「魈。お願い!」
ぱんっ、と乾いた音を立てて手の合わさった音が部屋に響く。旅人は呼び出した夜叉に、金色の頭を深く下げて頼みごとをしていた。
「ただの地面に向けて、我に槍を振るえと? ……下らんな」
召喚に応じた魈は、腕を組むと不機嫌な顔で床を一瞥した。ところどころ不自然に少し盛り上がっている箇所に向けて突進をして欲しい。というのが今回呼び出された理由だった。
困ったことがあれば呼べとは告げたものの、他にいくらでも代わりがいるだろう事情は魈には全く不可解だった。
「うぅ……こいつを上から押したらコインが出るんだって言われても、オイラたちの力じゃびくともしないんだ……お前の馬鹿力で何とかしてくれよ……」
パイモンは旅人の傍からふよふよ離れると、床に向かって何度か尻落としをしてみせた。ぽよんぽよん、と鞠の弾むような間抜けな音がするだけで、コインが出る気配はない。
魈は溜め息を吐いた。ここに居るだけ時間の無駄だ。一刻も早く立ち去りたい気持ちだった。
「かような児戯。やりたい者だけがやれば良い。いくらお前の頼みでも、こればかりは付き合い切れん」
「でも、きっと楽しいよ? 少しやってみるだけでいいから……」
「やらぬ」
眉間に皺を寄せた夜叉は「魈〜……」泣き付く旅人とパイモンを無視して踵を返した。すると目の前に大きな影が立ち塞がって、退路を断たれる。
「なんだ、揉めているのか?」
「……鍾離様」
影の主は、魈にとってかけがえのない恩人だった。……まさか彼も居合わせていたとは。思いもしなかった対面に、魈は背筋を伸ばした。
「聞いてくれよ鍾離〜……。オイラたちがこんなに頼んでるのに、魈のやつちっとも言うこと聞いてくれないんだ! お前からも何か言ってやってくれ!」
「ふむ」
鍾離は顎に手を添えて考え込むような仕草をした。
「これは新米冒険者の鍛錬のために、訓練場の仕掛けに挑戦してみる依頼……だったか?」
「おう! その通りだぜ!」
パイモンの肯定を受けて、石珀の視線が床に注がれる。まるで仕掛けの内容を見定めているような、鋭い眼力だった。やがて鍾離は「なるほど」と呟くと、視線を魈に戻した。
「魈。……いや、金鵬大将。お前の槍術の冴えは皆の手本になるだろう。神域に達したと謳われるその武勇、ここに示してみろ」
「しかし……」
「これも世のため人のため、というものだ。……よもやできないとは言うまいな?」
挑発的な物言いをする鍾離の顔は、彼の岩神時代を思わせる威圧を魈に感じさせた。
「…………御意に」
こうなると、魈は立場を分からされている気がしてどうにも弱い。それどころか、直々に勅を授けられて高揚感さえある。……この方の期待に応えなければ。思いを胸に降魔の儺面と槍を顕現させ、地面を蹴った。
槍を携え踊るように跳ねる魈を、三人は後方から見守っていた。
「ずるいね、先生は。魈があんなに素直に言うことを聞くなんて」
「ははっ。ああ見えて、彼は負けず嫌いで責任感が強いんだ。俺はそれに発破をかけてやっただけに過ぎない」
魈は高く跳んだかと思えば、空中で槍を支柱に軽々と身を翻した。宙に居ながらして、およそ不自由を感じさせない動きだ。そのまま軸にした槍に重力を乗せて地面に激突する。
……凄まじい勢いで地面を割っても、魈本人には傷どころか、塵の一つも付いてない。
そして見ている者たちが瞬きをする間もなく、魈の身体は次の動作へ移っている。まるで狩りを行う鳶のように、極限まで無駄を削ぎ落とした迅速な動きで風を切り続けていた。
「――魈は凄いなぁ。あっちに行ったと思ったら、こっちに跳んで……目が離せない」
鋭い刃のように磨き上げられた見事な身体能力に、旅人は驚嘆せずに居られなかった。
鍾離は腕を組んで、それにうんうんと満足げに頷いてみせる。そして、誇らしげな顔を浮かべて蕩けるように甘い声色でこう語った。
「美しいだろう? 俺の夜叉は」
夜叉に熱い視線を向け続ける鍾離の隙を見て、パイモンは旅人に耳打ちした。
「……なあ。鍾離って、偶にああやって魈のことを自慢してくるよな……?」
「良いんじゃない? 先生、凄く楽しそうだし。おかげで依頼もこなせそうだよ」
「うーん……オイラには、鍾離は依頼よりもただ魈の槍を見たかっただけな気がするぜ……」