ホームワークが終わらない 第二章【僕らは沈まない】
居候先のお姉さんの希望で一家総出で映画を観に行くことになった。映画の内容が僕には少し難しいのではないかとおばさんは危惧していたが、自分達家族だけで出かけるのも僕をのけ者にしているみたいで。それも嫌だったんだろう。
「誰かお友達連れてきてもいいわよ」
そう言われて真っ先に頭に思い浮かんだのは一人だけだった。最近お近づきになれた、興味を惹かれる存在。
「じゃあ、ゼロって子を誘ってみるね」
隣町の映画館は校区外で小学生だけでは行けない。だから保護者付きとはいえ、ゼロと町外に遊びに行けるのはとても嬉しい。
映画を観に行く話が持ち上がったのは日曜日の夕飯時だった。今すぐこの計画をゼロに話したい衝動に駆られる。
ゼロの家に電話しようとすぐさま受話器を取り、意気揚々にプッシュ音を奏でていく。
だけど、もしゼロ以外の家族が電話に出たらたじろいでしまうのは目に見えている。前にいつもの癖で「ゼロくんいますか?」とあだ名で言っちゃったから「そんな子はうちにいません」とガチャンと電話を切られてしまった。
「ちょっと浮かれすぎだよな」
やはり思い留まって受話器を置いた。そうだよ、焦らなくていい。明日学校で話せば済むことなのに。
どうしてこんなにあいつの喜ぶ声が聞きたかったのか。
「ひーくんまだ起きてたの。もう寝る時間よ」
電話機の前で立ちすくんでいた僕をおばさんが咎める。慌てて「おやすみなさい」と返事をし、そそくさと逃げるように二階の自室に入る。その夜は興奮してなかなか寝付けなかった。
次の日の朝も、妙にそわそわする気持ちを抑えきれず、朝食のパンを牛乳で喉の奥まで流し込む。味なんかわからない。腹に入れば何でも同じだった。
「いってきます!」
元気よく挨拶をすると乱暴にスニーカーを履く。ちゃんと履かないと怒られるのはわかっていたが、踵を踏ん付けたまま家を飛び出した。
足は前へ前へとずんずん進む。月曜日の朝は特に、ゼロが学校に着くのが早い。僕はだいたい毎日同じ時刻に教室に入るのだけど、ゼロの方がいつも先に席に着いている。「家にいてもつまらない」と以前ぽつりと話していたのを覚えている。
「家には鉄棒も雲梯もないもんなぁ」
僕の言葉にあっけに取られた顔をしていた。でもその後に、ヒロは面白いこと言うなぁって笑ってくれた。
いつもより早く家を出たから、登校中のゼロに会えるかも知れない。今にも金色に輝いた頭が見えてこないかと夢中で足を速める。居候しているおばさんの家から通っている小学校までは徒歩二十分くらいかかる。
それまでにゼロに追いつけるかが勝負だった。梅雨は過ぎ去り、季節は少しずつ夏の兆しを見せ始めている。
じりじりと照り付ける太陽やカラっと乾いたアスファルトのせいでさらに暑い。額にうっすら汗が滲む頃、お目当ての人物の背中が見えた。
「ゼロ!」
大声で叫んだ後、思い切り駆け出した。愛称を突然呼ばれたからか、驚いた表情でゼロはこちらを振り返る。駆け寄ってくるのが僕だとわかると、途端に頬を緩めた。
「おはようヒロ。今日は早いね」
「お、おはよ……う」
勢い良く全力疾走したせいで息が途切れ途切れになる。ゼロの隣に肩を並べるところまで追い付くと膝をついてしゃがみ込んだ。不思議そうにゼロは尋ねる。
「今日は学校の当番だったのか?」
「ううん、そうじゃなくて」
呼吸が落ち着くまでゼロはじっと待ってくれている。もっと以前の彼なら急かすように、「早く話せよ」とか「だから何」とか煽ってくるような奴だった。
でも仲良くなってからは随分優しくなった気がする。ある意味、認められた友達の特権ってやつなのかもしれない。
