いつかの君に末永い希望を。 傷が疼く。
古い傷だ。とうの昔に塞がって、とっくに完治しているはずなのに、いつも唐突に『忘れるな』と言わんばかりに、ふとした瞬間を突いて鈍く痛む。
特に今日のような冷たい長雨の続いている日は駄目だ。無残な痕は残っているものの、今さらどうともなりはしないはずなのに、あの無力さを痛感した日の記憶が鮮明に蘇り、まるでまだじくじくと膿んで血が滲んで来るような気さえする。
ーー戦は、終わった……
込み上げる不快感と痛みを奥歯で噛み殺しそっと傷へ触れてみるも、焼けたように熱を帯びた肌に思わず舌打ちがこぼれた。
半分になった視界に慣れるまで、しばらく時間がかかった。けれどそれ以上に、失ったものの守れなかった者の途方もない喪失感に耐えることの方が堪えた。恨まれても仕方なかっただろう。憎まれても仕方なかっただろう。どうして助けてくれなかったのだ、と縋る声が今も耳の奥にこびりついて消えない。
とーーとてとてと小さな足音がこちらに近づいて来たかと思うと、いつもの眼帯で取り繕う暇もなくすぱーん! と襖が開け放たれた。
「お館様!!」
陰鬱な気を払うような活気溢れる声を聞かずとも、この屋敷でこんな真似をするのは一人しかいない。
「……朱の盆。戸を開ける時は、先に声をかけろ」
「え? あ、そっか……すんません」
近頃新たにこの屋敷に住むようになった子鬼は、ぺこりと申し訳程度に頭を下げはしたものの、恐らく明日には忘れていることだろう。自我の育った後に礼儀を教えるのはなかなかに骨が折れるものだ、とぬらりひょんが今度は違う意味で痛み出した頭を抱えていると、子供特有の無遠慮さで室内に足を踏み入れた朱の盆は、そのまま迷いなく傍らに寄って来た。
「お館様、その傷……」
「ああ……お前は初めて見るか」
この子の前では痛々しい傷を晒すのはどうかと、ぬらりひょんは彼のいる場で一度も眼帯や面を外したことはない。さすがに寝る時くらいは外すようにしていたが、自慢出来るようなものではないのだ。そうでなくとも生々しい傷を引き攣った醜い皮膚を、普通他人は無意識に目を避ける。
「昔負ったものだ」
思わず自嘲がこぼれた。
けれど朱の盆は目を真ん丸にしたまま、躊躇なく手を伸ばしてぬらりひょんの傷に触れたではないか。高い体温がじんわりと伝わり、不思議と先程までの痛みが緩やかに溶け出していく。
「こら」
「痛かったんだろ?」
「何?」
「その時もだろうけど、今。お館様痛かっただろ?」
そんな素振りは見せなかったはずなのに、何故解ったのか。
「何か知んねえけど、雨の日は膝やら腰やらが痛くなるんだって、村のバーさんが言ってたの聞いたんだ。そんで、孫に擦ってもらうと温泉みてえで気持ちいいんだってさ」
にへ、と笑う口からは相変わらず鋭い歯が見える。
「だから多分お館様もそうだろうと思って。俺の手冬でも温かいから、効くんじゃねえかな。違ったか?」
自分と比べれば、まだ小さな手だ。
そして恐らくは、その言葉通りの無邪気さ無垢さではない手だ。
あの日ーー峠で朱の盆を拾った時、ぬらりひょんはこの行き場のない子鬼を贖罪のために救ったつもりでいた。死んで行った仲間の代わりに、一つでも多く手を差し伸べねばならないと、そう思っていた。
けれど、
ーー俺はきっと救ったつもりでこいつに救われている……
「そうだな……堺ノ温泉まで行かずに済みそうだ」
言えば、朱の盆の笑みはますます得意気な満面になりーーそしてここに来たそもそもの理由を思い出したのか、はっと渋面へ変貌した。
「お館様! 朝稽古! あー……でも今日は……」
「大丈夫だ。すぐ支度するから庭で待ってろ」
「絶対! すぐだぞ!」
「ああ」
無理か、と伺うような視線に頭を撫でて促すと、朱の盆は来た時と同様騒がしくぬらりひょんの寝所を飛び出して行った。
ーーそうだ……お前たちを失くしはしたが、こうして新たに出来た縁もある……
きっと彼らとなら、恥じることない國を作ることが出来るはずだ、と思う。願っている。今度こそ、その手を放してはならないとーーそう思っていたのだ。
* * *
「お館様! こんな時間にどちらへ?」
背後から声をかけられて、思わず長靴を履いていた手を止めてしまった。ふと想い返していたあの頃とは背丈も言葉遣いも随分と変わってしまったが、こちらに向けられる揺るぎない眼差しだけはずっと変わらない。
けれどだからこそ、今日この瞬間だけは絶対に見つかってはならなかった。
いつもなら朱の盆は寝ているはずだ。
頭領であるぬらりひょんが彼に黙ってふらふら國を出るのも日常茶飯であるから、いつもならいちいち声をかけて来たりもしないはずだ。
