その傷は君が生きてきた証で、「顔色が悪いね、大丈夫かい」
唐沢がそう聞いた相手は、三輪隊の隊長を務めている三輪である。普段からお世辞にも健康的とは言えない顔色をしている子どもは、今日は一層顔色が悪かった。思わず唐沢が声をかけてしまうくらいに。
声をかけられてようやく唐沢の存在に気づいたらしい三輪は、ゆっくりと二度瞬きをするとはい、と小さく答えた。その後に「大丈夫です」と続ける。
明らかに嘘だとわかるそれに唐沢は小さく笑ってしまう。「大丈夫か」と聞かれても「大丈夫ではない」と答えられる人間はそれほど多くはないとはいえ、嘘を吐くならもう少し取り繕うべきだと唐沢は思っている。
いつもは冬の空気のように冷たい雰囲気を纏わせている三輪だが、今はそれもない。むしろ触れると消えてしまいそうな弱々しさを感じる。
唐沢が何も言わないことをどう捉えたのか─むしろ今の様子じゃ何も考えられていないだろう─「失礼します」と頭を下げた三輪は唐沢の横を通り過ぎる。それを、唐沢は腕を掴んで引き留めた。
「さすがにそんな君を置いて帰るほど非情な大人じゃないよ。送っていくから乗りなさい」
三輪が何か言おうとするのを無視して、唐沢は歩き出す。振りほどこうと何度かもがいた三輪だが、それが無理だとわかると大人しくなった。
「こんな時間まで何をしていたんだい?今日は三輪隊の任務の日ではなかったと記憶しているけれど」
時刻は間もなく22時になろうとしている。近界民は昼夜関係なく襲ってくるため、ボーダーにも夜勤がある。中高生はなるべく夜勤の任務に充てないようしているが、トリオンの特性上、学生が多くを占めるボーダーにはなかなか難しい。また、非常時のためにA級部隊を少なくとも一部隊は置くようにしているため、戦闘員全員が高校生の三輪隊も夜勤に駆り出されることが多々あった。
それに、と唐沢は思う。この子どもがこんな状態であれば、彼の隊員が放っておかないだろう。当の本人は他人と必要以上に馴れ合うのを好んでいないようだが、何故か彼の周りにはこの子どもを構いたがる人間が多く存在する。その筆頭が、三輪隊の隊員であり、何時だったかの雑誌に彼と並んで「双蛇」と評された米屋だろう。時折米屋が見せる表情は友情と言っていいものなのか、判断はできかねるが。
唐沢が思考の海に沈んでいれば「唐沢さん!」と三輪に呼ばれる。
足を止め振り向いた唐沢に、三輪は小さく言った。
「あの、痛いです……ちゃんと着いていくから離してください……」
合った目を逸らしつつ三輪はそう言った。ああ、すまないね。そう言って離した腕に唐沢はそっと触れた。びくりと震えた腕を、今度は優しく掴んだ。
「赤くなってしまったね。すまない、つい考え事をしていて」
シャツをまくれば、唐沢が掴んでいたところが赤くなっている。その跡をそっとなぞれば、小さく三輪の体が震える。
「あの、大丈夫なので。ほんとにもう……」
離してほしい、と言葉にならない三輪の声が聞こえるようだ。普段であればはっきりと言葉を発するその口が今は違う。それが恥ずかしく思っているせいだと気づけば、唐沢はそんな三輪が随分愛らしく思えた。逸らされて、合わない目を見つめて唐沢は言う。
「わかったよ。それじゃあ」
手のひらを優しく包み込めば、三輪は驚いたように唐沢を見た。やっと合った瞳に少しだけ嬉しく感じているのを自覚しながら、唐沢は続ける。
「逃げられたら困るからね」
「……もう、逃げませんよ……」
小さく呟かれたそれに、唐沢は声を出さないように笑った。
◆
「家に帰りたくないんです」
唐沢の車に乗った三輪はそう口を開いた。助手席に座らせ、君の家はどこだったかと尋ねた後に出た言葉だった。
「理由を聞いてもいいかな」
唐沢の問いに、三輪は俯いたまま何も言わない。高校生という難しい時期だ。親と喧嘩かなにかして家に帰りたくないというのは珍しいものではないだろう。唐沢だってそういう経験がないわけではない。
