「やあ、ファウスト」
にこりと人当たりのいい笑顔を浮かべる男が、ファウストの目線から少し外れたところに立っていた。
「......何か用か」
「いいや、別に?ただ、君に会いたくなってね」
「そうか、僕は別に会いたくなかった」
ええ、つれないなあ、なんて言ってフィガロは一段、階段を登った。残念そうなふりをしながら先程から笑顔を崩さないのも、ファウストの気を引くつもりだったのだろう言葉も、今はただ400年間燻り続けるフィガロへの不信感を積もらせるだけの材料だった。
そんなファウストの心情を知ってか知らずか、フィガロは話題を変えて話しかけた。
「ファウスト、夕ご飯はもう食べた?」
「風呂の前に食べ終わったよ。それがなにか?」
「いや、別に。...なら、小腹は空いてる?」
会話の流れとともにコツ、と革靴を鳴らしてフィガロが階段を上がり、ファウストと同じ段まで登った。
「...まあ、ちょっとなら...」
はっとして、ファウストは少し下にある目を捉えた。
フィガロはフィガロでじっとファウストの目を見つめていた。まるで、ここからが大事なのだと言わんばかりに。フィガロはいつでも、人の目を見て話す男だった。
「……………僕は、今からひとりで晩酌だ」
一瞬だけでも、この場にふたりきりの夜。――判断が早いファウストは、賢い人だった。
「そう。...俺はまだ何も言ってないけどね」
また階段を一段登ったフィガロは先程とさほど変わらない、強いて言えば目が少しだけ細められた笑顔を向ける。
こんな時間に来てそんな質問をしておいて白々しい男だ、と苦虫を噛み潰したような心地と共にファウストはそんなことを思ったが、今は何を言ってもただ会話を交わしたというだけで喜ばれそうなので言わないでおくことにした。
「とにかく、僕はこれから予定があるんだ。早く帰ってくれ」
ファウストはそっとフィガロから目線を外し、そのまま自分の部屋へ向かおうとした。
どうせ巧みな言葉遣いやらなんやらで、この男は自分のことを引き止めるのだ。実際のところ、ファウストは二人で飲む事自体はそこまで嫌でもなかったし、1人炎に包まれ悪夢で苦しむ夜のことを考えれば俄然心地の良いものだった。
だから、今回も自分を引き止めてくれるものだと思っていたのだった。この思いは、本人はそうとも気付かぬ静かな傲慢さだった。
「うーん、そうかぁ。なら仕方ないね、レノックスでも誘って二人で飲むよ」
少しの諦めを含んだ、残念そうな声でフィガロが告げた。
それはファウストが想定していた答えではなく、驚いた顔をそのままに思わず振り返る。
まだこちらを向いたままだったフィガロは少し目を見開いて、焦ったように言い訳をした。
「あ、ああいや、別に君は気にしなくて良いんだ。もちろん君を不快にしてしまったら謝るけど、君はいつも俺の提案を断るし嫌そうにしているから今日はちょっとやめておこうと思っただけで……」
「……僕は何も言っていないが………」
少し前に何故か暴走した蓄音機 ―もちろんムルの発明品として知られるものである― のように、フィガロが早口でまくし立てる。ファウストはそんなフィガロの様子に若干引きながら、暫くかけてその一言を返した。
それから一瞬の静寂。ファウストは少し悩みながら、重い口を開いた。
「…1杯なら」
「え?」
「1杯なら、付き合ってやらないこともない……」
フィガロが目の中の緑色を零しそうなほどに目を見開く。
「えっ、そ、それは俺と飲んでくれるってこと?」
「……まあ、晩酌くらい、してやらないこともないが…」
「本当!?」
「………」
「あ、いや…ごめん……」
「…………」