EPIPHANY エピファニー
昔から、幽霊が視える。
と言っても、まあ、信じない奴は信じないだろう。
少なからずこの世の中には幽霊が視えたり、声が聞こえたり、匂いを感じたりする人間が存在する。おれもその中の一人だった。
幽霊が視える人間にも色々あって、先天的だったり後天的だったり、あるいは昔は視えていたけど今は視えない、ってこともある。
おれは多分、先天的なものだ。
幼い頃から視えていて、残念ながら今も視え続けている。正直、結構怖い事もあるので、「大人になったら視えなくなった」という人々の言葉を頼りに生きてきたが、三十を過ぎたころから、もう視えなくなることはないな、と諦めている。
面白いことにこの性質は遺伝のようで、兄もおれと同じように幽霊が視えている。父母からは話を聞かないので、おれと兄に共通する遺伝子がそれを視えさせているのかもしれない。
それはともかく。
おれはこの数日、幽霊に困っていた。
今までだって色々と困ったことや怖かったことはあったが、今回は幽霊の様子が普段と違っていて、怖いというより困るといった方が正しかった。
「おはよう、コラさん!」
朝からこれだ。
家から出たら、男が立っていた。背の高い男だ。おれと同じくらいあるデカい男。身長はあるが細身の筋肉質で、黄色いシャツから覗く両腕にイカついタトゥーが入ってる。
こいつは幽霊だ。名前をローと言った。
「今日も仕事か?」
そりゃそうだ平日だからな。とは思うが答えはしない。経験値から言って、幽霊に反応してしまうのはまずい。
「お疲れ」
歩き始めたおれのあとをついて来ながらローは言う。おれは一度も答えたことはないし、この男もおれが視えていることには気づいてないはずだ。
おれが最近困っているのはこいつの存在だった。
三日前、仕事からの帰り道。おれはいつもの通勤路で帰っていた。地縛霊もいない、いい道だ。まあたまに幽霊がいることはあるけれど、無視していれば害はないし、ヤバそうな奴にも会ったことがなかった。そんな道の途中に、男の幽霊がいた。幸いなことにおれは幽霊と人間の区別がつくので、特に気づいてない風に通り過ぎようとした。
そうしたらどうだ、男がついてくる。
顔を覗き込みながらついてくる。
やべえと思った。
やべえタイプの幽霊。
数年に一回くらい遭遇する、呪ってやるってタイプの幽霊。
気づいていないフリをしたまま歩き続け、マジでやばかったら兄に助けを求めよう……と思っていたら、幽霊がぼそっと「コラさん?」と尋ねた。言葉の意味がわからなかったがもちろん聞こえていないフリだ。とにかく気づかれないように早く家に戻ろうとしていると、「コラさんだよな??」と、また声がした。幽霊は歩くおれの周りをぐるぐると纏わり付きながら、何度も顔を覗き込んだ。歩きにくいわ視線で追いそうになるわで大変だったが心を無にして歩き続けると、「コラさんだ!」と幽霊は嬉しそうに叫んでいた。
残念だがコラさんではないんだ。と言いたかったが、それはそれで呪われそうだと思って無視を決め込んだ。
幽霊にしては暗い感じがしない男は、そのままおれの家までついて来た。
一応、家の前に幽霊対策をしていたので家の中に入ってしまえばこっちのもんだ、と思っていたら、その幽霊は平気で部屋の中まで入って来た。
マジかよ、と思ったが、気取られてはいけない。穏便にお帰りいただくにはどうしたらいいものか。やっぱり兄に相談か。
なんてことを思っていたら幽霊は部屋を物色しはじめた。あっちこっち見て回って、掃除が出来てないとかブツブツ言ってた。おれの行動を逐一見てて、ちょっとつまづいたら、「相変わらずだな、気をつけてくれよ」とかいうし、何度目かには転びかけたおれを抱き止めようとしてきた。もちろん幽霊なので触れないし無駄に終わっていたけれど。
飯を食おうとしたら、栄養バランスがなんとか文句も言われた。流石に言い返したくなったが、我慢した。
風呂場にもついて来たときにはもう視えているのをバレてもいいから、ついてくるなと言おうと思ったが、めちゃくちゃ耐えたのは褒めて欲しい。ここは大衆浴場だと自分に言い聞かせたのが功を奏したのかもしれない。
髪を洗って顔を上げたら鏡に幽霊が──なんて、ホラーじゃ良くある話だが、その幽霊は別に鏡に映ったりしなかった。ただ、後ろにいるような、そんな気配だけがひっそりとあった。