それでも、時折びっくりするほど勘の鋭いこの若頭は右手に愛刀を握り締めていた。言外に自分も着いて行くのだ、と絶対に譲らない意固地さを滲ませて。
ーーそう言えば、以前に留守番させた時もえらい癇癪を起こしたんだったな……
もうさすがにそれほどの子供でもあるまいが。
「四聖獣の玄武が来ている」
立ち上がり刀を佩きながら告げると、さすがにそこまでの事態とは思わなかったのか、朱の盆がひゅっ、と小さく息を呑む音が聞こえた。
「今は一刻でも時間が惜しい。刑部と二人で叩く」
「俺も出ます! そんな奴が来てるなら、少しでも戦力を搔き集めねえと……」
「お前たちは絶対に動くな」
反論を許さない口調でそう命じる。
自分が気ままな性分故にか、あまりこうしろああしろと言うのはどうにも好きではない。だからこれまで、朱の盆にも思うようにやらせて来た。失敗することがあろうと、そこから着実に何かを得て成長する彼のために、敢えて口出しは最低限にしていた。
それを、今初めて捨てた。
「何でですか!? 二人なんていくら何でも無茶だ!!」
「たった一人を追うために、國をガラ空きにするつもりか?」
「…………っ、けど!」
「囮の可能性もある。民にはもしもの時まで伏せておけ。いいな」
「お館様!!」
「この國を守るために、お前たちの力が必要だ。解るな? 玄武は必ず討たなくてもいい、だが、國が倒れたら立て直すのは膨大な時間とエネルギーが必要になる」
どれだけの上手く伝えられない言葉が朱の盆の中でぐるぐるしているのかは、痛いほどよく解った。ぎゅう、と外套の裾を掴む手がきつくなる。
それでも促す前に朱の盆はその手を放した。
「ご武運を」
いつかはこんな日も来るかもしれない、と覚悟はしていたはずだった。至るところに立ち込める暗雲を綺麗に払えなかったのは、千年前の不徳の極まりだ。
「頼んだぞ、朱の盆」
あの時願った通り、誰かのために力を使えるようになったこの右腕が何よりも誇らしかった。彼らに託せるようになったのは、自分にしてはよくやったものだとぬらりひょんは思う。
「行って来る」
* * *
騒ぎの雑踏の中でこちらの姿を見つけた刹那、朱の盆の顔が一瞬泣きそうに歪んだのを遠目に見てしまった。初めて仲の良い同僚や部下が死んだ時だって、自身が相当の深手を負った時だって、そんなはぐれた子供が親を見つけた時のような、安堵とちょっとの怒りの入り混じったような情けない顔は晒さなかったと言うのに。
それでもまだやらねばならないことは山積みだったのだろう。無理矢理に視線を引き剥がして事態の収拾に努めようとする姿は、ぬらりひょんが知るよりも随分と立派なものだった。この調子なら、自分が不在であった間もしっかり代わりを果たしてくれたに違いない。
ーーそれにしても、今回はかなり無理を押した……
元々己の半分を切り離してしまったことで、妖力は随分と落ちていた。それに加えて今回の戦いだ。見た目の傷は救い主のイザヨイによってかなり癒やされてはいたものの、地下に潜るきっかけとなった玄武からの一撃は根深いところでまだ牙を剥く機会を伺っている。
ーー以前なら、容易く振り払えたものを……
その衰えを情けないとは思わない。けれど歯痒さを覚えるのは確かで、ぬらりひょんは刑部と龍脈についての話をする前に一人屋敷へと戻った。ここは己の縄張りだ。傷を癒やすにも力を蓄えるにも一番心地よい。
庭を眺めながら煙管をふかしていると、
「お館様、朱の盆です。入ります」
そう訪いを告げて静かに襖が開いた。
器用に薬箱を抱えたまま、盆に乗せた淹れたての茶が差し出される。
「よく……戻っていると解ったな」
「そりゃ解りますよ。何年右腕務めてると思ってんすか」
「俺はいいから自分の手当をしろ」
「こいつは全部返り血です」
救い主はあの場にいた者全てへイザヨイの音を聞かせていたはずだから、それでも消えぬとあればそれは朱の盆の主張が嘘ではないからだろう。視線で促され、諦めて外套を脱いだ。
どす黒く痣の刻まれた腕は任せて、反対側の手で湯呑を取り口をつける。相変わらず芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、ほっと人心地ついた。
「…………お前、最初は茶も淹れたことなかったのにな」
「今は天下一品でしょ」
「ああ……美味い」
慣れた手付きで符と薬が貼られ、包帯が巻かれて行く。一度引いた術の傷に他に気付いたものはいないだろう。恐らく救い主すらも。
「……朱の盆、すまなかった」
ぬらりひょんの声にぴくり、とその尖った耳が反応する。
「いつもお前は何も言わないからな……随分と心配をかけた」
『自分たちは捨てられたんじゃないかって……』
