もしも、どこかの、世界より 人間の男と友になった。
美しい男だった。
確かに眉目秀麗の見た目であったがそれだけではない。
その心も。
初めて出会った時、美麗な見た目にそぐわず、つまらん男だと思ってしまったことを、この先ずっと後悔するのだろう。見えなくてもそこあるものを見ようとしてなかったのはこちらの方だった。あの男の清らかで愚直で柔い、でも芯のある心。まるで少年のようにピカピカと光ってでまろいカタチでそこにあったというのに。
踏み躙られるまいと守るように纏っていた虚勢の鎧をもっと早く脱がせてやれば、ずっと早く仲良くなれたかもしれない。惜しいことをした。
元々人間は大嫌いだった。人間によって自分たち一族は散々な目に遭わされてきた。先祖から、自分も最愛の妻も、我が子に至るまで。本当に散々だった。
しかし、あの男に会って好きになれる人間もいることがわかった。己が命もそれ以上も預けらるそんな人間が。おかげで全てを憎まないで済んだ。これからを信じてもいいと思えた。あのような人間が造っていく未来が見てみたいと思えたよ。生まれてくる我が子にはそこで生きていってほしいと。
でも結局見ることは叶わなかった。
もう死にゆくのを待つだけの身となってしまったワシら夫婦を助けるため、あの男は文字通りその身を削ってしまったのだ。子が無事に生まれ育ち、自分達は少しずつ回復したが、それに引き換えるようにあの男は……。
本当に嘘の上手い奴だ。
自分達にそれを気取られないように限界まで隠し、ある日急にいなくなってしまった。まるで眠っているように、とても安らかに。
あの美しかった友は今や骨になってしまい、ヒヤリとした墓石の下に収められている。燃えるようなあの体温はもうどこにもない。
愛妻がこの腕の中に戻ってきた。何を差し出しても守りたい我が子も無事に生まれ元気に育っている。全部、全部友のおかげだ。どれほど感謝しても足りない。この上ない幸せをもたらしてくれた。これ以上何かを望んではバチが当たる。
しかし、それでもな、水木。
お主にもう一度会いたいという思いがどうも抑えられん。一目で良い、どうかその姿を見せてほしい。それが叶うのであれば、どんなに遠く離れた場所でも向かおう。どれほどかかってもかまわん。だからお主を再びこの目で見ることができる、そんなところがあるのなら教えておくれ。どうか、どうか。
「なかなか良い家じゃのう。ありがとうな、水木。」
我が子と友と自分の三人家族。持てるだけの荷物を抱えてこの度この一軒家に引っ越してきた。これまではずっと間借りで生活してきたのだが、息子の鬼太郎が大きくなり、少し手狭になってしまった。鬼太郎は大人しい子ではあるが、やはり男の子。年々活発になってきた息子がもっとのびのび過ごせるようにしてやりたいと水木が探して回り見つけてくれたのがここであった。こじんまりとした借家ではあるが、広さは前回と比べるまでもない。小さな庭もあるようだ。
新しい家を前に鬼太郎は、着いた途端にありこちを興味津々といった感じで覗いている。その様子を目を細めて眺めている水木に礼を言った。
「どういたしましてと言うほど大した所でもないがな。ただもう下の階は気にしなくて良い。鬼太郎もある程度自由に過ごせるぞ。」
そうなんでもないことのように言う。
今日の引越しまでそれなりに苦労しただろうに、全く感じさせないその気丈な笑顔に胸が跳ねる。
綺麗じゃのう。
梅雨明け間近の晴れ間、太陽に照らされたその笑みは光り輝いていて、瞬きも忘れて見入ってしまった。
「トラックが来たら荷下ろしで忙しくなるからな。その前にざっと家の中を見てみようぜ。鬼太郎行くぞ。」
見惚れている自分など少しも気にせず、鬼太郎に声をかけて新居の鍵を開けて進んでいってしまった。その背中に鬼太郎が慌ててついていく。そんな様子を微笑ましく思いながら、自分もゆっくり二人を追いかけた。