そんなこんなで幽霊はひとしきりおれに付き纏った。流石にこのままだったらお祓いに行くか、と考えていると、本当にいつの間にか、幽霊は消えていた。消えたのはほんの一瞬の出来事だった。ついさっきまで近くにいたのに、スッと消えてしまった。まあ幽霊だし、そんなこともあるだろう、と思ったが、流石に怖くてその日は早く寝た。
朝起きても幽霊はいなかった。よかったよかった。満足して消えたんだろうか、と思って通勤路を歩いていたら、男はやっぱりいた。
「コラさん!」
と、嬉しそうに駆け寄って来た。成仏じゃなかった……と思いながら無視していると、男は「あ、おれのことわかんないかもな?ローだ。トラファルガー・D・ワーテル・ロー」と、自己紹介してきた。おれは視えてないし聞こえてないフリを続けていたので、まさか視えているのがバレたと内心焦った。が、
「まあ、わかんねえよな」
と、寂しげな声が聞こえたので多分バレてはいない。
ということでおれは幽霊の名前がローだと知った。ローは朝からおれの後をついて来て、仕事場まできっちりついて来た。
「へえ、帽子屋か、面白いことしてんな」
なんて言いながら、やっぱり仕事場も隅々までチェックして、こんなんじゃ客来ねえぞ、と文句を言っていた。
まあ、この店は半分道楽だから客が来なくても問題はないのだが、このローという男はどうやら真剣に店の切り盛りを考えているようで、ディスプレイや在庫を見ては悩んでいた。
変な幽霊もいたもんだ。
今の所、付き纏われている以外に害は無いので、とりあえず放っておけばいいか、と思っていたら幽霊はまた消えていた。
ずっと幽霊のことを気にして見ているわけじゃないから、いつ消えたのかはよくわからない。幽霊が消えるトリガーさえわかれば対策ができる。何らかの要因があるのではないか、と、しばらく考えていたが、理由まではわからなかった。
「あ、コラさん。昼の時間だ」
で、気づいたらまた店の中にいた。
さっきまでいなかったのに、いつ戻ってきたのか。どこかに行っていたのか、それとも姿を消したり現したりできる幽霊なのかもしれないが、おれはとにかくうっかりその声に反応してしまわないように、声に気づいて時計を見かけたのに気づかれないように首を回してストレッチをしてみた。幽霊は自分の声に反応したとは思わなかったはずだ。
おれは幽霊の声も姿もはっきりみえてしまう。ただ、直感的にそれが幽霊か人間、どちらのものかがわかる。
「だから今まで危険をなんとか避けてこれてるんだ」というのは兄の言葉だ。
兄はおれと違って幽霊と人間の区別がつかないらしい。もちろん見た目がヤバい幽霊はわかるらしいが、多分ローみたいなのは気付けない。おかげでサングラスが手放せないと言っていた。(サングラス越しだと幽霊が見えにくくなるらしい。おれも試しだけどおれにはあんまり効果はなかった)
ただ兄の方がおれより色々知っている。同じように世界が見えている相手がいるのは心強い。
おれはいまいま気づいたというように顔を上げて時計を見た。十二時を少しまわったあたり。どうせ客も来ないだろう、と、店のドアにかかっている看板をcloseにして外に出た。
ローは外にもついてきた。おれがドジをするたびに「しっかりしてくれよ」というし、ぶつけたところをさすってこようとする。(まあ全部すり抜けてしまうが)
自分が幽霊だということはわかっているようで、「おれが助けてやれないんだから」みたいなことも言う。ちょっとした時にいなくなったと思ったらいつの間にかまた戻ってきているし。神出鬼没な幽霊だった。
幽霊が消えている間におれが場所を変えると、またどこかからやってきて、幽霊なのに息を切らしたみたいに焦った感じで「探したぞ」なんていう。これでこの幽霊の目的が呪いとかじゃなさそうなのがまた不思議だ。こんなに何かに執着する幽霊で、ここまでカラッとした感じのやつは見たことがない。執着を持つ幽霊は、地縛霊とか悪霊になりやすいし。
結局その日、家に帰っても幽霊はついてきた。
おれがドアを通る時には必ず「ぶつけるなよ」と声をかけてくるし、料理をしようとすれば「気を付けろよ」と言ってくるし。口うるさい母親みたいだ。
