「よう、多岐瀬」
「…なんでお前がいるんだよ」
グレーダー寮の共有スペース。本来なら俺がいつも座っている榊の隣に我が物顔で居座り声をかけてきた灰島に、俺はじとりと胡乱げな視線を向けた。
「ちょっと榊に用があってな。卒業前の合同カリキュラムで組むことになったんだよ、俺たち」
「念願の皇帝陛下との共同作業。俺も楽しみにしてたんだよね。もういいの?例の美人アーティストとの個展の打ち合わせ」
「あー…まぁ学業優先っていうのでちょっと融通利かせてもらえたんだよ…」
「…ふぅん。今度のファムファタールとやらはなかなか情熱的で独占欲が強いタイプみたいだね。あの一年の前では気を付けた方がいいんじゃない?それ」
いつになく歯切れの悪い返答をする灰島に向かって、榊はタブレットに添えていた手で自身の首元を指差して意味深な笑みを浮かべた。俺もちらりと一瞬灰島へと視線を向けたが、点々と首元に散る鬱血痕にすぐに目を背けた。せめて周りに気を遣って首元が隠れる服を着てくるべきじゃないのか?後輩たちの教育上悪い気もするし。
「相変わらず嫌そうな顔してるけど、多岐瀬はピーマンくんとこういう話…しないの?」
「は?…お前まさか斑鳩にもこういった類いの下世話な話してるのか?」
「今は多岐瀬とピーマンくんの話をしてるんだけど?杏寿は関係ないでしょ。ピーマンくん、あれでピアスなんか開けちゃってるし案外経験豊富かもよ?伊織もそう思わない?」
俺は灰島に話を振る榊を一瞥し、深い溜息をついた。俺が斑鳩とのことに触れたのが気に食わなかったのか、わざと灰島に話しかけた節がある。というかいつまでいるつもりなんだ灰島は。桐乃江がくるぞ。
「そうだな。アーティストにとって『エロス』は重要な要素だからな…経験があるに越したことはないと思うぜ?まぁ多岐瀬みたいに如何にも潔癖で、品行方正ですって顔してるタイプの人間にはわからねぇかもしれねぇが。何なら俺が和哉に聞いてやろうか?ピアス開けた理由」
いつもの鼻につく笑みを浮かべながら、俺を挑発する灰島に「遠慮しておくよ。それより、早く帰った方がいいんじゃないか?桐乃江が来る前に」と忠告し、俺は席を立ち自分の部屋へと向かう。おそらくそろそろ…和哉が忍び込んで来る頃だろうから。
部屋に戻るとタイミングがいいのか悪いのか…コツコツ、と窓に石が当たる音がした。最近こうやって忍び込むのが日課となりつつある和哉に、窓ガラスでも割った日には桐乃江に怒鳴られるだけじゃ済まなくなるとでも言ってやろうか…と思いながらも俺は窓際へと歩み寄り、カーテンを開けた。
「響っ!お疲れっ」
俺の姿を見るなり、まるで帰ってきた飼い主を出迎える子犬のように目を輝かせ、今にも飛びついてきそうな勢いの和哉に向かって「お前…いい加減にやめろって言ってるだろ」と嗜めながらも、俺は和哉を部屋の中へと招きいれる。
「えーいいじゃん!だってもう響とこうやって学校で会えるのも…あと半年もないだろ…せっかく、その…仲直り?できたのに寂しいじゃん…十年分のブランクを埋めたいっていうか…」
「別にわざわざリスクを冒してまで部屋に来て話すことないだろ。休みの日とか、また遊びに行けばいいんだから」
「でも響たち三年はさ、これから卒業まで追い込みで色々やらなきゃいけないこともあるだろ?休みの日くらいはゆっくりしたいんじゃないかと思って…遊びに誘うのもわりーかなって」
先程の様子とは打って変わって、しゅんとしてそっぽを向く和哉は、さながら大好きなご主人様に怒られた子犬のようだった。ブンブンと振っていた尻尾が力なく項垂れるのが見える。
