雛を育てた日々 夜叉は由緒ある一族だ。
旧きよりこの世に責務を負っている。
我らの血には生まれ乍ら妖魔を屠り、業を背負う意志がある。
それが仙の中でも夜叉族が高貴とされる所以だ。
同時に其れは夜叉が殆ど滅びた理由でもある。
我らの多くは負いきれぬ業に耐えきれず凄絶な最期を遂げる。
我らは其れを恐れはせぬが、璃月の民にすれば厄災にも等しい。
故に、お前のような者が夜叉一族の中に生まれ出でた事を我は……父は誇りに思う。
産んだ卵は、二人で交互に温めた。
七度、月と太陽の光を浴び、三つの卵のうち一つに命を授かったことを知った。
仙人は生まれ乍ら地脈から力を吸い上げて育つ。
地脈が溢れる険しい山の頂を棲家に選び、藁を敷いた寝床で魈と空は向かい合って卵を温めながら様々な話をした。
「何て名前を付けようかな」
「どんな子に育ってほしい?」
「何を好きになるんだろう」
空の問い掛けに、魈は温かな熱をもつ卵を撫でながら考える。
名前、親が初めて子に与える絆の一つ。
魈にとって他者に名を与える事は数千年生きて初めてのことだ。
これまで魈を悩ませた種々の難題はあったが此処まで難しく幸多い悩ましさはないだろう。
仙は数多くの名を持つ。
親から与える諱名、他者が呼ぶための字名、仙人としての号を与えられる事もあるだろう。
「字名は鍾離先生に付けてもらうんだよね」
「ああ。あの方は相応しい名を与えてくださる」
魈にとって、そうであったように。
「生まれたら子どもを連れて三人で挨拶に行こう。きっとまだこの子は人の形にはなれないだろうけど……凄く心配してくれたみたいだ」
「やや子次第だな」
少しざらついた卵に指を滑らせ、魈は殻の内に蠢くものの気配に僅かに目元を緩めた。
仙の力は人には毒にも等しい。それが赤子であったとしても、人には余りにも重いものなのだ。
力の制御が不安定な赤子を人里に連れ出すことは璃月にとって脅威となる可能性すらある。
だが、それより魈には心配事が一つある。
空が仙獣の多くを知らない事だ。
概ね似たような姿をもつ人という種と異なり、仙獣の姿容は多様極まる。
半人半仙となる我が子がどのような姿で生まれるか、魈にも推し量ることはできない。
人にしてみれば異形であることもあるだろう。
空が我が子を拒絶する姿は想像もできないが、人の道理を超えて授かった子だ。空の人格以前に、本能的な部分で我らの子を拒絶するのではないか。
惑うように卵を撫でる手に空の手が重なり、額が触れ合った。
「俺の番だよ」
「……そうだったな」
魈は卵を抱く腕を譲り、空の身体が冷えないように布団を引き上げて空の背を抱いた。
「かわいいね」
「まだ卵だ」
空は何処かおかしそうに笑って魈の額にごつ、と擦り寄せる。
「愛しいってことだよ。この子は俺と魈が繋がってる証でしょ。こうして生きててくれるだけで嬉しいんだ」
「どんな形で生まれるか解らぬ、としてもか。予め伝えたが、人として生まれる可能性は低い……子は我の、夜叉の血に引き摺られるだろう」
そしてそれは、夜叉の宿命を負うことでもある。祝福に満ちた道ではないということだ。
空は黙って卵を撫でる。
卵は惑うように心許なくゆらゆらと揺れて、再び静かになった。
「不安はもちろん、ある。どんな形で生まれるかはわからないって聞いた上で決断したけど……いざ目の前にして俺がどう思うかはわからない。何よりちゃんと育てられるか……心許なくはある」
「例えお前が受け入れられなくとも我は」