でも気づいたら消えてて、気づいたら朝になってた。
そうして三日目。部屋にいなかったから油断していたが、外に出たらすぐにいた。おれが歩いている最中、幽霊は他愛のない話を振ってくる。と言っても幽霊も一方通行だということはわかっているらしい。ただ、話しかけてくる時に、
「コラさんコラさん」
と、おれじゃない人を呼んでいる。一体誰と勘違いしているんだか。人違いとはいえ、すごい執着だ。
まあでも三日目ともなると慣れてきて、もうほとんど気にしないでいられた。おれはこの三日で幽霊は空を飛んだりしないことがちゃんとわかったし(どこに行くにも歩いてついてくる)、ローがなかなかの男前だということもわかった(視線を合わせないようにしていたのでまだはっきり見てはいないが、それでも整っていることはわかるくらいの顔立ちだった)
しかしこのままストーカーされるのも困るので本気でそろそろお祓いを考えはじめていた。
たまにおれの方を振り返りながら前を歩くローは、他の人を避けることをしない。それだけで、年季の入った幽霊だということがわかる。若い(?)幽霊は、普通に歩くし人を避けるしドアも開けようとする。けれどローはそれをしない。長い間彷徨っていたのだろう。年季の入った幽霊を消すのは大変だ。それだけどこかに未練があったりしたわけだから。
歩道が赤になる。
おれは足を止めたが、ローは前を歩いている。
「あ、おい赤信号───」
思わず声が出た。次の瞬間、ローが驚いたように振り返って、車がローをすり抜けた。
やべ、と思ったが、差し出しかけた手が下ろせなかった。ローがびっくりした顔のまま近づいてきたからだ。そりゃそうだ。誰もいない交差点で声をかけてしまったんだから。ドジにも程がある。いまの今まで気をつけていたのに!
「コラさん?」
一瞬だけ見えたという体にしてこのまま気づかないふりをしようかとも思った。正直、それをしてしまってもよかった。だけどローが、整った顔をくしゃくしゃにして泣きそうな顔をするもんだから、おれは口を半分開けたまま、差し出しかけた手を空中に散らした。
「いまおれに?おれに話しかけたのか?」
幽霊はおれの周りをぐるぐると回りながら、顔を覗き込んできた。
「気のせいか?一瞬波長があったとか?今もみえてんのか?もうみえてない?」
目の前で手を振りながらじっと覗き込まれて目が合った。やっぱり悪い幽霊には見えない。そんな理由で気を許すのは良くないことだとわかっていたが、これ以上見えていないふりをするのも苦しかった。
「……みえてるよ」
ため息をついて両手を上げる。降参のポーズをすると、ローは驚きすぎて声も出ないようだった。しばし固まるローをよそに、信号が青に変わった。
「とりあえず、仕事場行っていい?色々誤解も解きてえし」
◇
普段なら、(どうせすぐ入ってくる客なんていないし)と、店に着いた途端、扉にかけてある看板をOpenにするが、今日はしない。
鍵を開けて、Closeのまま中に入る。おれがドアを開けてやると、ローは眉を上げて驚いたような顔をしながらも入ってきた。まあそうか、気づかないふりをしていた時は開けて待ってやるなんてことしなかったし。いつもの元気はどこへやら、恥ずかしがっているような、落ち着かないような表情でいる。まじまじ見たのは初めてだったが、やっぱり整った顔をしている。目つきは悪いけどイケメンってこう言うことを言うんだろうな。なんて思いながら、店の奥に入っていく。ごちゃごちゃした在庫の箱の隙間を抜けて、おれが普段パソコンで作業している机の前で止まる。
「そこ座っていいぞ」
「座れねえよ」
「あ、そうか」
幽霊があまりにも幽霊っぽくないので、椅子を勧めてしまったがそういえばそうだった。
まあ幽霊とこんなに話をするのも生まれて初めてのことだ。そもそも対話が可能な幽霊なんて存在しないものだと思っていたので、おれもこの状況は戸惑っていた。
はぁ、と、思わずため息がでた。せっかく勧めた椅子だが自分で座って幽霊に向き合う。
「コラさん……なんで見えてないフリなんか」
「まてまて、おれはコラさんじゃない」
おれの言葉に、ローはむくれた顔になった。
「いや、コラさんだ」
「人違いだって。おれは……」
「ロシナンテ、だろ」