「今度の日曜日に、タイタニックを観に行かない?」
不躾に映画のタイトルを言ったのは物知りなゼロのことだから絶対耳にしたことがあると思ったからだ。
全米で空前の大ヒットとなっている豪華客船の悲劇を描いた映画『タイタニック』。この日本でも去年の十二月に公開され、年を越して六月下旬に差し掛かろうとしているのに、未だに大きな映画館では上映されている。宮崎駿監督の『もののけ姫』の記録を破り、恐ろしいほどのロングランとなっていた。
「CMでやってたからだいたいどんな映画かは知ってるけど……。ヒロ大丈夫なのか?」
「何が?」
「タイタニックは本当にあった話で、たくさんの人が死ぬんだぞ。それを見てもヒロは―」
ゼロが言いにくそうにごもごもと口ごもる。初めは彼が何を伝えたいのかわからなかったが、心配しているのだと悟った。一年前に、事故で両親を亡くした僕のことを。ゼロと映画を観に行くことばかり考えていて、実際に映画を鑑賞した時のことなど想像してもいなかった。ゼロは優しい。他人が思うより、ずっとずうっと。
「大丈夫、だと思う」
ゼロがいるなら。一人じゃないし。それは流石に恥ずかしくて言えなかったけど、軽快に笑ってみせた。ホッとしたようにゼロの表情も明るくなる。
「じゃあ決まりだな」
僕が大きく頷くと「映画館初めてなんだよな」とゼロは楽しげに話しながら学校へと再び歩き始めた。
待ちに待った日曜日。パリッと糊の効いたコットンシャツをおばさんが新しく卸してくれたのでそれに着替える。それと淡いベージュのショートパンツを合わせた。
お姉さんも朝から忙しなくタンスから服を引っ張り出してきては、鏡の前でファッションショーを繰り広げている。ヘソ出しのチビっこいTシャツはみっともないとおばさんに止められたみたいだ。おばさんは入念にぱたぱたと粉を叩いてお化粧をしているし、お姉さんの服装の批評もしなくてはならず、手も口もフル稼働だ。
僕も二人に感化されたように落ち着かなくて何度もトイレに行った。慌ただしい家の中で、運転手係のおじさんだけが冷静だった。
家を出る最後の最後までおばさんは、ハンカチは持ったか、酔い止めの薬は飲んだかと執拗に心配していた。普段から無口なおじさんは相変わらずムスっとしたまま車のエンジンをかけた。
落ち着きがないのはこの家の者だけではなかった。
約束の時間より早く、彼の家に車で迎えに行くと、もう既に玄関先でゼロが立っていた。車のサイドガラスを開けてもらい名前を呼ぶとすぐにこちらに気付いて手を振る。それから、おじさんたちにぺこりとお辞儀をした。ゼロはいつもの、少しくたびれた赤いポロシャツを着ていた。
映画館へ向かう道中、僕はゼロの話をたくさんお姉さんにした。
僕らが仲良くなったきっかけ。どうしてゼロと呼んでいるのか。ゼロは頭も良くて喧嘩も強いこと。でもちょっと泣き虫なことまで言ったら絶対怒られるから言わない。
お姉さんはとても聞き上手で「まあ、そうなの」と感嘆した後に絶妙なタイミングで質問をした。どんどん嬉しくなって僕を饒舌にさせる。お姉さんに「ゼロくんはすごいのね」と褒められる度に俯いて顔を赤らめるゼロが可笑しかった。
自慢の友達を褒められるのは気持ちがいい。ゼロがいい子だってことをわかってもらえて自分のことのように嬉しかった。窓から見える景色は全てが真新しく映り、あれは何だろうとゼロとはしゃいだ。
映画館のある付近に車を停めると、おじさんは僕たちを降ろして瞬く間にぶうんとエンジンをふかしてどこかへ行ってしまった。
「おじさんは映画観ないの?」