「だけどね」
悲壮な決意を語りだしそうな魈の口を掌で塞ぎ、空は続けた。
「命を授かってると解ったとき、嬉しくて胸がいっぱいだった」
秘め事を囁くような空の声は優しく魈の耳に届く。
「この子は魈と俺の間に生まれてきてくれた、それだけで……俺はこの子がどんな風に生まれても行く先を祝福するって決めたんだ」
「「ピィイイイ、ピイイイイ!!!」」
「……そのようなやり取りの末に、お前『達』が卵から孵った」
子は概ね、鳥の雛のような体躯をしていた。
幼いながら背に豊かな羽をたたえ、細い二本の脚でよたよたと揺れながら飯を強請るように交互に口を開いてけたたましい鳴き声をあげた。
地脈から力を得ている筈の我が子は、空の作った飯に味をしめると盛んに口にしたがった。
「魈がいっぱいお話してくれて楽しいね」
魈と二人で食べるはずの満足サラダから空は柔らかな葉や穀物を取り分け、魈の前の器に置いた。魈はいつも不公平にならぬよう交互に雛の口に匙を運んでいた。
サラダを飲み込んでは次はまだかと口を開く我が子は欲目もあろうがかわいらしく、空は思わず笑った。
「お父さんの言葉は理解できるかな」
「できるだろう。相槌も打っている」
空には我が子が杏仁豆腐を強請って首を振っているようにしか見えないが、魈にも身贔屓というものがあるのだろう。
よく咀嚼しているか、飲み込んでいるか確認するように子をうかがう魈の髪が一房卓上に流れた。
サラダの後に与える予定だった真珠翡翠白玉湯に掛かりそうで空は咄嗟に髪を掬い、ふと気付いた。
「魈……もしかして髪、伸びた?」
まだ小さい雛を覗き込んで居たからとはいえ、魈の髪は垂れ下がるほどに長くはなかったような気がして空は眼を瞠る。
取り敢えず己がいつも使っている紙紐で魈の髪をたくし上げるようにして括ると、露わになった面差しは初めて会ったときより何処か精悍にも見え、やおら顔に熱が上る。
「我の姿は写身に過ぎぬ。」
人のように成長するわけがないだろうと言外に告げるのを理解できぬ訳ではないが、空には釈然としない。
「だって……こんなに長くなかったでしょ」
「我の姿がどのように在るか、我には関心がない」
そんなことがあるだろうか。
考え込む空を眺めていた魈は匙を器に戻して空に向き合う。
「お前がそれ程に我の髪が気になるのなら切るが」
「い、いや……!このままでいい……というか、このままがいい、というか」
もう短くはない時間を共に過ごしているのに、長らく想い募らせていた時の様な胸の高鳴りに空はうなじを掻いた。
「髪が長い魈も……綺麗だよ」
じわじわと上る熱は目元を赤く染めて、空は囁いた。
「唐突に何を」
素気なく呟いた積りが、隠しきれぬ悦びに笑みが滲む。
魈の指が空の髪に触れ、頭を抱いた。引き寄せられるままに身を寄せると魈の頭が擦り付けられ、二人で卵を温めていたときのように蟀谷が触れあう。
空の熱を確かめるように魈の唇が耳元に触れ、髪の生え際を辿るように舌が滑る。
「……っ、魈…」
ぞわ、と甘く背を走る感覚に空は魈の肩を掴む。子を産んでから鳴りを潜めてはいるが、空の胎にはまだ卵がある。
それは子が十分に育った頃、再び発情を促すようになると聞いたが、今は余りにも早い。
「空……我はまだ二人目を」
「「ビィ!!!」」
劈くような鳴き声が二人の間を刺す。
二人は弾かれたように離れ、飯を待ちきれずに癇癪を起こした雛を見た。
真珠翡翠白玉湯の椀に顔を突っ込んで居たのだろう、雛達の顔は崩れた豆腐に塗れていた。