「借りるのが決まってから掃除に入ってくれたみたいだな。」
風呂場や台所、居間を順番に見て回りながら水木が言う。数年借り手がいなかった割に綺麗なのはそういうことらしい。家具はこれから運び入れるのでもちろん何もない状態なのだが、台所の隣にある居間の片隅に、男所帯には縁のない鏡台が置いてあった。物珍しいものに三人揃って覗き込む。
「なんだこりゃ。前の住人の忘れ物か。」
「懐かしいのう。妻もこのようなものを使っておったわ。」
一瞬の間、鏡に何か映ったような気がしたが見間違いだろうか。特に奇妙な気配も感じられない。
「そうだなあ。奥さんみたいな女性がいれば使えるんだろうがなあ。」
あいにくこの鏡台の主人になれそうな者はうちの家族にはいない。妻は鬼太郎を産んだ際に亡くなってしまった。
在りし日の妻がこのような鏡の前で支度をしていた姿が思い出される。元から綺麗なのだから化粧などせずとも良いのにと思っていたものだ。その時間でもっと自分を構ってほしいと駄々をこねたら呆れたように笑われた。そんな顔も可愛かった。
あの日を恋しく思う。何年経っても彼女がこの世にいないことが切なくてたまらない。
思わず俯けば後ろ頭を撫でられる。慰めるように髪を滑る手の持ち主は隣にいる水木で、その厚さも熱さも全てが妻の手とは違うのに、懐かしい気持ちになる。その手を取って頬を擦り寄せれば、目の前の男は困ったように微笑む。そのとき、玄関からと声がした。
「荷物、来たみたいだ。出てくるよ。」
熱い手が離されて、水木が玄関の方へ去っていく。それをまた追いかけていく鬼太郎を見送って、ひとり残された部屋でそっと、鏡台を撫でた。
新居に引っ越してひと月が経った。顔と愛想の良い水木のおかげで、ここでも日々の買い物に行けば店主の奥方が毎回色をつけてくれる。今も可愛い倅はその恩恵にあやかってさーびすで貰ったコロッケをニコニコと頬張っている。それを愛おしげに眺めながら、何くれと世話をやく水木を見ていると、とても嬉しくもあるのだが、同時に自分も甘えたくなった。こちらを見てほしいと、食事に夢中の鬼太郎の目を盗んでそっと水木の腰を抱けば、びっくりしたようにこちらを向く。普段より僅かに見開かれた紺碧の瞳に映る自分の姿に満足する。驚いた表情はすぐに呆れ顔に変わり、腰に回した手の甲をつねられた。ツレない態度に寂しくなるが、そのすぐ後に耳元で「後でな。」と囁かれて機嫌はぐんぐんと上を向く。自分の食事を再開しつつ、もぐもぐと咀嚼をする倅に向かって「今晩は早く寝ておくれ。」と心の中で念じたのだった。
自分と鬼太郎との入れ替わりで水木が風呂に入っていく。それを見送ってすぐに上機嫌の倅と対峙する。今晩の寝かしつけはより一層に頑張らねばと気合いを入れて挑む。が、その自分の気迫が良くなかったのか逆に興奮してしまったようでキャイキャイと遊んでいて全く寝る気配がない。「後生じゃ、いい子に寝ておくれ。」と鬼太郎の小さな背中に泣きついたところで、普段よりゆっくりの風呂を終えた水木が戻ってきた。
「おう、おう。鬼太郎、絶好調だな。」
「水木ぃ…、」
「みじゅきー!!」
飛びついてきた鬼太郎を水木が抱き上げる。
「鬼太郎、ねんねは?」
「ない!ねんね、ない!」
「そうかあ、ないかあ。それじゃ、お話でもするか?」
「おはなし、ない!」
「お話もないか。じゃあお歌は?」
「おうた、ない!」
「お歌もないかあ。じゃあ、お散歩は?」
「おさんぽ、わーい!!」
「だとよ。行くぞ、ゲゲ郎。」
なんと。散歩に行くことになってしまった。恨めしい気持ちで水木を見れば、「仕方ねえだろう。」とそっけなく呟かれる。
そうなのだ。寝かしつけに失敗したのは自分。仕方ない。しかし期待していただけ落胆も大きい。ガックリ肩を落としていれば、「置いてくぞ。」と声がかかった。もう鬼太郎は玄関の方まで行ってしまっている。もちろん自分だけ家に残る選択肢はないので仕方なくついていった。
