Lip monster…………
「なに、してるのっ…」
「なにって趙の手にキス···」
「いいっ、それ以上言わなくていいから!」
「そうか」
「そうだ、お腹すいたよね。朝ご飯作るから、手、離してよ」
「趙、その前に俺になんか言うことねえか?」
「えっ、別に、今は、ないよ、離して?」
「今は?」
「そう、今はご飯作らなきゃだし、洗濯物も干さなきゃだし」
「じゃあそれが終わったら?」
「あの…ごめん……」
「どうした?」
「俺···気持ちが整理できてないから、少し時間くれないかな?」
***
あの日の俺の見え見えの裏工作は、とっくに彼にバレてしまっているのだろう。俺が春日君の寝込みを襲ってしまった日から、彼の俺への態度が露骨に積極的になった。隙あらば手を繋いでくるし、この間なんて皆のいる前で後ろから抱きつかれそうになったから、間一髪、素早く身を躱して阻止をした。彼のそういった一連の行動にどう反応したらよいかがわからなくて、最近はなんだか彼から逃げてしまってばかりいる。
今までセックスした相手とは男女に限らず大抵がその場限りで、後から道端で会ったりしても気付かないふりをしたし、万一向こうから話しかけらても無視を決め込んでいたから、そこから何かが進展した、なんてことは一度もない。ワンナイトの相手に未練なんて微塵もなかったし。
どうしても振り向かせたい、手に入れたいと思ったのは、彼が初めてなのだ。でも今は追い掛ける側がすっかり逆の立場になってしまっていて、俺はまるで勝手がわからないでいる。だから。
思い切って、目の前の三人へ問い掛ける。
「ねえ、好きな相手からの好意の受け止め方ってどうすればいいの?」
「どうするってあんた、今まで付き合った相手にどうやって接してきたわけ?」
「好きな相手と付き合ったことがないんだろう、こいつは」
「いっそ身を任せてみたらどうですかね?」
三人それぞれに発言するが、まともと思える発言はえりだけだ。紗栄子とソンヒの二人は、言ってることがいちいち的を射ていてむかつく。
今夜はとうとう、以前から誘われていた女子会にお呼ばれした。今回の会の目的は、先日買ったナイトウェアブランドの新作お披露目会、だそうだ。場所はソンヒのいくつかある隠れ家のひとつ。傍から見ればごくごく一般的に見えるマンションの一室だ。四人でわいわいやるのには少し広すぎる大きさのリビングには、広い割に無駄な物が一切ない。白地の三人掛けの革ソファーとガラステーブル、テーブルの下にはグレーがかったモダンラグが敷かれており、部屋の隅にはシンプルなフロアランプ。それだけ。ソファー近くには紗栄子とえりの持ち込んだ荷物がまとめて置かれている。テーブルの上にはワインや缶チューハイやハイボールにビール。それらが注がれたグラスに、俺が店で作ってきた中華料理などが所狭しと並んでおり、各々が自由に手を付けていた。
話題に上がるのは、今みたいな恋愛の話や、趣味の話が中心だ。俺はネイルや化粧品、可愛いものには目がなくて昔から興味があったから、この三人と話していると、ともかく楽しい。今までむさ苦しい男達に囲まれて過ごして来て、可愛いものを可愛いという気持ちを大っぴらに共有できる相手など周りにはいなかったから尚更。
他の二人は元より、ソンヒとは異人三トップとしての関わり合いしかなかった時代、お互いの組織の事を話すばかりで趣味の話など、もちろんしたことがなかった。会う頻度だって半年に一度会うくらいだったと言うのに、横浜流氓を彼女に任せてからというもの、仕事と趣味を通じて何かと顔を合わせる機会が増えている。
今までのもの言いからわかる通り、俺は彼女達から男性として見られていないんじゃないかと思ったりもするが、変に意識されるよりはまだマシか。
