Spicy cigarette 手のひらに収まる長方形の小箱を見つめる男がひとり、馬車に腰掛けて夕暮れ時に佇む。
簡素な作りをしているその箱の上部をぱかりと開けると、中に詰められている商品の匂いが主張を始める。とろみのある甘い香り。まずはそれをひと嗅ぎした後に、慣れた手つきで中身を取り出して口に咥えた。
(久方ぶりに手にしますが、こちらの世界でも嗜好品には変わりなさそうですな)
男が口にしたのは煙草。
買い物中、たまたま目に付いたものだからと、興味本位で何となく手にしたのであった。
共に旅をしている仲間たちはまだ買い出しから帰ってきていないようだ。野営の場にはまだ誰も居ない。
念のために辺りを見回して、それから煙草を覆うように手をかざす。ぼわっと手のひらが一瞬明るくなった後、煙草に火が付いた。
なんとまあ便利な魔法だこと。なんて男は今更ながらに思いつつ煙草をふかしてみる。
いきなり吸うと噎せそうなので肺に入れない。口内で煙を遊ばせると、開封時に匂った甘さがより濃く感じて広がっていく。例えるなら、駄菓子にあるシガレットのそれ。だが癖になりそうな不思議なフレーバー。懐かしさすら感じる。
なるほど、これは苦みではなく風味を楽しむものなのだと煙を吐き出して燻らせた。
そんな中、男はふと過去のことを思い出す。
――そういえば、合コンで女の子……いや今は豚ですな。それを持ち帰った翌朝に、早起きしてから格好付けて煙草を吸っているとよく喜ばれたものです。
「ねえ元康くん、知ってる? 煙草の煙をね――……」
「へえ、そうなんだ」
……? はて、あの時はなんと言われたのでしたかな? 思い出せないのですぞ。あの後言われた通りにしてやって、豚がブヒブヒ騒いでいたような。きっと気のせいですな。
ふう、と息をつく。記憶の中で元康と呼ばれた男は、次に無意識に煙草を咥えなおした唇の感触で現実にかえった。気まずさと一段と甘い風味が口内に広がる。
どうせ久しぶりの喫煙に記憶が引っ張られただけなのだろう、ならもう少しだけ煙を楽しもうと口元に手をやると、後方から声を掛けられた。
「あれっ元康くん、帰ってきてたんだ」
声を掛けてきた相手は、元康へと控えめだが親し気な笑みを向ける。しかしその視線は妙にそわそわとして落ち着かないようだ。視線の先に気が付いた元康はそれ見逃さず、にこりとして声を掛けてきた人物に話しかける。
「お義父さん、おかえりなさいですぞ。これが気になるのですかな?」
「あ、うん。ただいま。いやその、元康くん煙草吸うんだなって」
とんとん、と元康が口を自らの人差し指で指すと、お義父さんと呼ばれた相手は少しだけはにかんで頷く。
元康がお義父さんと呼び親しむ相手の名は、尚文。尚文は元康が口に咥えて遊ぶそれがどうしても珍しく目に映り、注目していたのだ。
「それって美味しいの?」
「気分転換にはなりますかな、おひとついってみますかな?」
この世界のは苦くなくて甘いですぞ、と小箱を差し出すと、尚文はゆるゆると首を横に振る。視線を離せないまま遠慮がちに断りを入れる姿が実にいじらしい。
「うーん、気になるけど止めておくよ」
「賢明ですな。所詮、これは悪い遊びですので」
そういうと元康は自然な仕草で顔を横に逸らし、ふっと煙を吐き出してから煙草を口から離して火を消した。はずだったのだが、タイミングが悪いことに向かい風が煙と尚文を巻き込んでひゅう、と吹き抜けていく。まさか気を遣って煙を吐いたのが仇になるとは。元康は慌てて彼の方に向き直る。
「ッ! 申し訳ございません、お義父さん! 煙が……!」
「わっ、あれ……煙たく……ないね……ふむ、甘いんだ。へえ」
元康の心配をよそに、尚文はこんなもんなのだと周りをふんふん匂って無邪気に興味津々で反応していた。意図せずとも己の吐き出した息に交わるその姿は、あまりにも目に毒で。
その時、不意に元康の胸が高鳴り始める。段々と過去の記憶にひどく重なる既視感。それを今すぐ塗り潰してしまいたい衝動。じくじくと騒ぐ胸の疼きをどうしようか、とても逆らえそうにない。甘い匂いをまとった尚文にどうしても目が釘付けになり、身体が勝手に引き寄せられていく。
馬車に腰掛けていた元康は立ち上がり、自身と馬車で尚文を挟むように真正面へと陣取った。
「……お義父さん」
元康は金髪を揺らしてやや屈み、そっと呼びかける。まだ何が起こるか分かっていない、あどけなさが残る向かいの表情にいけないと思いつつも劣情が勝ってしまう。
煙草をすでに口にしていないはずなのに、甘ったるい唾液が口内に満ちていく。ああ、俺の我儘をお許しください。そんな懺悔めいた思いと一緒に満ちた潤いを飲み干して、それから。
「元康くん? ――んむ」
ちう、と水音を含んで元康の唇が尚文のそれに落とされた。薄く開かれたままの隙間に舌を入れ、まだ舌に残る甘味を無垢なそれにゆっくり擦り付ける。くちくちとわざとらしく音を立てて遊べば、状況を飲み込み始めた尚文の舌が次第に強張りをみせた。
この辺が潮時であろう。元康は名残惜しくも舌を引いて唇を離す。
「――は。ふふっ、いかがですかな。また味わいたい甘さでしょう?」
「うあ?! え、なに……うっ、うう~~――っ!」
尚文は驚きで思わずごくりと唾液を飲み干して喉を通る甘さに、キスをされた事をすぐさま理解をしたようだ。瞬く間に顔が赤く染まっていく。突然の愛情表現にはまだまだ疎く、刺激が強かったのだと見て取れる。その様子を元康は満足げに見つめては、口端に残る甘い雫をペロリと舌なめずりをしていた。
「もうっどうして君はこう、急に……!」
「物欲しそうにされておりましたので、つい。ですぞ」
最大限に照れを見せて叱る尚文に対して、にかりと笑って元康は言い訳をする。物欲しそうに、の言い分は勿論元康の思い込みではあるが。
本当に懲りないよね! そう照れ隠しを言いつつ、尚文は元康から顔を背けた。癖毛の黒髪から覗く首筋が、しっとりと汗をかいていやに赤らんで見える。
ごくり。色を帯びて晒された肌に元康は喉を鳴らすが、ここはあえて目を伏せて堪えた。流石に律せねば。がっつくにはまだ早い。だが、こうとも思うのだ。
先ほど味わっていた煙草よりもとろりと甘く何よりも刺激的で、いつまでも飽きないその味を。
(俺は、何度でも味わいたいのですぞ)
元康はそっと胸の内で呟いた。
――少しばかり思い出しましたぞ。
煙草の煙を相手に吹きかけて、自分のものだと主張するのだとかなんとか。
もう何通りか言われた気がするけども、忘れましたな。
しかし皮肉なものですな、過去の経験に焚きつけられるとは。