「数時間後に来てくれることになっているから心配しなくても大丈夫よ、ひーくん」
お姉さんが私達だけで楽しみましょうと言うと、おばさんは「またどうせパチンコに行くんでしょうよ」と鼻で笑う。お父さんにラブもロマンスも似合わないでしょ、と。
映画館に着いてから、売店でコーラを二つ、ポップコーンを一つ買ってもらった。ポップコーンは僕の顔より大きいカップに入っていて、ゼロと半分こだ。
子供料金の映画のチケットをおばさんから渡されると、ゼロはポケットからさっと、四つに折った千円札を出した。おばさんはすぐさまそれに気付き、「だめよ」と首を横に振る。「ちゃんとお金は払います」とゼロはそれでも千円札を差し出したが、
「またゼロくんが大きくなったら何か美味しいものご馳走してちょうだい」
と、おばさんは断じて受け取らなかった。申し訳なさそうに引っ込めた千円札をまた折り畳み、ポケットに戻すと消え入りそうな声で「ありがとうございます」とゼロは言った。
まもなく上映時間となり、僕たちは連れ立って入場した。薄暗い場内に少し不安になりゼロのポロシャツの裾をきゅっと握って歩く。お姉さんがくすくすと笑う。ほんとに、君たち仲良しなのね、と言って。
映画が始まるまで誰もが小声でひそひそと話をしていたのに、真っ暗になった途端、辺りは静寂に包まれる。ごくり。唾を飲み込む音がやけに響いた気がしてちらりと右隣に目をやる。神妙な面持ちで真っ直ぐスクリーンを見つめているゼロが視界に入った。
その横顔がやけに格好良く思えてどきりと胸が跳ねた。僕の視線に気付いたゼロは頭にはてなマークを思い浮かべたような表情でこちらを見る。何でもない振りをしてコーラを一気に飲んだら、炭酸がきつ過ぎてむせてしまった。
三時間を超える長編だったが、エンドロールが流れるまであっという間のように感じた。コミカルなシーンではあちこちでどっと笑いが起きていたのに、たちまち豪華客船 タイタニックが危機に晒されるとたちまちすすり泣く声が聞こえてきた。
隣に座っていたお姉さんもハンカチをぐしゃぐしゃにする程泣いていた。可哀想、あまりにも可哀想だわ。呪文のように繰り返し呟く。愛する恋人が最期海の底へ沈んでいく場面では両手で顔を覆い、おいおいと泣き出した。お姉さんの勢いに圧倒されてしまって僕は涙が引っ込んだ。涙脆いはずのゼロは泣いていなくてびっくりした。
結局ゼロは、ポップコーンは一度も口にしなかった。
予定では映画鑑賞の後、デパートへ買い物に行くはずだったが、泣き過ぎて疲労困憊したお姉さんが「また今度にしよう」と言った。確かに、乙女があんなに腫れぼったい瞼で歩きたくはないだろうなと思う。あれから口数がめっきり減ってしまったゼロのことが気になっていたので僕も同意した。
おばさんが公衆電話からおじさんの携帯電話の番号にコールすると、おじさんは案外早く出た。案の定、後ろでジャンジャカと音楽が鳴っていたみたいだけど、もう少しだけ待っていれば迎えに来てくれるそうだ。
帰りの車の中で、おばさんが気まずそうに「ひーくん映画の内容難しくなかった?」と聞いてきた。大方、予想もしなかった濃厚なラブシーンがあったから、なんてものを子供に見せてしまったのだろうと、内心慌てているに違いない。
馬車の中でのシーン。あれは恥ずかしかった。体を重ねるということは何となくいやらしい意味なんだと分かり始めていたから。でもそんなことより。あの映画は酷く悲しかった。窓の外を眺めたまま、相変わらずゼロは何も喋らない。