「別に、少しくらいなら構わないよ。また純や難波と学生街でお茶してもいいし」
「そ、それも嬉しいけど!俺は響と、二人で話す時間が欲しいっつーか…」
上目遣いで俺の顔色を窺う和哉の顔をじっと見つめ、どう返答しようかと思い悩んでいると、ふと左耳のピアスに目が行き、先程の灰島と榊との会話を思い出す。和哉がピアスを開けた理由。気にならないと言ったら嘘になる。十年前、和哉に背を向けてから今に至るまで、和哉がどういった交友関係を築き上げ、どんな人生を歩んできたのか。俺は少しも知らないから。
「なぁ、和哉…そのピアス、何がきっかけで開けたんだ?」
そう問いかけながら、無意識に和哉へと右手を伸ばし、そっとその左耳の耳朶に煌めくゴールドのピアスに触れる。突然の俺の言動に和哉は「へっ!?」と間の抜けた声を出し、両手で俺の右手を掴むとみるみるうちに顔が真っ赤に染まっていった。文字通り、耳まで真っ赤だ。
「えっ…いや、あの、別に…な、なんとなく?ていうか、い、いきなり耳触るなよ…びっくりするじゃん…。お、おれ…もう今日は帰る…」
俺の手を放し、未だ熱った頬に両手を当てながらくるりと背中を向けると和哉はヨタヨタと窓際の方へ向かって歩きだす。
「おい、まさかそこから帰るつもりなのか?いつも通りこっそり送り出してやるからもう少しここに…」
「い、いや!今日はいいよ!また明日、来るから!」
「おい、和哉っ」
制止する俺の声を振り切り、和哉は器用に登ってきた木に飛び移ると、一目散に向かいのアーティスト寮へと駆けて行った。
何をそんなに狼狽える必要があるのか…絶対に何かしら、俺には言えない理由がある。そう確信はしたものの、それ以上追求するのも野暮な気もして、俺は遠ざかっていく和哉の後ろ姿をただ呆然と見つめているしかなかった。
「難波、今少し…いいか」
「多岐瀬先輩、おはようございます」
寮の共有スペースでタブレットに視線を落とし、真剣な面持ちで液晶を見つめている難波を見つけ、俺は声をかけた。難波は、どうぞ、と向かいの席を指し示し、俺に座るよう促す。恐らくわざわざ作業をしているにも関わらず、俺が声をかけたことから何かしら相談事でもあるのだろうと察してくれたんだと思う。
あの日以来、和哉はぱったりと俺に会いに来なくなった。正直な話、あのまま和哉がグレーダー寮に忍び込み続けていたらいずれは桐乃江にバレ、俺も含めて小言を言われるのは時間の問題だったのであいつが諦めてくれたのだとすれば、それ自体は特段悪いことではないと思う。問題は、なんとなく…和哉が俺のことを避けている気がすること。合同授業などがあるわけでもなく、カリキュラム上一年生と三年生が授業で顔を合わせることはないが敷地内ですれ違ったり、朝の登校時に顔を合わせることはあった。今までであれば、俺を見つけるとすぐさま「響〜!」と声を上げ、ブンブンと手を振りながら駆け寄ってきていたのに、最近は俺の姿を見るなり回れ右して来たルートを逆走したり、昨日の朝には俺と目が合うと反射的に視線を逸らし、一緒に登校していた純と斑鳩を置いてきぼりにしてさっさと先に行ってしまった。それを見た隣にいる榊には「何?ピーマンくんと喧嘩でもしたの?」と揶揄われ、純に「まーた和哉に何かしたんじゃないだろーなー!」と叱られ、斑鳩に「だ、大丈夫ですか…?多岐瀬くん…。どうしたんでしょう月見里くんは…」と心配される始末。おかげでグレーダー校舎へと続くエスカレーターに辿り着くまで、ずっといたたまれない気持ちだった。
