果物とミニトマトとある家宅で仕事を終えたところだった。引き上げようと、土足で上がった縁側から庭へ降りる。空はトーマス君さながら、綺麗な青色だ。昼飯何食おうかな、と快晴を仰いだ檸檬だったが、はたと蜜柑の足音が止まったことに気がつく。振り返ると、蜜柑は庭の隅を眺めていた。視線を辿る。そこには青いプラスチックに植えられた、ミニトマトの苗があった。
七夕の光景は既に遠く、時期としては夏休みが始まったばかりである。今は部屋の中、両親と共に床に伏す子供が、学校から持ち帰ったものだろうか。記憶の箱をがさごそと探ると、自分にもそんな夏休みの宿題があったような気はする。しかし収穫できるまで育ったのかどうだったか、トマトの結末は朧げだ。蜜柑はすぐに顔を上げた。「行くぞ」と声を掛けられ、おう、と返事をして歩き出す。その時はそれで、トマトのことは忘れた。
思い出したのは数日後、ちょうどスーパーに寄った時だ。通りすがった園芸コーナーに野菜の種が並べられていた。檸檬は先日の出来事が脳裏に浮かび、咄嗟にミニトマトの姿を探す。はたしてそれは、ちょうど自分たちの足元に置かれており、蜜柑もそちらに目を向けていた。その様子を認めてからしゃがみこんで、種の袋を手に取る。
「ミニトマト食いてえな」言いながら袋を掲げた檸檬に、蜜柑も反応する。
「育てるのか」
「やってみるか」
いとも気軽な調子で返ってきた言葉に蜜柑は目を見張る。本気か、おまえがやるのか、できるのか、と言わんばかりだ。
「今から蒔いて芽が出るのか」
「出るだろ。売ってるんだし」
しばし表の、赤々としたトマトの写真を眺めた後、立ち上がってレジに向かう。ピッと軽やかな音を鳴らしてバーコードを読み取られ、お会計は548円らしい。結構するんだな、と小さな粒の価値を意外に思う。ジーンズの右ポケットに手を入れるとちょうど小銭があった。レジ袋ご利用ですか、と心なし小さな声で問われたが、「いや、いい」と返事をして種をジャケットのポケットに突っ込む。
レジから戻ると、蜜柑はコーナーに並ぶ種たちをまじまじと眺めていた。まるで奇妙な昆虫でも観察するかのように、じっと見ている。
「手、出せよ」
声を掛けると、嫌な予感を察知とばかりに身を強張らせた。
「何だ」
警戒を隠そうともせず、手をスラックスのポケットに引っ込める。構わず檸檬は、ほら、と手本を見せるように自らの手を上に向けて差し出した。そのままじっと静止する。数秒後、蜜柑は観念したようにポケットから右手を引き抜いた。溜息を吐き、檸檬の動きを真似るかのように、掌を差し出す。檸檬はびりびりと袋の封を開けると、その手の上に袋を傾け、ざらざらと種を落とした。
「おい」蜜柑は反射的に左手を添え、落ちそうになった種を救う。「なんだ、これは」
「そっちはやるよ」檸檬は袋を軽く振り、残った自分用の種を鳴らした。
「ミニトマト、気になったんだろ。育ててみようぜ」
ところで、習慣化というのは難しいものである。
結論から言えば、檸檬のミニトマトは見事に芽が出た。ペットボトルを切って作ったプランターに、その辺の土を入れて種を蒔く。美味しく育てよ、と込めた気持ちがトマトに届いたわけでもあるまいが、土に埋めた数日後、緑色の双葉が顔を出した。気持ちは届かずとも、飽きっぽい檸檬が毎日水をやった努力が、実を結んだのは間違いない。
しかし、一週間程度継続したからと言って油断は禁物で、あっと思った時には水をやり忘れて数日。様子を見に行くと、青々としていた芽は萎びていた。
「あーあー」
肥料をやるとか、置き場所を変えてみるという発想はない。
「まあ、おまえも頑張ったよな」
小さな芽に声を掛け、黄色くなってしまった葉を撫でた。
さらにそこから二週間ほど経ち、檸檬は蜜柑を呼び出すインターホンを押していた。特に用があったわけでもなく、最近蜜柑ち行ってなくね?行くか、という思いつきによるものである。ドアを開けた蜜柑は「来やがったか」という顔をした。