「お前達……」
「ご、ごめん。お腹空いてるよね。水晶蝦がそろそろできる頃だから取ってくるよ」
魈が雛達の顔を布で拭うのを見て、空は気恥ずかしそうに頬を腕で拭いながら火の元へと背を向けた。
残された魈は綺麗になった雛の顔を確かめるとため息を付いた。
「弟妹が欲しいとて今ではない、か?我らには時間があるが、空まで同じとは考えるな。」
魈は再び真珠翡翠白玉湯に匙を入れる。とろりと透明なスープに蓮の実が匙の上を一巡りして器に流れた。
「あれはいつ旅立つともしれぬ身。此処に今留まっているのはお前達の身を案じてのことだ」
再び掬ったスープを雛の口に差し入れる。
雛は優しい野菜の旨味に震えるように首を振って再び口を開く。
「故に独り占めしたい、か。まあ……解らぬでもない」
「「ビィ、ピィ」」
澄ましたような鳴き声に魈は呆れたように微笑んだ。仙獣とはいえ、幼さゆえの傲慢が出るものらしい。
「悪童め。そのような物言いは、満足に元素を操れるようになってから言うものだ。」
魈は己の仙獣としての羽を顕した。
風の元素を纏う巨大な碧色の羽は美しく陽の光を返す。
鮮やかな羽を一つ羽撃かせると魈の長い髪が揺れ、周囲の葉が一つ残さず浮いて円を描くように巻き上がる。
風の元素を纏った葉々は淡い光を纏って踊るように陽を目指して舞い上がり、優しい風が止むとともにはらりはらりと羽のように子らの頭上へと降り注いだ。
魈は空を舞う葉を眺め、子らを見た。
「お前達が山を荒らす妖魔に闇雲に元素をぶつけることを強さとは言わぬ」
雛は二つきりの羽を羽撃かせ、目の前の光景に興奮したように声をあげる。
「えっ何してるの?!」
水晶蝦を皿に盛り付けて戻ってきた空は一処にまとめられた葉の山に声をあげた。
「力の使い方を教えていたところだ」
雛ははしゃいで山を築いていく葉の周囲を巡ると風の元素の残る葉に飛び込んだ。舞い上がる葉が雛の頭を隠し、雛はばたばたと泳ぐように葉の中に身を埋めた。
「凄く楽しそうだけど、この分じゃ水晶蝦を食べる前に寝ちゃうんじゃないかな」
卓に皿を置くと、魈は箸でできたての水晶蝦を摘み、己の口に運ぶ。滑らかな皮に包まれた種は海老のぷりぷりとした食感が楽しい。
「我等に食事はそれ程に必要ではない。子が食を求めるのは美食を楽しむが故だ」
「そうなの?」
「お前に甘えたいのだろう。我がそうであるように」
「えっ、ああ……そう、なんだ」
思いもよらない言葉に照れてしまい、咄嗟に何も言えず空は頬を掻いた。
魈は愛の言葉を紡ぐ事は滅多にしないのにふとした時に溢れる言葉は直截に彼の執着を訴える。
魈にしてみれば只人はもちろん、仙人においても上位にあたる。長齢相応の自尊心があり、夜叉族としての立場もある。
「甘えたい」などと口にするような性質ではそもそもないのだ。
況してや大人びたようにすら見える魈にそう言われるのは空の父性を酷く擽られる。
空は魈の隣に腰を下ろすと触れ合うほどに身を寄せた。
「空?」
「俺も魈の事、甘やかしたい」
暫く訝しげに空を眺めていた魈がはたと気付いて気恥ずかしそうに眉を顰めた。
どうやら意図せずに漏れた本音であるらしい。
「それに俺も二人目について前向きに考えてるよ。授かれるかどうかわからないけど、俺だって魈と触れ合う時間が欲しい……」
椅子に置いた魈の手に己の手を重ね、空は顔を寄せた。
重なった空の指に絡まるように魈の指が重なり、吐息が交じり合い、唇はゆっくりと触れ合った。
