水木の話 後悔だけなら誰でもできる、あの日野心にかられて村へ向かったことは覚えている。
煙草の煙で靄がかかったような汽車の中、咳き込む幼子。出稼ぎからの帰りなのか向かっている途中なのか、頭を刈り上げ薄汚れている男たち。
線路脇の流れていく明かりと空に浮かんで場所を変えない月の明かり。
寂れた駅に降り立って呼んだタクシーで山間の小さな集落へ足を踏み入れた。
そこからの記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。
白髪なんて無かった頭は真っ白になり、失った記憶を手繰ろうにもその欠片すら自分の中には残っていない。なぜあの日あんなにも悲しかったのだろうか、切なかったのだろうか。
あの後墓場で拾った子どもを育てる事に注力して、自分が死んでも子どもが暮らせるくらいの財を作り上げて外回りの業務から内勤に変わった頃、
「お前本当に老けないよな、俺とは大違いだ」
同期に言われた言葉に胸がざわつく。
周りと同じく歳を重ねているはずなのに、白かった髪の毛はいつしか黒に戻り自分だけ見た目が大きく変わっていない事を自覚してしまって。
「はは、そう見えているだけだ、もう若いのにはついて行けないさ最近膝に来ている」
話を合わさなければと同僚が歳のせいで膝がと行っていたことを思い出して手のひらでその場所を擦る。
「もう子どもも大きくなっただろう、やっぱり嫁さんはもらわないのか?」
あの日雨の降る中墓場でこの腕に抱いた子どもは家を出ていった、住む世界が違うと言う言葉を残して。目玉の人ならざるものを頭に乗せ、ひらりと一反木綿へと跨がり出ていってしまった。
「そうだな、この年になると1人のほうが気楽だと思ってしまう」
義息子が家を出ようとしているのは気づいていた、だけど声にしてしまうと何も言わずに出ていかれるかも知れないと気づかぬふりをしていた自分に訪れた別れ。
必要ないと言われたけれど、いつどこで何があるかわからない。頼むから持っていってくれと握らせた預金通帳と実印。
もちろん自分名義ではなく、義息子名義のもの。
いつの間にと驚かれたけれど自分が残せるものとして金しか思い浮かばなかったのだから仕方ない。
自分の生活に必要な分だけを使い、それ以外を集めたもの、
「もう戻ってくるつもりはないんだろう、この国で生きるには金が必要だ、金さえあればどうとでもなる。こんな親父からの最後の贈り物として……持っていってくれ、頼む」
完全なる自己満足、人ではないであろう息子を自分に縛り付けるための姑息な手段。
深く頭を下げると義息子は渋々ではあったけれど受け取ってくれ
たからほっと息をつく、そのまま出ていくと言うから背中を見送り一人で住むには広い部屋で天井を見上げる。
「一人になっちまった……」
いつまで経っても小学生程度の大きさから成長しなくなった義息子、そして外見が変わらなくなった自分。
このまま定年まで会社に務めるのは難しいかも知れない。
実際見て見ないふりをしていた、増えないシワ、弛むことのない身体。
会社のメンバーの視線も奇異のものを見るような視線になっている、かといって今すぐどうこうするわけにはいかない。
義息子に渡したぶん以外にも貯金は自分名義のものがある、これから先暮らしていくには不安な状態。後数年と自分に言い聞かせある程度の額が溜まったところで会社をやめた。
近所でも自分の姿があまりにも変わらなすぎると言われていることは知っている、聞こえないふりをしていたから。
一度この地を離れる必要がある。
自分のことを誰も知らない場所、知り合いに会うことのない場所へと行かなければ。そして会社勤めしていた時同様とは言わないが、貯金だけでは暮らせないから働き口を。
と考えると地方に出るのは得策ではない。
下手な集落になんて行ってしまったら何を詮索されるかわからないから。
「さあ、どうする……」
何も急いで引っ越す必要があるわけではなかったからほんの少しだけゆっくりと自分の進む方向を模索する。
そうしているうちに見つけた温泉宿の下働き。
給料としてはさほど良くないが、住み込みで食事もつくのならば必要最低限の関係構築しかしなくていい、今の自分にはうってつけではないだろうか。
実際そこに足を踏み入れると訳ありの人も多く、溶け込むのは早かった。
とはいえそこにも長居するわけには行かず長くて五年でいろんな宿を点々とした。
その間も己の肉体は老いていくことはなく時代に一人取り残される。
身分証なんて必要なかった仕事につくためには本人確認が必要となり、働き口が無くなった。
何十年と点々としていたから時分を知っている人はいないだろうと自宅へ戻ると朽ち果てていると思っていた家はあの頃のままで。
曽祖父から譲り受けたと言う体で再び懐かしの我が家へと足を踏み入れる。
あの頃仲良くしてくれていたご近所さんたちは当たり前のように鬼籍に入っていて、この家以外は立て直しもあったのか今どきの建物となりここでも一人取り残された気分になった。
勤めていた会社も名前が変わり、ビルも違うものへとなっていて、懐かしむと言うよりも驚きが先行した。
急に越してきた人間にあまり関わろうとしないのはいい、だけど自分が一人ぼっちになってしまった気がしてあまり外に出ることもなく、人の目を避けて暮らすようになっていった。