「ねぇ全然関係ないけど、なんでメンズにはこのデザインがないわけ? 俺ソンヒが着てるこのセットアップがよかったのに!」
女性に人気のナイトウェアブランドが最近発売したばかりの、某ゲームとのコラボ商品が手に入ったとの事で、後からやってきた俺以外は三人とも既に買ったばかりのナイトウェアに着替えていた。
“このデザイン”というのは、着ればコスプレよろしくキャラクターになれてしまうデザインのことだ。俺が好きなキャラクターはピンク色の丸々とした愛らしいモンスターでファンも多い。メロメロボディの特性を持った妖精タイプで特技は「うたう」と「はたく」。女性物には俺の好きなこのキャラクターの商品もラインナップしているが、スマホで検索したメンズのラインナップには、他二人が着ているのと同じキャラクターは、いるのにも関わらず、何度確認をしても俺の好きなこのピンク色をしたキャラクターはいなかった。
そんな俺のお気に入りの子のパーカーとショートパンツを着こなすソンヒが羨ましくて、つい妬ましさを込めた視線を送る。しかしソンヒはそんな俺の視線は気にせずソファーの上に寝そべり、肘掛けに腕を預けて終始余裕の表情だ。
「趙、私のでよければ着るか?」
「いや、明らかにサイズ合わないじゃん」
「趙さんの好きな子のヘアバンドならありますよー着けます?」
「えー着けるー」
ソファーの下で体育座りをして不貞腐れている俺の頭に、お気に入りのキャラクターの耳の形を模した、ピンク色の猫耳みたいなヘアバンドがふわりと着けられる。
「えりちゃんありがと」
「どういたしまして」
そう律儀に答えて俺の向かい側に戻っていく声の主、白と紺色の大型いねむりモンスターになったえりに癒される。
「文句言うんじゃないわよ。そもそもこのシリーズ入手困難なのよ。大人しく私と同じこれを着なさい」
黄色のねずみに扮した紗栄子からテーブル越しに特大サイズのショッパーを受け取った。
「え、このショッパーなに? 可愛いんだけど!!」
コラボデザイン用の専用ショッパーには、普段のシンプルなデザインとは異なり、うつ伏せで眠るとても愛らしい黄色いねずみがプリントされていた。これはテンションが上がる。
「ありがとう紗栄子ちゃん。俺着替えてくる」
「趙、あんた切り替え早過ぎない?」
「黄色もいいかもってちょうど思ってたんだよねぇ」
ぎゅっと自分の荷物とショッパーを抱き締めて立ち上がり、部屋をキョロキョロと見回す。
「俺どこで着替えたらいい?」
「脱衣所でやれ。あっちだ」
ソンヒが姿勢を変えずにまっすぐ指差した方向の横開きドアを開けて、脱衣所に入るとゆっくりと閉めて鍵を掛ける。
一人になると急に現実に引き戻される気がするが、あまり考えないようにしてヘアバンドを外して、サングラスも一緒に洗面台の縁に置いた。
更に上着もシャツもいつものハーフパンツも、指輪も腕輪も、レギンスを除き全部脱いで、上半身裸になる。ショッパーの中から出したパーカーはふわふわとしたニット生地で、普段身につけているものとはまるで真逆の存在だ。
手際よくパーカーと、セットのハーフパンツに着替え、試しに脇へと手を滑らすと驚くほど肌触りが良い。それからハーフパンツは履いてみて、女性のものより丈がやや長いことに気がついた。タイプの違う美女三人のショートパンツ姿は少しだけ目のやり場に困るのだけれど、本人たちは全く気にしていないようなので、俺も気にしない。自分の脚は、もちろんレギンスで隠すけれど。
上下着揃ったところで、サングラスを掛け直しフードを被ってみると、鏡の前には見た目がとてつもなくアンバランスな、いかついサングラスの黄色ねずみが立っていた。これではあまりにも違和感があり過ぎる。
少し考えてからフードを脱いで、バッグから取り出した色なしのオーバル眼鏡に掛け変える。更に後ろに流した髪の毛を両手でサイドに流せば、少しはこれでマシになっただろうか。荷物は取り敢えずまとめて置いたままにして、リビングに戻る。
