宿儺のねえちゃん途中 一番記憶をさかのぼって、まっさきに思い出すものがある。
宿儺のよつの腕のうちのひとつと手を繋ぐ、幼い姉の横顔。五つも歳の離れた姉が、弟をふりかえって顔を綻ばせるときの睫毛の影。
姉の細い指が、いような風体の子供の頭をくしくしと撫でる。
そういうときに見上げると、決まって姉は微笑んだ。あねうえ、と、その頃はそう呼んでいた。
宿儺の姉は美しい女だった。
宿儺がそれを「あねうえ」と呼んでいた頃、姉とてまだ女とはいえない年頃だったが、それを引いても美しい娘であった。穏やかで、宿儺の分の善性を 母胎から根こそぎ持っていったのは この姉なのではないかという、そういう性根を持ち合わせていた。そのかわりに体の頑強さはすべて宿儺にくれていたと見えて、体は小さくて細かった。
宿儺が"あねうえ"と呼べば、"はい"と微笑んで返事をする。
はかなげな女であったが、後に続く弟の言葉にすこしでも悪性の覗けば、口答えを許さない声色で断じた。やわらかに微笑んだまま。
「いけません」
宿儺の手をとって何度も、何度も同じことを言う。手弱女であると同時に、従順さとはかけ離れていた。細くて小さいくせに、天の道理の美しさを一身に受けたような、頑強な美しさがあった。
「お前のよつの腕を、そのように使ってはなりません。守りなさい」
∇
「あねうえ」
「宿儺、今日はひざしが強いから、ちゃんと姉の影に隠れているのですよ」
「わかった」
「よいこ」
幼い頃、色薄く生まれた宿儺はいささか日に弱く、姉はいつも弟に影を作るように歩いていた。
親のことは記憶の中にない。血に連なるものは姉しか知らなかった。
宿儺でさえ覚えていられないほどの幼いとき以来 父母の姿を見ていないからか、宿儺がそれ自体にまったく興味がなかったか、どちらもであろう。
姉が持ち込んだ書物を紐解くに、自分たちは生まれの血筋がよいようだった。
調べてみると、少し前には、ときの大臣職にも手が届いたようなお家柄であるらしい。当世には美しく仁徳篤き姫が生まれ、めでたし、めでたし。しかし、そこへ宿儺が生まれた。
よつの腕、よつの眼、禍々しく妙に大きなややこ。呪われているのだと騒ぎになって呪術師どもがあちこちを飛び回ったけれど、ついぞややこを呪ったものは見つからなかった。
呪術師たちは結論づけた。このおのこは、自然発生的にこうなのだ。このやや子こそが呪いたる呪いである────と。
そうなれば、呪いの子と呼ばれるのは変わらなかったが、意味合いは変わる。忌み子と決まったややこは、生み元にとってことさらに恐ろしい汚点となったろう。
そうして、父母どもは三歳になった宿儺を、山奥にわざわざ用意した別邸へと押し込んだ。
宿儺の生まれるまで、おそらく蝶より花より大切に育てられていただろう姉も、なぜかそうなった。自分が姉の手を離さなかったか、姉が自分の手を離さなかったか、いずれかであろうと宿儺は思っている。
異様の男子が残忍な悪性の子であったのは、父母どもの思い違いなどではなかったので、宿儺は自分を遠くへやった生み元の二人のやりようを"こまい虫も考える頭があったらしい"と思っている。かえって、いつも優しげなこの姉のことは"変わり者の女"と思っていた。
まだこの頃ひとであった宿儺にとって、姉は、快も不快もなく姉でしかなく、隣にいれば手を伸ばして繋いだし、頭を撫でられれば褒められたと思った。生まれてこの方そうだったので、宿儺は姉に牙をむいたことがない。ただ事実として姉は弱かったし、宿儺は弱者の気持ちがわからない生き物であったから、姉のことはいつも不思議なきもちで見上げていた。
宿儺と姉の暮らす邸は、人里から離れた山奥にあった。人はおらず獣はいる、完全な野山だ。
それなりの高さの山のぼうぼうと生い茂った木々の中に、結界がおりたように丸く拓けた場所が急にあって、そこにぽつんと不自然に邸が現れる。その邸で暮らしている。
邸は大きく、そこに姉と宿儺、ふたりと顔を合わせないようにしているらしい侍従ども、それきり。あとは呪霊。ひとけのない邸のくせにと思うが、侍従どもの恐れや、父母の呪いが原因か、呪霊はぽこぽことわいた。