幽霊は事も無さげに言った。名前を知ってたのか、と思ったが、そりゃ二日も付き纏ってれば名前もわかるか。でもそしたらなんでコラさんなんだ?おれの名前知ってたのに。
「ドンキホーテ・ロシナンテ。マリンコードはなんだったかな……海軍中佐で、ドンキホーテ海賊団に潜入してた」
幽霊はペラペラと話し始めたが、半分も理解できなかった。ぽかんとしたまま聞いていると、半分諦めたみたいな溜息をつかれた。
「ま、わかんねえよな」
その言葉が心外というか悔しいというか。幽霊のことをわかってやろうなんて今まで思ったことなんてなかったが、なぜか馬鹿にされているような気にさえなって、おれは思わずムッとした。
「やっぱ人違いじゃねえの?」
「違わない」
ローはそう言って、ぷい、と横を向いた。
なんとなく思っていたことだったが、この幽霊、見た目の割に少し幼いところがあった。喜怒哀楽がハッキリしてるというか、もしかして見た目よりだいぶ若いかも、というのは思った。幽霊なんてのは人より長く意識があるもんだと思っていたから、もっと老練しているものだと思っていた。まあ幽霊とこんなにコンタクトをとっているのも初めてなので他と比べられはしないが。
「人違いじゃねえなら、コラさんってなんなんだ?」
単純な疑問を口にすると、ローはすごく変な顔をした。驚いてんのか嬉しがってんのか悲しがってんのか、本当によくわからない顔でおれの方を見た。なんだその顔、と、ツッコミを入れようとすると、ローはまた溜息をついた。
「話すと長くなる」
「気になるから話せよ」
「店開けられなくなるぞ」
「いいよ、どうせ客こないし」
おれの言葉に、ローは「なんだそれ」と呆れたみたいに小さく呟いた。
◇
幽霊の話は荒唐無稽な夢物語に聞こえた。
ローはここではない場所から来たという。
ここではない場所というのは、この世界のどこかとかではなくて、おれの知らない世界の話だった。(聞いたら世界の地図から違った)
世界中に海賊がいるらしく、ローもその海賊だという。
その世界には不思議な実があって、それを食べた人間は特殊能力を持つらしい。
世界の歴史とか仕組みとかそういうもんが全然違った。だけど同じところもあって、ロー曰く、『こういう店はたまにあった』とのこと。
色々突っ込みたいところはあったが、最後まで話を聞いて理解できたのは、ローはコラさんと呼ぶおれ(?)に命を助けられたことがあり、そのことに対しての想いが余りにもデカいということだった。
「でもそれはおれじゃないだろ?」
と、おれが疑問を呈すれば、
「魂が同じなんだから同じだろ」
と、言われてしまった。違う世界に居たとしても魂の根っこは同じだとローは言う。まあ幽霊なんてものが視えているおれがそのところをとやかく突っ込んでも仕方ない。
「そんでローはおれをストーカーしてる、と」
「ストーカー?」
「付き纏ってるってこと」
「視えてると思ってなかったんだよ」
そりゃそうだ。おれも視えてはいるが、幽霊に取り憑かれたことなんてないし。だけど目の前の幽霊は取り憑く、というマイナスな言葉が似合わないくらいカラッとしている。
「まさか話までできるなんて」
ローは今までのおれとの会話を噛み締めるように呟く。おれも幽霊と話したのはほとんど初めてだ。幼い頃に幽霊と気付かずに話していたことがあったがあれ以来くらいだ。
「じゃあこうして視えて話もできるってことでストーカーはやめてくんない?」
流石に相手が完全に自分を認識している状態で付き纏い行為はしないだろうと思って提案してみると、秒速で「いやだ」と突っぱねられてしまった。
「幽霊だって無限に時間があるわけじゃない。だからずっとあんたといたい」
ストレートな言葉を発するローに、おれはちょっとドキッとした。いやいや、相手は幽霊だぞ、と、首を振り、返す言葉を探す。
「なんで一緒にいたいんだ?」
ちょっと気になった部分を深掘りしてみる。人違い(?)とはいえ、執着する理由があるのだ。
「コラさんと旅がしたいから」
「旅?」
「おれが生きたことで叶わなかった」
さっきローが話してくれたことを思い出す。たしか、病気で死にかけていたローをコラさんが助けたのだと。
「叶わなかったってなんで」