唇はただ触れ合うだけで離れ、名残を惜しむように顔を擦り合わせて深く手を握り込む。
魈の指が空の頭に触れ、髪の流れに沿って下におり、空の腰を抱いた。
「………、ッ?!」
不意に、どす、と魈の肩に脚が乗った。
雛は椅子に上り、とうとう魈の肩に登ることにしたらしい。
2つの嘴が魈の首を突き、首を傾げてそれぞれが魈の顔をうかがっていた。
雛の羽はピリピリと逆立ち、山の麓と魈とを交互に見ながら警戒するような声をあげる。
魈は子を抱いて空に預けた。
「……妖魔だ。すぐに戻る」
立ち上がった魈の手に和璞鳶が現れ、魈の周囲に闇が滲む。
「「ピィ、ビィイイイ!」」
空の手に委ねられた雛は鳴きながらバタバタと脚を振って羽を羽撃かせた。
「……連れてってって言ってるみたいだ」
「狩りの仕方は教えるべきだが今はまだ危険だ」
「俺も一緒に行くよ。この子には必要でしょ」
暮れ時に闇を纏ったヒルチャールが何かに操られているように徘徊している。
商人が襲われたのか、放り出された荷台が倒れ、あたり一面に散らばっている。
血の跡がないことにまずは安堵したが、木陰から次から次へとゆったりとした足取りのヒルチャールシャーマンまで列をなしていた。
「数が多いな」
山から見下ろしていた空は雛を撫でながら呟いた。
「ものの数ではない」
此処にいろ、と隣で魈が囁くとともに姿は消え、次の瞬間にはヒルチャールの集団の中央で和璞鳶が薄暗闇に碧色の軌跡を残した。
数体のヒルチャールの躰が同時に宙に弾き飛ばされ、地面に投げ出されることなく黒い灰となって崩れる。
一部のヒルチャールは闖入者に気付いたものの、既に魈の姿はそこにはない。
目にも留まらぬ速さでヒルチャールの間を駆け抜け、斬られたことに気付かぬまま更に複数のヒルチャールの躰が崩れ落ちた。
魈の駆け抜けた跡を元素が淡く光を引き、ヒルチャールの仮面を照らしては悲鳴だけを残して消える。
「Nini zido」
複数のヒルチャールシャーマンが杖を振り地面から塔が突きあげる。
ヒルチャール達が口々に「biadam」と獣のような声をあげた。
空の脚まで地響きが届き、暗がりから巨大な盾を抱えた暴徒が魈の槍を止めた。
「ika ya!」
「「ika ya!!」」
濁った金属音が耳を劈き、盾に弾かれた魈が地に低く槍を構えてヒルチャール達を睥睨する。
じわりじわりと魈の周囲の元素が濃くなり、魈の顔が儺面に覆われていく。
「……消えろ」
再び、ヒルチャール達は魈の姿を見失う。
だが遠くから見ていた空には頭上高く跳んだ魈の躰が翻り、槍を構える姿がスローモーションのように見えた。
業を纏い淡い光を放つ槍を地に向けて構え、それは目にも留まらぬ速さで落下し、跡には塵も残さない。
「お父さんは強くて綺麗だね」
空の腕の中で魈の戦いを見ていた雛は不意にけたたましく鳴いた。
「えっ、えっどうしたの?待って」
暴れた雛は空の腕を抜け出すと丘の真下に転がり落ちると、警戒するような声をあげた。雛の前には出ていくタイミングを見計らっていたらしい商人たちがいた。
恐らく、命知らずにも荷物を取りに戻ったのだろう。
「ピィ、ピィイイ!」
雛は近付くな、と警戒を促しているようだった。
商人は小さな鳥の囀りを気にしてはいなかったが、雛の姿が月明かりに照らされるとぎょっとしたように見開いた。
「ば、化け物だ!!」
「………!」
雛にむけて恐怖に振り下ろされた棒をすんでのところで空の腕が受ける。
「う、……ッ」