迎え入れられながら、お?と思う。突然の訪問時、十回中九回は見せる顔だったが、大抵「よく来たな」だとか「ご苦労なことだな」だとか、皮肉と共に呈される。それが今日は、どこかばつの悪そうな態度に思えたのだが、見られたくないものでもあるのか。頭を回転させかけたところで、ミニトマトを思い出した。
そうだ、ミニトマトだ。靴を脱いで部屋に上がる。いつもならこの部屋の特等席であるクッション、ホームセンターで檸檬が見つけて問答の末購入に至ったみかんのクッション、そこに向かうのだが、その前にきょろ、と殺風景を見渡す。真面目な蜜柑のことだ、どうせきっと教科書のお手本みたいに育てているし、そろそろ実も成ってるんじゃねえか、と想像するが、もしかすると無惨に枯らしたのかもしれない。だとしたら、ちょっと楽しい。
壁、床、机と植物の影を探したが見当たらず、あれ、と首を捻る。隣に立つ蜜柑の表情を窺う。相変わらずの無表情だ。もう一度、ぐるりと見渡す。
「蜜柑、ミニトマト」
「俺はミニトマトじゃない」
「ミニトマトどこだよ」
無言で窓際を指差す。
「ねえけど」
「理屈上は有る」
理屈上ってなんだ。
「いや、ねえよ」
「毎日、湿度も調節したし、水もやった。無い方がおかしい」
「おかしいって言ってもな」
目を凝らせど、無いものは無い。指で指し示した先には、黒い小さなカップがあるのみだ。仕方なくそちらへ近づく。
漆黒のカップは入っているものも黒く、家主と佇まいが似ている。覗き込むと中に敷き詰められているものが土だと分かり、蜜柑を振り返った。じっとこちらを見つめる、黒い瞳と目が合う。
「ほらな」
「ほらなって、蜜柑おまえ」
緑のみの字もない。
ただカップの土は、何も芽吹いていないが僅かに湿っており、今日も檸檬が来る前にきちんと水を与えたらしいことが察せられる。
幻を主張する相棒だが、檸檬は現実を伝えることにした。
「蜜柑ちゃん、大事なことを言うぜ。ここにな、ミニトマトは、無い」
残酷な現実に、蜜柑は顔を顰める。同時に檸檬は、視界の端に『トマト栽培の妙』『そだててみよう!ミニトマト』とタイトルに書かれた本を発見した。机に置かれたそれは、明らかに玄人向けと初心者向けの本だ。どういう順序で買ったのかは分からないが、あまり蜜柑が読まない類の本であることは察せられ、おそらくは蜜柑の努力の痕跡だった。しかし、残念ながら芽は出ず、実は付いていない。
蜜柑はぼそぼそと言葉を落とす。
「大体、トマトってのは水を大してやらなくても育つんだ。枯れる方がおかしい」
枯れるも何も、そもそも芽が出ていない。口を挟もうとして、「かつて」の記憶を掘り返したらしいことに思い当たる。
相棒の不得意分野を見つけた気がして、口角が上がった。
非実在トマトから身を離し、蜜柑の隣へ戻る。まあまあ、と言うように肩を組んだ。
「蜜柑、蜜柑」サプライズを伝えるように、耳に顔を寄せる。「実はな、俺も枯らした」
にっと笑い掛けてやる。蜜柑は僅かに目を見開き、何かを言おうと口を開きかけたが、そのまま閉じて小さく言葉を溢した。
「芽は、出たわけだ」
「め、めんどくせえ」
そんな地を這うような、恨めしげな声を出さなくても。
「そんなにトマト食いたかったのか?じゃ、買いに行こうぜ」
「そういうことじゃない」
「なんだよ、じゃあなんでそんな必死にトマト育ててるんだよ」
「は?おまえが俺に押し付けたんだろうが」
鋭い目で睨まれ、そうでしたそうでした、と檸檬は両手を上げる。さすがに忘れていたわけではないが、改めて数週間前の記憶をなぞった。なんで種を買ったんだったか。ミニトマトは食べたかったが、別にミニトマトが食べたくて買ったわけではない、気がする。
「じゃあまあ、いいか」
「何がいいんだ」
自己完結して頷く檸檬を、蜜柑は睨め付ける。
「次はレモンとミカン育ててみようぜ」
懲り懲りだ、と蜜柑は言わなかった。
「育てなくても、ここに居るだろ」
不貞腐れたように言うのが面白くて、檸檬は声を立てて笑った。