なんとなく察してはいたが、その部分に関して改めて聞いてみると「そういうとこ、やっぱりコラさんだよな」と、苦い顔をされた。どういう意味なんだ、と、もう一度聞こうとしたところでローが「コラさんはおれを生かすために死んだよ」と、言った。胸がズキっとしたのは、ローの表情が悲痛だったからか、魂が同じものが死んだことへの痛みだったかはわからない。
「だからっておれ?お前の知ってるコラさんじなねえのに」
おれの言葉に、ローの表情はコロコロ変わった。今度は真剣な表情で、座っているおれの前まできたかとおもうと、そのまま腕を伸ばしてきた。ローの腕はずるっとおれの身体を突き抜けた。幽霊が身体をすり抜けた時の嫌な感覚に背筋がゾワつく。ぎゅ、と、心臓のあたりを掴まれた気がした。ぶわっと鳥肌が立って、後退りかけて、座っていた椅子がガタリと鳴った。
ローはすぐに手を引くと、「メスもできねぇ」と、呟いた。
「なにすんだ……メス……?」
幽霊とすれ違うことはたまにある。怨念みたいなのが強かったりする幽霊に触ると、鳥肌が立つことはたまにあったけれど、こんなに『触られた』と思ったのは初めてだった。びっくりしてドキドキしている。ローは虚な目でおれを見て、ふっと視線を外した。
「なん……」
なんだよ、と言いかけたところで、目の前でローが消えた。パッと、それこそ幽霊みたいに。(・・・・・・)
でもおれは知っている。幽霊は姿を現したり消したりできない。幽霊は常にそこにいる。消えるのはそれこそ、完全な消滅だ。宗教的にいうなら、成仏、とか召天ってやつか。
いまの今まで喋っていた相手が消えれば誰だって驚くだろう。おれは思わず店内を見回したが、ローの姿はなかった。
今のでこの世に満足したとか?そんなことがあるのか?
突然静かになった室内で、動揺と共にまだバクバクと鳴る心臓がうるさく聞こえた。
◇
結局それから店は開けなかった。すぐに帰って熱いシャワーを浴びても妙に身体がスッキリしなくて、タバコを何本吸ってもソワソワした気分が抜けなかった。最後に見たローの表情が目に焼き付いている。感情をなくしたような瞳を思い出すたび、におれの胸にもやもやとした感情が現れる。
なんだってんだ、本当に。
考えがまとまらないまま、深酒をして寝て、目が覚めると、ベッドの前にローが立っていた。
「!」
人間、驚きすぎると声が出ない。思わず息を呑んだ。おはよう、と、のうのうと言うローに、おれの口から出たのは「びっ……くりした……」という寝起きの情けない声だった。
「お、おまえ、消えたんじゃ」
「消えた?」
「え?ずっといた?」
「いや……?」
「おれにもよくわかんねえけど、たまに意識が飛ぶんだ」
「幽霊なのに?」
「そういう感覚がするってだけ」
「幽霊なのに??」
「他の幽霊がどうだか知らねえけど、消えてんのか?おれ」
「おれの前からは消えてる……」
ローはたまに意識をなくすという。その瞬間おれの前から消えるらしい。幽霊ってそうなの?と、おれが尋ねても、「他の幽霊とは話したことがないから知らねえ」と言う。
おれも幽霊には関わってこないようにしていたので人のことを言えないが、もうちょい関わりを持てばいいのに、なんてことを思った。だけど確かにおれの知る幽霊は大抵一人だ。つるんでるやつなんて見たことがない。
寝ぼけと混乱が混ざった頭をスッキリさせようと、ベッドから抜け出してテーブルに置いたタバコをとったところで、ふと気がつく。
「ローってタバコ平気?」
「幽霊に遠慮すんなよ」
「や、そういうんじゃなく……」
魔除けみたいな気持ちで始めた喫煙で、そこそこ効果があると思っていたのに、この幽霊はおれがどこで吸っていようが周りをうろついていた。ということはつまりタバコじゃ幽霊除けにならないということだ。ローがイレギュラーの可能性もあるが肺を黒く染めてきた意味を考えるとちょっと悔しい。
ベランダに出ると、ローもついてきた。消えたと思うと現れるし、ついてくるし。幽霊に対して「心配した」というのはおかしいとは思うが、昨日突然消えたことに対して湧いた感情で一番近いのがそれだった。
タバコに火をつけながら、ふと、兄から昔言われた言葉を思い出した。
『視えてることを悟られるなよ。おまえは優しすぎるから、悟られたら憑かれるぞ』
確かに今そんな状況だが、視えないフリをしていたところで付き纏われていたのだからどちらにせよ仕方なかったのではないだろうか。
