天と地を貫くかのように聳える凌雲山、萋州国においては峯抄山と呼ばれるその頂には、王の居城、峇水宮がある。この宮を遥かな高みから見下ろすことができたなら、湖のように広がる浅葱色の屋根が、本物の水池と重なりながら、典雅な橋の数々によって結ばれている玲瓏な光景を眺めることができるだろう。
地にあれば山の頂は天と同じに遠く、頂にあっては地上の街明かりは砂粒のように小さい。それぞれは雲海によって隔絶された別世界だった。それでも宮の庭院に芽吹き枝伸ばしている植物たちは、照る陽の変化を敏感に汲み取り、地上と同じように春には春の、夏には夏の花を咲かせ、見る者たち(その多くが寿命から離れた仙である)に生命の循環があることを知らしめる。王の私室に面した場所に植えられていた空木もまた、真白の花を満開にしていた。夏の訪れを告げる落葉樹は、陽が落ちれば月光の下、夜風に葉を揺らす。この時期の風に含まれる熱と湿り気は、梢の合間のみならず、室の中にも流れ込んでいた。
「またか……」
呆れた声で呟いたのは王の半身、王を王たらしめる麒麟だった。号は洒麒。しかし王は昔の名残で「コウ」と呼ぶ。夜目にも眩しい金の長髪を垂らす彼が呆れたのは、玻璃が嵌め込まれた露台向きの窓も、上質の糸だけを用いて編まれた夏季用の帳も、すっかり開け放たれたままだったからだ。室に足を踏み入れた瞬間から、王の寝顔が丸見えになっている。ここはお前の暮らしていた地上ではないのだぞと、何度諭しても無防備が治らない。厳重に守られた宮城に居ようとも、若き新王はまだ朝廷を御しきれてはいない。用心を欠かすべきではないのに、当の本人は危機感薄く、首やら脚やらを晒して眠っている。ここに押し入ってきたのがコウでなければ大事である。もちろん、そうした不測の事態が起きぬよう、手を打ってはいるのだが。
溜息をついたコウは、自身が王であるかのような図々しさで、精緻な彫刻が施された支柱の向こう、豪奢な牀榻の内に上がり込んだ。そのまま横になり、立の体を引き寄せる。子は体温が高いものだという。赤子の一人さえ抱えたことのないコウだが、立の体に腕を回していると、その論には信憑性があると思われた。立はいつなりと暖かい。このぬくもりと、甘さを含む柔らかな王気を感じながら寝入ることは、コウにとっての当たり前になっていた。
しかし立は、夏の時期ばかりはこの習慣を苦手にしているようだった。糊で貼ったようにして覆われている背中が熱の逃がし先を失って汗ばみ、眉は悩ましげに曲がる。意識のない腕と足先が、涼しいところを求めてさ迷う。コウは絡めた手脚を解くつもりが毛頭ないので、立の苦悶の身じろぎには無視を決め込んだ。むしろ定まった位置に身を落ち着けられたことで、うとうとと寝入り始めていた。虚になりつつある紅眼のふもとには、黒い産毛の生えた首筋が転がっている。唇を押し付けながら肌を食んだのは無意識だった。舐めると少しだけ塩の味がした。立は甘いのだかしょっぱいのだか……。
身体を折りたたむようにしながらさらに立を閉じ込め、寝息も二重になろうとしたそのとき、
「……はくがん……あついよ……」
こぼれてきた寝言がコウの目をぱちりと開いた。気を抜いていたところに水をさされたので、端麗な面立ちが仏頂面に切り替わる。立を抱いているのはコウであるのに、夢の中では箔鴈とじゃれあっているのだろうか。舐められて何故我の下僕の名が出る。
『——申し上げておきますけれど、立どのと私の間に、やましいことなど何もありはしませんからね』
影の中から寄越された声音はどこか弾んだものだったから、余計に神経が逆撫でされる。
「当然だ。面白がるな」
不遜な虎の髭が届くところにないので、コウは苛立ちのままに腕の力を強め、額でぐいぐいと黒頭を押した。立がか細く悲しげに呻いた。
