おもかげにして いめにしみゆる(前半) 呉服屋の二階、姿見の前で、信勝は頬が緩みそうになったことを誤魔化すため咳払いをした。つい先程までは学生服の装いだったが、いま身につけているのは雪花絞りの綿麻浴衣。暗い赤地の布の上に、黒花がぱっと鋭く咲き誇り、裾まで並んでいる。
「どこか気になるところはない?」
「あるはずがないだろう! なにしろ姉上が、この僕にと選んでくださったものなんだからな!」
立香が尋ねたのは仕立ての具合についてだったのだけれど、信勝は色柄の話だと捉えたようだ。そして口に出してしまうと、笑みはもう抑えきれなかった。信勝は自分で放った言葉にじんと染み入り、うっとりと鏡を眺める。新しい浴衣を纏っている己に見惚れたのではなく「お前、これでええんじゃない?」と適当に選んだ反物を掴み、差し出してきた彼の姉を思い浮かべてのことだった。
姉の言葉の全てに是を唱える信勝である。角帯は何故か髑髏柄で、銀細工の根付けは山椒魚が選ばれていたが、これらについても「はい!」と食い込み気味の二つ返事で快諾していた。白や紺などの涼しげな色味の浴衣が多く出回る中においては珍しい組み合わせだったものの、全体で見てみると不思議と落ち着きのある着姿になっていた。信勝少年が細身ながらも姿勢よく、姉のことを話す以外では凛とした振る舞いをするためなのだろう。
「信勝くんもお姉さんも、赤がよく似合う」
「姉上に似合わない色なんかないぞ」
認識が甘いことを咎めるように、信勝はぴしゃりと言い放った。
相変わらず仲の良い姉弟だなあと考えて、立香はこっそりほほ笑んだ。姉の方は弟をかなり雑に扱っているが、弟の敬愛は昔から微塵も揺らがないのだ。
「ご苦労だったな。あとで家に回してくれ」
「使うのは来週末だったね」
「お前も来るか? うちで貸し切った屋形船での宴会だ。気兼ねはいらないぞ」
「ありがとう。でも、予定があって」
「そうか、お前も忙しいんだな」
「長可さんの分も仕上がっているから、一緒に持って行くね」
「ああ、うん。今回は大きな船にしたからな、長可が暴れても沈みはしないと思うんだが……」
苦々しいことを思い出したらしく、信勝は顔を顰めた。
再び学生服に着替えてから下に戻り、革靴を履くと「遅くに悪かったな、じゃあな」と短く告げて呉服屋を後にする。立香は軽く手を振りながら、暗い中をきびきびと歩いていく後ろ姿を見送った。
日暮れを過ぎても風は重たく温いままだ。ぼうっと立っているだけでも汗が滲んでくる。麻の暖簾を引き外し、涼しさの残る店内へと戻り、飾っている花の手入れや戸締りを済ませてから母屋に向かう。
勝手口の脇に植えられた紫陽花はまだ鮮やかに咲いていた。紫を一滴落として混ぜたようなこっくりと濃い青を横目に入れつつ、そう遠くないうちに剪定しなくちゃなと考える。紫陽花の花芽ができるのは夏の終わりの時期。来年も花を咲かせるためには、それまでに枝を整えてやる必要があった。
居間に入ると、姉と酒呑がテーブルの上に酒器を広げていた。
「おかえりぃ」
「カッツのは大丈夫だった?」
「うん」
夕飯の片付けは二人が済ませてくれていたようなので、立香も空いている椅子に腰を下ろした。グラスと麦茶のボトルを取ろうとすると、
「坊も飲み。もう体はええのやろ?」
言いながら酒呑がびいどろの盃を突き出す。とりどりの色粒を閉じ込めた涼やかな吹き硝子の器は、明かりに照らされると丸く小さな影をテーブルの上にいくつも散らした。
「じゃあ少しだけ」
「かなり久しぶりだったよね、あんなに熱出して寝込んだの」
「ご心配をおかけしました」
苦笑する立香は、先週までほとんどを自室で過ごしていた。寝込むことも、声が出なくなるほど喉を腫らしてしまうことも、姉の言う通りに久々のことだった。発熱のピーク時のことは朦朧としていてあまり覚えておらず、辛かったのはむしろ快方に向かって暇と体を持て余しているときで、ものを飲み込むたびに喉が痛まなければ食事の支度ができたのにと、かなり歯がゆい思いをした。
「今夜のお夕飯、えらい豪勢やったわ。おかげで肴にも困らんし」
「つい楽しくて。作りすぎたね」
「一兄ちゃんがさっき様子見に来てくれたから、おかず詰めて渡しといたよ」
「余り物でよかったの?」
「豪勢だなぁって喜んでた」
そう、と呟きながら盃に口を付ける。澄んだ液体は舌に残る苦味もなく、すっと爽やかに喉の奥に吸い込まれていく。心置きなく飲み込めることが嬉しかった。
