七森ゆりと丹羽沙奈藤紫 異界
藤紫は、夢を見なかった。
ひとりぼっちで、ただただ先程と同じ廊下を眺めている。
「どうして……」
背後から聞こえた声に振り返ると、小学校高学年くらいの女の子が5メートルほど先に立っているのが見える。
彼女はひどく困惑した表情を浮かべて、こちらの様子を窺いながら胸元で自分の手をきゅっと握りしめていた。
藤紫はそれを見てすぐに顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。嗚咽に合わせて体を揺らしながら、決してそちらを見ずに「うう」と唸って、たまにしゃくりあげたりする。
しばらくそうしていると、ざり……という地面と靴の擦れる音が聞こえて彼女が駆け寄ってくるのが伝わる。そして背中に小さな手のひらが乗せられた。
「あの……驚かせてしまってごめんなさい」
藤紫は彼女に背中をさすられながら、元は面倒見の良い子だったのかもしれないと思った。そして同時に、警戒心が足りないとも思う。いくら、藤紫が子供の見た目をしていてもだ。
藤紫は顔を覆っていた手を退けて、涙ひとつない目で彼女を見た。
「こちらこそ、騙してごめんね」
「え」
咄嗟に身を引いた彼女の腕を藤紫は"素手"で掴んだ。驚いた彼女が悲鳴をあげて逃げようとするが、藤紫のこの腕力は剣の稽古で鍛えたものであり、小学生の、しかも女の子の力では到底敵うわけもなかった。
そして彼女の手のひらに触れた瞬間、藤紫の意識は記憶の海へと沈み込む。
「幽世だと思っていたけど神域の方が近いのかな」
その呟きに答えられる者はいない。きっと彼女はそんなこと考えて人を隠したりなんてしていないから。
――この子は神隠しを意図的に行なっている。
ただし、幾重にも折り重なった世界は、互いに干渉することはない。例えば、二人で団地を訪れたとしても、もし同じ瞬間に神隠しにあったとしても、彼女が望まない限り同じ世界にいることはできない。
だからこそ、一人だけが消えることもあるし、誰ひとり残らずいなくなってしまうこともあるのだ。
「――七森ゆり」
名前を呼ばれて、暴れていた彼女の力がスッと抜ける。
紙を42回折れば、月まで手が届く――これはもし折ることができるのならだ。
彼女はそんな、簡単そうに見えて有り得ない奇跡を信じるように、隠した人々を夂子さんへ捧げて、その死体の上から失われた親友へと手を伸ばそうとした。
藤紫は彼女の記憶を手繰り寄せ「ああ、こうやるんだ」と納得した声をあげながら、解いたパズルを組み直すように神隠しの再現を行なった。
次の瞬間、床は寄木張りになり、先程までは何もなかったふたりの周りを、整然と並んだ学習机が囲む。
左手奥には造花で縁取られた黒板があり『6年生卒業おめでとう!』と、色とりどりのチョークで書かれていた。
その前に、黒髪を編み込んだ、涼やかな水色のワンピースを着た少女が立っている。
「さなちゃん……!」
彼女は駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。
七森ゆりは堰を切ったように泣きじゃくりながら何度も何度も「ごめんなさい」と、藤紫が記憶から再現した女の子――丹羽沙奈に謝る。
丹羽沙奈は6年生になれなかった。例年より遅くきた大雪の日に、彼女たちが行なった夂子さんの生贄として、行方不明になった。
「ずっと、ずっと、ずっと会いたかった、一緒に卒業しようねって約束したのに、わたし、わたしがやろうって言ったせいだ……!」
オカルトブームに乗っただけだったとしても、七森ゆりが彼女の命を奪ったことに変わりなく。
けれども、ただの記憶の残滓でしかない丹羽沙奈は、困ったように微笑んでいる。そう。いつものように。
丹羽沙奈は友達三人で歩いているときに並んだ二人の後ろを歩くことになるような子供であり、清掃の時間に「ごめん、代わってくれる?」と頼まれて断れない人柄だった。
だからあの日も「じゃあ、さなちゃんが生贄役でいい?」と言われて、ただ眉をさげて微笑むしかなかったのだ。誰も"生贄"の本当の役割なんて知らなくて、ただやり方に書いてあるから、そうした。
夂子さんを呼び出すレシピには必ず生贄が必要だって書いてあったから。
丹羽沙奈はいつもみんなの犠牲になるような子だったから。
――だから死んだ。
彼女の懺悔も後悔も今となっては本物の丹羽沙奈に届くことはない。
藤紫は懐から平野藤四郎を取り出し、まんべんなく霊力を行き渡らせる。
桜吹雪の中から顕現した平野は頷いて、刃をきらめかせた。
「ええ。せめて、あの世で和解できますよう」
平野藤四郎の刃が七森ゆりを斬ると、ひらひらと桜の舞う中で、陽炎のようにゆらめいて消えた。
丹羽沙奈は七森ゆりをゆるさないかもしれない。そもそも、会えないかもしれない。あの世で偶然会えるほど世界は優しいわけではない。
けれど、すべてにおいて可能性はあった。
あの世ではきっと彼女の祈りも月へ届くだろう。