ミッドナイトロマンス 火曜 27:00
《火曜の深夜、二十七時になりました。
一日の終わりの方も、これからの方も。
音楽とお便りで過ごす一時間───
『ミッドナイト・トレイル』
今夜も始まります》
ラジオから流れてくる聞き馴染んだアバンの声に癒やされつつ、目を通していた論文を机に置いた。なんとなく予感がして、胸ポケットからPHSを取り出すと、案の定、けたたましい音が鳴り始めた。溜息をついて電話にでる。
「はい、トラファルガーです」
「トラファルガー先生。すみません。救急搬送の要請が入りました」
「はい。どんな患者さんですか」
「六十代男性です。自宅で倒れていたとのこと。意識レベル低下。頭部外傷の疑いがあります。血圧が低下していてSpO2は92%。あと十分ほどで到着予定です」
「わかりました。すぐに向かいます」
「お願いします。ストレッチャー準備しておきます」
救急外来の看護師からの電話に、ゆったりとしていた気持ちが引きしまる。
(今日はお預けだな)
置いていた聴診器をひっつかんで、椅子から立ち上がる。ラジオを消そうと、手を伸ばしたところで、手が止まる。
《良い音楽は流したくなるものです。
本日の一曲目は Earth,Wind&Fire で“September”》
イントロと供に流れてくる声を聞き、歌詞が始まる直前でラジオを消した。なんで今の時期にSeptember(9月)なんだろうと思いつつ、当直室を出ると、頭の中にはしっかり曲が残ってしまって、そんな自分を笑いつつも救急外来へ走った。
◇
トラファルガー・ロー。二十六歳。職業・医者。病院勤務の若きホープであるが、このところ急患続きで疲れ気味である。普段から濃い目の下のくまが一層濃くなっているというのは年上の後輩の談だ。
言うほど見た目に変わりはないだろう、と、たまに鏡を見て思うが、疲れていることは確かである。そのローの疲れを癒やすのが、火曜の深夜ラジオだった。
『ミッドナイト・トレイル』というラジオ番組はローがまだ学生の頃から続いている長寿番組だ。番組の内容としては、コラソンという名前のパーソナリティが、人生相談に近いお便りを読みながら、音楽を流していくだけの番組だ。
ローがその番組を聞き始めたのはかなり昔のことである。まだ学生の頃、深夜の勉強の息抜きに、と、父から譲り受けた古いラジオで聞き始めたのがきっかけだった。勉強の供に聞いていた頃はもう少し早い時間の番組だったはずだ。ラジオは休憩の少しの時間にかけるだけだったが、その中でもこの番組は、『なんとなく癒やされる』番組だった。パーソナリティのコラソンは低く落ち着いた声で話すし、かける音楽も懐メロや洋楽が多めの番組で、パーソナリティが何人もいたり、ゲストが来て、騒がしく話したりしないのが良かったのかもしれない。
とはいえ、ローは大して芸能に興味がなく、テレビ番組もほとんど見ないような人間だったので、ハマって聞くようなことはなかった。聞いていて好きだが、詳しく調べようとは思わない。たまにつけたときに、聞こえてくると嬉しくなる。そんな距離感で付き合ってきていた。
しかし今ではいっぱしのリスナーである。 ローがその番組を進んで聞くようになったのは、彼が研修医になる少し前のことだ。
◇
《火曜の深夜、二十七時になりました。
一日の終わりの方も、これからの方も。
音楽とお便りで過ごす一時間───
『ミッドナイト・トレイル』
今夜も始まります》
眠れないまま、目を閉じて机に伏せて何時間経つだろうか。ローは人生で最も忙しい時期を過ごしていた。国家試験と卒業試験を間近に控えているだけでなく、立て続けに不幸がのし掛かったのだ。それまで支えてくれていた家族が、事故に遭った。交通事故だ。両親は亡くなり、葬式を出したばかりだ。溺愛していた妹も、事故のせいで意識が戻らない。突然のことで頭がついていかないのに、手続きに次ぐ手続きを一人でやらなければいけなかった。寝る暇もない。むしろ寝れない。どんどんクマが酷くなる顔を見て、周囲の人間は「今は休んで来年の国家試験を受ければいいじゃないか」などと言ってきたが、ローは一刻も早く医者になりたかった。たった一人の家族になった妹を助けるためにも、一年も休んでいる余裕はない。
疲れ切った身体は休息を求めていたが、どうしても眠れず、ローは父の形見となったラジオをつけてじっと耳を傾けていた。
《では次のお便りです。
ラジオネーム”モヤモヤさん”から。
