スキンシップ (physical intimacy)好きな人に触れたいと思うのは、
相手の合意なく行えば、下手すると犯罪行為にも結びつきかねない。そんなのわかっている。俺だって一般的な理性だって持ち合わせているんだから。一応はね。
それでも目の前に人参がぶら下げられた状況で、好物をただ見てるだけなんてことは到底無理な話だってこと、わかるよね?
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「ねぇ、マスター」
「春日なら、2階にいるぜ。」
趙が一人でサバイバーを訪れた場合、まず春日がいるかどうかを確認するところから始まる。夕暮れ時、店で出すつまみの仕込みに明け暮れるマスターは、その手を止めることはせず、皆まで言うなとばかりに慣れた様子で店に入ってきたばかりの趙に答えた。ありがと、と趙は短く感謝の言葉を伝えてひらりと手を挙げると、軽い足取りで階段に向かう。
「入るよー」
「いいぜー」
3回ノック。返事を待ってからドアを開けて中に入ると、後ろ手でそっと閉める。趙たちが私室として使っている2階では、お目当ての相手が一人、こちらに背を向けており、いつもと少しだけ様子が違った。
「春日君どうかしたの? もしかしてどこか具合でも悪い?」
靴を脱ぎながら玄関先で問いかけると、背中を向けていた春日が振り返る。
「ちょっと仕事のデスクワーク? つーのが立て込んでてよ、ここ何日か一日中机に向かってたらどうにも身体の調子がおかしくってよ」
畳の上、上着を脱いだシャツ姿で胡座をかいた春日は、言葉通りに凝り固まった首を左右に曲げて筋を伸ばしている。
「身体って動かしてないとすぐに強張っちゃうんだよね。そういう時は湯船にゆっくり浸かるのが効果的だったりするよ」
そんなことを言いつつ、趙が隣に座っても良いかと問えば、春日はいいに決まってんだろとにこやかに答えて座布団を自分の左隣に差し出した。
了承を得た趙は、足音をたてない特徴的な歩き方で歩み寄る合間、人差し指と中指でするりと春日の肩に触れる、それから寄り添うようにして、春日の隣に置かれた座布団の上にすとんと体育座りで収まった。春日は趙が座ったのを見計らい、目線を左側へ向けたまま話を続ける。
「風呂か。ここの湯船狭いんだよなあ」
「ふふ、そうだねえ、春日君が入ったらお湯がほとんど流れてっちゃいそうだね」
サバイバーの2階に間借りしているこの部屋には浴室もあるにはあるが、浴槽が狭すぎるため皆専らシャワーを浴びるために使っていた。もちろん趙も浴室は普段から使っているから、春日の図体にあの浴槽が狭すぎることは容易に想像がつく。
「あ」
「なんだ?」
「ううん、なんでもない」
「なんだよ、言えよ」
「やーだ。言わない」
趙の頭には、春日の身体が収まるでかい風呂、と考えを巡らせた結果、ラブホテルのバスタブが浮かんでいた。銭湯は自身も例外ではないが、春日の背中にあるものを理由にきっと入店を断られてしまうだろう。ラブホテルならば、でかいジャグジー付きのバスタブなどに浸かって、デスクワークで疲れた体を癒せるかもしれない。
だからといって、じゃあ今から一緒にラブホ行こうか? なんて口が裂けても言えない。女子会かなんかでラブホテルが使われる事は知っていた。実際に紗栄子やソンヒ、えり達が今度三人で行こうかなんて話をしているのを聞いていたし、なんなら趙も一緒に行く? と冗談混じりに誘われ、丁寧にお断りした経緯まである。女性同士にとってラブホは気軽に利用できるものなのかもしれない。しかし男同士で今から行こうかだなんて、ましてや片想いの相手になんて言えるはずもない。
「なあ、なんで言えねえんだ?」
そんなことを考えていると、
春日が後ろからがばりと突然、趙の肩を抱いて来た。
趙は何事もなかったかのように、極々自然な流れとして受け入れる。総帥時代の趙であれば、何人であろうと自分の肩に相手の手が触れる前に素早く払い除けていただろう。それが今やどうだ。おもいびとの逞しい腕に抱かれ、耳元で低めの声で囁かれ、肩越しに体温を感じ、内心激しく狼狽えている。状況が飲み込めず己の思考力をもはや趙は失いかけていたが、心境と裏腹の行動をとることに慣れた男は、乱れた心情をその表情には、おくびにも出さない。
「うーん。なんでだろうねぇ」