『今宵は私の髭も重くあるほどです。意地悪をなさらず、離れてお寝みなされませ』
「これは我の枕だ」
『立どのがお気の毒です。上気てしまいますよ』
コウは莫迦にするように鼻を鳴らして、立の腰帯を解くと小衫もろとも引き剥がし、そこらに捨てた。丸裸でいるとさすがに寒いのか、立はコウの腕の中でじっと穏和しく動かなくなった。
「これでいいだろう」
『またそうやって……。お風邪を召されます』
「人の子でもあるまいに、風邪やら病やらになるか」
『お心遣いが足りぬということです。ここはもう蓬山ではないのですよ、そうやって何もかもが我のものだとして振る舞うのは相応しくありません』
「お前はいつから小言係になった」
『これは小言ではなく——うん、そう、乳母心というものでしょうな。常に立どのに付いてお守りせよと、台輔が仰ったのじゃないですか。だから私はうんと立どの贔屓の味方であるのです』
「牙が剥き出しの阿呆な乳母なんぞ、直ちに頸切りよな」
『私を蔑ろになさると、ぽろりと吐き漏らしかねませんよ。立どのは寝相が悪くて裸になっているのではなく、わが主の我儘と下心によってひん剥かれているのだと。立どのは、こちらに越してから変な癖がついてしまったようだと、密かに悩んでおられます』
元が耕人の働き者の王なので、ほとんどの場合において立はコウよりも先に目を覚ます。すると美しい寝姿のコウの真横で、だらしなく寝散らかしている自分という図を目の当たりにしてしまい、赤面しながら衣を探す羽目になるのだった。
「裸で寝むことの何が悪い」
『女仙どもも、台輔のこのご気質ばかりは正せませなんだなぁ……。常々が裸たる私が言えたことでもございませんが、恥じらいの一つ二つ、身につけておいて損はございませんよ。——言っても無駄でしょうけれど』
朝の陽射しも差さぬ頃合いに、丸い藍目がぱかりと開いた。起床の時刻は体が覚え始めていた。しかし身動きができないのは、麒麟が立の体を丁寧に包んでいるからだった。
立は「またやってしまった……」と己の行儀の悪さを恥じつつ、回されている太い腕からそっと抜け出して体を起こした。何度目だろう、暑さのあまり寝ながら脱衣して、肌寒くなればコウにくっついて暖をとってしまうのは。なんでこんな風になるのかな——と思っていた。誤解を改められる当人は目覚めが遅いので、立はしんとした暗がりの中、横たわっている麒麟の、疲労の残っている美しい顔をぼんやりと眺めた。窓から吹くわずかな風にさえ流れる軽やかな髪を耳にかけてやり、詫びを込めて優しく頭を撫でた。
王を迎えに来た近侍たちに付き添われ、沐浴と身支度を済ませると、朝の手習いが始まる。能筆家には程遠い立なので、目下のところは古人の尺牘を真似て筆を動かす日々である。硯が空になる頃には、実務に関わる書状が届き始める。これも今のところは言われるままに目を通しておくばかりだった。
区切りがつけば後宮に赴く。この頃には外に陽光が満ちて明るくなっている。立には妻も子もないので、建ち並ぶ宮の多くはがらんどうになっているのだが、正寝にほど近い典章殿は立の母の住まいになっていた。コウは食事よりも睡眠を優先するから、朝餉は一人きりか、母と二人でとることが多い。仙籍に叙され、三公の一、宰輔の臣下たる太傳に任じられた母・茈枇の役割は、麒麟と共に王を補佐し、教育すること。しかし立は今のところ彼女から「王として斯く在るべし」と言われたことがなかった。コウが一から十まで万事につけてガミガミと口を出しているから、単に出番がないだけなのかも知れない。
茈枇は今日も王の親近者としては質素な身なりでいて、凛と結い上げた深紫の髪に珠金の一つさえ差していなかった。自ら厨房で米を炊いて食事を作り、日中は立と同じように庭に敷いた畑の世話をし、合間には襦裙を繕うか、夫から受け継いだ書物を読むなどして、慎ましく暮らしている。コウに頼んで手配してもらった教師から、儀礼を学んでいる最中だとも聞く。