激痛に顔を歪め、片腕で雛を抱いた空は商人たちを睨んだ。
「この子は化け物じゃない、俺の子だ!」
商人は一瞬怯んだが、雛のふっさりとした一つ躰から生えた二つの首の大きな目が四つ、商人を見つめているのを改めて見てぶるぶると震えながら棒を握りしめた。
「この子はまだこの先にヒルチャールが居るから近付くなと言いたかっただけだ」
「頭がイカれてるんじゃないか?!鳥が……2つも頭のある化け物が子どもな訳ないだろ!」
大声で喚く商人にヒルチャールが気付いたのか、何体かが向かってくる。
それに気づき、空は痛む腕で剣を抜いて叫ぶ。
「死にたくないなら黙って逃げろ!」
「「ピュイ、ピィイイイーーー」」
肉薄するヒルチャールを前に、雛は高らかに声をあげた。
「ギャァっ」
飛び込んできたヒルチャールが何かに弾かれ、塵となって消えた。
「えっ……?」
雛は交互に鳴き声を重ね、透き通ったその声はあたかも歌っているような旋律を生み出す。
空が目を凝らして元素を辿ると、目の前に風の幕が降りていることに気付く。
それは自分たちを守るように囲い、激しく風をを巻き上げてヒルチャールを防いでいた。
「もう、こんな力が……」
仙人は身の内に神の目にも等しい元素を操る器官をもつというが、斯様に幼い時分から操れるものだろうか。
雛は交互に鳴いて壁を維持しているが、遠くからヒルチャールの増援が現れたのが見える。
「もう充分だ。あとは俺が戦うから壁を解いて」
「ピュィイイイッ」
雛は高らかに声をあげて突進してきたヒルチャールを弾く。風の壁は勢いを殺がれながら未だ壁を維持していた。
「ほう。降魔大聖の子は将来が有望だ」
頭上から厳かな女人の声がした。
空がいた丘の上で留雲借風真君が長い首を振って羽を畳んだ。
「降魔大聖の子よ。安心するがいい。此方に来た妖魔は妾が斃した。其方の父もじきに仕事を終える」
「「ピィ、……」」
雛は首を空の腕にくったりと預けると風は徐々に緩やかになり、淡い光だけを残して風の幕は消えた。
空と雛を盾にしていた商人は風の壁が消えるとともに舞い降りた喋る鶴に恐怖が勝ったのか、叫び声をあげて山の麓へと駆けていった。
「外つ国の商人だろうが、不敬な者もいたものだ」
留雲借風真君は嘆かわしいと呆れたような声で呟くと空の腕の中の雛を見た。
「それに比べて……うむ。旅人、子らは其方の愛嬌を継いだようだ。双頭の雉……紛れもなく瑞獣であろうよ」
そう、生まれた雛は一匹ではあったが一つの躰に2つの頭をもって生まれた。
それは2つの頭それぞれが別個の意志をもっていた。
空は剣を収めると子らの頭を撫でた。
雛は甘えるように交互に空の指に擦り寄ると疲れ切った声で鳴いた。
「夜叉から斯様に愛い者が生まれるとは」
留雲借風真君は愉快そうに笑った。
「待たせた」
傍らに降り立った魈は疲れ切っている雛に触れた。
「大事はないか」
「お帰り。俺達は平気だよ」
魈は空の腫れている腕に気づいて眉を顰めた。
「此れは」
「商人が荷物を取りに来たみたいで、この子が止めようとしたんだ。だけどーー」
大凡の事情を察して魈の顔が歪む。空の腕から雛を抱き取り、空の怪我の具合を確かめると留雲借風真君に視線を移した。
「感謝する。助けて貰ったようだな」
「何、妾が来たときには殆ど終わっていた。優しく強い子だ。善き子に恵まれたな」
「……俺達にとっては、そうだけど」
留雲借風真君は長い首を振ると空を見た。
「ふむ。先程の凡人の言葉を気にしているのか。姿容など、我らにはどうとでもなるもの。大した問題ではない」