『最近、立て続けに不幸な出来事が起こります。仕事で大きなミスをしてしまい、会社に迷惑をかけてしまいました。その直後には、長年連れ添ったペットが亡くなりました。更に追い打ちをかけるように大事にしていた趣味の道具が壊れてしまい……なんだか自分だけに不幸が集中しているように感じて、何をする気力も起きません。どうしたらこの負の連鎖から抜け出せるのでしょうか』
うーん、お便りありがとうございます。仕事の失敗、ペットとの別れ、大切にしていたものの破損……一つでも辛いのにそれが立て続けに起こったとなると、本当にしんどいでしょう。自分だけに不幸が集中している様に感じるのも、無理はありません。
ぼくも昔からそそっかしくて、まあ、ひどいドジ野郎でして。階段から落ちて捻挫をしたり、熱いコーヒーを盛大にぶちまけて火傷するなんて日常茶飯事です。この前なんてスタジオでマイクのコードに足を引っかけてそのまま壁に頭をぶつけてたんこぶを作りましたからね、ははは……
でもね、ぼくはいつも思うんです。どんなに転んでも、ぶつかっても、結局、怪我をするのは自分だけなんです。ドジで迷惑をかけることはあっても、そのドジが誰かの人生を破壊するような大惨事になったことは幸いにもありません。もちろん、それはぼくの運が良いだけかもしれないし、誰かが失敗をカバーしていてくれたからというのもあるでしょう。でも、それでもぼくは自分の失敗と向き合って、なんとかやってきました。
モヤモヤさんは今、どうしようもない、不運の真っ只中にいると思うんです。。人生には、どうしようもないことや、予期せぬ連鎖が確かにあります。そんなときは無理に前を向かなくてもいいんじゃないかと思ってます。ただ、悲しみを感じて、休んだって良い。
ただ、もし、この状況や負の連鎖を少しでもなんとかしたいと思うのなら、まずは自分の捉え方を変えてみると良いのかもしれません。仕事のミスは次に生かせる教訓。ペットとの別れは、供に過ごした時間の重み。壊れた趣味の道具は、新しい道具との出会い……みたいに。目の前の事実は変えられないけれど、あなたの捉え方だけは自分で選べるんですよ。それが最初の一歩になります。
いま、途方もなく心が沈んで、もうどうしようもないと感じているのなら、焦らなくても良いです。ただ、この曲を聴いてください。あなたの、そしてぼく達、誰もが持つ心の奥底の痛みにそっと寄り添ってくれる一曲です。
R.E.Mで『Everybody Hurts』 》
ローが曲を聴けていられたのは最初だけだった。コラソンの柔らかな語り口調に、張り詰めていた気持ちが緩く解けていくようだった。不思議と胸の中に落ちてくる言葉と、心地良い低音の声。曲がかかる寸前には、瞼はほとんど閉じていた。
そうして気付けば朝だった。
机に伏して寝たせいか、身体はきしんで痛かったが、久々に深く眠れた気がした。それから、寝る寸前に聞いていたラジオのパーソナリティの言葉が、なんとなく心に残っていた。
◇
いままで「なんとなく心地良い」と思って聞いていた声だったが、その声が自分にとって安眠効果があるのだと気付いたローは、近しい声質の人間の歌や動画を探しては聞き、眠れるかどうか試してみたが、結局、あの古いラジオから流れてくる声でないと効果がないという結論に至った。
以来、眠れない火曜の夜は、ラジオの時間になった。
国家試験と卒業試験までは無茶な生活をしていたが、どちらの試験も終わると、だいぶまともな生活に戻っていた。とはいえ、不眠の症状は続いており、深夜まで眠れないことはざらにあった。それでも火曜の深夜になれば眠れるだろうという安心感か、だいぶ気持ちが安定して、そのうちに不眠の症状もなくなった。それでもローは、ラジオだけは聞き続けていた。国家試験にも卒業試験にも受かり、研修医となって不規則な生活が始まっても、聞けるときにはラジオを聞いた。火曜の当直の時にはラジオを持参するほどだった。
『ミッドナイト・トレイル』は長く続く番組だった。このままずっと続いていくだろうという安心感もあったし、聞いていると特定のリスナーはちゃんといて、何度もお便りを送っている人間のラジオネームも覚えた。
ローは一度もお便りを送ったことがなかったし、しばらく聞けないこともあったが、それでも時間が合えば聞くくらいには好きだった。
◇
金曜 24:00
週末の当直は少し嫌いだ。
酔っ払いが多くなる。急性アルコール中毒だとか、転倒して出血しただとか、周りに迷惑をかけた割に本人は酔っているので周りを顧みない人間が多いから。どんな患者にも平等にしているが、立て続けに酔っ払いの相手をすると流石に疲れる。 急性アルコール中毒になった患者と、駅のホームで転んで額から大量出血で運ばれてきた患者を診た後、再びPHSが鳴った。
「トラファルガー先生。新しい患者さんです」