「ねえ、着替えてみたけど、どうかな?」
女子三人にお披露目をするにあたり、素顔を晒す気恥ずかしさから口元を覆う。見た目、相当あざといかもしれない。けれどこんな格好だから、何をしたって同じだ。
「......」
一瞬の間が開き、同時に紗栄子とえりがなにやら絶叫して、全く何がなにやらわからずぽかんとしていると、いつの間にか身体を起こしたソンヒがソファーに座り、ぽつりと呟く。
「『趙かと思ったら、知らないイケメンがきた』そうだ」
*
「そんなに違うかな?」
「今みたいに服装が違っていたら、街中であっても気が付かないかもね」
「さすがに外ではこういう服装じゃないけどね…」
大袈裟に騒ぐ約二名の女子をなんとか落ち着かせたが、着替えてきてからというものの、穴の開くほど顔面を凝視されている気がする。そんな中、興奮状態冷めやらぬえりが、思い出したように声を上げた。
「そう言えば私、新作の口紅買ってきたんです、ほら」
「あ、それ私もSNSで見て気になってた!」
「限定色を全色買ったのか」
「はい、皆さんに差し上げたくて。色違いで四本買ってきました」
「え、俺の分も?」
皆さんと言った中に、自分が入っていることに素直に驚くと、えりは嬉しそうに俺の方を見て真っ直ぐに答える。
「はい!」
「え、嬉しい。えりちゃんありがとう」
「えへへへ、どういたしまして」
照れて笑うのがまた可愛い。
「趙に似合うの、私が選んであげるわ...…そうね……これ!」
ガラステーブルの上に並べられた四本のうち、いち早く紗栄子が選んだのは、ディープレッドと書かれたその名の通り、深い赤色のルージュだった。
「折角だし趙、ちょっと唇に塗らせて?」
「いいよ、好きにして?」
この新商品は確か、今をときめく若い男性アイドルが広告塔になっていたはずだ。たまたま目にしたCMの彼はとても妖艶でセクシーだった。そういう売り方は嫌いじゃないし、コンセプト通りに男性も使えるものとして、試してみてもいい。
名前を呼ばれて、全て任せるつもりで紗栄子の隣へ行き、正座をする。対して真剣な表情をした彼女は、俺の正面に膝立ちで向き合う。オレンジ色のティントネイルが目を引く細い指が、箱から新品のルージュを取り出し、蓋を取り、目の前で芯をくり出す。相手が塗りやすいように俺が顎を上げて目を伏せ、ほんの少し唇を開けて待っていると、紗栄子の左手が顎に触れ、開けたてのルージュの初めての一線が、ゆっくりと下唇に引かれた。
「趙、無駄にエロいわよ」
「趙さん、色気が醸し出されてますね」
「あぁ、本当に無駄だな」
好き勝手言う三人に反論しようも、今喋ると大変な事になりそうで、なにも言えない。
「趙、んぱってして」
そんなことを考えている間に上唇にも深い赤色が引かれて、言われた通りに上下の唇を付けてからぱっと何度か開くを繰り返す。紗栄子の大きな瞳が近づいて、俺の唇をまじまじと見つめるものだから、こちらも無駄にどきりとする。
「できた! やっぱり私の見立て通りね!」
「どう、似合ってる?」
「...自分で見てみろ」
ソンヒがどこからか取り出したブランド物のコンパクトミラーを受け取って、自分の顔を見た。さすが紗栄子、とでも言うべきか。深紅に縁取られた唇が美しく映えている。思ったより、悪くないかもしれない。
「趙さん! 目線下さい!」
「え?」
えりの声がした方を反射的に向くと、パシャとスマホの撮影音が鳴って無防備な表情を撮られてしまった。
そのまま言われた通りにカメラ目線で、何個かポーズを決める。すると、思いのほかよい反応が返ってきて満更でもない。我ながら単純過ぎる。
「折角だし、みんなで撮っちゃう?」
