ひびこわし|荒船哲次 日々暗し 危機流しても ヒビ怖し
このせかいでどんなふうに生きていけばいいのかわからなかったから誰かの真似をした。俺の真似はやめてくれと笑った東の振る舞いはわたしには少しむずかしく、おれにはなれないよと諭した迅の言動は少し窮屈で、なんにも気づかなかった小南の無垢さはどんなに努力しても手に入らないものだった。
名前があって、寝る場所があって、食べるものに困らなくて、だいすきな瑠花ちゃんたちがいて、それなのにわたしは自分の居場所がどこにもないように思う。こころとからだがばらばらにほどけていていつまでも落ち着かない。そんなわたしに唐沢さんはラグビー観戦をすすめてくれた。言われるがままに見たけどルールがわからなくて困った。少し残念そうにしながら「なんでもいいんだよ」と唐沢さんは言った。「なんでもいいのさ。きみがこのせかいを少しでもすきになれるなら」ラグビーのルールはこちらの文化を知るために本を読んだり映画を観たりしているうちにどうでもよくなった。(サッカーと相撲のルールは覚えた。)
ここじゃないどこかは、わたしにとってのボーダーで、わたしじゃないだれかは、今ここにいるわたしで。物語みたいに、にせものだったらいいのにって思う。
このせかいのどこかに、本当のわたしがいるに違いない。きっとそう。……そんなのはうそだった。
「こころとからだはバラバラじゃないし、おまえはおまえだよ」林藤さんに言われなくてもわかってるよ。
「じゃあからだをもっと大切にしてくれ」冬島さんよりは大切にしてるよ。毎日ご飯をきちんと食べて決まった時間に寝て起きて寝るようにしてる。
「お前はそれでいいかもしれないけどこっちは困ってるんだ」困る? なんで東が困るの。「迷惑なんだ。大学でお前のことをいろいろと訊かれるのが」なにを訊かれるの?「もういいから簡単に男と寝るな」……。べつに、簡単じゃないけど。ずっとトリオン体だし、感覚はあっても生身の身体はわたしだけのものだ。断るほうが面倒になるだけ。
それからしばらくして、「みんなにはひみつだよ」という魔法のコトバを覚えた。約束を守ってくれるひとはあまりいないけど、言わないよりは東が困らないみたいだった。東はまだなにか言いたそうにするときがあるけど「ボーダーではちゃんとしてるし、もういいよ」とあきらめた。
ちゃんとするって、どういうことかあまりわからないけど。このままでいいなら、それでいいや。
でもどうしてだろう。わたしはまだどんなふうに生きていけばいいのかわからない。
スナイパーの訓練室を出ると東と冬島さんがいた。冬島さんは「俺は当真待ち」と言った。
「お前来週の予定あけておけよ。修学旅行で高校生がごっそりいなくなるからな」
東がわたしの予定を訊いてくるなんてめずらしいと思ったら、そういうことか。
「修学旅行……ってなんだっけ。旅行だからどこかに行くことだっていうのはわかるんだけど」
「学校のみんなで旅行。久しぶりだな、そういう質問するのは」冬島さんが笑った。
「だって冬島さんとしゃべるのが久しぶりだもん」
「なつかしいな。そうか、お前はいってなかったんだな。高校には通ってたのに」東が言う。
「わたしは人生が旅行みたいなものだから」東と冬島さんがそろってわたしから目をそらす。
「随分と詩的だね。これいつものおみやげ」ふたりの視線を辿ると唐沢さんがいた。
「やったー。唐沢さんいつもありがとうございます」
名物まんじゅう。ずっしり重い。あんこが甘そうだ。
「きみはいつもよろこんでくれるね。渡しにきたかいがあったよ。きみたちも食うか?」
「気持ちだけいただきます」「同じく。いつもこいつにおみやげを?」「唐沢さんやさしいよねぇ」
「ところで人生が旅行って? それは落ち着かないだろ。旅行なんかは帰る場所があるからいいんだ。そういえばあたらしい部屋に引っ越したんだって? 引っ越し祝いはなにがいい?」
「祝わなくていいですよ。男のストーカーと女からの嫌がらせで引っ越してるんで。自業自得です」
「うわ、それはもう言わないって約束したじゃん! うそつき! 冬島さんのうそつき!」
「みんな知ってるって」と東が笑った。みんなってだれ。
「はは、厳しいね。でも身から出た錆ってやつかな。引っ越しで禊になればいいけど」
唐沢さんは「じゃあこれ引っ越し祝い」と言っておまんじゅうをもうひとつくれた。やっぱり重い。
高校生たちは修学旅行から帰ってくると、あれやこれやとおみやげを配ってくれた。スナイパー組は訓練で顔を合わせる機会が多いからか「修学旅行に行ってきました!」とよく声をかけてくれた。
「これは佐鳥、これは外岡、これは菊地原、これは太一、これは華ちゃん、これは……」
両手いっぱいにもらってしまったので、ラウンジで少し食べることにした。食べる前にテーブルに広げて誰にもらったものか思い出していると「半崎だな、それは」と通りかかった穂刈が口を出した。
「あ、ごめんごめん。おみやげうれしいね。穂刈も両手いっぱいに持ってるじゃん」
「半分は俺の分ですよ」と影浦に手を振りながら荒船くんが言った。荒船くんにおみやげを渡して、穂刈はさっさといなくなってしまった。行くな、穂刈。こういう言い方は倒置法というらしい。
荒船くんとふたりきりで話すのはあまり得意じゃない。なんだか居心地が悪くなる。うそをついていないのに後ろめたいような、いつもと同じが恥ずかしいような。
「うれしそうですね」だって、さっきうれしいって言ったじゃん。
「修学旅行、わたしは行けなかったから。大学入ってからもあんまり旅行いったことないし」
「じゃあ俺と旅行いきませんか」……俺と?