「受け入れですか?」
「いえ、ご自身で来られました。三十代男性です。フェンスで腕を深く切ったようです」
また酔っ払いだろうか、と、頭を過るが、すぐに切り替える。
「バイタルは?」
「血圧120/70。脈拍95。意識はクリアです。今は処置室で圧迫止血をしていますが、結構な量が出ています」
「すぐに向かいます。縫合セットと局所麻酔を準備しておいてください。あと、破傷風の予防接種歴の確認も」
「わかりました」
テキパキと指示を出した後、ローは早足で処置室に向かう。自分が当直の日に外傷患者が来る度に、運が良かったな、と、思ってしまうのは心に秘めて。
「お待たせしました」
処置室のドアをあけると、鉄錆のような血の匂いがした。少なくとも酒の匂いはない。患者は処置室のベッドに横にさせられていたが、大柄なようで、足がかなりはみ出て、どこからか持ってきた椅子まで使われていた。処置カートに置かれた膿盆に、血に染まったガーゼが積まれているのを診て、これは縫合がいるな、と判断する。机にあった手袋をつけ、患者の横に座った。
「ちょっと傷を診ますね」
止血している看護師と位置を変わってもらい、肘の下のガーゼを外すと、ぱっくりと開いた白い傷口が見えた。傷口はすぐに赤く染まって、止血される様子もない。
「これは深いですね……なにで切りました?」
「転んだ時、横にフェンスがあって……」
ローはふとその声に聞き覚えを感じたが、それよりも処置が先だ、と、余計な考えを追いやった。
「少し縫います。麻酔をしますが今まで麻酔でアレルギーがでたことは?」
「ないです」
聞きながら、看護師に目で合図すると、既に準備されていた麻酔用の注射とアルコール綿を差し出された。流石に仕事が早い。
「アルコール消毒のアレルギーは?」
「それもないです」
「わかりました。このまま麻酔します。少しチクッとしますよ」
いつも注射をするときの癖で伝えたが、まあ既に痛いだろう、と、ローは患者の顔をちらりと見た。彫りの深い顔の眉をぎゅっと潜めて目を瞑っている。声に聞き覚えはあったが、顔は知らないな、と思いながら麻酔を終える。
「じゃあ縫っていきますね。気分が悪くなったりしたら言ってください」
「はい」
注射を膿盆に置き、既に用意してあった縫合セットを手に取る。きっと口の達者な医者なら「今日の当直が外科医の私で良かったですね」なんて言うんだろうな、と思いながら無言で縫う。深さはあったが傷口はすっぱりと切れていたし、何十針も縫うような怪我ではなかったので、サクサクと縫っていくと、患者の方から声をかけられた。
「先生、縫うの早いですね」
縫うのが早いとか遅いというのは患者にわかるんだろうか、と不思議に思いつつ、もしや不安にさせたかと裏読みをする。
「傷口が綺麗に切れてましたからね……それに外科医なんで縫うのは得意なんですよ」
結局自分で言う羽目になった。
「それは運が良かった。おれドジなんでよく縫う怪我とかするんですけど、いつも先生に当たれば
いいのに」
その患者の言葉に少し苦笑してしまった。
「……まず怪我をしないでくださいね?」
「あはは、確かにそうだ」
明るい声にちょっと拍子抜けをしている間に縫い終わった。
「はい、終わりです。あとガーゼ貼ってもらって、十日後に抜糸に来てください」
「ああ、ありがとな、先生」
そう言って男はニカッと笑ったが、下手な笑い方だな、と、ローは思った。
◇
火曜 27:45
火曜から水曜にかけての当直を選んだのはラジオのためでもあった。勿論、最初から最後まで全て聞けるような日は殆どない。音楽もかかるので、パーソナリティの声を一言でも聞けたら万々歳なくらいだった。その日もラジオをつけることができたのは、ほとんど終わりがけだった。聞いたことのない洋楽がかかった後、すぐにCMに入った。真夜中のラジオCMは基本的に変わらない。もう覚えてしまったそれを聞いていると、CM開けの短いアバンが入った。
《では、次のお便りを紹介していきましょう────》
ふと、その声を聞いた瞬間に「あ、」と思い出した。この間の週末に外傷でやってきた患者──あの患者に感じた違和感の正体だ。声がよく似ている。こんなに落ち着いた感じの声ではなかったから、雰囲気が違っていたが──。
ローは無意識に机の上のカレンダーをみていた。十日後に再来院するように伝えたが、金曜から数えて十日後の日は日勤で入っていただろうか、と、カレンダーを確認し、自分が日勤で入っていることを確かめて、日勤ならひょっとしたら抜糸に来た時にもう一度逢えるのではないか? などと、考えてから、いやいや、と自省した。一回声が似ているかどうか確かめたい、なんていう興味本意を仕事場に持ちこんでどうする。そういう感情が仕事に影響するんだぞ、と、内心で苦く呟いた。 気付けば、ラジオはまた音楽に変わっていた。