心当たりがあるとすれば、あのピアスの一件。そんなに俺が聞いてはまずいことだったのだろうか?そう思うと逆に意地でも知りたくなってしまった。難波が知っている可能性は低いが、和哉とずっと一緒に育ってきた純なら、その理由を知っているかもしれない。和哉には内緒で、難波から純経由で教えてもらえば…まぁ純は俺が知りたがっていると聞いたら和哉本人に直接聞き出そうとして、余計拗れる可能性もあるが。
「それで、何か俺に相談事ですか?…もしかして和哉のこと、でしょうか」
「知ってるのか…純から聞いたのか?」
「はい。最近和哉の様子がおかしいって。絶対多岐瀬先輩絡みだから俺に上手いこと聞き出してほしいって言われて」
「純のやつ…悪いな。お前まで巻き込んでしまって…別に喧嘩した、とかそういうんじゃないんだけど」
後輩でもあり幼馴染の友人でもある難波に、仲介役を担われていた事実に俺は何となく居心地が悪くなり、コーヒーでも入れてくるよ、と声をかけ一旦席を立つ。両手にマグカップを持ち、難波がいた席に戻ると、そこには難波の隣に座り口角を上げ俺を見上げる灰島と、優雅にコーヒーカップを傾け、先程まで俺がいた難破の目の前の席に腰掛ける榊の姿があった。
「お前ら…というか灰島はグレーダー寮に居座りすぎなんじゃないか?いい加減にしないと…」
「桐乃江に叱られる、ってか?あいつは暫く就職先のインターンとやらで忙しくてあんまり寮にいないらしいぜ?それにどうせあと半年でこの高校も卒業だろ?たまにしかいない俺を見かけたところで、桐乃江も大目に見てくれるんじゃねぇか。それより多岐瀬、お前和哉に避けられてるんだって。何したんだよ?」
榊に揶揄われるのも気に食わないが、灰島に和哉絡みで絡まれるのは余計に腹が立つ。片方のマグカップを難波に手渡し、榊の隣に腰掛けると、俺は苛立つ気持ちを抑えながらゆっくりとコーヒーに口をつけた。灰島に和哉とのことに触れられて余裕がなくなっている姿は、見せたくなかったから。
「なんかねー、ピーマンくんにこないだ話したピアスの話?したらそっから避けられてるんだってー。ね、難波?」
「あ、いや…その、それが直接和哉が多岐瀬先輩を避ける原因になったかはわかりませんが…」
「…榊にも話したのか」
「そーんなに怖い顔しないでさ。とりあえず難波の話聞こ?ちなみに俺もその場にいたんだよ、ピーマンくんと難波と都築、あと杏寿と。だから難波が俺にベラベラ話したわけではないから…難波のことシメちゃダメだよ?」
「俺はお前と違って後輩にそんなことはしない」
明らかに上機嫌な様子の榊を俺はじろり、と睨みつける。基本的には、他人のいざこざには我関せずという態度を貫いている榊だが、俺と和哉のことに関しては何かしら茶々を入れてくるところがあった。大方和哉を揶揄うのが面白いから、わざとそうしてる気もするが。
「俺が黙ってても榊先輩に話されてしまうと思うので…概要をお伝えすると、和哉は別に避けたくて多岐瀬先輩のことを避けているわけじゃなくて…緊張してしまうみたいなんです。勿論前からそういうところはあったと思いますけど…」
「それでピーマンくんが『もうまともに響の顔見られなくなっちまった〜!助けて純〜!道臣〜!』って泣きついてるところに俺と杏寿が通りかかって話を聞く流れになったってわけ」
「あいつ…」