ゼロの門限まではまだ時間があるので、僕が家まで歩いて送り届けることになった。さっきからどうしてだんまりを決めているのか。思い切って聞こうとしたけど、どう聞くべきなのかわからない。
「ねぇヒロ」
急にぴたりと足を止めてゼロから声をかけてきた。
「公園に行かないか」
「うん、いいよ」
よく二人で遊んでいる公園に行くと、日没が近いためか人っ子ひとりいなかった。ブランコに腰掛けると、小さくゆらゆらと体を揺らす。
「映画悲しかったね」
今度は僕から話しかけると、うん、とだけゼロは返事をする。悲しいね、と繰り返し呟くと改めて人が死ぬということが怖くなる。
「なんかさ」
ゼロは意を決したように、ブランコから降りた。
「僕は人のために正しいことが出来るのかなって思ったらとても怖くなったんだ」
しゃがみ込んで地面に生えていた雑草をむしりながらゼロが言う。ぷちぷちと千切られた植物の、青っぽい香りがする。さっきまで、生きていた証。
「だって見ただろ。大人でも判断を間違うんだ。自分の命が一番惜しくなるんだよ。大事な人のピンチのとき何も出来ない自分になるんじゃないかって」
弱音を吐く彼の肩は震えていて。元々ある悲しみの奥底にさらなる恐怖を植え付けてしまったようだった。
「僕は怖いんだ。人に優しい自分になりたいのに。もうこれ以上、自分を嫌いになりたくないのに」
ぽろりと、零れ落ちた涙が頬を伝っている。
ああそうか。ゼロは何も喋らなかったんじゃない。喋れなかったんだ。
口にすると泣いてしまいそうだったんだ。
「何もしなくてもいいんじゃない」
「ヒロは……強いな」
「違うよ。何も出来なかったから僕は。両親が亡くなった時だって、ただ泣いているだけだった」
「ごめん」
しまった、という表情をすぐさま浮かべたゼロは充分優しいってこと。この数か月でわかったから僕は悲しくなどなかった。
「いいよ。でも大人になってゼロが困るくらい悪い奴になっていたら叱ってあげる。般若みたいなこわーい顔でね」
「それはやだな」
やっと笑った親友はいつも通りで、これが僕たちのありったけの今の幸せなんだと思う。
人は死んだらどこへ行くかは知らないけど。生きている僕らはこんなにもちっぽけだけど。清く正しくめいっぱい生きてやろう。
「ジャングルジムに登らないか」
恐る恐る二人でてっぺんに立つ。ゼロの後ろに廻り、そっと彼の両手首を掴んだ。
「何するんだよ」
「いいから、目をつむって」
そっと手を重ねて両手を広げさせると、僕の意図がようやくわかったようでゼロがけらけら笑い出す。
「もう目を開けていいよ」
ちょうど夕陽が落ちてきて、眩しいほどのオレンジ色に手も足も染まる。
「僕のジョセフィーン」
ゼロの金髪はあの俳優さんみたいで格好いいね。思わず口に出してしまうと、耳まで真っ赤になった。これが物語の主役たちなら恋人同士の役にあやかってキスをするけど。僕たちは男同士で友達だからそんなことはしない。うん、そんなの変だ。
こっぱずかしくなってどちらからともなく触れていた手を離した。お互いに無言が続く。どうしよう、目も合わせられない。
「面舵いっぱーい!」
沈黙に耐え切れなくてふざけるしかなかった。気まずそうにゼロも僕に続く。
「船長、あそこに何か見えます!氷山かも知れません!」
「すぐに確認しろ」
「イエッサー!」
ヒロゼロ号最強だな、とゼロが楽し気に声を漏らした。
もしゼロが大海原に投げ出されたら僕は迷わずきっと飛び込むだろう。だってゼロは大切な友達だから。
友達だから当然だよな。
ちくり。妙な違和感を感じたけどそれを振り切るように航海に繰り出す。僕らは男の子だから。愛に溺れたりなんてしないんだ。
僕らの船は、絶対に。絶対に沈まない。