月曜 10:15
「次の方お願いします」
と、看護師が言う。パソコンの画面に回ってきたカルテを見ていると、件の男のカルテだった。自分が書いた内容を見つつ、名前を確認する。
ドンキホーテ・ロシナンテ、三十九歳。そんな歳には見えなかったけどな、などと考えていると、看護師が名前を呼んでいた。
引き戸を開けて入ってきたのはやはりあの男だった。
「こんにちは」
少し間の抜けた声で、戸をくぐりながら入ってきた男に少し驚いたのは、ラジオの声によく似ているからだけではなく、自分より背が高い人間を見たのが久々だったからだ。先日はベッドに寝かされていたので分からなかったが、相当大きい。とはいえ「大きいですね」なんて事は口にしない。ローは目の前の小さな椅子に身体を縮ませてちょこんと座る男に、いつも通りの定型文を聞いた。
「お名前を確認して良いですか」
「ドンキホーテ・ロシナンテです」
落ち着いたトーンだとやっぱりよく似ているなと、考えながらカルテをもう一度見る。
「今日は先日縫った腕の抜糸ですね。左腕……その後どうですか? 傷口が膿んだり痛かったりしてないですか」
「ええ! 先生のおかげです!」
おや、と思って顔を上げると、へへ、と締まりのない笑顔があった。覚えていたのか、と思いつつ、当たり障りのない返事をした。
「じゃあ糸を抜いていきますね。ここに腕を置いてください」
看護師が用意していたアームレストに左腕を置くように指示して、処置用カートから手袋を取った。それをつけている間に看護師が服を捲りあげて、ガーゼも外して、消毒までを行ってくれている。いつもの手順で抜糸用のハサミとピンセットを滅菌パックから出す。
「糸を抜くときちょっと変な感じをするかもしれませんが」
そう言いながらサクサクとハサミで糸を切ってピンセットで抜いていく。予後は良好そうだ。一部だけ盛り上がったりもしていないし、傷跡は余り残らなさそうだ。黙々と作業していると、ロシナンテの上半身が少しだけ動いた。
「ちょっとくすぐったいですね」
「もう少しで終わりますから」
我慢してくださいね、という意味を込めつつ表情を少し見ると、意外とけろっとしていた。
「他の部分も切ったんですか?」
自分が縫った痕だけでなく、他にも怪我をしたような痕が残っている左腕を見ながら尋ねてみると、ロシナンテは「まあ、切ったり抉れたり……」と、口ごもっていた。工場か何かで働いているんだろうかと思いつつも抜糸を終えたローは、塞がった傷口に消毒を行い、ガーゼの着いた医療用テープを貼り付けた。
「はい、これで終わりです。また傷薬を出しておくので、塗っておいてくださいね」
「ありがとうございます」
ロシナンテは捲っていた服を元に戻すと、椅子から立ち上がった。隣に立っている看護師が小さく見える。そのまま荷物を持って出口に向かったロシナンテに、ローは思わず声をかけた。
「あ、お気をつけて」
その声とほぼ同時に、大きな音がして、ロシナンテは戸枠の上に額をぶつけた。結構な音がして、看護師も振り向いたし、扉の外にいた他の患者も顔を上げていた。
「大丈夫ですか?」
近くにいた看護師が駆け寄ったが、ロシナンテは照れたように笑って「あはは、大丈夫です。すいません」と、診療室を出て行った。
嵐のような人、とまでは行かないが、面白い人だったな、と思いつつ、ローは処置内容を記載するためにカルテに向かった。ちら、と見た職業欄には「会社員」と書いてある。まあ、考えすぎか、と、思ったのが最後で、あとの思考は多忙の中に埋もれていった。
◇
火曜 27:25
《次のお便りは常連さん。ド派手なピエロさんからのお便り。いつもありがとうございます。
『この間、部下がヘマをやらかして、私が同期から詰められました。部下は私の事を思って行った事だったので強く叱れず……コラソンさんもそういうことないですか?』
ああ……ありますね、善意が空回ってしまったパターン。よくあります。部下の方は自分のためにやってくれたから叱れない……だけどそのせいで自分にとばっちりが……という状況ですね。まあ、ぼくだったら部下の事は叱らないと思います。自分一人で抱えちゃうかもしれません。もちろん部下が行ったことが人道的なことじゃなければ叱りますけど、そうじゃなければ甘やかしてしまうかもしれません────
──次はハイウェイ野郎さんから。