そこからは紗栄子の提案に乗って、自由にお互いを撮り合うことにした。立ち姿で並んで撮ったり、寝転んでみたり、ウェアと一緒に購入した、いねむりモンスターの大きなぬいぐるみと一緒に撮ったり。邪魔な物がなく撮影に適したこの部屋でお互いが夢中になって撮影し、結果としてスマホのアルバムに百枚単位の画像を増やした。
簡易の撮影会をお開きにして、それぞれがまたテーブル周りでダラダラと飲み食いしつつ、各々スマホで撮った画像を確認などしていると、紗栄子が誰に言うでもなく呟いた。
「顔のいい男って結局何しても絵になるからずるいわよね」
「紗栄子さんとソンヒさんは、まるでモデルさんみたいです!」
えりちゃんも可愛いぞとえりを褒めるソンヒに対して、えりはエヘへと嬉しそうに笑う。
「そうだ、えりちゃん。趙の写真は全部春日に送ってやれ」
「ソンヒ!」
咄嗟に咎める気持ちが強く出て、大きな声が出たが、当のえりは何も気がついていない様子で不思議そうな顔をしている。
「春日さんに、ですか?」
「えりちゃん、ソンヒの言ったことは無視していいから。絶対止めて」
「趙のことは無視していい。えりちゃん、やるんだ」
「え、え?」
俺とソンヒを交互に見ながら混乱するえりを安心させるように、ソンヒはにこりと笑いかけ、えりが焦りつつもこくりと頷き返す。これは非常に不味い。
「えりちゃん、止めて。お願い、ね?」
「あわわわわ…趙さん、すみません! 私、送っちゃいました…」
「え、やだやだ! 今すぐ送信取り消して!」
「あわわわわ…趙さん、取り消せません! 既読、付いちゃいました…」
「わァ~…そっか~うん、ソレハシカタナイネェ」
えりにつられて俺まで慌ててしまったが、既に画面が送信されて彼が見てしまったのならば、どうしようもない。仕方がないことだと自分に言い聞かせる。それにしてもソンヒだ。どうしてくれようか。
「趙さん」
「うん?」
「趙さんのスマホ…鳴ってます」
タイミングよく鳴ったこの電話の相手が誰なのかなんて、画面を見なくてもわかる。ちょっとごめんと席を外して、先程着替えた脱衣所に舞い戻った。
画面に表示された名前を確認する。やっぱりそうだ。いつも通りを装って一呼吸置いてから、緑色の受話ボタンを押す。
「はぁい春日君、どうしたの? こんな夜遅くに」
「趙、お前。今どこにいるんだ?」
少し切羽詰まった感じの声がスマホを通じて聞こえてくる。たとえ本人を前にしていなくても、彼は声にも面白いくらいに表情があって、どんな顔をしているのか容易に想像ができた。
その一方で、洗面台の鏡に映る男は、努めて冷静を装おうとしている、本当に面倒くさい男だ。
「今はソンヒのところだよ、紗栄子ちゃんとえりちゃんも一緒」
「何してんだ?」
―また声質が変わった。なにか探るような表情だ。
「女子会にお邪魔してるとこ」
「楽しそうだな」
―今のは本心じゃない。少し、妬いているのかな。きっと。そうだといい。
「うん、とっても。春日君はどこにいるの?」
「俺は、サバイバーで寂しく一人酒だよ」
―これは本当。
「寂しいのはもしかして、俺のせい?」
「そうだよ、こんな写真見せられちまったら」
「恥ずかしいからさ、すぐ消してよね?」
「何でだ? すぐ保存したぞ」
「いや、しなくていいから」
―ほんとに、今すぐ消して欲しい。
「なあ、今度俺の前でも同じ格好してくれよ?」
「ふふ。いい子でお留守番してたらしてあげる」
「なんだよ、今日は帰ってこねぇのか?」
―甘えた声。堪らない。
「そうだね、今日は戻らない」
「そうか…最近あんまこっち来ねえな」
「色々と忙しくて。ごめんね?」
―今度は俺の嘘。
「趙」
「なぁに?」
「忙しいのも分かるんだけどよ」
「うん?」
「会いてぇ」
「うん」
「んで、今すぐその唇にキスしてぇ」
―?!