「あぁ……風呂に入らないとな……」
何もしていなくても陽は登って落ちていく。
変わりばえのない毎日、鑑を見ても変わらない自分の容姿を見ていると時間が止まってしまったかのように思えるのに、一歩家から出ると時間は進んでいて。
本来誰にも平等に訪れる時間経過から外れてしまったのは自分。
救いなのは昔のように近所付き合いが盛んでないということ、誰も隣近所のことなんて気にかけない。
自分が何をしていようと知らんぷり。
「今日も、誰かが逝ったみたいだな……」
昼間窓を開けると風に乗ってきた線香の香り。
この地に戻ったときに挨拶を交わした人たちも鬼籍に入り、今いるのは話したことすらない他人。
手入れのされていない庭を見てうるさい子どもたちが幽霊屋敷だなんだと言っている。
本当に自分は行きているのだろうか、死んでなおこの土地に未練があって魂だけでこの場所にいるのではないだろうか。
そんな事を思って外に出た日もあったけれど、誰もが自分を認識していた。そして向けられる奇異の視線に体が震え自宅に逃げ込む。
庭の小石につまずき転んだときに擦りむいた膝から流れるのは間違いなく赤い血液で、胸を抑えると手のひらが感じた野間間違いなく脈動。
もう何年この世にとどまっているのか。
また今日も見知らぬ誰かが鬼籍に入っていった。
「死にたい……」
いつから口にするようになったかは覚えていない、だけどここ最近では一番口にしている言葉。
食べなければと食事をすることを止めてもこの身体は朽ちない。
脱衣所に到着し服を脱ぐ。
肋が浮く身体に残る火傷の跡、そしてそれに重なるように残る傷跡。
こんな身体でも心臓を突けば死ねるのではと自ら包丁で胸を突いたときに残ったもの。今この場にいるということはそれでも死ぬことができなかったという証拠。
いっそのこと海に身を投げ魚の餌食になったら死ぬことができるのだろうか。
風呂桶の中の暑いのか寒いのかわからないものを洗面器で掬い体にかける。何も感じない。ただ日々の義務のようにこなしているもの。
いっそあの男のように狂ってしまうことができたならば。
「あの男…?一体誰だ……」
精神は日を追うごとに、歳を重ねるごとに滅入っていくのに狂うことができない苦しさ。死にたいと、終わらせたいと思っても終わらない身体。
いつしか髪の毛はまた真っ白くなっていた。あの日あの場所で救い出された時と同じように。
違うのは自分の体が骨と皮に近くなっているということ。
身体に力が入らず一日寝て過ごすことが増えた。糞尿を垂れ流す趣味はないからかろうじて厠との間を移動することはあっても他は何もしない。
飲食の仕方ももう忘れた。
自我を失い狂人となることができたならばこんなにも苦しまないだろう。死ぬことができればこの苦しみから解き放たれるだろう。
何故それすら許されない。
枯れている身体から一筋溢れた涙。
「殺せよ……死ねないなら、誰か俺を殺してくれよ……もう、一人は辛い、何でもくれてやる……死にたいんだ……」
何度同じ言葉を口にしただろう、死を望んだだろう。
「その言葉、覆させぬぞ」
「っ!」
死ぬために次はどうしようか、なんて考えているといきなり室内に響いた男の声、窓は久しく開けていないのに突風に襲われ目を閉じる。
長い間死を求めても答える声なんて無かった。
「これで死ねる……」
数十年ぶりに広角を持ち上げた気がする、変わりない日常が変わる瞬間。期待するのは仕方のないこと。
「死なさぬよ、何でもくれるのじゃろ?全部わしがもらってやるからの。」
風の音が強すぎて何を言っているのかわからなかったけれど、終わりを信じて首を縦に振る。
「やっとじゃ、やっと水木を、水木を手に入れれる……ここは危険じゃ、あやつらが奪い返しに来るからの…、さぁ、ゆくぞ」
ふわりと浮き上る身体、抵抗なんてするわけがない。時分を迎えに来てくれた死神の機嫌を損ねるわけにはいかないからそのまま身体を委ね力を抜く。
「誰にも邪魔はさせぬ、ここももう不要であろ?わしと一緒に暮らすのじゃから。おぉ、水木……やっとお主に触れることができた、愛いのぉ、愛いのぉ」
鼓膜を震わせてくる男の弾んだ声、聞いたことがあるような、無いような。
力が入らないけれど、身体を抱く男の着物を掴む。
「もう一人は嫌だ……どこでもいい、つれていってくれ……」
「望んだのは水木じゃ……、その言葉忘れるでないぞ」
「水木さん!」
「水木!」
身体に下向きの力がかかったことで飛び上がったのだと体で感じる、家の崩れる音の無効から聞こえてきた懐かしい義息子の声と時分を抱く男と同じ声。
「きた……」
「呼んではならん、わしと行くのじゃろ?」
もう呼ぶことはないと思っていた名前を口にしようとすると咎められたから言葉を抑える。
時分を掬ってくれるのはこの男しかいないのだから。
「あぁ……」
返事をすると意識がぼぉっとしてきて何も聞こえなくなる。
どうでもいい、今はこの腕だけが自分を助けてくれるから、この腕以外救ってくれるものは無いのだから。
それでいい。
ぶった切り
はい、このまま行くと黒父と父鬼連合の戦争勃発する未来しか見えなかったので…
いや、でも結構好きな感じなんでしれっと出したらごめんなさい。