空は曖昧に微笑んだ。
想像はしていたが、人から子を「化け物」と言われるのは存外に堪えた。現実を改めて突きつけられたような。
この子は自分達の所以外に居場所を見つけることができるだろうか。
本来の姿を知られて迫害されたりしないだろうか。
仙人の影響が薄まりゆくこの璃月の地で。
考えずにはいられない。
空が案じたところで、いずれ何もできなくなる身の上だ。子の成長を見届けることは叶わないと知りながら産むことを選んだのに。
本来口数が決して多くない魈が意識して子に話しかけるのは、いずれ空が旅立つことを見越してのことだろう。
「(そんな俺が心配だけするなんて……調子がいいとも思うけど)」
いずれ旅立つときまでに空に何ができるのだろう。
空の悩みを知ってか知らずか、雛は魈の腕から抜け出ると胸をよじ登り、肩に首を預けた。
子にしてみればあれほど大掛かりな力を使うのは初めてだ。相当に疲れたのだろう。
「お前たちの歌は父の所まで聞こえた。善い声だ」
魈の手に撫でられた雛は顔を見合わせ、「ピィ」「ピィ」と嬉しそうに口々に答えた。それは父に成果を自慢する言葉のようで、魈は空にわかる程度に微笑んだ。
「そうだな。お前達は強くなるだろう」
褒められた雛は満足そうに声をあげた。
短く律動を刻むような声はまさしく歌うようで愛らしい。
「旅人よ。子は其方が思う以上に逞しい」
金色の髪を風に靡かせ、双子が璃月を歩く。
仲睦まじく肩を並べ、懐かしそうに辺りを見渡した。
かねてより約束をしていた人と今日は食事をすることになっていた。
璃月においてひときわ賑やかな広場に程近い店に、その人はいた。
「先生、久し振り」
「待たせた?」
鍾離は聞香杯を降ろし、二人に席を促した。
「いや、俺も今来たところだ。よく来たな」
「俺達も璃月に行こうと思ってたからちょうど良かった。稲妻で先生にお土産を買ってきたんだ」
鍾離に綺麗な紙に包まれた箱を手渡す。受け取った瞬間、ふわりと立ち上る香りに鍾離は目元を緩めた。
「これは……茶の葉か。青いな」
「緑茶っていうんだって。これがお勧めって綾人さんが言ってたから」
「ありがたく頂こう。ふむ、二人とも食後に時間はあるか。家に良い茶請けがある」
二人は顔を合わせ、同時に嬉しそうに笑った。
「兄さんの言った通り。先生はきっと私達にも飲ませてくれるって」
「それは言わない約束だったでしょ……」
二人とも囀るような声は美しく、とるに足らないやり取りは鍾離を微笑ませた。
「食事が来たようだ。食べながらお前達の旅について聞かせて貰おう」
店員はまず卓の中央に吸い物の器を置いた。透明なとろりとしたスープにおぼろ豆腐が真珠のように浮き、翡翠のように浮かんだ野菜の優しい香りがした。
次に透明な皮に包まれた点心が運ばれた。ピンク色の綺麗な種に包まれているのは恐らくは海老だろう。
二人が一際大好きなこの料理を、鍾離はいつも注文してくれる。厚意がありがたく、二人は旅の話をしながら久しぶりの璃月の料理に舌鼓を打った。
「どれもおいしい。長い船旅だったから頬に沁みるみたいだ」
美食は人を緩ませる。口に広がる旨味がじんわりと沁みるようで頬に手を添えて味わう。
「船旅はお前達が体験した通り保存の効く肉や豆類が多く、どうしても栄養が偏る。長い航海の中、水夫を病で亡くす事が多いため、古くよりどのように新鮮な野菜や果物を得るかは重要だ。大きな船では盛り土をして野菜を育て、病を防いだりすることもあるようだが……それができるのは今も一部の船だけだろう。汁物で身体を温まったらサラダも食べるといい」