順応性の高い母が有り難いやら羨ましいやらだが、どうしてこんな雲の上の場所にまで付いて来てくれたのだろうと、登極して数年経った今でもなお、立は不思議に思っていた。母は父と同じように、地上で暮らす道を選ぶことができた。王城での生活に、戸惑いや不安がないわけではなかったろうに——。
箸を動かしながらぼうっとしていると、向かいに腰掛けていた茈枇が声をかけてきた。
「惚けたお顔をなさっていますね。眠れなかったのですか?」
登極以降、茈枇は立への言葉遣いをきっぱりと改めた。息子は国主であり、己とは違う立場にあるということを忘れまいとしているのだ、と立は解釈している。一度決めたことは貫く母だから、家族で厩舎の牛たちの世話をしていたあの頃のように、打ち解けた会話をすることはなくなったのだ。寂しい気もしたが、不思議と態度には隔たりがないままなので、食卓の配膳は王であれいつでも手伝わされている。
「ううん、しっかり寝たけど……おれって寝相が悪いのかな?」
問うと、茈枇は思い出す素振りをしてから答えた。
「臥牀から落ちたのは五つのきりです。その夜は翌日の祭りを楽しみにするあまり、興奮して寝付きにも苦労していました」
「じゃあやっぱり、こちらに来てからなんだ。ああなっちゃうのは」
立は小声でぼそぼそと呟いた。まさか母に、寝ながら裸になる癖がついたようだけどどうしようとは相談しにくい。茈枇は茈枇で、息子が何やら思い悩むことがあるようだと察したが、持ち前の賢明さで深刻な案件ではないことを悟り、追求は控えた。
ただし食事を終えて朝議の準備に向かう立を見送るときには、自身よりも背丈が伸びた子の頭、冠が載る前の部分を、励ますように優しく撫でてやった。
「さあ、しゃんとして、台輔の仰ることをよくお聞きになるのですよ」
「はい。いってきます」
立が頷く。登極したばかりのころは顔を青くしながら言っていたこの台詞も、近頃では笑みが混じるようになってきた。茈枇も薄く笑みを返して、歩き出した背に向かって深く頭を下げたあとは、きびきびとした足取りで室内に戻り、掃除を始めた。
許しがない限り、誰であれ王の前で頭を上げることはできない。冢宰の婀山もまた礼に則って、控えの堂室では深く叩頭して立を迎えた。いつの間にやら支度を終えて姿を現していたコウは、犬猿の仲といえる男の頭を存分に見下ろすことのできるこの機会を気に入っているようだが、立は間を置かずに顔を上げるよう告げてしまう。そして厳しく扱いてくる臣下に向けて、挨拶とともに柔和で懐っこい笑みを浮かべるのだが、愛想が皆無の婀山はいっそ非礼と取られかねないほど冷たくあしらい、朝議の題目を手短に述べ連ねた。
頬のこけた厳つい顔立ちと、艶のない黒真珠の瞳、起伏のない低い声。コウは婀山が人情を有しているのだろうかと本気で疑っている。皮肉以外では笑むところなど見たことがない。驚くことも、焦ることもない。コウは己が麒麟に相応しい性質を有していないことを自覚しているが、天地が逆さになろうとも、婀山だけは麒麟になることはないと確信していた。
「——参りましょう」
彼が一声を発するだけで、周囲の者たちは身を引き締める。
外殿の朝議の間には、すでに諸官が立ち並んでいた。出座を告げる銅鑼が打たれると、一斉に膝をついて頭を垂れる。六官の長である婀山を先頭にして、王は麒麟を従えながら壇上の玉座に向かった。
茈枇:「愛そうか、殺そうか……」のスカサハ=スカディ。実は一話からいる。コウ曰く「見目の割に豪胆」
婀山:アグラヴェイン。誰にでも厳しい。愛想がない、情がない、血の気がない、ないない尽くしの朝廷における実権保有者。