『はじめて投稿します。最近トラックの長距離運転手の仕事を始めました。洋楽が好きなのでこのラジオが癒やしになっています。最近聞き始めたのでコラソンさんがよく自分のことをドジだといっていますが、どれくらいのドジなんでしょうか。一番最近やっちゃったなーという事を教えてください。ちなみに僕が最近やったのはコンビニで五千円払ったのにつりを貰わずに出てきてしまったことです』
嬉しいですね、初めての投稿。ありがとうございます。ぼくのことをまだ全然知らない方からですね。このラジオを長く聴いてくれている方は、ぼくのドジ具合はよく知っているでしょう。最近ぼくがやらかしたのは夜に散歩してたら、転んでしまって。そしたらそこにフェンスのワイヤーが飛び出てて、手をざっくり切っちゃいましてね。十針くらい縫いました。あ、もちろんもう治ってますよ。ご心配なく。ぼくはこういう怪我が多いんですけど、運は良くて。当直の先生っていろんな科の先生じゃないですか。たまに「次の日に縫い直しに来てください」なんてことを言われる……なんてウワサを聞いたりしていたんですが、ちょうどぼくが行ったときに外科の先生だったんです。凄く綺麗に縫ってくれて、今じゃ傷跡がわかんないくらいです。そのあと抜糸……糸を取る日に病院に行ったら、帰り際にドアの上に思いきり頭をぶつけたのもドジの一つですね。はは、スタッフさん達が頷いてます。ぼくは背が高いんでよく頭ぶつけてるんで。まあ、そんなドジをした日にはちょっと前向きになれる曲を一曲。
ビートルズでHere Comes the Sun 》
ラジオから流れてくる音楽は、ローの頭の中には入ってこなかった。今まで全く遠い存在に感じていたコラソンという存在が、余りに突然、近くに感じて、すこしだけ早まった鼓動に気付かないふりをした。何かが変わる訳でもないのに、と、自分に言い聞かせていた。
◇
それからしばらく、火曜の二十七時になると、ローは少し浮ついた気持ちになった。全く遠くに感じていた人間が身近に感じると妙に嬉しくなる。ローは芸能に疎かったので、これまで芸能人だとか、有名人だとかに会っても特に何も感じなかったし、それが医者として出逢った時は、特に顕著に平等にしようと考えていた。著名な有名人だけが受けられる医療なんてものが存在してはいけない。その信念を持っているのだが、『コラソン』を知ってしまったことに関してはそわついている自分に戸惑っていた。
火曜 21:30
夜勤に入ったばかりで、まだ急患が耐えない時間。窓口から来た患者の対応が終わると、処置室に看護師が飛び込んできた。処置室に患者がいないことを確認すると、「先生、搬送来ます」と告げられた。
「交通外傷、三十代男性。乗用車との衝突。搬送中です。左下腿の開放骨折あり。腹部打撲で圧痛強いそうです。腹部エコーででluid positive(腹腔内血液 陽性)の可能性あり」
淡々と述べられる中、頭の中はフル回転で次のことを考え始める。身体は既に救急の処置室に向かっていた。看護師が隣を歩きながら説明を続ける。
「バイタルはBP(上の血圧)98、心拍128。意識はありますが少しぼんやりしていて反応が鈍くなってきているみたいです。あと五分で到着します」
「整形には?」
「今、当番に連絡中です。オペ室にも連絡済み。まずはERで受けてCT行けるか判断したいそうです」
「ルートは?」
「18Gで二本、生食入ってます」
整形の当番は誰だったろうか、と考えつつERの処置室に入る。
「じゃあまずおれが腹部を見ます。整形が間に合わなかったら洗浄と仮固定も指示します。輸血は念のためクロスマッチも」
順々に用意をし、いつでも受け入れられる状態で待っていると、段々救急車の音が近づいてきた。敷地に入ったのか、サイレンはすっと消えた。
「先生、入ります!」
自動ドアの向こうにストレッチャーの影が映ると同時に、救急隊員が入ってきた。血まみれの男性が処置室に滑り込んでくる。入ってきてすぐ、全身の状態を確認する。出血量を見ながら、患者の顔を覗き込んだ瞬間、胸が詰まった。
────彼だ。
「ドンキホーテさーん?わかりますかー? 病院ですよ」
救急隊員から名前を聞いたのか看護師が声をかける。その声にハッとする。一瞬、患者の目がうっすらと開き、焦点が合わないままこちらをみた。
「……ろー……?」
一瞬、名前を呼ばれたかと思ってドキリとした。しかし彼は自分の名前など知らないはずだ。弱々しい声が一瞬で消えていき、瞼が閉じる。
「聞こえますか? 深呼吸して───」
看護師が声をかけ続けてくれていてよかった。その声にローはハッとして、すぐにマスクを整えた。
「輸血全開で! 腹部エコーいれます。整形はまだ来てないか?」
瞬く間の出来事だった。
◇