たまたま通りかかった榊たちがその声を聞き足を止めるということは、大方三人で食堂か学生街のカフェテリアにでもいる時にその話をしていたんだろう。和哉がどこまで詳細に純たちに相談していたのかはわからないが、周りの人間が聞き耳を立てていないとも限らない。和哉はあまり自覚がないようだが、首席合格、ステアケーサー候補、そしてパーセプションアートの産みの親である月見里夫妻の息子。その充分すぎる肩書きを背負って歩いてる和哉は、どう考えたって学園では注目の的だ。せめてもっと人のいないところで…と思いながらも俺は難波へと視線を向け、話の続きを促した。
「ピアス、がどうというよりも…多岐瀬先輩にその…耳に触れられた時に…和哉が言うには電流が走ったみたいな感覚になって、それで…たまらず部屋から逃げ出してきちゃった…って」
「わぁ、多岐瀬ってば大胆♪」
「俺はただどうしてピアスを開けたのか聞いただけだし、あいつがいつも通りベランダから忍び込んできて部屋に入れたんだよ。…ピアスを開けた理由は教えてはくれなかったけど。それに話してる時距離が近かったから思わず触れてしまっただけで…」
「だって。伊織はどう思う?この二人の主張を聞いて」
「おい、榊…」
また絶妙に嫌なタイミングで灰島へと話を振る榊を俺は軽く睨む。
「まぁまぁ、恋愛に関しては伊織の方が的確なアドバイスをしてくれるでしょ。ね、皇帝陛下?」
榊の投げかけに「そうだな…」と今まで黙って俺たちの会話を聞いていた灰島と目が合い、俺は仕方なくその返答に耳を傾けることにした。…非常に不本意ではあるが。
「俺が思うに…可能性はいくつかあると思うが…。一つ目は、まぁこれは誰が見ても明らかだがあいつは多岐瀬、お前に憧れに近い感情を持っている。そんな憧れの相手と急接近した上に肌と肌が触れ合ったんだ。そりゃ、興奮もするだろ。拓海は逃げこそしないが、ちょっと資料手渡す時とかに俺の手と触れただけで毎回舞い上がって大変なんだぜ?」
「さりげないパートナー自慢だね。なんだかんだストーカーくんのこと気に入ってるんじゃない、伊織」
「拓海、かわいいですね」
「言い方が少し気になるけど、まぁ否定はしないよ。由羅がお前に向ける感情とは、また違うとは思うけど」
俺が和哉の立場だったら。少し年上の兄のような存在の俺に、そういう感情を抱いてもおかしくはないと思った。和哉が俺が距離を詰めると挙動不審になるのはいつものことだし、それが憧れという感情からくるものであれば、まぁ…悪くはない。俺たちの反応に気を良くしたのか、灰島は「そして二つ目」と話を続ける。
「誰かにそういう風に触られた経験があって、それを思い出した…とか」
「…誰か、って」
「そもそも事の発端は、和哉がピアスを開けた理由、だろ?多岐瀬が聞いても言葉を濁した。例えば…昔付き合ってた相手からの贈り物でそういう風に付けてもらってた。それと同じ動作を多岐瀬がしたから、思わず身体が反応してしまった」
和哉が俺と過ごしていない、俺が知らない空白の期間。中学生なんてとても多感な時期だし、好きな人の一人や二人いたっておかしくはない。あいつは何でも器用にこなす奴だし、誰にでも分け隔てなく接するタイプだ。確かに付き合っていた人間がいてもおかしくはない…。灰島の言葉に黙り込んでしまった俺に、難波が「えっと…」と声をかける。
「確かに和哉は中学の時、モテる方だったと思います。俺は学校が違ったから実際に見ていた訳ではありませんが…バレンタインのチョコレートとか、純より多くもらっていることもあったりして、純が悔しがっていたのを覚えています。でも特定の相手と付き合ってた、っていうのは俺は聞いたことないかな…あ、でもあくまでこれは俺がわかる範囲の情報なので…気になるなら本人に聞いてみる方がいいと思いますが。俺から純にそれとなく聞いてみてもいいですけど」