夏の生温い風が顔を撫でる。湿っていて暗い世界は、妖の類にはなんとも心地が良い。渋々出てきたのだが、鬼太郎を真ん中に三人で手を繋ぎ歩く夜道は楽しく気持ちは切り替わっていった。取り留めない話をしながらしばらく歩いていれば鬼太郎が抱っこをねだってきた。抱き上げればすぐに可愛い栗毛の頭が肩に凭れてくる。やっと眠りの気配がきたようだ。水木と目配せして、来た道を引き返す。
ウトウトし始めた鬼太郎を起こさぬように、帰り道は言葉少なめだ。心地よい寝場所を探してグリグリと擦りつけらる髪の感触に懐かしい気持ちにさせられる。共に暮らしていた頃の妻もこのようにワシの肩に凭れてくることがあった。今ふわりと顔ってくるのは少し汗ばんだ赤子の匂いで、妻とは違う。
…はて、妻の、在りし日の妻の香りはどんなものだったか。
爽やかな良い匂いがしたのは覚えているが……。
……、こうやって、少しずつ過去のことになっていっている…。
急に襲ってきた寂しさに思わず立ち止まる。腕の中の忘れ形見を抱きしめて、視界が滲みそうになるのを我慢していれば、それに気づいた水木が戻ってきた。気遣わし気にこちらを見ているのがわかり、心配させぬようにと笑おうとすれば目尻から涙が溢れてくる。
またこうなってしまった。
妻の不在が自分の中でふとした時に鮮明になり、たまらなく寂しくなる。
水木と共に鬼太郎を育てる慌ただしくも平和な日々は本当に幸せなのだが、この感情が癒えることはきっと、ずっとない。
妻に会いたい。ここにいてほしい。
「さあ、帰ろう。」
そう声を絞り出すも震えていた。水木は何も言わず、袖でワシの顔を拭ってくれると歩き始める。ひきつれるような胸の痛みを抱えて、家を目指した。
家について、敷いた布団の上にそっと鬼太郎を寝かせた。呼吸に合わせて上下する丸い腹に薄掛けをかけてやっている水木の手をとり居間に出た。縋るようにその身体に抱きつけば、そっと腕をまわされ背を上下にさすられる。そのまま下にしゃがみ込んだ水木につられて座れば、頭を膝に乗せてくれた。未だ湿っぽい目尻を撫でられたので目を閉じる。寝返りを打って、水木の腹に顔を埋めた…
「どうしたって寂しくなるのう。」
「そりゃ、一等愛する奥さんを恋しく思うのは当然だろう。」
「…いつか平気になるんじゃろうか…。それも寂しい。」
「…俺にはわからんが…、そうだなあ…、」
「妻に会いたい。」
「そうだよなあ。」
普段と違う、鬼太郎に向けるのとも少し違う、優しい声色だ。
自分だけに向けられる慈愛。
息もできなくなるような深手を負った心をこれまでもずっと支えてきてくれた。
この男と鬼太郎がいるから、妻を失った後もなんとか生きている。
預けていた頭を起こして、その唇に口付ける。なんの抵抗もなく受け入れてくれる唇を堪能しながら、その身体を押し倒し覆い被さった。スリスリと甘えて、さらなる慈悲を乞う。
「慰めておくれ。」
そう言えば首の後ろに手を回されて引き寄せられ、了承の意を伝えられた。
もともと一晩楽しむつもりで居間に運んでおいた布団の上で交わったあとの身体を二人抱きしめ合って休めた。寂しさを紛らわすかのような自分本位な抱き方に付き合わせてしまったので後処理もそこそこなのだが、水木はもう動く気はなさそうだ。精も根も尽きたといった様で瞼を閉じ、呼吸は徐々に規則的になっていく。夢の世界に旅立っていくのを邪魔をしないよう気をつけながら顔にかかる髪を避けてやれば、丸くて賢そうな額が見えた。普段より童顔だが寝ていると赤ん坊のようにすら見える。散々無体を働いた身としては罪悪感すら覚える幼さだ。眠る水木の顔をそうまじまじと見ていたときだった。
「おい。」