しかし、三輪はそんなありふれた理由で帰りたくないと言っているわけではないように思えた。もっと、彼の心の奥深く、誰にも触れさせないようにと、気を張って守っているなにか。そんなものが理由な気がして、だが自分らしくもない思考に、唐沢は自嘲した。
─らしくもない姿に、俺もあてられたか。
「それじゃあ」と口を開いた唐沢は続ける。
「私の家に連れていこうかな。少なくともこんなとこよりは休まるだろう」
驚いたようにこちらを見る三輪に笑ってしまう。迷惑では、なんて言う三輪に笑いつつ唐沢は言った。
「君がそんなことを気にする必要はないよ。悪い大人に捕まった自分の不運を嘆いてくれ」
困ったような表情を浮かべる三輪に、シートベルトを着けるように言えば、何も言わずに大人しく従った。
途中で家に何もないからとコンビニに寄り、必要だと思うものを適当にカゴに入れていく。レジで自分も出すと言い出した三輪を制す。
「拐ったのは私だからね。これくらいさせてくれ」
その言葉に三輪は黙り、レジの店員である若い男はちらりと唐沢を見た。22時過ぎにやってきた制服を来た男子高生とスーツを着た成人男性。『拐う』なんて穏やかではない言葉が出てくる二人の関係をどんなものかと考えているのだろうか。
─確かに、今自分たちはどんな関係に見られているのだろう。
親子や兄弟などの親密な関係には見えないだろう。じゃあ教師と生徒か?こんな時間まで生徒に付き合わせている教師などろくなものではないだろう。それなら。
パパ活、なんて言葉が浮かんで唐沢は小さく笑った。
「唐沢さん?」
「なんでもないよ。じゃあ行こうか」
三輪はそんな唐沢を不思議そうに見ていた。
「……お邪魔します」
幾分か車を走らせ、ようやく唐沢の住むマンションに着いた。緊張気味な三輪を少し微笑ましく思いつつ、「先にシャワー浴びていいよ」と声をかける。
「いえ、唐沢さんから……」
「私は後でいいから。風呂はこっちだ。中にあるものは好きなように使ってくれていい。こっちに着替えとタオルを置いておくから」
三輪の鞄を奪いつつ、その背を風呂へと押す。有無を言わせない勢いで言葉を紡げば、三輪は何も言えないようで、大人しく従った。
シャワーの音を確認して、唐沢はネクタイを緩めた。冷蔵庫に冷やしてあるビールを開けて、一口飲む。ほぅ、と息を吐いて、ソファに座ると、テレビをつけて適当なチャンネルに合わせた。
「お風呂、ありがとうございました」
唐沢がビールを飲みながら騒がしいだけのバラエティをぼんやりと見ていれば、声をかけられた。
「ああ……やっぱり少し大きいね」
振り返り、その姿を認める。下着は先ほどコンビニで調達したものだが、スウェットは唐沢のを貸している。
三輪が小さいわけでないが、学生時代にラグビーをやっていた唐沢のような体の厚みはない。少しだけ緩いスウェット姿は、学ランかボーダーの隊服姿しか見たことがないために新鮮に映る。
「……あまり、見ないでください……」
恥ずかしいのか、支線を逸らした三輪に、唐沢の胸が騒めく。三輪の頬が赤くなっているのは、風呂上がりのせいのはずなのに、ついおかしな妄想が浮かんでしまう。
一瞬浮かんだそれを振り払うように頭を振る。唐沢さん?と今日何度目かの言葉を聞く。純粋で、純朴な響きしかないそれは、こちらの脳内の様子なんて知りはしないのだろう。いつもより緩んだ瞳が唐沢を見ている。三輪の髪から一つ、雫が転がる。
「唐沢さん?」
「……ちゃんと乾かしなさい。風邪を引くよ」
肩にかかっていたタオルを取り、乱雑にその髪を拭う。唐沢の胸中など知りもしない三輪はあ、だのわ、だの呻くだけだった。
シャワーを浴びた唐沢が見たのは、入る前と変わらない姿勢でソファに座っている三輪だった。相変わらず騒がしいだけのバラエティが流れているが、それを見ているわけではないようだ。こくん、と大きく頭が揺れたとか思えば、慌てたように横に振る。そして手の甲を強く抓るから、思わず声をかけた。
