canned coffeeバーのマスターとして一人で店を切り盛りしている関係で、やらなければならない事が多い。金の管理や家賃の支払、この辺は前職からやっていたから慣れたものだが、接客、料理、酒の提供、発注に買い出し。皿洗いや店内清掃。普段から閑古鳥が鳴いている様に見える店にだって、それなりにやる事はある。ゴミ出しだってその一つだ。
昨晩の営業中に出たゴミを黒い業務用ゴミ袋へ手早く纏める。集めたゴミを裏口に置いた業者回収用の水色ペールへ収めた所で、店に入ろうと正面口のドアノブに手を掛けた趙に出くわした。
「よう、趙」
「マスター! 丁度よかった。この間はごめんなさい」
こちらの存在に気が付いてパッとドアノブから手を離し、趙が俺の前まで来て頭を下げる。が、何の事だかさっぱり分からない。元異人三トップ3の一人に、出会い頭で謝られる筋合いなどない筈だが。
「何の事だ」
その場で腕を組んで問い返す。頭を上げた趙は顔の前で手を合わせ、真っ直ぐじっと俺の方を見る。そしてどこか言葉を選ぶように、サングラス越しに何度かパチパチと瞬きをした後に答えた。
「春日君と、二階でうるさくしちゃった日があったでしょう?」
「あ? あぁ、あれか」
思い出した。春日が金曜の夕方に疲れた様子で帰ってきて、趙が浮かれた様子で後からやって来たと思ったら、二階で大きな音を立て始めた。俺の頭上でドタバタと。客は幸い居なかったが、確かに度が過ぎていたから、注意する目的で声を掛けた。あの後すぐに部屋から出てきた趙と春日へ声を掛けようとしたが、酷く急いだ様子であったし、二人で戻って来た頃には珍しく集団の客が入って来て、それ所ではなくなってしまったのだ。丁度いい、趙にはあの件で言いたい事がある。
「趙」
「あ、そういえば俺、缶コーヒー買ってきたんだ。マスター、一緒に飲もうよ、はい」
「お、おう」
店外に設置された水色のベンチ。そこへいつの間にか腰掛けた趙が、ずいっと俺の目の前にブラックの缶コーヒーを差し出す。流れのままに受け取った缶は表面に水滴が付き、触れた指先が濡れひんやりと冷たい。
「ねぇ、こっち来て」
空いた方の座面をトントンと叩く、黒く塗られた爪に促され、無言で趙の左隣に座る。小さいベンチに長身の男二人が並べば、まあ狭い。少しでも身体を動かせば、途端に野ざらしで錆び付いた金属部分がぎしりと悲鳴を上げる。
「ははっ。ちょっと狭いかも」
「ちょっと所じゃねえぞ」
趙の言葉に反論しつつ、貰った缶のプルタブに指を掛けて開けると一口飲んだ。視線を感じて顔を向けると、じいとこちらを凝視する瞳とかち合う。
「何だよ」
「マスターって缶コーヒー飲む姿も様になるよね」
「おい、てめえ。冗談も休み休みにしろよ」
ふふと笑いながら、趙も隣で呑気に缶コーヒーを飲んでいる。
それにしてもこいつの語り口調はいつだって軽い。誰に対してもそうだ。春日の一味としてここに転がり込んできた日も、店の様子をしばらくキョロキョロと見定めた後、人懐こく俺に絡んできて、そこから既にタメ口だった。
『マスターってさぁ、実はすごく手練れって感じするけど....前はなんのお仕事してたの?』
初対面の癖に、妙に的を射た発言をするものだから、余計にタチが悪いなと思ったのを覚えている。趙がコミジュルとも通じているのであれば、俺の素性はとっくにバレているのかもしれない。初対面のあの時から、あるいは。まあ、今更素性が知れた所で特に問題は無いが。
いずれにせよ俺がかつて身を置いていた世界には居ないようなタイプの人間だ。