「駄目か?」
―懇願する声。ああ。なにか言わなきゃ、なにか…
「えっと……今すぐには無理…かなあ」
―そう、いきなりここを抜け出すわけに行かないじゃない、それに、それに……
「じゃあ今度。させてくれよ」
「……そうだね。今度。旅行の時でもいい? 春日君、それまで我慢できる?」
―俺、今。なんつった?
「……ああ、わかった。約束だぞ?」
「うん、約束」
「楽しみにしてるぜ。 おやすみ」
「俺も。おやすみ」
耳から緩慢な動きでスマホを離す。
息を止め、未だ秒数を重ね続ける画面を凝視しながら、震える指先で赤色のボタンを押し通話を終了させた。顔を上げて見た鏡の中の男は、さっきまでの冷静さを完全に失い、今や自分の唇の色と同じくらいに顔を赤くして荒い息を吐く。どうしても、電話口の彼が関わると、ポーカーフェイスのままではいられないみたいだ。
「好き……」
その場で崩れ落ちるみたいに蹲って、スマホを強く、両手で握り締める。
心の底から湧き上がる感情にもはや、抗えなくなっている。期待してもいいのだろうか、俺は。
*
「あれっ?」
必死に心と身体を落ち着け、やっとのことで女子三人の元へ戻るためにドアを開こうとする。がしかし、何かが引っかかって開かない。反対側で慌ててガタガタ動く人の気配がする。改めて抵抗のなくなったドアを開けると三匹のモンスターがフローリングに座り込み、こちら側を見上げていた。
「ちょっと! なにしてるの?! 」
「えへへへへ」
「ひひひひひ」
「…………」
「まさか三人揃って盗み聞き、してたわけ?!」
「たまたま聞こえただけよね?」
「そうですねぇ…」
「私の家で何を聞こうが、私の勝手だろう」
「ねぇみんな知ってる? そういうの、開き直りって言うんだよ?!」
*
「趙、ちょっとこっちに来い」
「え、なに」
盗み聞き事件に遭ったすぐ後、ソンヒに俺だけが呼び出された。外履きを借りて、ソンヒについてバルコニーへ出る。外の空気がひやりと肌に触れて気持ちがいい。
「わーバルコニーも広いね」
マンション高層階の張り出したバルコニーの端に立って、ぼんやりと横浜の夜景を見る。本来ならテンションが上がるはずの夜景も、なんだか今はもやもやした気持ちに圧されて霞んで見える。
「趙」
「なに?」
夜景を背にしてソンヒの方を向く。
脚を組み、バルコニーに置かれた椅子に座るソンヒは、いつもの格好ならさぞ男の目を引くのだろうけれど、今の格好だと、なんだか可愛らしい。後でさっき撮った写真をハン・ジュンギに送ってやろうか。先ほど自分のされたことに鑑みると、それくらいはしてもよくはないだろうか。
「さっきのもそうだが、こないだのあれはなんだ」
「なんのこと?」
「あれじゃ春日の生殺しだろう」
「俺がいつ、春日君を……」
生殺しなんて人聞きの悪いことをした覚えなんて…
「ちょっと待って...まさかサバイバーでの“あれ”も聞いてたの?」
「ああ。たまたま、な」
丁度よく性能のいい盗聴器の最新機種が手に入ったから試したくなって、ハン・ジュンギに頼んでサバイバー二階に付けてもらった。と言うようなことをソンヒから説明されたがそれどころではなく、まるで内容が頭に入ってこない。
「全部、聞いてたの?!」
「風呂場での会話はよく聞こえなかったがそれ以外は」
「じゃあ、脱衣所のも?!」
ふ、と笑みを向けられ、それだけで察する。
『俺は本当にどうかしてるよ、お前に』
あの時のことがフラッシュバックして、全身の毛という毛がぞわりと逆立った気がした。全てを鮮明に思い出して、身体が熱くて堪らない。
