今日は何の日第3木曜日の今日は、卵の特売日だ。
成人男性2人の食事量は馬鹿にできない。1番個数の多いパックを取って、その他諸々の食材と一緒にワサワサと帰宅した。
冷凍物、冷蔵物をそれぞれ収納して今日の夕飯作りに取り掛かる。
…バデーニさんは大学講義の日だ。そろそろ帰って来るだろうか。
根っからの研究者な彼は人前に出る講義の日は特に疲れて帰ってくるから、しっかり栄養の取れる食事を作ろう。
よし、と腕まくりをして調理を開始した。
ガチャガチャッ バタン!
「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
特売で買った卵をボウルに割っていると、騒がしい音を立てながらバデーニさんが帰ってきた。
疲れているかと思ったけど、なんだか様子がちがう…?
火の面倒があるのでちゃんと見れないが、思っていたより元気な気がする。
というか
「はあ〜ッ」
ドサリと床に荷物を置いて溜息をつく彼をチラリと見る。
なんか、イライラしてないか?
「バデーニさん、何かありました?今日講義の日でしたよね」
チャッチャッチャッと卵を溶きながら話しかける。
バデーニさんは何かあった時、そっとしておくより話を聞いて発散させてあげた方がいい。
そうしないと1人で溜め込んでしまう。
彼と関係を持って、俺が学んだこと。
「オクジーくん…今日が何の日か知っているか」
「え、今日?」
唐突に問題を出されてかき混ぜる手が止まった。
今日は、5月15日。
何の日かと問われてもパッと思いつかない。
大型連休も終わって、母の日はこの前。次の祝日は少し後だ。お互いの誕生日でも、付き合った記念日でも同棲記念日でもない、普通の平日。
まぁ強いて言えば卵の特売日なのだが、絶対違う。
あ、
1つ思い出した。今日大学の掲示板で見かけた
「国際家族デー」のポスター。
でも、それがこの人をイライラさせるとは思えない。
「え〜っと、何の日ですか?」
正直にギブアップする。そもそもこの会話の目的はクイズじゃないので、バデーニさんの話を聞こう。
「今日は…ケプラーが『調和の法則』を証明した日だ」
「…え?」
思わぬ話題に変な声が出た。
ケプラーの法則…ヨハネス・ケプラーが惑星の運動について記述する、あの?
「そ、そうなんですか。今日なんですね」
「それを…何故!『私が』説明しなければならないんだ」
「え」
突然彼が超新星爆発のように激昂した。
「ケプラーの法則…!『惑星は太陽を一つの焦点とする楕円軌道上を運動し太陽と惑星を結ぶ線分が単位時間に描く面積は常に一定で、惑星の公転周期の2乗は軌道長半径の3乗に比例する』
これは私が先に発見したのにしかもそれを学生に説明するなんて、名誉毀損だ」
ムキーッ!という効果音が聞こえてきそうな剣幕に、思わずたじろいでしまった。
以前、バデーニさんから聞いたことがある。
惑星軌道が楕円であることは400年前にケプラーが証明したが、その200年前…バデーニさんは既に発見していたと。
でもその研究結果は異端審問官に燃やされ、俺たちは星になり、歴史に残ることは無かった。
なるほど、特別な存在になりたかったバデーニさんからしたら面白くない。自分が見つけた世紀の発見と功績を、ケプラー本人にその気は全くなかったとしても横取りされたのだ。しかもそれを今日の講義で生徒に説明したとなると、イライラするのもしょうがないなと納得した。
ドサッとソファに座ったバデーニさんは組んだ方の脚を小刻みに揺らしながら、ブツブツと「そもそも何故コペルニクスの時点でそれに気が付かないんだ」とか、「200年はかかり過ぎだろ」とかまだまだ出てくるイライラを吐き出している。
怒りを吐き出せたならもう大丈夫だ。全部吐き出したらすぐ切り替えられるのがバデーニさんだから。
安心した俺は夕飯作りを再開させた。
…でも、本当に俺に出来ることはないんだろうか。
そう思いながら溶き卵の三分の一を熱したフライパンに流した。
バデーニさんがイライラすることは珍しいことでは無い。感情豊かなところはむしろ彼の魅力的な部分だとも思っている。
じゅわじゅわと焼かれた卵を見ながら、これが惚れた弱みかな、と思った。
でも…少しでも心穏やかでいて欲しいと願っているのも、本心なのだ。
…そうだ。
あることを思いついた。今すぐできる、バデーニさんの心を穏やかに出来ること。
俺は手元に残っていた卵液をすべてフライパンに流し込み、ヘラでクルクルとかき混ぜる。
「む、スクランブルエッグ」
聞こえてくる焼き音が少し大きくなったことに気がついて、ひょこっとバデーニさんがキッチンを覗き込んだ。彼は卵焼きよりスクランブルエッグの方が好きなのだ。
音で気が付いて近寄って来るのが、小動物を思い起こさせて微笑ましい。
「はい。バデーニさん好きでしょう?俺の作るスクランブルエッグ」
そう問いかけるとバデーニさんは
「ああ。君の作るスクランブルエッグは一流ホテルのシェフも顔負けだからな」
この私が言うんだから間違いない、と得意げに笑った。
バデーニさんに笑顔が戻った。やはり愛おしい人には笑っていて欲しい。
そして俺には、そうできる力がある。
すぐ近くにいるから、彼の些細な変化に気が付けた。
そして俺の手ずから、彼を笑顔に出来た。
――なんだか、家族みたいだ。
そう思うと、この世に生を受けたことを祝福されたような、とても満たされた気持ちになった。
そうして焼きあがったスクランブルエッグは、今日もバデーニさんを満足させられるに違いない。