火曜 27:00
《火曜の深夜、二十七時になりました。
一日の終わりの方も、これからの方も。
音楽とお便りで過ごす一時間───
『ミッドナイト・トレイル』
今夜も始まります》
手術が終わったのは午後一時を少し回った頃だった。脾臓摘出と腸の一部縫合。左下腿の骨折は整形が入って洗浄と仮固定。後日プレートを入れることになった。その後、片付けをしたり申し送りやカルテを書いたり、なんとか落ち着ける時間になって医局に戻ったのが二七時少し前。いつもの感覚でラジオをつけると、番組始まりのアバンが流れていた。ローは脱力しつつ椅子に座り込んだ。さっきまで手術をしていた相手の声がラジオから聞こえるというのは奇妙な心地だった。
《今日のオープニングでお届けしたのは
ノラ・ジョーンズのDon't Know Why
少し緩んだところで、今日もゆっくりはじめていきましょう───》
ゆったりとしたジャズが流れ始めたが、ローの頭の中はそれどころではなかった。今まで色々な患者を診てきて手術もしてきた。何人の救急患者も診てきたし、もっと酷い症状の患者の手術だって経験してきた。それでもコラソン──ロシナンテが運ばれてきた瞬間の光景が頭から離れない。
切り替えなければいけないことは分かっていた。仮眠をしてきても良いと言われていたが、目は冴えてしまっている。
ラジオから聞こえてくるコラソンの声を聞いていても、眠れそうになかった。
◇
外が段々と明るくなってくると、不思議と救急外来の患者は減り、看護師達が朝の準備に取りかかりはじめた。当直も終わりの時間、引き継ぎを済ませて帰宅の準備をする。その間も、ロシナンテのことが頭から離れない。ローは少し考えてから、帰宅前にICUに向かうことにした。薄暗く静まりかえったICUの室内には規則的な機械の音だけが響いている。白いカーテンで区切られたベッドスペースには、まだ麻酔で眠っているロシナンテが横たわっている。薄い呼吸音が酸素マスクの下から聞こえ、ローは少しホッとした。身体のあちこちが管で繋がれているが、容体は安定しているようにみえた。このまま感染もなく、無事に目が覚めてくれればいい。そう願うしかなかった。
夜勤明け、少し眠って夕方になった。ローは翌日まで勤務が入っていなかったが、なんとなく病院に足が向かった。休みじゃなかったですっけ、と、医局の仲間や看護師に声をかけられるが、「忘れ物をして」だとか「ちょっと所用で」なんて言えば、皆すぐに気にしなくなった。ローはそのままICUに向かったが、その前にナースステーションの看護師に声をかける。中のモニターを確認していると、朝の引き継ぎの時にもいた看護師が
「あれ、どうされたんですか」
と、尋ねてきた。
「今朝方運ばれてきた患者の様子が気になって」
と、軽く状況を尋ねてみると、看護師は少し不思議そうな様子で「まだ眠っていますが安定しています」と、教えてくれた。
ローはその答えに短く感謝を述べると、感染対策をしてICUの中へと向かった。手術を担当した医者が、休みの間に診に来るのは不自然ではないが、自身に下心に近い感情があると分かっているので、少し後ろめたさがあった。それでも様子が気になったのだから、仕方がない。ローはロシナンテのベッドサイドの椅子に座ると、じっとその様子を見つめた。人工呼吸器と連動して上下する胸、薄く曇る酸素マスク、顔の擦過傷には大きめのガーゼが貼られている。乱れた金の髪が目元にまでかかっているのが気になって、前髪を少し上げてやると、閉じていたまぶたが緩く動いた。ドキッとして手を退けると、ゆるりと目が開いていった。ただ、ローは声をかけなかった。目が開いたとて、意識が戻っているかは分からない。またすぐに眠りに落ちていく事も多い。向こうが気付いたらいいか、と、じっと様子を見つめ続けた。ロシナンテは目を開いてぼんやりと天井を見つめていた。瞬きを繰り返しつつ数分そのまま見上げていたので、ローは声をかけるべきか少し迷った。しかし声をかけて驚かせてしまったら悪いな、と、やはり気付くまで待つことを決め込んで待っていると、首が少し動いた。そのまま、きょろきょろと瞳が動き始めて、ああ、意識が戻っているな、と、思っていると、その瞳がようやくローを捉えた。
ローは少しだけ会釈をした。そのまま、「分かりますか?」と、聞こうと思って少し立ち上がろうとすると、ロシナンテの方が慌てた様子で起き上がった。それに驚いたのはローの方だ。急に起き上がらないようにとベッドに戻そうとすると、シューシューと鳴る呼吸器の奥から声が聞こえた。
「もしかして、ロー、か?」