やっぱりあの時話しかけたのが悪かったな、と、反省しながら、隣にきたローに向かってタバコの煙を吹きかけてみた。当たり前のように実体のない身体をすり抜けて、煙が霧散していく。
他の幽霊なら煙を嫌がって離れて行ったりするのに、ローは妙に嬉しそうな表情をしている。
「なにその顔」
「お誘いか?」
「おさそい?」
「なんだ、知っててやったんじゃねえのか」
「なに?なんの話?」
ローの言っていることの意味がわからず首を捻っていると、ローはつまらなさそうに遠くを見た。
「調べてみろよ、『今』はなんでもすぐにわかるからな」
そう言いながら、ローはスマホを操作するようなジェスチャーをした。違う世界から来たというのに、随分と慣れている。
「ローはこの世界に来て長いのか?」
単純な疑問だった。いつからローがここにいて幽霊をしているか気になった。
「さぁ……?おれも『気付いたらここにいた』って感じだからかな」
「そっか」
それ以上聞くのはやめておこう、と思ったら、ローはム、と唇を曲げていた。何が気に召さなかったのか分からなかったが、あんまり怖くないな、とも思った。
◇
幽霊に付き纏われている。
ここのところしばらく、いや、もう一ヵ月近く。
たまに消えたりもするが、視えている間はおれのそばにいる。
なにが楽しくて付き纏っているのかはわからないが、家と店との往復と、たまの買い物しか行動範囲がないおれの近くにずっといる。
おれはこれまで幽霊と積極的に関わったことがなかった。怖いものだと思っていたし、気付かないようにしていたし。それなのに何故か付き纏われているのを許している。ローの見た目とか性格もあるかもしれない。もしこれがグロテスクな幽霊とか、怨念を吐き続ける幽霊だったらすぐにでも除霊を頼んでいたところだ。
まあおれもこんなに幽霊と関わる機会がないから、面白がってしまっている部分もある。
そもそもローの話が面白い。
幽霊の妄想だったとしても、こことは違う世界の色んな話は小説や漫画を読んでいるみたいな気持ちになる。ローは自分が誰と出会って、どんな経験をして、どうしていたか、というのを話してくれる。最初こそなんでおれに、と思ったが、ローは多分、『コラさん』に話しているつもりなんだろう。おれはコラさんじゃないって何回も言ったけど、毎回『魂がおなじだからいいんだ』と、ローは言っていた。
それに、ローの生態?も面白い。幽霊の生態なんておかしな話だが、関わってこなかった分、初めて知ることばかりだ。
ローは幽霊なので物をすり抜ける。椅子には座れないが地面に座ったりすることはできるらしい。本当はやろうと思えば椅子にも座れるそうだが、『ハキ』を流してる感じで体力を持っていかれるらしい。幽霊の体力ってなんなんだ?という疑問はいまだに解けないが、ロー曰く、そういった『判定』が色々あるらしい。確かに、幽霊が全てをすり抜けてしまうなら幽霊は地面に立ってもいられないはずだからそれはわかる。座ることができるなら、人間に触れるんじゃないかと思ったけれど、生きてるものには触れないとか、モノは持てないとか、そういう細かいことが色々あるらしい。幽霊のイメージで、浮いたり飛んでいたりするものがあるが、ローは飛んだりしない。『能力なしに飛べるわけねえだろ』と言っていたので、なんらかの能力があれば飛べたということだろうか。
あと、ローはたまに消える。話していてもフッと目の前から消えて、数時間したら戻ってくる。消えた場所に戻ってくるわけではなく、なぜか大体同じ場所に戻るらしい。場所を聞いたら近所だったので、ローってそこで死んだんじゃないか?と、聞いたらデリカシーがないと怒られた。
「風呂場まで入ってくる幽霊にデリカシーを説かれるとは思ってなかった」
と、言えば、
「あの時は視えてないと思って」
と、言い訳をされた。だけどあの日、凝視どころか身体の傷を一つ一つ確認されるレベルで見られていたのでデリカシーの件についてはお互い様ということで落ち着いた。
ローがおれの周りをうろうろし始めてから、ちょっとだけ生活が変わった。
流石に外では話さないが、家の中とか、店で話す相手がいるのはそこそこ退屈せずに済むし、ローがあんまり口うるさいのでタバコの本数だったり部屋の片付けだったり食事だったりがちょっとだけ改善された。
