠片たちの方だった。
仕方がないことだ。暗闇の中でぼうっと浮かび上がる彼の像が眩しくて、空どころじゃなかった。
「ねえ、その浴衣さ」
「うん、何……あ、もしかして、もう」
「ううん。全然着崩れてないよ。きみもきみのお祖母様も、達人だね」
そうかな、と呟きながら、目が逸らされる。また少し照れているのだろう。視線が重ならないまま、尋ねられた。
「で、これが、どうかしたの」
袖口をくいと引っ張りながら首を傾げる。その横顔に、質問を重ねた。
「灰色だけど、明るいから目立っていいね。もしはぐれても見つけやすそう」
実際は、他にもたくさんいた見物人たちが帰っていく時間と少しずらして移動を始めたため、もうその心配はなさそうだ。だが、傍でずっと淡くぼんやりと光るように座っていた光景が印象的だったので、そう伝えた。するとファウストは、なぜか驚いたように目を瞬かせてから、少し、不服な顔つきになってしまって。唇をむっと引き結んだ彼に、慌てて真意を確認する。
「え、ごめん。なんか変なこと言った?」
「……別に」
「いや、そんなことないでしょう。本当に、悪い意図はなく言ったつもりなんだけど……」
精一杯困った顔をしてファウストを見つめていると、少しして、眉間に皺を寄せられたままの彼に呟かれた。
「随分と実用的なコメントだなと思って」
「実用……? ああ、まあ、そうかも……?」
言われてみれば、親が子を監視するような観点からの発言だったかもしれない。違う。ただ、眩しく見えるほど素敵だと思ったから、言っただけで。
「折角着たのに」
ぼそりと口にした彼は、まだまだ不服そうだ。彼の恋人である自分には、その機嫌を取り戻すという最重要課題が課されてしまった。だが、『折角』という言葉を、聞き逃せない。
「……もしかして、そうじゃないコメントが欲しかった?」
尋ねると、ファウストは黙った。なにも言わないまま、ふいと視線が逸らされる。それは、肯定も同然の仕草で。
「似合ってる。その浴衣、きみにすごく似合ってるよ。とっても綺麗で……色っぽいし、ドキドキする。正直、ずっと、見惚れちゃって……」
次々と思うのに必死で言えていなかったことを、声に出す。彼がこれを望んでいるのなら、際限なくつらつらと出来る気がした。
だが、想像よりもずっと早く、こちらを向き直した彼に遮られて。
「い、いい! もういい! わかった、わかったから」
まだ眉間に寄った皺は残っている。だが耳まで赤く彩られているのを見るに、先ほど彼が抱えていたであろう不満は解消されていそうだった。
そしてタイミングよく、停めていた車を見つける。タイムオーバーを免れて相手の機嫌を取り戻してみせた自分に、何だか自信がついてしまって、乗り込む直前に問いかけた。
「最後に一つだけいい?」
「嫌って言っても、無駄なんじゃないの」
「うん」
ドアに手を伸ばしかけた彼が、真っ直ぐ立ち直す。そういった潔い情け深さもまた、彼の美徳だった。
「お揃い、嬉しかった」
「……そう」
彼が頷くのを見守って、車に乗り込む。慣れない格好でずりっと座席に乗り込んでから、車内に篭った熱をクーラーで飛ばす。
「灰色ってあんまりきみが選ばなそうな色だし。特に、そういう、少し明るめのは……」
エンジンが始動した音に合わせて話を続けると、横から、まだ続けるのか、とじとりとした視線が飛んできた。微笑みだけを返すと、自分に番が回ってきたのが予想外だったのか、ファウストは少し戸惑うように瞳を揺らしてから、答えた。
「……あなたが、僕に明るい色を着てほしそうだと思ったから。とはいえ白は目立つから嫌で……折衷案、かな」
成程、と、相槌を打ち終わる前後、どちらかはわからない。だが無性に彼に触れたくなってしまって、横からその唇を奪った。
んっ、と受けたファウストの目は丸く見開かれていて、そこにまたあどけなさを覚えたので、角度を変え、触れるだけのキスをちゅっちゅっと二、三度繰り返した。すると、間もなく肩を押し返されて。
「人がまだ周りにいる!」
「もうちらほらしかいないよ。わざわざ駐車場まで待ったんだから」
「そんなことないよ、帰宅ラッシュだし、」
はいはい、と頷きながら、肩を掴んでいた手を撫でて、握る。だが慌てた様子で振り解かれたので、傷ついたふりで眉を下げると、ファウストは、はっとした表情で、ごめん、と口にした。なんと、素直な子なのだろう。それを分かっていて、利用する自分も自分だが。
「……たしかに人、凄かったね」
「ええ、まあ……」
「人混み、好きじゃないし、きみもそうだと思うけど……。でも、今日二人でデートできたのは、楽しかった。すごくいい思い出になった」
ファウストは、ゆっくりと頷いた。同一の感想を抱けて嬉しくないわけがなくて、自然と笑みがこぼれる。
「きみが、俺のために目立つ努力もしてくれたしね」
「目立つのが嫌だから灰色にしたと言ったのに」
鋭く反論する彼だったが、痛いところをつかれたとは思わない。それよりも。
「『俺のため』は否定しないんだ」
ファウストが紡ぐ一言を、丁寧に分解して、絡め取る。すると彼はまた黙り込んだ。ほんの少し険しい顔をしているから、揚げ足を取るな、と言われそうだと思ったが……少しして、その真剣な面差しのまま、伝えられた。
「……あなただって、そうだろう? 僕のために、苦手な人混みに出てきて、合わせて浴衣を着てくれた。違うの」
うん、と頷く。自分の身も心も、すなわち、考えも行動も、全てを彼に献じている。それがあまりにも自明なことなので迷わずに肯定すると、なら、とファウストが溜息を吐いた。
「お互い様」
「……近くで見るのはもう満足したかも。来年は、あなたの家からでいいかな」
窓の外を見ながら呟いたファウストの瞳の奥にはきっと、先ほどまで散っていた閃光たちの残像が留まっている。そしてそれらは、来年の想像と比較され、まだ実現してもいないものに、密かに負けてしまった。
そっか、と呟きながら、次第に高揚して、加速していく胸の鼓動を落ち着かせようと必死になる。丁度、先の信号が変わるから、ブレーキをゆっくりと細かく踏んで、合わせるように。そして出来る限り平静を繕いながら、口を開いた。
「来年まで、花火は見れないけど。今日も、連れてっていい?」
「……うん」
小さな頷きを確かめて、また、その横顔に唇を寄せる。
当然に、一年後の約束が結ばれようとする。それが嬉しくて仕方がないけれど、口にしてみようものなら、自分はきっと、みっともない男になってしまうのだろう。そうしたら、こうやって、明るい布によく映えて赤らむ頬に口付けることさえできなくなってしまうから、それは嫌だった。