その声に、聞き間違いかと目を開きつつ、ロシナンテをベッドに戻すが、ロシナンテは少し錯乱したような様子で「本当に?」「大きくなったな」などと話してまた起き上がろうとするので、ローはナースコールを押すべきか少し迷った。
「ロシナンテさん、落ち着いてください」
ローが必死に声を上げると、ロシナンテの表情が急に曇った。それからすぐに力なくベッドに落ち着いて目を閉じて、息を吐いたかと思うと、そのまま眠ってしまったようだった。ローはホッとしながらも、今のやりとりは何だったのだろうか、と、考えていた。
聞き間違いでなければ、彼は自分を知っているようだった。しかしローがロシナンテと顔を合わせたのは最近だ。そうなると考えられるのは術後せん妄である。急に眠ってしまった事も考えるとその線が強いだろう。
ローはフム、と考えつつ、カーテンをそっとあけてICUの扉から外に出た。ナースステーションの看護師に意識が戻りそうなことと、術後せん妄があった話を少しして、しばらく様子を見て貰うことにした。
◇
次にローが出勤すると、申し送りでロシナンテが目覚めた事を伝えられた。意識も明瞭に戻って、記憶障害などもないらしい。ICUから個室へ移動になった事も聞き、それならば今回行った手術の説明に行かなければいけないな、と、予定をたてる。午前の外来が終わったら病棟へ行くことに決めたローは、午前の仕事が何事もなく終わることを祈った。
祈りの甲斐あってか、午前の外来は何事もなく終わった。術後の経過観察や、抜糸を希望する最新患者がほとんどで、大怪我の患者が来なかったのも幸いした。仕事が順調に進むと、この後なにか大変なことが起こるのではないかと不安になる気持ちもあったが、昼頃になると、その気配もなくなり、ローの気持ちは病棟の方へ向かっていた。
──そろそろ説明をしに行かなければ。
言い訳はいくらでも思いついた。手術の主治医として、経過を説明する義務があるし、状態だって把握しておかなければ。けれど、その気持ちの裏にもっと別の感情が張り付いているのを、ローは自分で気付いていた。
昼過ぎ、ローはタブレットを持ち、カルテの内容を再確認しながら病棟へと向かった。ナースステーションで軽く挨拶を交わすと、「今朝は少し水分も取れて、落ち着いた様子ですよ」と、担当看護師が教えてくれた。病室の扉の先にいるロシナンテの顔を思い浮かべながら、ローは短く礼を言った。
個室の扉の前に立ち、ノックをする。中から返事はなかったがローはそのまま中に入った。静かに扉を閉めると、ロシナンテはベッドの背を少し上げた状態でローの方を見つめていた。ICUにいたときより、顔色はだいぶ良くなっている。
「失礼します。先日手術を担当しました、トラファルガーと言います。先日行った手術の説明をしに来ました」
「あ……、はい、あっ、あー……はい」
ロシナンテは何か言おうとしたが結局言うのを諦めた様な声を出した。ローは少し首を傾げつつ、失礼しますね、と、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。ロシナンテの視線はどこか落ち着かず、布団の端を指先で弄んでいる。
「ドンキホーテさん……具合はどうですか? 痛みが酷いことはありませんか?」
「おなかの方は大丈夫ですけど……足は痛いです」
「そうですよね……あんまり痛みが酷ければもう少し痛み止めも出せますけど」
「あ、そこまでは……」
「再手術の日程も決まってましたっけ」
そう言いつつローはタブレットを確認したが、整形とのの話はまだ進んでいないようだった。
「あー……今回の説明でお話ししますが、足の方は再手術が必要なんです。そちらの詳しい話は整形の先生からあると思いますが、手術でちゃんと歩けるようになるのであんまり不安に感じなくて大丈夫ですよ」
フォローを入れつつ話すと、ロシナンテは黙って小さく頷いた。その間もロシナンテはローの顔をじっと見つめていた。
「看護師とも話をしたとは思いますが、今回の
手術の説明をさせて頂きますね。途中で聞きたいことがあれば遠慮なく聞いてください」
「はい」
「今回、ドンキホーテさんに行った処置は大きく三つあります。まず、脾臓の摘出手術。これは事故の衝撃で腹部に強い圧力がかかったせいでしょう……脾臓というのは、余り馴染みがないかもしれませんが、おなかの左上、肋骨の下の辺りにある小さな臓器です。主に古くなった赤血球を壊したり、免疫に関わったりする役割を持っています。けれど肝臓や骨髄など、他の臓器も同じような働きをするので、脾臓だけがその役割をしているわけではありません。脾臓を摘出しても生きていく上で大きな支障はありません。ですが、免疫の一部が落ちるため、今後は少しだけ感染症に注意して頂く必要があります」