「三輪くん」
驚いたのか大きく体を震わせた三輪はこちらを見た。その顔は、どこか泣きそうで、何か恐れているようで、唐沢は一瞬息を飲んだ。
「何をしているんだい」
三輪の隣に座り、赤くなった手の甲を撫でる。どれだけ抓ったのだろうか、赤くなったそれは痛々しい。
「……眠りたくなくて」
三輪の声は泣きそうに震えていた。しかし、泣くことはなかった。泣いてしまえばいい。そう思った。
この子どもが抱えている苦しみも悲しみもすべて涙にして溶かしてしまえば楽になるだろうに。
けれど、三輪はそれを良しとはしないのだろう。きっと三輪は自分一人の時ですら泣くことはしない。三輪との付き合いが深くない唐沢でさえ、なんとなくそうだとわかった。
唐沢は三輪の頭を撫でた。唐沢は泣きそうな子どもの慰め方など知らない。昔見たドラマの行為を真似ているだけだ。そのドラマでは子どもはもっと小さかったし泣いていて、今の三輪とは全然似つかない。そもそも撫でていたのはその子どもの母親だったし『大丈夫だよ』と少し困ったように笑いながら、愛おしげにその子どもを抱き締めていた。
─今、自分がこの子どもを抱き締めたらどうなるんだろうか。
そのドラマでは母に抱かれた子どもは、より大きな声で泣いて、そのうち眠ってしまった。頬を涙で濡らして、少し安心したような顔をして。
抱き締めてやれば、大丈夫だよと声をかけてやれば、この子どもも泣いて眠ることができるのだろうか。
それはないだろうと、唐沢は思った。
三輪はきっとそんなこと望んではいないし、例え望んでいたとしてもそれは己の役目ではない。
それでも、と思う。泣きたくても泣けない三輪が、眠りたくないと自分を傷つける三輪が、少しでも安心できるといいと。安心してほしいと、祈るように触れた。
いつまでそうしていただろうか。きっとそれはたった数分の出来事だろう。三輪はゆっくりと目を閉じて、息を吐くと言葉を紡いだ。
「明日、誕生日なんです」
唐沢は何も言わずに頷いて、その先を促す。三輪の薄紫色の瞳がこちらを見る。それが泣くように揺れた。
「誕生日がくるのが嫌なんです。歳を取るのが、歳を取れば、姉さんに追いついてしまう」
姉さん、の言葉が震えている。怖いのだと思った。歳を取るのは生きている人間だけの特権だ。死者は変わらない。変わらないまま、そこに居るだけだ。変わっていく生者と、変わらない死者。変わりたくないと泣く生者は、変わっていくことを恐れている生者は、きっと生きていくことを罰だと思っている。
「私は」
唐沢は口を開いた。三輪の目を見つめる。触れたところが暖かい。三輪は生きている。そして、明日また一つ生きた証を刻む。
「君が生きていてくれて良かったと思う」
それは三輪にとって酷な言葉だろう。死んだ姉を想い、自分が生きていることへの罪悪感を抱えているこの子どもには。それでも、と思う。だからこそ伝えなければならない。
「三輪くん。誕生日おめでとう」
驚いたように三輪の目が見開く。壁に掛かった時計が12を指しているのを認めて、三輪は目を伏せた。何を思っているのかわからないが、それは伝えない理由にはならない。
「今日まで生きてくれてありがとう」
赤くなった手の甲に触れる。少しでもこの子どもの痛みが和らいでほしい。そう思って触れた。触れたところから互いの温度が混ざる。暖かい。三輪も唐沢も生きていて、だからこそ触れることができる。
「きっとそう思っているのは私だけじゃないよ。君の周りにいる人みんな、君のことを想っている。君がここに居ることを嬉しく思ってる」
三輪がこちらを見る。その目はやはり泣きそうに濡れていたが、先程までなかった光があった。
「……ありがとうございます」
「明日ケーキでも食べに行こうか。おすすめのところがあるんだ」
はい、と頷いた三輪は泣きそうな顔で少し笑った。