いや、一人だけ同じような奴がいたな。あいつも趙も、一人の男に惚れ込んでいるという意味では似ているのかもしれない。対面させたら、意外と話が合うかもな。
「ねぇ、今なに考えてたの?」
「別に。俺の知り合いにお前に似た奴が居たなと思ってただけだ」
「俺に? ほんとならその人もかなりのヤバい人だねぇ。大いに興味があるよ」
「くっ....そうかい」
今じゃこいつの喋り方にもすっかり慣らされて、タメ口を聞かれようが何だろうが、さして気にもならない。丸くなったもんだ、俺も。
それはそれとして。
先だっての件で、少し灸を据えなければならない。
「趙」
「なに?」
サングラス奥の目を観察しても、一体何を考えているのか、相変わらず皆目分からない。
本心を掴めず、毎度のらりくらりと真意を測り兼ねる態度を取ってくるこいつには、回りくどい言い方をしても仕方がないだろうから、率直に言う。
「お前、今度から春日とセックスする時は二階じゃなくて、そこら辺のホテルにしとけ」
「へ?」
「お前の言う事なら、春日も聞くだろうよ」
「ちょっと待ってよ! 二階でセックス? 春日君と?! したことないけど?! 」
趙は予想外に頓狂な声を上げ、焦った様子で否定する。
するわけない、ではなくて、した事はないわけか。成程。どちらにしろあくまでも白を切るつもりか。
「こないだしてたじゃねーか!」
「いやあれは違う....そもそも俺たち付き合ってもいないし....」
大袈裟なほどに項垂れ、語尾はもごもごと聞こえない程の小声になり、上手く聴き取れなかった。明らかに意気消沈気味に肩を落とした様子から、全ては勘違いだった事を知る。普段から好きだのなんだのと、本人の口から詳しく聞いた事はないが、春日への態度を見ていれば一目瞭然だ。趙は春日に恋心を抱いている。それにしてもなんだ。まるで俺が悪い事をしたみたいになっていないか? 面倒な事に口を突っ込んじまった事を後悔しながら、俺もつられて大袈裟に答えて見せる。
「なんだよお前らまだ付き合ってねえのかよ! ああ。めんどくせぇなあ、とっととやっちまえ!」
「えぇ....マスターの貞操観念、ガバガバじゃん....」
「いい歳した野郎共が貞操観念とか言ってる場合かよ、童貞でもあるまいし。んなこと言ってる間に春日、そこら辺の奴らに取られちまうぞ」
「えーやだあ」
顔を上げて、子供のように駄々をこねて眉を顰めているこいつが、異人町最恐と恐れられたマフィアのトップだったとはやはり信じ難い。
「やだじゃねえ。だったら取られねえように、しっかりあいつの首根っこ捕まえとけ」
はぁいと力無く隣で声を上げる趙を尻目に、缶コーヒーの残りをぐいと呷る。
「........」
趙はしばらく無言で何かを考えるようにじっと前を見据えたまま前屈みで座っていたが、ゆっくりとそのまま前傾を深くして、立ち上がる。
「ねえ、マスター」
「何だ」
「ありがとね」
こちらへ向き、身体をくの字に傾けてにへら、と笑いかける表情はいつも通りの趙だった。それからくるりと踵を返してどこかに行こうとする背中へと、声を掛ける。
「おい、店には寄らないのか? 中に春日、居るぞ」
「....今はいい。用事の途中で寄っただけだから」
「ああ、そうかよ」
「じゃあね」
手を振り、早足で駆けていく後ろ姿を見送ったのち、ふうと一息。軋んだ音を立てるベンチから立ち上がり、開放感からその場で両手を上げて大きく伸びをする。
「あぁーーーくそっ。本当にあいつら面倒ばっか掛けやがって.... 」
普段遣わない気を遣った分、手元で今は空になった缶コーヒー、丁度一本分の疲労を感じていた。