店に置く帽子とか、ディスプレイに関しても意見を貰ったりして。
幽霊と関わって悪くないと思ってしまう自分がいることが不思議だった。
「幽霊なんて一生関わりたくねえと思ってたのに」
「なんでだ?」
「なんでだろうな、兄の影響かもな」
おれが兄の話を出すたびにローはとんでもなく苦虫を噛み潰したような顔をする。ローの昔話で、禍根があるのは聞いていたが、その顔がちょっと面白くてわざと話を出してしまうこともある。
「じゃあおれはその影響に勝った、ってことか?」
どうにも兄に対抗したいらしいローが、眉間に皺を寄せに寄せて聞いてきた。
「そうかもな?」
と、答えると、勝ち誇ったように二マリと笑った。
「悪い顔してんな」
「海賊なもんで」
このやりとりはもうお決まりみたいなものだった。
◇
「なーコラさん、欲しいもんがあるんだけど」
おれがすっかりコラさんと呼ばれるのを受け入れてしまっているのをいいことに、ローはその名でおれを呼ぶ。呼ばれるたびに胸のあたりをざらざらしたもので撫でられている感覚があるのは、ローがいう『魂』というものが反応しているからだろうか。それともおれなのにおれじゃない人を呼ぶローに対しての複雑な気持ちからだろうか、なんだかわからなくなってきた。
「欲しいもの?」
ざらざらした感覚と同時に、頭に浮かんだのは、幽霊が欲しがるものってなんだろう、という疑問だった。
人間の魂とか肉体とか?と、ホラー映画の内容みたいなことが頭をよぎった後に、「おれのことだったらどうしよう」という考えが浮かんだ。
だってローは「コラさん」のことが好きだから。一番最初に話したときに、確かにローは「コラさん」のことを「大好きな人」だと称した。おれはその気持ちを信頼とが敬愛とかそんな感覚で受け取っていたけれど、付き纏われていて、それだけの感情じゃないということに気付いていた。いくらおれが鈍くたって流石にわかる。
でもローの話を聞く限り、ローがまだ子供の時に「コラさん」はいなくなったらしいから、そんな恋愛的な感情を持つことがあるのか?なんてことを思ったりもしたが、色々拗らせているようだったのでちょっと他人事みたいに考えないようにしていたのだが……。
「コラさん?聞いてたか?」
「あ、聞いてなかった。なにが欲しいって?」
考えているうちに聞き逃していたらしい。
「帽子が欲しいんだよ」
「は?帽子?」
予想外の欲しいものに、考えに急ブレーキがかかった。
「前におれが被ってたヤツ」
「前に?」
ローのいう「前」というのは大抵、ローが生きてた頃の話だ。
「なんでか帽子だけねえんだよな」
そういえば幽霊の服事情なんて考えたことがなかった。ローはいつも同じ格好をしているし、幽霊は服とか変わらないだろうというのは思っていたが。幽霊になった時というのは思い入れのある服とかを着てるんだろうか。死んだ時の服装とかかもしれない。まあこの死んだ時の話というのを聞くのはデリカシーがないと言われるのを学んでいるのでそこは口を噤んだが。
「つったって被れねえだろ……」
ローは帽子を欲しいといったが、普通に帽子を渡したところで、幽霊は被れない。幽霊に渡す方法を探せとでも言われるんだろうか。
「まあそうだけど」
ローもそれはわかっているらしい。
「でも落ち着かねえんだよな……」
いつも被っていたらしい。確かに帽子があることに慣れていると、帽子がないことを気にする人も多い。
「この店のじゃダメなのか?」
半分道楽でやっているが、品揃えはそこそこある。キャップにハットにベレー帽。
ボーラーハットにカウボーイハット、キャスケットにニット帽だって置いてある。
「似たのがねえんだ」
ローがわざとらしい溜息をついて、店内を見回した。
「仕方ねぇな……どんなのなんだ?」
海賊だったというし、トリコーンみたいな帽子だろうか。海賊の勝手なイメージで、羽根なんか刺してありそうだ。そんなのカタログにあったかな……と、そんなことを考えつついつも使っているカタログ雑誌を探していると、ローが急に静かになった。またどこかに消えたのか?と振り返ると、眉間に皺を寄せたローがいた。
「どうした?」
「なんかコラさんが心配になった」