手術の説明は慣れているが、その説明で納得するかどうかは別問題だ。特に救急搬送で術後説明になった場合は、納得されないこともある。しかしロシナンテは「なるほど?」と興味深そうに自分の左腹を軽くさすっていた。
「それから、大腸の一部が裂けていたのでそこも縫合しています。まだ腸を休ませていますが今日は水分も取れたということで、今後は流動食から固形食へ進めていく予定です」
ローの説明に、ロシナンテはうんうん、と頷いていた。
「それから、左足のすねが開放骨折していました。整形外科の先生が処置してくれましたが、まだ仮固定の状態なので、再手術が必要になります。こちらはまた整形外科の先生から詳しく説明がありますから」
ロシナンテは、その説明にだけは少し不安げな表情をみせた。
「一気に話してしまいましたが、気になる点や、不安なこと、聞きたいことはありますか?」
ローが尋ねると、ロシナンテは一瞬だけ視線を彷徨わせ、それから「いえ、大丈夫です」と、答えた。指先はまだ布団を掴んだまま、微かに動いていた。ローはほんの少し、言葉を探すように息を整えて、柔らかく口を開いた。
「……何かあれば遠慮せずに言ってください。身体の事でも、それ以外のことでも。大きな手術の後ですから、不安になるのは当然ですし」
その言葉に、ロシナンテは表情を変えた。それが帰って気になって、ローはなるべく表情を和らげつつ、話題を切り替えた。
「そういえば……僕がいたの覚えてますか?」
ローはICUで一度ロシナンテの意識が戻ったときの事を話そうと切り出したのだが、ロシナンテがかぶせるように「えっ、覚えて」と、今までにない音量で声を出したので、思わず言葉を止めた。
「えっと、ICUで一度意識が戻った時に……」
と、そこまで言ったところで、ロシナンテは「ああー……」と、何か間違った事をしてしまった時のように項垂れて、それからすぐに顔を上げた。
「や、すいません、それは覚えてない、です」
微妙に煮え切らないロシナンテの物言いに、ローは前から感じていた違和感を口にした。
「あの……前から少し気になっていたんですが
……」
「……?」
「ぼくたち、昔に会ったことありますか?」
その問いに、ロシナンテは目を丸くした。口は僅かに開いて、「え」の形で止まっている。
「この間……目覚める前、ぼくの名前を呼んでいて……、聞き違いかもしれないですが」
ロシナンテは、その言葉に戸惑いを隠しきれない様子だった。視線がうろうろと泳いではローの元に戻ってきている。明らかに、言うべきかどうか迷っているような様子だった。それに対してローは僅かに胸の内を掻かれたような気がしたが、医者然として言葉を続けた。
「無理に話さなくても大丈夫ですよ。すいません、変なこと聞いてしまって」
そう言って、ローが椅子から立ち上がろうとすると、ロシナンテはハッとしたように問いかけた。
「あ!あの、退院っていつ頃になりますか」
ローは立ち上がりかけた腰を再び椅子に戻すと、もう一度カルテを見ながら答える。
「経過が順調でも二ヶ月くらいは見て頂くことになるかと思います。整形の再手術とリハビリもあるので……」
「あのー、外出許可とかは……」
「なにか予定が?」
「仕事が……」
仕事、といわれて、ローはちょっと目を丸くした。結構な怪我の状態で、仕事のことが出てくる人間はそこそこワーカーホリックな気質だが、ラジオパーソナリティにそう言ったイメージがなかったからかもしれない。
「しばらくはお休みして頂いた方が良いと思います」
「そうですか……」
医者として正しいことを言ったはずだが、明らかにしょんぼりとしたロシナンテに、ローは思い切って口を開いた。
「コラソンさん」
言葉を続ける前に、ロシナンテが目をまん丸くしてローを見た。驚きすぎて目が飛び出てしまうんじゃないかとちょっと心配になったくらい驚いていた。
「実は昔から聞いてまして……お便りとかは送ったことないんですけど、あなたの声が癒やしで。眠れなかったときとか、あなたの声だと寝れたりして」
自分で言っていて少し照れくさくなったローは、ロシナンテと目を合わせていられず、視線を横にそらした。
「早く治して、また聞かせてください」
ローはもう一度ロシナンテを見た。すると、ロシナンテの目には涙が溜まっていた。なにかまずいことを言っただろうかと、慌てるローに、ロシナンテは「や、なんでもない、すいません、」と謝りながらも、「絶対に早く治します」と、真っ直ぐにローを見つめて言った。その言葉に、ローは妙な既視感を覚えながら、不思議な安心感を感じていた。