「言うまで逃がさねえぞ」
趙はいつものように飄々としたキャラを演じつつ、頭をフル回転させる。抜け出すこと自体は容易いが、こんな機会はそうそう訪れない。心臓には悪いがこの状況は、すぐ手放してしまうにはあまりにも惜しい。
春日自身のプライベートゾーンはとても狭いらしく、こちらから近づく分には、いくらでも受け入れられた。反対にこちらが距離を置いている場合には、決して近づいて来ることはない。今日は趙から進んで近づいたことで、肩を抱くようなスキンシップは春日の中で良いものとされたらしい。お互いの想いに雲泥の差はあろうが、先程春日の肩に指を滑らせた行為は、無駄ではなかったようだ。趙は己の肩を抱く春日の手に向かい、自分の手を伸ばす。そっと重ねた手のひらからは直に、春日の温もりを感じる。
ここで目の前の頬へキスをしたら、相手はどんな態度をとるのだろうかと趙の中にふとした疑問が浮かんだ。
びっくりして無言になる? それとも困った顔をする? いずれにせよ、独りよがり過ぎてきっと録な結果ではないだろう。きっと受け入れられはしない。もしかしなくてもこの恋は未だ一方通行だ。
ただ駄目だとわかってはいても、趙の頭の中で巡る衝動は一度走り出すと止まらない。
キスをして、舐めて、吸って、噛みついて。
できることならキス以上のことだってしたい。春日の内側の熱を暴きたいとも思う。だがそれは今この時ではない。もっと時間をかけるべきだ。
ここまで来て趙は、全ては春日がこんな近距離にいるのが悪い、という結論に至った。
全てに抗って少しだけ顔の角度を変え上向けば、たちまちに望みは叶ってしまう。このままだと衝動をそのまま実行に移しかねないが、それだけは避けたい。
趙は前方がガラ空きなのに気がついて、かかとを身体に寄せる。それから腹に力を入れて両手を床について前屈し、するりと春日の束縛から逃げ出した。代わりに虚をつかれた春日に素早く向かい合い、両肩を押して後ろに押し倒す。
「ほへ?」
「ふぅん、油断大敵ってやつだねぇ」
仰向けに倒れた春日の上に跨り、今度はマウントを取った。束縛から抜けると共に離れてしまえば良かったのに、自分からまた近づいてしまうのは何故か。すぐにでも離れたいのに、こちらから一方的に手離したくはない矛盾。要は一定の距離を保ちつつ、近づき過ぎなければよいのではないかと自分を納得させる。それに加えて今度は趙の中で恋心云々よりも負けず嫌いの部分がほんの少しだけ、顔を出してしまっていた。
「ぐっ....!」
「さあてどうしようかなぁ」
へそから胸に向かってシャツの上から右手を這わせて、大の字に投げ出された春日の左手に右手を重ねぎゅっと握る。と、相手もぎゅっと同じ力加減で握り返してくる。反応に気を良くして左の手も同じように手を組み合う。馬乗りになった趙が両手を拘束しているため、絶対的に不利な春日が体制を立て直すのは容易ではない。春日がブリッジの体勢で下半身を持ち上げようとしたので、趙はすかさず胸の辺りに腰を下ろし、両足で胴体をがっちりホールドして動きを遮る。
ドタンバタン。
いい大人達が盛大にとっ組み合うものだから、下にいる春日が抵抗を試みる度に、大きな音をたてた。
ドスン。
「趙さんよ、これは狡くねぇかい?」
「降参してもいいんだよ?」
ドスンバタン。
「おい、春日と趙。うるせえぞ、少し静かにしろ」
部屋のドア越しにドスを聞かせた声が響く。どうやら下の階にいたマスターの逆鱗に触れたらしい。
臨戦態勢を崩さぬまま、はぁいと間延びした声で趙が返事をすると、フンッと息を吐いた音と、トントンと階段を降りる革靴の音が聞こえた。
「春日君のせいで怒られちゃったじゃん」
「いやいや、元はと言えば趙先輩が言わねえのが悪いんだろ?」
「ほんっとこういう時しつこいよね、君」
思わずお互いコソコソと声を潜めて喋る。趙はさすがにこれ以上はまずいと、お開きにするつもりで、握りしめていた指の力を緩める。更には馬乗りになっていた春日の身体から身を引き剥がそうとした。が、力を緩めた脚に春日の太ももが絡んだと思ったら、肘の当たりを強くつかまれ、次の瞬間視界はくるりと反転し、雄々しい顔つきをした春日が上から趙の事を見下ろしていた。
「....っ!」
「さあ今度はこっちの番だぜ」
