在りし日の記憶「よおネロ、息災にしてるかよ」
「ぼす!」
「その言い方やめねえか」
声をかけられ、小さなネロは嬉しそうにこちらが潜む木陰まで駆けてくる。
足に勢いよく抱き着いた身体を抱き上げ、覗き込んでブラッドリーは軽く眉をひそめた。
心から安堵した、という表情。不安が色濃く滲んだそれが、妙に引っかかった。
「何かあったか?」
「う……えと」
ブラッドリーにしがみついたネロは、しばらく迷うように眉を下げ口をもぞもぞとさせていたが、やがて、ファーザーが変だ、と呟いた。
「神父が? バルドスが変なのか」
その名に、ネロがくしゃりと顔を歪めた。泣きそうに潤んだ大きな目で必死にブラッドリーを見上げ、バルドス様じゃないのに、と訴えた。
「とつぜん、しらない人がファーザーの服来てファーザーの席にいて、でも皆、昔からあのファーザーだって言うんだ。バルドス様と全然違う顔に、違う体形なのに、皆、俺の方がおかしいこと言ってるって言う……」
「! ……そりゃああんまりよくねえなあ。何か他におかしなことはあるか?」
ブラッドリーの目が細められる。その奥で、深紅が揺らめいた。
ネロは気付かず、うんと、あのね、と一生懸命言葉を探す。
「俺見たんだ、毎晩、一人ずつファーザーの部屋に呼ばれてるの。でも、朝に何してたのって聞いたら、覚えてない奴ばっかりで」
「なるほど」
「こ、今晩、俺が、呼ばれた……」
朝のお祈りの後、ネロ、と笑顔の『ファーザー』に呼ばれた。お休みの祈りをしたあと、部屋に来なさい、と。
怖い、と、小さな身体が震える。
「ぼす、怖い……どうしよう」
お前が縋っている男の方がよほど恐ろしい化け物だぜ。
内心で苦笑しながら、ブラッドリーはじゃあ、と片手でネロの左足首に触れた。
「わ」
手が離れた後に、美しい深紅の結い紐。美しく編みこまれたそれは、護りのブレスレットのように足首に巻き付いていた。
「おまもり、だ」
「おまもり」
「そう。お前に何かありゃ、俺がすぐに駆けつける。絶対だ」
「う、うん……!」
ぎゅ、と再度抱き着いてきた身体を抱き締めてやりながら、吸血鬼の祖とも謳われる男の深紅の瞳が怒りに燃えた。
まったく、いい場所を見つけたものだ。
我ながら頭がいいなと男は笑み崩れた。
適当にそれらしいことを言って、祈りの言葉は本をそのまま読み上げれば良い。
誰も皆、自分が吸血鬼だなどと思わない。
幼く混じりけのない子供の血液は至上の甘露で、しかも毎日一人ずつ飲み散らかしても亡くならないほど沢山の子供がこの教会にはいる。
コンコン。
小さなノックが聞こえて、男はいそいそと立ち上がった。
「どうぞ。おはいり」
今日は、特別な『食事』だ。
ずっと気になっていた、極上の香りを持つ少年。灰青の髪の、ネロ、とか言っただろうか。
今まで狙われなかったのが不思議なくらい、その子供は美味い香りを漂わせていた。
ずっと楽しみにしてきたのだ、一人ずつ飲んできて、一番最後に堪能しようと。
「しつれい、します」
小さな声とともに扉が僅かに開く。
白い寝間着の裾を揺らして、ネロが顔をのぞかせた。
この修道院の唯一面倒なのはこの純白の寝間着だ。血がこぼれると取れないから、わざわざ食事をするのに脱がせなければならない。
シトリンの瞳は、どこか怯えに似た感情で揺れて見える。
おや。
今までの子供達と幾分違う雰囲気に、ほんの少しの違和感。
「おやすみの祈りを捧げてきたかな? ネロ」
「は、はい」
「ん、いい子だ。じゃあこちらへおいで」
両手を差し伸べて、少し力を解放する。子供ならこれだけで即暗示にかかるから楽でたまらない。
と。
「や、やだ」
ネロは、いやいやと首をふって後退った。
「何?」
暗示が効かない?
