キスの日空調の音と、紙を捲る音が控えめに聞こえる昼下がりの図書館。必要最低限の音しか響かないこの空間は、いつ来ても心地が良い。
今日は研究に必要な資料を所属の大学図書館に借りに来ていた。ネットに膨大な情報が載ってあるが、パソコンで論文を書きながら別のモニターを見たり、ページタブを切り替えたりというのは逆に効率が悪くなることがある。やはり紙の本にはそれなりのメリットがあるのだ。
宇宙・科学コーナーから必要な文献を手に入れて受付へ向かう。返却期限が書かれたカードを渡され、出口の自動ドアをくぐった。
「え〜知らない?キスの場所にはそれぞれ意味があるんだって〜!」
「あんたそういう話ホント好きだよね〜」
私と入れ違いで少しばかり派手な服装をした女学生2人組が入ってきた。静寂な空間に慣れた耳に彼女達の声は余計に響く。それに、過去の偉人たちの叡智が詰まった神聖な図書館という場所に相応しくない声の大きさと内容に、思わずギロリと一瞥する。私の視線に気が付いた彼女たちはハッと息を飲み、そそくさと図書館の中へ入っていった。
この時間は講義の最中だから、大学全体が静まっていて心地いい。歩くたび落ち葉を踏みしめる音を楽しみながら、ふと、先程の彼女たちの会話を思い出す。
キスの場所には、それぞれ意味がある。
ぴた、と足を止めた。
キスと聞いて私が一番最初に頭に浮かぶのはただ1人だった。私の助手で、同居人で、600年の時を経て再会した、恋人のオクジーくんのことである。
彼は愛情表現が豊かな男だ。言葉ではもちろん、身体的接触による愛情表現も「情熱的」という言葉がぴったりなように思える。
そしてキスは、身体的接触による愛情表現の最たる例だ。もちろん彼も、私によくキスをする。
思えば、彼は特に私の頭にキスをすることが多い。おはよう、おやすみという挨拶を目的とするものだけでなく、セックスの時...行為を始める前や、私が達して快楽で前後不覚になっている時もしている気が、する。
そこまで思い出して思わずコホン、と咳払いをした。
周りに誰もいないからといって公然の面前で何を考えているのだ。性欲活発な若輩者でもあるまいし。記憶を払い除けるように頭を振って再び歩き出した。
しかしそれでも...彼女たちの言葉が頭から離れない。キスの場所にはそれぞれ意味がある。もしそれが本当なら、オクジーくんの場合は?
顎に手を当てて考える。彼の性格を鑑みて場所による意味を分かった上で、というのは考えにくい。となると無意識...潜在意識でキスを通して私に対する思いを伝えている可能性がある。
持ち前の好奇心が暴れ出す。こうなったら宿主でさえ制御不能なのだ。私が1番わかっている。
再び立ち止まってポケットからササッとスマホを取り出し、検索ボックスに「キス 頭 意味」と打ち込んだ。
するとあるサイトがトップに出てきた。
「髪や頭へのキスは、相手への親愛の気持ちが強くあらわれています。心からあなたのことを「かわいいな」と思い、守ってあげたいという心理が生まれているでしょう。」
その文章を理解した途端、思わずスマホを握る手にグッと余計な力が入った。そして慌てて周りに誰か居ないか確かめる。今日は外で過ごすのに丁度いい気温だったはずだ。それがなんだか、汗ばむような気がする。
自分でわかる、いま私は耳まで真っ赤だ。
かわいい...守ってあげたい...。頭の中でその単語を反芻する。そう思われているのか。いい歳した男の私に、彼は。
途端、今までのが走馬灯のように思い出される。今までしてきた彼からの口付け。あの時もあの時も、さ、昨夜の行為の時も...!
そこまで思い返して慌ててスマホをしまい、火照った顔を冷ますようにスタスタと何食わぬ顔で研究室へ戻る。こんなの、考えてみれば科学的根拠は何も無い。そんなものに感情を振り回されるなんて、研究者として有るまじき思考だった。こういうのは恋の話に花を咲かせる若者の話のネタであって、英傑である私がいちいち首を突っ込むことでは無い。本気にする方が幼稚だな。
ただ...。ふと考える。自分はいつも彼のどこにキスをしているだろう?雲ひとつない空を見上げて思い出す。正直恥ずかしいことこの上ないが、このままではなんだかオクジーくんに負けたような気がして嫌だった。
そうだ、今朝...彼の形のいい鼻にキスをした。私が起きた頃には朝食を用意してくれていたオクジーくんに、朝の挨拶とお礼を込めて。彼が私の頭にキスをするように、私は彼の鼻に口付けをすることが多いかもしれない。彼の鼻は中央部分が大きく前に出っ張っていて、いわゆる鷲鼻と呼ばれる形。あまり好まない人もいると聞くが、彼のおおらかな雰囲気を象徴しているようで私は好きだし、実際彼のチャームポイントだと思っている。
鼻...。鼻、か。
スマホを再び取り出し、検索履歴から先程のサイトを呼び起こす。「キス 頭 意味」の「頭」の部分を「鼻」に変えて再度検索ボタンを押した。
「鼻や鼻の頭にキスをするのは、その相手を大切にしたいと強く思っているから。」「このキスは、恋人やパートナーの事を自分のそばにおいて、大切にしたいという気持ちが現れています。」
その記事を一瞥すると再び早足で歩き出した。
クソっ!当たっている。