獲物を捕らえた獣の様なギラギラとした瞳。はぁと吐いた息の甘さと、開いた口から覗いた紅い舌が口内をべろりと舐めるのが目に入った瞬間、趙の瞳孔がまん丸に開き、ずくりと腹の奥が疼く。ビリビリと雷を食らったような痺れる頭で、は、と短く息を吐いてやっとのことで声を絞り出した。
「春日君ちょっと! 何してんの?!」
「何って、さっきのお返しに決まってんだろ」
「やだ! もう終わり!」
尚も続けようとする春日の胸をぐいと押し返して、拒否の姿勢を見せ身体を突き放すと、強制的にスキンシップを終わらせる。これ以上は、駄目だ。終わらせなければならないと、もはやそれしか趙は考えていなかった。
反対に、これからだと言う時にお預けを食らってしまった春日は、身体を起こして正座になってだらりと両腕を垂らしたまま、明らかにしょんぼりとして眉を下げている。
「なんだよ趙。怒ってんのか?」
「え? ううん、怒ってないよ。あ、俺、喉乾いたからお水買ってくるね! 春日君もいる?!」
「あ、ああ....」
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困惑した様子の彼を部屋に置いて、逃げ出すようにそそくさと靴を履き、階下に降りる。こちらに気づいたカウンター越しのマスターがなにか言いたそうな顔でちらと見てきたが、今は何も話せるような状況じゃない。痛い視線を無視して足早に出入口のドアを開けてサバイバーを後にした。
外に出ると既に夕闇をとうに超え、スナック街特有の夜の景色へと色を変えていた。多分あのへんだろうと記憶の隅にあった自販機の場所まで、早足の大股歩きで大通りへと向かう。
「あった」
やっと見つけた青い塗装が施された自販機の前に立ち、ミネラルウォーターのボタンを2回押す。ガコンガコンと連続して排出口から出てきたボトルを手に取り、そのうちひとつのキャップを外して口をつけると、その場で一気に3分の1ほどを喉に流し込んだ。
「はぁ」
やっとひと息つけた。さっきまで呼吸もちゃんとできていなかった気がする。まるで自分を制御できていなかった。どうしたらよいか分からず混乱して、彼に対して子供みたいに感情をぶつけてしまったのが、とてつもなく恥ずかしい。
更には時間差で自己嫌悪までやって来てしまい、買ったボトルをアスファルト上に直接置くと、その場にしゃがんで身体を抱えて殻のように閉じこもる。
明らかにやり過ぎたし、調子に乗ってしまった。彼に触れられたのが嬉しくて。それにしてもさっきの彼は。思い出しただけでも胸のあたりがぞわぞわする。そう、なんだかすごく....
「趙!」
名前を呼ばれて反射的に顔を上げる。自分を探しにきた相手が今、いちばん会いたくない人物であることは顔を見なくたってわかる。
「春日君....」
「趙どうした? どっか具合でも悪いのか?もしかしてさっきので、頭打ったりしたか?」
首を横に振る。どうして自分を拒否して勝手に逃げ出した相手の事をいたわることができるんだ、優しすぎるよ春日君。
「ううん。どこも悪くないよ大丈夫....」
「本当か?」
今度はコクコクと、首を縦に振ってみせる。
おろおろと傍で屈んで心配する彼の瞳はいつもの色に戻っている。よかった。
「春日君」
「おう、なんだ?」
「ごめん」
「なんで趙が謝るんだ? 俺やり過ぎちまったよな、俺の方こそごめんな」
本当にこの人は....それ以上言わないで、色々と付け込んだのは俺の方なんだから。もっと君のこと、好きになっちゃうから。
「趙」
「うん、なぁに」
「ともかくずっとここに居るのもなんだしよ、帰ろうぜ?」
「そうだね」
すくとその場に立ち上がった彼がこちらに右手を差し出す。その手をつかんで良いものか。少しだけ逡巡して、それでもやはり本能に逆らうことはできなくて、自分の左手を彼の方へと差し出した。ぎゅっと握って立ち上がる勢いに任せて近づき、鼻先が触れ合うほどの距離から彼の表情を伺う。少しだけ驚いているようだけど、やはりいつもの彼だ。
それにしても全然懲りてないじゃん、俺。
でもこのままじゃ、前には進めそうにないから。
頭の中でぐるぐると言い訳をしながら、空いたもう片方の手で、彼の手のひらを柔らかく掴む。言うことは決まった。というか、これしか思いつかなかった。
「ねえ春日君、さっき俺の言おうとしてたことだけど」
「おう、やっと教えてくれんのか?」
「うん。今度一緒に温泉、行かない?」