いつも宿儺の顔をのぞきこんでは、
「死ね」
「消えてしまえ」
「ばけものめ」
と呪いを吐く。
生まれ持って力の強い宿儺にとっては羽虫に等しい。姉には見えていないそれを、手遊びのかわりに嬲るのが、幼い宿儺の暇つぶしであった。
いま振り返ればつまらぬことだが、実のところ、幼い宿儺は、無用な殺生をしたことがなかった。宿儺の周りには姉と、認識することのほうが稀な侍従どもしかいなかったから、と言えばそれまでである。
かわりにというべきか、その頃は呪霊をたくさん殺した。宿儺を疎むものの呪いが、なにより宿儺の残忍さを育んだのだから皮肉なものだ。
たわむれに、そのへんを漂っていた呪霊の 、手とも足ともつかないところをブチンと千切る。丸こくてぶにぶにとした呪霊は、じたばた暴れて喚きながら宿儺から逃げようとした。宿儺にしてみれば虫の羽をもいで遊ぶ子らと変わらない行いだが、見るものが見たら悲鳴をあげるくらい恐ろしい光景だろう。
ときおり姉にまとわろうとする呪霊があったので、見つけては摘むように殺した。宿儺ですら爪をたてない姉に、他のものが牙をむこうなど、まったくもって図々しいことである。姉にまといつく呪霊の残穢を手のひらではたくようにしていると、くすぐられたとでも思ったのか、姉はころころと笑っていた。
やがて、宿儺の体が大きくなっていくと、侍従どもは邸にやって来なくなった。どうもあの連中は、忌み子が都合よく死んだりしないものか窺っていた節がある。そろそろ術師でなくば手に負えぬと見たか、遠ざけて時間が経ち関心が薄れたか、まあそんなところであろう。
姉弟ふたり、宿儺は力が強かったし、べつに暮らし向きに苦労するようなことはない。
食や入用のものは宿儺がとってくればよかった(方法は色々)し、姉は宿儺の世話をやくばかりの女なので、互いさえあれば生活が巡っていく。
この頃の宿儺は、このまま姉と生きて、死ぬのだろうと思っていた。いずれ姉を娶って子を成すのだろうかと考えていた節すらある。さすがに同父同母の姉弟なので平安の世でも婚姻の対象ではないのだが、隠世のようなこの邸に、世の道理などあってなきがごとし、だ。
姉は美しい。
宿儺をたいそう大切にする。
宿儺も姉を大切にしている、らしい。前に侍従どもがそのような噂話をしていた。そのときはそういうものかと思った程度だが、たしかに宿儺と姉は不便なく共生している。娶るならば、細君として大切にせねばならないらしい。ならばやはり、姉で十全であろう。
そのように思っていたので、幼い弟らしく、宿儺は姉に尋ねることにした。一を聞いて十も二十も知る子であったが、万能の知恵があるわけではない。
宿儺がわからないことは、大抵姉が知っている。知らないことは知らないなりに、結論を探してくれる。なので姉に尋ねる。
袖を引けば、姉はいつものように微笑んで宿儺を振り返った。腰を据えて話をするべきだと思って、よつの腕で姉を座らせる。
「どうしました」
「あねうえは、いずれ、おれの北の方となるのか」
「宿儺の?」
姉はひとまたたきの間きょとりとして、それからころころと笑い、弟の頭をくしくしとやった。
「まあ、北の方だなんて。姉は姉ですから、宿儺の北の方は、別にお迎えせねばなりませんよ」
「あねうえは、ずっとあねうえ」
「ええ、姉は、ずうっとお前の姉です」
「……では、北の方はいらぬ」
「あら、あら、いりませんか」
「あねうえなら今となにも変わらぬから、それならまあいいかと思うたが、それ以外なら、いらぬ」
自然、ふてくされた声が出た。あてが外れたような心地がした。姉は宿儺の手のうちのふたつを両の手で繋いで、手遊びのように跳ねさせている。手を好き勝手に跳ねさせられ、宿儺は姉の手を、残りふたつの手でぺちんとやった。また笑われる。
「まあ、まあ、どうしましょう? 姉は、弟にそんなにかわいいことを言われると思っておりませんでした」
「かわいいことなど言っておらぬ」
「言ったの」
「言っておらぬ、やめよ」
「言いましたとも。わたくしのかわいい宿儺、かわいい弟」
姉はたいそう楽しそうにころころと笑っていた。