マーリンは呻いて、ばちんと目元を叩きながら天を仰いだ。とはいえカルデア内の召喚ルームにいたので、青空も星空も見上げることはできなかった。部屋の中には魔力の残滓がちらちらと広がって、雪のように溶けていく。
ベールの向こうで瞼を開いたモルガンも、すぐに状況を理解して、艶のある唇からため息をもらし、手にしている杖でこつりと床をついた。
「カルデアのマスター、よくぞ私を召喚しました。貴方はこれを幸運だと言祝ぐべきでしょう。妖精國ブリテンの女王にして、汎人類史を呪い続けるこの私を、カルデアに呼び寄せた。けれど、サーヴァントの身に落とされた以上、私は貴方を生かしてあげます。私が認める限りにおいて。まずは、この言葉に嘘がないと証明してあげましょう。そこな害虫を、永遠に閉じ込めることによって」
面ざしもその声も、凛としていて冷ややかだった。それでいて声音の奥にある厳しさを隠そうともしない。召喚者の隣に立っていたマーリンはだらだらと汗をかき、笑みをいびつに引き攣らせていく。
いましも凄惨な魔術が開かれようとしたそのとき、モルガンの前に進み出る影があった。あたたかくも柔かな色合いの青い瞳を持つ、ほっそりとした青年だった。女王の貫くまなざしを、気負いもなく静かに受けとめている。
「モルガン」
「いささか気安いですね、カルデアのマスター」
ぴしりと撥ねつけても、青年の穏やかさは崩れなかった。
「女王さま。マーリンは、おれの大切な仲間なんです。思うところがあるかも知れないけど、どうか許してやってくれませんか」
「許すも何も。私とその男には、関わりなぞありません」
「それなら」
「けれど知っているのです。古今東西、マーリンと名のつく存在はそれ自体が悪夢だと。貴方は知らないのですか。ならば覚えておくように」
「うーん、お兄さんとしてはだね」
「口を閉じなさい下郎。『九度の輪』にさえ隙間を見い出すなら、もはや牡鹿に変え……いえ、豚肉は好きですか、マスター?」
「藤丸くん、これはもうダメだ。僕は一時撤退させてもらう。また会う日まで元気でね!」
そそくさと言いきると、マーリンはぱっと姿を消してしまった。モルガンは再びため息をついた。
「いつでも逃げ足だけは早い男です」
「そうですね」
立香が素直に同意したので、モルガンはマーリンを追放したこの行為が、マスターに損害を与えることでもあったのだと、気がつくことはできなかった。
「貴方は私が恐ろしくはないのですか?」
新規のサーヴァント、しかもかつての敵だった相手と二人きりにされてしまったというのに、動じるそぶりがまるでないので、モルガンは不思議に思って問いかけた。にこりと、否定のないしめやかな笑顔で立香は応じた。
「女王さまは、どうですか。ここにおれと立っていることを、つらいと思いますか?」
「貴方の考えている通りですよマスター。私はいかようにもできます。不快があれば切り捨てるだけのこと。ここを燃やし尽くすことさえ容易です」
「そうならないよう、がんばりますね」
「期待はしません。貴方は人間ですから。でも……何のしがらみもない場所に新たな肉体で放り出されることは、わりあいに気分がいいものですね」
モルガンが悪戯っぽく、青花で染めたような唇を吊ってみせると、立香が少しだけ目を見張ってから、ゆっくりと顔をほころばせた。
姿を消したあとのマーリンは、別の王の居室を訪れていた。幽閉塔に逃げ込む前に、念押ししなければならなかったからだ。前触れのない唐突かつ無礼な入室に対して小言が吐かれるも、マーリンは追っ手がないことに安心して、ほうと肩を落としていた。仕事の山に相対しているギルガメッシュの傍らに、足を折り曲げながら座り込む。
「いやー、まさか彼女がやってくるとは……」
「昔の女か」
「違うよと言っておくべきだね。それで王さま、僕は暇乞いに来たわけさ。このままここにいると、身の危険があり余る」
「減俸は避けられんぞ」
「彼女の僕への矛先が、いい感じにマイルドになれば戻ってくるよ。なるのかは知らないけど——それまで藤丸くんのこと、よくよく頼んだよ。ああ、心配だな。僕がいないと彼、眠れないだろ? 王さま、ほんとうに、くれぐれもよろしくね。夢のきざはしまで送ってくれたら、あとはこっちからどうとでもするから。主人公が不眠で倒れちゃうなんて、全然ハッピーじゃないぞう」
ギルガメッシュは手を止めないまま、マーリンのうだうだとした訴えを耳に流していた。
「その女は、雑種を害するのか」
問いかけるときにも顔は上げない。手元にある端末のデータばかりを睨みつけている。マーリンはギルガメッシュが親身になってくれないと受け取って、仮の玉座であるワークチェアに近づき、ずいと身を乗り出した。