そう訴えた子泣きの言葉に思わずハッとした。
偽物だったとは言え刑部だけは何食わぬ顔で國に戻り、自分は帰らなかったことで朱の盆はどれほどの苦しみと不安を抱えたことだろう。ましてや、『逃げた』などと告げられた中で、それでもいつか必ず戻って来てくれるはず、嘘だと言ってくれるはずと信じて待ち続けることは想像以上にしんどかったはずだ。
いつも黙っていなくなる度に、
『お前は隠し事をしても顔や態度にすぐ出るからな……やるべきことだけ伝える。だから信じて実行してくれ』
『そっすね、解りました!!』
もしかして今度は帰らないかもしれない、と言う不安をいつも飲み込みながら、
『俺が代わりに動くんで、何でも言ってください!』
それでも揺るぎなく仕えてくれるこの鬼を、
「本当によくやってくれて誇らしく思うぞ」
幼子みたいだからやめてください、といつからだったか恥ずかしがられるようになってしまったが(若頭の体面と言うやつを朱の盆はとても気にしているのである)、それでも万感の想いと願いを込めて灰銀の頭を撫でる。二人でいる時は素直に受け入れてくれるのは変わらずだったが、やはりいろいろ煙羅煙羅にすら黙ったままでいたのは立腹していたようで、自然その口はへの字と不貞てたように尖るのを交互にくり返している。
「…………帰って来てくれたんで、充分す」
散々迷った挙げ句にそう言葉をこぼした瞬間、今の今まで堪えていたのだろう大粒の涙が朱の盆の双眸から溢れ、ぱたぱたと畳を穿った。
「やっぱり、俺じゃお館様みたいに上手くやれねえから……今回だって、救い主たちがいなかったら……きっと、先陣切って……國を割ってた」
「それでも、お前は俺の留守中人死を出さなかった……國の大事な民を守り通した」
「…………っ、」
「礼を言うぞ」
後はただ言葉もなくひたすら嗚咽をこぼす朱の盆が泣き疲れて眠ってしまうまで、ぬらりひょんはずっとその頭を抱いていた。
「図体はでっかくなっても相変わらず子供みたいなとこあるよねぇ、盆くん」
まるで機会を見計らっていたかのようにやって来た刑部は、もう放すもんかと言わんばかりにしっかとしがみついて寝息を立てている朱の盆を見やって苦笑した。彼も変わらず包帯まみれではあったが、あまり尾を引くことはなかったのかいつも通り飄々としている。
「俺にとっちゃ息子みてえなもんだからな」
「はいはい、ごちそうさま」
「あの時お前はこいつを拾うのに反対したが」
向かいに腰を下ろす刑部を捉えつつそう言えば、やはり困ったような苦い笑みが返って来る。
「そうだね……まあ、今でも間違ってたとは思わないけど」
「それでもこいつがいなきゃ、きっともっと大変な事態になっていた」
抱えることはもうやめようと思ったはずだった。
また失うくらいなら、最初から独りの方がマシだとすら思っていた。
それをまた守るのだと失いたくないのだと、立ち上がる力をくれたのは、この不甲斐ない背中を支えてくれたのは彼らだ。一人では無理でもたくさんの者と力を合わせれば、今はなせずとも遠い未来へ希望を託せばよいのだと、教えてくれたのは彼らだ。
だからもう、ぬらりひょんの右目は痛まない。
忘れるではなく、彼らごと抱えて前を向く今の大妖帝に迷いなどない。
「わざわざ訊きに来るまでもなかったかな……どうやら今回は珍しく意見が一致しているみたいだ」
「ああ、奇遇にもな」
紫暗と翡翠の視線がしばし交錯する。
「「救い主に龍脈の使用決闘を」」
「…………いや、でも待って。これ僕が出るの?」
「堺の妖主はお前だから当然だろう」
「えええええ……勝てるかな……ぬらりひょん、君出てよ」
「断る。俺の方が傷が酷い」
「いやいやいや、君の方が強いんだからさー。僕なんか二秒で殺せるってアレ大袈裟じゃないからね」
「大袈裟だ。十秒はかかると言っただろう」
『手を貸して欲しい』
かつてそう自分に手を差し出して来た刑部の手を取ったのは、間違いではなかった。
『誰もが自由に商いが出来る國を作りたい。そのための抑止力として、君の力が必要だ』
世迷言の夢だと切り捨てられなかったのは、
きっとまだそれを諦められなかったからだ。
「じゃあ、あれだ。イザヨイ禁止にしてもらおう。平等に、ね? いい考えだ」
「それだと負けた時ますます言い訳が出来んがな」
「君には僕を励まそうって気持ちはないのかい!?」
「お前の出す答えなら疑っていないからな」
「…………ぬらりひょん、そう言うところだよ」
「何の話だ」
すっかり温くなってしまった茶を啜り、これ以上は茶番だと言わんばかりに煙管に新しく火を入れる。刑部はやれやれと溜息をついて立ち上がると、
「未来は明るいって話さ」
以上、完。