「は?なんでだよ」
「優しすぎねえか?」
「なにが?」
今の一連の流れに優しいと言われる部分があっただろうか思い返していると、ローはまた眉間の皺を深くした。
「知らねえ幽霊の欲しいもんなんて用意しねえだろ」
「ローはもう知ってる幽霊だし、命が欲しいって言われてるわけでもねえし……」
本当に用意できるかはわからないし、と、続けると、ローは変な表情でくしゃっと笑った。
「なんだその顔」
「なんでもねぇよ」
そう言いつつ、ローの眉間にはまだ皺がよっていた。それが気になって手を伸ばしたが、まあ幽霊だ、やっぱりすり抜けてしまった。前にローから触られた時は幽霊特有の?ゾワっとする感覚があったけれど、あれはローがハキとやらを使おうとするとああなるらしい。つまりおれから何かしても、するっと通り抜けるだけだ。
「うーん、やっぱむりか」
「なんだよ」
「皺を伸ばしてやろうかと」
「元からこんなだ」
「そうか?笑ってた方が……」
かわいい、と言いかけて、言葉につまった。かわいい?幽霊が?男だぞ?子供でもない。胸の中の違和感が、いつものざらつきではなく、ぐっと詰まったような、心臓を急に握られたような風になって、はっと短く息を吐いた。
ほんの一瞬、ロー見透かしたような顔でおれを見たが、ふ、と表情を緩めて「これでいいか?」困ったような顔で軽く笑った。そういう笑顔じゃないんだけどな、とは思ったが難しい顔をしているよりはまだマシだった。
「まあ、さっきよりは……で、どんな帽子が欲しいんだ?」
ローの欲しい帽子はカタログに載っていなかった。最終的にローの言う通りに絵を描いて、見つけることになった。言われるままに描いたのに、「あんまり上手くないな」なんて笑われたりした。
描きながらずっと思っていたが、ローが欲しいと言った帽子はおれが考えていたものと随分とイメージが違った。白くて、半分ブチがついてて、山高帽みたいだけど、少し毛長がいいらしい。キャスケット型のでもいいという。
「……これ被ってたのか?海賊なのに?」
ちょっとイメージになくて聞くと、ローはむ、と顔を顰めた。
「麦わら帽子被ってるやつだっていた」
「海賊なのに?」
「海賊のイメージが凝り固まりすぎだ」
文句を言うような口ぶりだったが、どこか機嫌が良い気がした。
「まぁ海賊帽が欲しいって言われるよりはマシか……てか、これ、探すけどよ、あったらどうすりゃいいんだ?」
幽霊のローは被れないし、おれが被ったところで似合わなさそうだ。ローの棺桶とかに入れれば被れるようになったりしてな。と、考えが頭をよぎったが、またデリカシーがないと言われそうだったので口をつぐんだ。そうしているうちに、ローは店の中へ歩いて行って、窓辺の一番いい場所に飾ってある帽子を指差した。
「こーやって飾っといてくれよ」
「飾る?なんでまた……」
見ているだけで満足するくらいその帽子が気にいっているのかもしれない。そうだったらまあ、幽霊になってまでその帽子が欲しいのもわかる。そんなに好きな帽子ならなんで被ってないんだろうな、とも思っていると、ローが
「おれがいなくなっても帽子見たら思い出してくれるだろ」
と、淡々と言った。その言葉を二、三度反芻してようやく出た言葉が
「いなくなるのか?」
という一言だった。
「まぁ、いつ消えるかわからねえからな」
確かに、相手は幽霊だ。いまだって突然消えたりしているが、ずっとおれに付き纏っているのが当たり前になっていて、まさか本人からそんな言葉が出るとは思っていなかった。
「…………」
ローがいなくなった時のことを考える。前の生活に戻るだけだ。それでも少し寂しいような気がしてしまうのは関わりを持ってしまったせいだ。だけど『いなくなるな』なんて、幽霊相手に言えない。
そもそも幽霊の正しい在り方がわからない。死後に天に還るとか、成仏とか、宗教によっちゃいろいろあるかもしれないけれど、魂だけの存在みたいな、それでこそローみたいな幽霊たちは、何かがあって留まっているはずだ。留まる霊が悪い奴らばかりだというわけではないとはローでわかったけれど、じゃあなんでローは留まっているのか。
そんなことをぼうっと考えていると、
「帽子は店に置いといてくれ。そうだな……目立つとこがいい」
と、ローは店の入り口あたりを指差した。