「ブリテンから離れ、サーヴァントとして存在するだけなら、さほどの脅威はない。だけど気をつけておきなよ。なにせ彼女、かなりの美女でイケメンだから。藤丸くんは行き過ぎた淫蕩も、隠しおおせぬ残忍さも、サーヴァントの個性ということにして済ませちゃうだろ? マスターのために死ぬつもりがない人のことだって、すぐに好きになっちゃうし。僕たちがこつこつと積み上げてきたものを、あの女王さまが全部かっさらってしまいかねないよ」
「よその小間使いにまで手を出すとは、けしからん女だな」
「いやらしい王さまがそれを言っても、まるで説得力がないなぁ」
固い拳が白い頭に落とされた。小気味よい音がしたものの、マーリンは悩むように眉根を寄せただけで「痛い」とは吐きもらさなかった。すでに靴の先から輪郭をほどき始めていた。
「女王さまに藤丸くんを取られたら、僕なんてもう、絶対に触らせてもらえない。だからなんとしてもこちらの陣営につけておくんだよ、渡しちゃだめだよ」
「我とお前がいつ同じ陣営になった」
「僕だってきみのサーヴァントだったじゃないか」
「思い返せば、ウルクでも減俸厳罰に処すべきことをやらかしていたな。あのときは清算せなんだが——」
「それじゃあ、また会う日まで。ギルガメッシュ王、きみに花の祝福を!」
盛大に花を撒き散らしながら、瓶の栓を抜くような音を立て、マーリンは姿を消してしまった。今頃はアヴァロンに向かってせっせと走っていることだろう。
ギルガメッシュはマーリンの焦りに引き摺られるはずもないので、目下の仕事を続けることにした。数件分の区切りがついたときにようやく、部屋に篭りきりではつまらない、館内の様子見にでも行ってやるかと机を離れることにして部屋を出た。だから淡々と廊下を歩いているうちに、新規のサーヴァントと案内をしているマスターに出くわすことは不自然ではなかった。
なるほどマーリンの言う通り、女王は美しい女だった。輝くばかりの美貌だが、それは陽の明るさよりも冷酷な月光に属するもので、ギルガメッシュを見据えるまなざしも氷柱を砕くほどに冷たかった。石膏のように白く、気位の高さを映している面立ちを悪くないと思っていると、それを読み取ったモルガンが先を取り、切りつけるように言い放った。
「マスター、どこの何者です。このいけすかない顔をした男は」
対してマスターは、ちょうどよかったとギルガメッシュの手を引き寄せて紹介した。
「王様です。人類最古の英雄王、ギルガメッシュ。その晩年の姿で顕現されたキャスターなんです」
「ほう……」
モルガンはギルガメッシュをまじまじと眺めた。王として在る者か。道理でいけすかないはずだ。万象を見定める苛烈な赤眼に加えて、楽園の花園の残り香までする。これがなおのこと気に入らない。初対面の印象は、あれよと最悪の方向に転がっていった。
「マスター、貴方が王として戴くのは、私一人で充分なはず」
これにはギルガメッシュがついと片眉を持ち上げた。
モルガンは立香の腕を取り、さりげなくギルガメッシュとの距離を設けさせて、ついでのように立香の肘を曲げ、脇から己の手を差し込んだ。自然な動作だった。しなだれかかるための腕組みではなく、配慮すべきはあくまでこちらの歩みであると言い聞かせる、主人としての態度だった。
「王ばかりか、バーサーカーも、キャスターも、あらゆるものが過剰です。斯様に小さな組織では、まかないきれずにいずれ崩壊するでしょう。見てみればこれは働きすぎた老体の様子。さほど役には立ちませんね。解雇なさい」
「思い上がりも甚だしいことだな、女」
「私が十全であることは事実です」
「雑種を唆して何をするつもりだ。まやかしの国でもこさえるか」
「それもいいでしょう。邪魔な虫がいるのなら狩り尽くすまで」
吹雪を刃で返す応酬を眺めつつも、二人のマスターである立香はのんびりしていた。モルガンの眼には、黙した立香の向こうに「喧嘩するほど——」の思考が視えていたので、
「……マスター、わが國にその格言はありません。やめなさい」
きつく窘めたが、やはり立香に狼狽する様子はないのだった。
「おれはたくさんの人の助けがないと、やっていけないんです。二人とも大切なサーヴァントだから、なるべくでいいので、喧嘩しないでくださいね」
王と女王には、このまま互いが全力で魔力を放つとしたら、立香の柔和な笑みはどのように変化するのだろうという共通の疑問と興味が湧いた。けれどのん気なままのマスターに毒気を抜かれていたのは確かだったので、片やため息をつき、片や鼻を鳴らして二人は背を向け合った。
きれのよい足音が二重に響きだすだろうと思いきや、去り際のギルガメッシュは立香の細首を強引に捕まえて引き寄せ、こまかな用事を言い付けたために、つられた女王の出足のテンポは大きく乱れてしまった。つんのめったときのモルガンの表情は立香だけが見つけていたが、歩みは何事もなかったかのように再開された。
◇