羞恥と、興奮と、己のあずかり知らぬところで一部始終を聞かれていたことに対する怒りが込み上げる。
「本っっ当に、趣味が悪いんだけど!」
「趣味ではない。これが私の仕事だと知っているだろう?」
両手を上に向け、まるで悪気のないようなソンヒの身振りが更に神経を逆撫でする。
「なに? それで俺を恐喝でもするつもり!? まさか春日君を…そんなことしたらどうなるか…わかってんだろうなソンヒ!」
怒りに任せた発言は、先ほどより一層大きな声が出た。勢いのままソンヒを睨み付けると、一瞬だけ驚いた様子を見せた後、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。
「趙、少し落ち着いてくれないか。怒らせてしまったのならば謝る、すまない」
「!!」
目の前で組んだ脚を正し、座ったまま頭を下げるソンヒに絶句すると同時に、今度は罪悪感がやってきた。俺は彼女にこんなことをさせたかった訳じゃないのに。本当に、どうかしている。
「俺の方こそ、恫喝みたいなことしてごめん」
顔を上げたソンヒは、にやりと笑う。そのしたたかさに救われたのは、誰でもない俺自身かもしれない。
「まあさっきのは確かに、仕事は関係なかったがな」
「だよね。っていうか二回もプライベートを犯されたら流石の俺も怒るよ」
「しかも自分のじゃなくて春日のプライベートを、だろ?」
「え?」
「まあ座れ」
「ああ、うん」
椅子の前に置かれた丸テーブルにはいつの間にか500mlの缶ビールが二本と、煙草とライター、灰皿一式が置かれていた。
言われた通りに大人しく椅子に座る。飲むか?と勧められるままによく冷えた缶ビールを受け取りプルタブを引くと、プシュと小気味よい音が鳴った。
「なにかに乾杯でもする?」
「じゃあ春日一番に」
「なんで? まあいいや。春日君に」
缶を持ち上げて冷えたビールを一気に喉へと流し込めば、たちまち体温の上がった身体へ冷えたアルコール分が巡っていく。自分が思っていたよりも、どうやら身体は水分を欲していたらしく、唇を飲み口から放すと自然とはぁと声が出た。そういえば飲み口には先ほど紗栄子に塗られたはずの口紅跡が付いてない。この口紅、コンセプトもいいけど、性能も優秀だ。
「趙。ところでさっきの話の続きだが」
「俺が春日君を生殺しにしたあの時のこと?」
残りのビールを口にしながら、ソンヒの方を見る。
「そうだ。春日へ好きだとただ言ってやれば全て解決したのに、何故それをしなかった?」
「違うと思ったから」
「違う?」
「俺のしたことはほとんど全部、一方的だったでしょ? 俺が好きだと言えば春日君は流されて、好きだと答えてしまいそうだった。彼ってそういう所ない?」
「あいつはただでさえ天性のお人好しだからな」
「そうだね。俺はそういう所も含めて好きなんだけど」
「まだ付き合ってもいないうちから、もう惚気か」
ソンヒが手元の煙草を一本手にするのを見とめ、火が消えないように手元を覆いながらスティック式ライターをつけてやる。彼女が下を向いて口元の煙草に火をつけ、一口目をゆっくりと吸うのを見守ってから、答えた。
「別にいいでしょ。ともかくソンヒが盗聴してたあの時は、彼が俺の好意を受け入れてくれるかどうか、知りたかっただけなの」
細身のシルバー製ライターをするりと撫でてから、元あった場所へと戻す。
「受け入れただろう、春日は」
そう言うとソンヒは一口吸った煙を小さく唇を開いて吐いた。
「うーん。俺があの日したことは、なんて言うかお互いが裸にならなくてもできたことでしょう?」