「お見舞い、あちこちからぎょうさんもろたなぁ」
「うん、お返ししないとね」
「そういえば社長さんが持ってきてくれた水無月、おいしかったよねぇ。びっくりするくらいもちもちだった」
立香が寝込んでいた六月の末といえば、一年の折り返しにあたる時節である。半年の間に身に溜まった穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事『夏越の祓』が行われる時期でもあって、このときに食べられるのが水無月という菓子だった。暑気払いの氷室の氷を模した三角の外郎生地には邪気祓いの小豆が乗っている。姉たちは冷蔵庫で少し冷やしてから、しっかりと弾力のある食感を楽しんだ。けれど当時の立香はまだぼんやりしていて「きっとすごくおいしいはず……」とは思いつつ、荒れの引いていない喉につっかえつっかえに飲み込んで、これまた悔しい思いをした。
「社長はん、水無月の意味、知っとるんやろか」
「どうだろ、ちょうどお菓子として出回る時期だったからね。りっちゃんの健康祈願を込めたとも充分考えられるけど。何にせよ、りっちゃんがいるから私たちいつも美味しいおこぼれに与れてます。ごちそうさまです」
酒のせいか、姉の声はどこかふっくらしていて音が高い。盃の中身が減ると、酒呑が何食わぬ顔でするすると酒を追加していくからだろう。姉の手元には水を注いだコップを寄せておいた。
「ギルガメッシュさんへのお返し、何がいいかな」
「それはりっちゃんが考えないとだめでしょ」
「だけど欲しいもの、あまりないみたいで」
「うーん、いつも通りだけど食べ物系でもいいんじゃない? 買うもよし、作るもよし。あとは普段使いの日用品とか。それか一緒に出かけたときに見たやつで、あれいいよねー的な話題になったものとかないの?」
「ないなぁ……。ギルガメッシュさん、物欲がないから」
「坊、本気で言うてはる?」
「だって一緒に買い物に行ったときも、結局——」
年明けの繁忙期に助けてもらった返礼として、好きなものを選んでもらいプレゼントしようと、二人で連れ立って出掛けた先ではあれこれと見て回った。しかしついぞギルガメッシュから「これが欲しい」と示されたことはなかった。
立香は遠慮はいらないからと様々な提案をしてみたのだが、結局のところギルガメッシュが望んだのは『立香を抱えて眠ること』で、振り返ってみるとそれが二人の交際のきっかけ、あるいは馴れ初め、ということになるのだろうか……などと考えてしまうと、無性に気恥ずかしくなってきてしまった。
このままでは「お酒のせい」では誤魔化せないほどに顔を真っ赤にしてしまいそうなので、詳しいことは思い出さないように努めながら、掴んでいる小さな盃を指先で撫で続けた。
「——大したもの、贈れなかったんだ。着物ならうちに沢山あるけど、ギルガメッシュさん普段着は洋装だし、すごくいいものを身に付けてるから、下手に服飾品に手を出すのもなぁって」
「お金持ちだもんなー、欲しいものがあれば自分で買っちゃうか。でもさ、りっちゃんが渡すものなら何でも喜んでくれるんじゃない?」
ギルガメッシュのことを〈親切で優しく、面倒見がよい〉と信じて疑わない立香なので、姉の言葉に大きく頷きはしたが、
「だからこそ悩むというか、かえって気を遣わせちゃうんじゃないかなって、心配になるんだ」
黒眉を下げ、唇からため息をこぼした。その様を眺めてころころと笑ったのは酒呑だった。
「そないに気張りないな」
「そうそう、よっぽどおかしなものを選んだとしても許してくれるよ」
「うん、全然怒らないもんね、ギルガメッシュさんって……」
言うと姉と酒呑が薄笑いを浮かべて口をつぐんだ。
沈黙が差し込むと、もしかするとこれまでの話の流れは、立香がただ惚気ているようなものだったのではと、そんな風に思い至る。胸元がさらにむず痒くなる心地がして、じっと座っていることが難しくなった。
立香は空になった盃を流しに下げてしまい、二人に、
「お返しのいい案が思いついたら教えてね、おやすみ」
と言ってそそくさと居間を出た。
冷房が効かないむしむしとした廊下に出ると、再びため息をつく。以前とは違い、家族と気楽にギルガメッシュのことを話せなくなった。交際相手のどこまでを口にしていいのか、立香にはいまいち掴みきれないのだ。
(山南さんに会えたら相談してみよう……)