「どうしたんだい、ネロ。さあ、おいで」
そんなはずはない、と、もう少し力を解放して名前を呼ぶ。大人でも暗示にかかるほどの力だ。
だが。
ネロは蒼白になり、背後の扉に駆け寄った。
「! させぬわ!」
扉は鍵がかかったように開かない。
男はにたりと笑み崩れ、扉に縋りつく小さな身体に手を伸ばす。
「扉が開かないかい?おかしいねえ。さあ、こっちへおいで」
「やっ!ぼ、ぼす……!」
ネロが大きな目に涙を一杯にためて、しゃがみ込みそう叫んだ。
その時だ。
「おう」
第三の声が、不意に男とネロの間に凝った。
「!」
ネロがハッと顔を上げる。
ゾワ。
目の前を擦るように不意に生じた気配に、男は本能的な恐怖で尻もちをついた。
ネロの足首に巻かれた結い紐からぶわりと広がった黒い霧が、逞しい青年の姿を象る。
黒い細身のボトムに、黒地に黒銀で繊細な刺繍が施されたシャツ。
首元にはネクタイもクラヴァットもなく、緩くはだけた胸元にはジェットのネックレス。
シルバーとブラックが美しく入り混じる髪をかき上げて、銀の杭ほどに鋭い瞳がこちらを見下ろしていた。
その姿。
その、ピジョンブラッドの瞳。
下級の自分でも、わからぬはずはない。
いや。
この圧倒的な、息もできぬほどの強大な力を前に、その名を違える者がいるはずはないだろう。
「な、……な、」
「ぼす!」
「⁉」
ネロが、その長い脚にしがみついた。
その光景の異常さに、男は目を瞠る。
つい先刻まで、自分相手におびえていたはずの子供が、何故、『彼』に安堵の表情を見せるのだ?
そんなはずはないのだ、だって、その男は。
「ネロ」
「ん」
視線がそれる。それだけで男の身体を床に縫い留めていた圧迫感は僅かに減った。
ブラッドリーはネロを片腕に軽々と抱き上げる。
それから、何事かをその耳にささやいた。
ネロはこくん、と頷いて小さな両手で自分の耳を塞ぎ、ブラッドリーの首筋に顔をうずめる。
それをどこか愛しそうに見ていたブラッドリーは、改めて男に視線を戻した。
「ひっ」
「せっかく整えた場所をよくも食い散らかしてくれたな? バルドスみてえに都合がいい奴を探すのも骨が折れるんだが」
なあ、どうしてくれる?
囁きは、甘さすら帯びて。
だが、男を震えあがらせるにふさわしい、苛立ちを孕んでいた。
「なぜあなたがっ、た、助け、そんなつもり、……し、」
始祖!
叫びかけた言葉は、もう声帯を震わせることはなく。
その場には、灰と、それから中身を失った寝間着が残されるのみだった。
ブラッドリーが軽くその残骸に視線を落とす。すると、灰に瞬く間に炎にも似た光が広がり、消えていく。
その後には、寝間着すらも残らなかった。
「誰のもんに手ぇ出そうとしたか、気付くのが遅かったな。下級風情が」
「ぼす?」
「ああ、もういいぜ」
腕の中、小さく漏れた声にブラッドリーの声から殺気が消える。
小さな頭にキスを落とせば、涙にぬれたシトリンがブラッドリーを見上げてこわかった、と訴えた。
「ファーザーは?」
「ファーザーじゃなかった。お前の言ったとおりだな。別人で、……そうだな、俺が脅したら逃げていったぜ」
逃げていったぜ、と言いながら視線を窓に走らせれば、窓が音もなく開け放たれた。
ネロはにげた、と言葉を繰り返してから、開け放たれた窓を見て納得したように頷く。
ブラッドリーは苦笑して、さあ、ガキはネンネの時間だぜ、と笑った。
「ゆっくり寝て、明日起きりゃあ、また違うファーザーが来てるだろうさ」