「うん。ありがとう、先生」
「このサラダ……」
瑞々しい葉を口にすると、和えられたドレッシングの香りに二人は目を瞬かせた。互いに「あれだよ」「あれだ」と確かめ合う二人を眺めながら鍾離は満足そうに茶を飲む。
「「父さんの満足サラダの味だ!」」
「どうして先生が父さんのサラダを知ってるの?」
「何年ぶりだろう……父様だって作ってくれたことないのに」
「鸞(らん)、お前達が帰ると聞いて魈に確認した。魈は自ら作りはしないが、旅人の味は覚えていたぞ」
大切に一口ずつ味わう二人に鍾離は皿を寄せて促す。
懐かしさに笑っていた二人の顔にふと寂しさが過ぎる。
旅人が去ってからまだそう長い年月は立っていないが、生まれてまだ浅い子どもたちには千年の別離にも等しいだろう。
璃月で修練をしていた二人が旅がしたいと言い出したのは、父親の影を求めたからだ。
二人は岩王帝君との契約もなく、魈も夜叉としての宿命を盾に璃月に留めようとはしなかった。
ーー鸞は旅人の子。世界を見て回りたいと思っても不思議ではないでしょう
子が旅立ったばかりの頃、そう言って望舒旅館から子が旅立った方向を眺めていた魈はもはや少年仙人とは呼べぬほど大人びていた。
「杏仁豆腐もある」
「杏仁豆腐……」
そろそろと二人は目を合わせ、同時に頷いた。
「先生のお茶はとても飲みたいけど」
「私達は望舒旅館に帰ります」
鍾離は気を悪くした様子もなく頷いた。
「そうだな。杏仁豆腐は魈の土産にするといい」
「「ありがとう、先生」」
名付け親である鍾離との食事を済ませ、二人は足早に望舒旅館へと向かう。
「父様は俺達が先生にご飯御馳走して貰ったことは知ってるってことだよね。大丈夫かな」
二人は城を出るや手を繋いだ。
「失礼はしてないから大丈夫でしょ」
鸞が人の姿をとるにあたり、それぞれの意志を反映して二人となったが元より躰が一つであったため触れ合っていないと落ち着かない。
「父様の『失礼』の範囲は俺には解らない」
「仕方ないよ。先生は父様の恩人だから」
「でも父さんの話はたくさん集められた」
空が旅立つまで、二人は旅の話を沢山聞いた。
地図の見方、野宿の仕方、初めて入る国でするべきこと、人と接するときに大切なこと。旅を楽しむこと。
それらを糧に空が立ち寄ったと思しき地を一つずつ巡り、行く先々で父を知る人を訪ねた。
自分の知る父親の姿も、知らない姿もあった。
だが、父を知る人は皆、父に惹かれ父に感謝していた。
旅に出る前よりも父が誇らしく、会えない事が以前よりも寂しくなった。
旅の途中で帰りたくなったのはそういう事情だ。折よく届いた鍾離からの誘いは渡りに船だった。
「生生(シェンシェン)」
長い金髪の髪を三つ編みに結った男の子が顔を上げた。
「命々(ミェンミェン)」
肩まで髪を下ろした男の子もまた、望舒旅館の欄干を見た。
二人は視線の先に懐かしい姿を見て思わず笑って駆け出す。
「「ただいま、父様!」」
「子どもの名前は、……強く生きていけるようなものがいい」
初めて寝かし付けた雛を抱いて空は囁く。
「生きていれば、いつかまた俺とも会えるかもしれないでしょ」
生まれた子が双頭の雉だと知り、空は二人が争い、離別することなく共に長く強く生きることを願った。
そこで生命の二つの字を取り分け、それぞれを重ねた名を二人の名とした。