「ああ、イニシアチブはお前が取って、最終的に春日だけが大変なことになっていたな」
まるで見ていたかのようにソンヒが答える。
「それは...言い訳できないけど。俺は着てるもん全部脱ぎ捨てて裸で抱き合った時に、それでも春日君が俺の身体を求めてくれるのかがわかんなくって。それが今でも怖くてたまんないの」
「怖いのは、趙が男だからか」
「ああ、そうだよ。元々女性を抱いていた春日君が、俺みたいなガタイの男を抱けるのか、って話」
己のガタイのよさを強調するみたいに、大袈裟に手を広げ身体に向かって指し示してみせる。彼の気持ちはいつも真っ直ぐだから、違和感が少しでもあればいざそうなった時、同性である俺と身体を合わせることを受け入れられないかもしれない。俺の頭にはそんな不安が常に付きまとっている。
ソンヒの人差し指がトントンとリズムよく煙草を軽く叩いて、灰皿へと灰を落とす。動作ひとつをとってみても、彼女はやっぱりいい女だ。俺がソンヒだったら、こんなに悩むことはきっとなかっただろう。生まれ変わりとか、全然信じたりはしていないけれど、もしも女性になれるのならば、俺はソンヒみたいになりたい。
まあ、なんだかんだ言って今の自分のことは、身体含めて嫌いじゃないんだけど。
「お前は、春日に心身共に抱かれたいんだな」
「そういうこと」
もちろん恋愛においてセックスをすることだけが全てではないと分かってはいる。けれど、言葉では理解できても、身体の内側でふつふつと煮えたぎる欲望はどうしても抑えられない。できることならば彼と、最後までしたい。
「なんと言うか、お前らしいな」
「そう?」
「本音を全て心の奥にしまって、目的のため、常に円滑に事が運ぶように必死に裏でもがいて画策する。横浜流氓総帥の時から変わらない。それがお前のやり方だよ、趙」
「すっごく今、否定したいんだけど、ソンヒに言われるとそうかもって思っちゃうんだよなぁ...」
「春日には通じないぞ、その手は」
「わかってる。それで今困ってるの」
何個もガードを入れて、結果延々と回りくどいことをしてしまうのはとどのつまり、自分が傷つきたくないからだ。決定打を食らいたくなくて、ずるずると結論を引き伸ばす。そんなやり方は意味がないことだってわかっているのに。
「いずれにせよ、春日をあまり待たせるなよ。あいつはそんなに“待て”ができるタイプじゃない」
「春日君のことそんな風に思ってたの? ソンヒも」
そうだな、なんて話をしながら彼女が美味そうにビールと煙草を交互に嗜む姿に感化され、いつの間にかすっかり自分も口寂しくなってしまっていた。
「ねぇ、俺も吸いたいアメスピ。一本頂戴」
「メンソールだぞ」
「知ってるー。ソンヒいつもこれ吸ってるよね」
貰った煙草を咥えてライターで火を付ける。
緩く吸った煙を少し吐き出して、残りを肺に取り込むと、爽やかな香りと苦味。それとほのかな甘さが口の中に広がる。指に挟んだ煙草から、紫煙が伸びて、夜の闇に溶ける。
「煙草みたいにさ、吸えば気持ちがいいものだって、脳を騙せちゃえばいっそ楽なのにって思ったりするんだよね」
「騙すんじゃなく、単にお前が素直になればいいだけだろ」
「あれ? 俺、もしかして相当拗らせてる?」
「ああ。思春期の餓鬼くらいには、な」
「そんなに? やばいね」
ソンヒと互いに笑い合い、同じ味の煙草を吸いながら、本音を吐露する日がくるなんて思っても見なかった。でも今はこれが、とても心地いい。
*
「時に趙」
「なに?」
「お前、ハン・ジュンギに何かしたか? さっきから私のスマホに、やつからの通知が止まないんだが」