「みんなで行けたらいいねー」あれ? みんなってだれ。
「高校卒業したら車の免許とるんで」
「……そういえば太刀川くんまた学科落ちたらしいよ」
「そうですか。それで先輩はどこか行きたいところありますか?」
「うーん、そうだなぁ。荒船くんは?」
「俺は先輩に訊いてんすよ」
「家に帰りたい」
「家? 今すぐ帰りたいって意味ですか?」
そう。もうずっと帰りたいの。故郷に。……あ、また倒置法。
荒船くんは帽子のつばの端っこを引っ張った。その角度だと顔がよく見えない。
「……そんなに俺のこときらいですか?」
「すきだよ。だからきらい」
なにもかもをまっすぐ見つめる荒船くんが、こわくてうらやましくて、だからきらい。こんなときでもわたしから目をそらさないでいてくれるところが、泣きたくなるぐらいもどかしい。
レンタルショップのレジの前ではいつからかポップコーンが売られるようになった。
レンジでチン!
これがけっこうおいしくて、ここにくるといつも買ってしまう。いつもカートにぎっしりつまっているからあまり売れてないのだろうか。そもそもこのお店自体のお客さんが少ないんだっけ。
ここもいつかなくなってしまうんだろうな、と言ったのは忍田さんだった。あのときはひどい雨で、わたしと忍田さんと響子さんで子ども向けのアニメをかりにきた。もう少しあとになってから、会員になってカードをつくって、ああしてこうして、延滞金には気をつける。そういうことを助けてくれたのは桐山さんだった。城戸さんは古い映画が好きだった。ご本人から教えてもらったんじゃないけど。
「あ、」荒船くん。
目的の棚の近くに荒船くんがいた。思わず声を出してしまって、顔をあげた荒船くんは目を丸くした。
「っす……」
「帽子ないよ」
「……今のは前髪を触っただけなんで。先輩ひとりですか? こんなとこ来るんすね」
「うん。すごく好きな映画があるんだけど、配信してなくて。ここならあるよって、ゆりちゃんに教えてもらったの。だからたまに。荒船くんはよく来るの?」
「……これから来るようにします。今日はよくしゃべりますね」
――すきだよ。だからきらい。
――俺は、……。……こんなところで言うことじゃないんで、今日はこれで。
荒船くんと話すのはあの日以来だ。荒船くんと話すとわたしだけが空回りしていて、なにも思い通りにならないような気がしてくる。みんなそんなもんだよって、なぐさめてくれたのは迅だった。
「この映画なんだけど荒船くんも見たことある?」
「あー……これっすか。ストーリーは知ってます」
「一緒に見る?」
「え、……もしかして今からですか?」
「うん」
今日はポップコーンを買わなかった。かわりにコンビニでスプライトを買った。
「……いつも、こうやって家に誘うんですか?」
リモコンの再生ボタンを押そうと思ったら、荒船くんに手首を掴まれた。
「違うよ。わたしは誘うんじゃなくて、誘われるの」
「……」
荒船くんは掴んでいた手を離した。手首がすっと冷える。首筋がむずむずする。
「この間の続き、」
「え、……いや。ききたくない」
「俺もすきですよ」
「ききたくないってば」
「でもきらいです。俺から逃げようとするから。あんたは俺からも、現実からも逃げてる。そのくせ行き場がなくて、迷子のガキみてえな顔してる」
「だって、ずっと、どんなふうに生きていけばいいのかわからなくて、ここのひとたちはみんなよくしてくれるけど、わたしにはなにもできないから」
「でもあんたは生きてる。それでいいだろ。スナイパーとしての腕もある」
「……そうなの? 生きてていいの?」
「三門市にいる人間はみんな……まあ、大体はそんな感じっすよ。なくしたものを探してるやつは特に。でもあんたはまだ、守れるもんがあるんじゃないっすか」
「……やっぱりわたし、荒船くんのこときらい」
「……いいぜ、上等だ。惚れさせてやりますよ」
(日々暮らし 聞き流しても 日々壊し)