いいアドバイスをくれそうな人は身近なところにも大勢いるが、身近だからこそ相談し難くもある。立香自身の経験値が低いことは今更どうしようもないとはいえ、迂闊なことをしてギルガメッシュに迷惑をかけないよう、せめて心づもりはしておきたいものだなと思うのだった。
「聞いた?」
「聞いた」
まだ椅子に腰掛けたままの女たちは、立香の影を追うように、閉められた引き戸をじいっと眺めやっていた。
「ええ具合に捻れとるわぁ」
「福ちゃんがいたら、めちゃくちゃ怒るし叱られてますけどって盛大に文句言ってたね」
「お返しもなぁ。いらんやろ。社長はん、坊をかわいいかわいいするので満足してはるし」
「随分まめに貢ぐよねー。忙しいだろうに」
「健気ぇ」
「うーん、私もそう思ってたんだけどさ……」
「ふふ、邪なんは、きれいなお顔が上手に隠しとるからなぁ」
「なんかさ、社長からりっちゃんへの貢物って、お菓子くらいなら全然いいとして、ゆくゆくは宝石とか不動産になったりしないよね? 怖いんだけど」
「坊はきちんと断れる子ぉやから」
「そうしてくれることを願うわ……」
「そやけど、お姉ちゃんが気にした方がええのは、坊がするお返しのことやろ」
「えー、何でもいいんじゃないのって言ったのは嘘じゃないよ。実際そうだろうし」
「うん、坊やったら『おれにできることやったら何でもします』とか言うえ」
すでにもう言ったことがあるとは、ギルガメッシュのみが知るところである。しかしその時その場にいなかった姉は、いかにも弟が言い出しそうなことだなと想像して、眉間にぐっと皺を寄せてしまった。
「そしたら社長はん、手ぇ出さんわけあらへんからなぁ。まぁそれはそれとして、坊と一緒に暮らしたいとか言い出したらどないするん?」
「お、おおう?」
「小ちゃかった坊も、すっかり大人にならはって。まぁまぁ一人前の男になった言えるやろ。そんな大人同士の付き合いやったら、なぁ」
「いや、でも、早くない⁉︎ りっちゃんこれまで全然そういうのなかったし、あの二人が付き合い初めてからまだ一年すら経ってないし!」
「硬いわぁ、お姉ちゃん。若いのに」
「いやいやいやいや! そんな急に、ど、同棲とかしないでしょ。えっ、したいのかな? 社長はしたがるかもだけど、りっちゃんは……」
「思い切りええところあるわな」
「あるなあ! うわー、全然、考えたこと無かった。りっちゃんがうちを出ていくことがあるかもなんて……」
「なくはないっちゅうだけやけどな」
「なくはないか……そうかー……」
「反対する?」
「んー……しないこともないかも。だけど弟を取られたくないとか、そういうのじゃないのよ。大人同士だからこそ、ちゃんと色々なことを考えておかないといけないでしょ。先々にどうなるかなんて、分かんないものだもん。色ボケで暴走しようものならひっぱたいてやんないと」
「難儀やなぁ、『お姉ちゃん』は」
「りっちゃんの方が実はしっかりしてるから、余計な心配だろうけどね。昔からほんとに手がかからなくて、浮いた話もなかったりっちゃんが、大きくなって……」
弟の成長を振り返り、昔を懐かしんでいるらしい。しんみりしている姉の顔を眺めて、酒呑はぽんと提案してみた。
「いっそ社長はんを婿取りしよか?」
「えっ?」
「坊が家におった方がご飯がおいしいしなぁ。うちは社長はんがここに住んどってもかまへんし」
あまりに気軽に言われたので、姉は「そういうのもありか」と一瞬納得しかけてしまった。しかしすぐにギルガメッシュの風格あふれる立ち姿を思い浮かべ、
(あれが毎日うちにいるだと……?)
自分の日々の生活——だらしない格好で寛いだり、弟に手作りのおやつをねだったり、従業員や近所の友人たちと能天気に飲み交わしていたりする——の傍にギルガメッシュがいるということを想像すると、無性に落ち着かない気持ちになった。
「無理だわ。荷が重すぎる」
「そぉ? ええ男が近くにおるんは、目に楽しいのに」
「酒呑ちゃんがよくてもダメ。そもそも社長はここに住みたいなんて思わないでしょ」
「そうやろか」
「絶対思わないって。私たちのことやかましい小娘扱いしてるし、ご近所中からやいやい言われたり噂されたり」
「別にいつも通りやない?」
「一兄ちゃんは物申したそうにしてるし、晋作くんはしょっちゅう顔出すし、頼光さんは挨拶させろって言ってるし」
「ああ、そら煩わしいわなぁ」
酒呑はつまらなそうにぼやいて、盃を呷った。
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