恋煩い(仮)プロローグ
熱い、と思った。身体の中心に、何か熱いものが置かれている。
その熱に導かれるようにゆっくりと目を開けた。目を開けて、今まで自分は目を閉じていたことを知る。薄ぼんやりとした視界の中で認識できたのは、真っ白な天井……と、それを額縁に納めるように薄緑色のカーテンが四方を囲っていた。
どこだ、ここは。
判断するには可視的情報が少なすぎる。けれど、ツンと鼻を刺激するのは、薬品の匂いか?耳を澄ますと、誰かの話声が微かに聞こえた。
「あつい……」
覚醒しきらない頭で再び思った。燃えるような熱さはなんだ?今度は声に出たようで、しかしそれは声と言っていいか怪しい程に音になっておらず、ほとんど空気が掠れる音となって唇を震わせた。
すると
「バデーニさん!?」
視界にひょこっと現れたのは、意外な人物……。ここにいるはずがないのに、なぜ。
「オクジーくん……?」
名前を呼ばれた彼――オクジーくんは、はあっと大きく息を吐いて私に顔を近付けた。
「大丈夫ですか?気分は?どこか痛いところありますか?」
普段から比較的下がっている眉尻をもっと下げて、彼は呆然と見つめる私に詰め寄る。その拍子に右手がグッと握られようやく、「ああ、この熱は彼の手か」と理解したのだった。
「バデーニさん?大丈夫ですか?あの、」
「……うるさい」
今度は私がはぁ、とため息をつく番だった。たった今目を覚ました人間にする質問の量じゃない。
「あっ……すいません」
「……ここは?」
「病院です」
「病院……」
言われてみれば病院の風景だった。私自身入院をしたことが無いから見たことのある風景ではないが、清潔な空気感と薬品や消毒の匂い、先程から視界に入る薄緑のカーテンは患者と患者を仕切るものだろう。経験は無くても、五感で感じる情報すべてがここが病院であることを示していたし、そこで私はベッドに寝かされて、つい先程まで眠っていたことも理解した。
「あの、覚えてないですか?バデーニさん、急に倒れたって。研究室で……」
「研究室……」
その言葉で今朝のことを思い出す。そうだ、勤め先の大学研究室でいつものように議論を交わして……今日はいつにも増して体調が良くないのは、正直自分でわかっていたが、思ったより長時間立ちっぱなしだっただろうか?急に目が霞んで足元がぐにゃりと歪んで……。視界の端に、同僚の慌てた顔を捉えた映像で記憶は途絶えている。
「……で?どうして君はここに。取材はどうした」
まっすぐ天井を見つめながら問うた。私の記憶が正しければ、オクジーくんは取材で地方へ出張中のはずだ。まだ帰ってくる日程ではなかったはずなのに、どうしてここに。彼の手は、未だ私の右手を握っている。
「色々スムーズに事が運んで、早めに終わったんです。観光でもして行ったらとも言われたんですが、俺としては早めに作業に移りたいので帰ってきて……。その途中で連絡があったんです。バデーニさんが倒れたと」
「……そうか。悪かったな」
出張帰りにそのままここへ寄ったのだろう。疲れているだろうに、申し訳ないことをした。
「……あの、俺がいない間、何かあったんですか?」
「……何かって?」
変わらず天井を見つめたままシラを切る。不思議と、彼が言いたいことは手に取るようにわかった。
「お医者さんが、倒れた原因は貧血と睡眠不足だって仰ってて……。ご飯、食べてなかったんですか?」
「……。」
「俺がここに来た時のバデーニさん、すごく顔色悪くて怖かったですよ。その、病人、みたいで……」
「病人、か……」
その言葉にフッと笑いが込み上げた。病人。病気。確かにこの一週間を思い返せば、そう言われるのが正しいだろう。正確には一週間どころか、もっと長い月日だけれど。
「何か、ありましたか。俺に出来ることあればなんでも言ってください。」
ぎゅ、と手を強く握られた。最初は熱い、と不快だったのに、オクジーくんの熱だと分かった途端にとても愛おしいぬくもりに変わる。
――愛おしい。愛おしいのだ。そう認識した途端、ツンと鼻の奥が痛くなった。
「俺、バデーニさんの役に立ちたいんです」
真摯な言葉。真摯で、誠実さがひしひしと伝わる声。それが今は、辛くて辛くて、仕方がない。
「……なぜ」
震えないように必死に声を出した。
「そんなの……。あなたのことが、大切だからです」
途端。ゴトリと、何かが崩れる音がした。
それは、私にしか聴こえない音。私の心が崩れる音。
ようやく、彼と目を合わせた。やっと目が合ったことを彼は喜んでいるようにも、安心しているようにも見える。
その顔を見たら、もう、すべてがどうでも良くなった。
出口の見えない渦に揉まれていたことが、馬鹿馬鹿しい。
「……君のことを考えていた。」
「っえ、俺?」
「君のことを思うと、食事は喉を通らないし夜は頭が冴えて眠れない」
嘘偽りなく答える。今まで溜め込んでいた胸のモヤモヤが、言葉となって昇華されていく感覚に、何故か切なくなった。
「お、おれ……何かしましたか」
「いや、何もしていない」
不安に揺れる黒曜の瞳をじっと見つめる。何もしていないよ、君は。だからこんなに辛いんだ。
「君が好きだ」
「……え?」
ほろりと言葉が滑り落ちた。この数ヶ月、私の中で形成された塊が最後カケラとなってこぼれ落ちる。
「君のことが好きなんだ。恋しいと、思っている」
「えっ、」
瞬間。オクジーくんが手を離した。ずっと感じていた温もりが、病院の冷たい空気に晒される。
視線を動かし、離された手を見る。そこには真っ白なシーツにぽつりと私の手が落ちていた。ずっと握られていたからか、余計に空気が冷たく感じる。
その冷たさは、こぼれ落ちたカケラが無惨にも砕け散った破片の痛みだった。
そう、散った。砕け散った。ずっと変わらず優しく握られていた手が、私の気持ちを聞いた途端、離された。
言葉にしなくてもわかる。離された意味。「拒絶」だ。
それを認識した途端、心の芯が一気に冷えていくのが分かった。バチンと電源を切った機械のように、私の心が消えていく。
同時に、後悔が頭の中を支配した。言ってしまった、オクジーくんに、今までどうにかして悟られないようにと努力してきたのに、何が馬鹿馬鹿しいだ、たかが貧血と睡眠不足で判断が鈍ったと言うのか
あぁまた、彼を、彼を……「不幸」にしてしまう……!
「バデーニさん、あの、」
オクジーくんが何か言おうとしたが
「失礼します〜。バデーニさんご気分いかがですか?」
シャッとカーテンを開けて入ってきたのは白いナース服を着た女性の看護師だった。私と彼女のやり取りを遮ることは出来ず、オクジーくんは端の方で大人しくしていた。
私の手を握っていた掌にぎゅっと力を込めていたのを、気が付かないフリをした。