声をかけられた。水木の声ではないし、そもそもずっと寝ている。もちろん鬼太郎でもない。身体を起こして周りを見渡すも、人間の侵入者も妖の訪問者もいないようだった。そこでもう一度「おい、ここじゃ。」と聞こえた。ワシの声か?自分によく似たその声は背後の鏡台から聞こえていた。水木を庇うようにしながら鏡台を除けば当たり前のように映り込む自分の姿。しかしその鏡の中の姿はこちらの動きと連動していない。
「おお!やっと気づいたか。」
「な、なんじゃお前!ワシの姿など真似てなんのつもりじゃ。」
「真似しとるのではない。ワシもワシじゃ。そちらとは違う世界にいるお前じゃ。」
「……訳がわからんのじゃが…。」
「うむ。どう説明するか……。この世には何千通りも分岐した世界が存在していると聞いたことはないか。」
「異世界ということか?確かに鏡は異世界に通ずることがあるが…。」
「特殊な鏡の力を借りていることは間違いないが、こちらも異世界ではない。紛れもないこの世ではある。こちらとそちらの関係は並行世界というものじゃ。数ある世界のうちの一つであるこちらから、また別の一つであるそちらにこうやって話しかけておるのじゃ。」
なんとまあややこしい。だが理解はできた。
「…ほう。ではお主の言ったことが真実だったとして、なんのためにこんなことをしておる。本来であれば禁忌ともされる行為ではないのか。」
そうだ。別世界同士の交流などそうそう認められるものではない。気安く干渉し合えば、混沌は免れない。
「まああまり褒められたものではないが。お主となら利害が一致するのではないかと思うてな。」
「利害とはなんじゃ?」
「妻に会いたくはないか?」
「…なに?」
「こちらの世界で妻は生きておる。鬼太郎もいてワシらは三人で暮らしておる。妻は鬼太郎を自分で育て、また以前のように仕事にも行っている。のう、その姿見てみたくはないか?」
その言葉に頭と心がのぼせた。見たくないわけがない。何度も何度もこうだったらいいのにと思い描いた光景だ。自分が冷静でなくなっていくのがわかる。
「…、それをワシに見せるためだけにこうして来たのか。」
「それだけではないがの。ワシは、水木に会いたかったんじゃ。」
「水木に?」
「こちらの水木はワシらを助けるために死んでしまったのじゃ。」
…違う世界では水木が死んでいる…。昂った気持ちが一気に沈み、ずんと胃が重くなるのを感じた。今やこの男と離れることなど想像すらできないというのに。
どの世界にいてもワシは大切なものを何か失わなければいけない運命なのだろうか。
「お主は妻に会いたいじゃろう。ワシは水木にもう一度会いたい。じゃからのう、短い間入れ替わってみんか。」
同じ世界に同じ者が二人居ては混乱も起きようが、誰にも漏らさず入れ替わってまた戻れば秩序も乱れないだろうというのがもう一人の自分の談だ。了承するかは迷った。別世界の自分の存在など俄かに信じ難い。
しかし悪意を持って嘘をついているような様子もなれば、鏡から僅かに感じる気配は、本当に自分に近しい。信じても良いのかもしれん。
妻がが生きている。
その姿をもう一度見れるのならば賭けてみてもいいと思ってしまった。
「…方法はあるのか?」
「鏡越しに手を合わせて、お互いが入れ替わりたいと願うだけでいい。」
「それだけか?」
「それだけじゃ。」
なんとも安直な。しかしまあ試してみるしかないと手を合わせようとしたときだ。はたと気がついた。
「のう、明日でも良いか?」
「なんでじゃ?」
なんでも何も。事後の自分の恋人が裸で眠るところに、もうひとりの自分とはいえ別の男と入れ替わるなどできない。
そう説明すれば「今夜でなければならん!」と食い気味に言われた。
本当か?この助平爺。内心で毒づきながら、少し待っておれと声をかけて、眠る水木に服を着せて襖を挟んだ隣の部屋に運ぶ。鬼太郎と水木、並んだ二人の安らかな寝息を確認して鏡台の前に戻れば、鏡の向こうの自分は明らかに残念そうな顔をしていた。
この助平爺と今度は声に出した。
「水木に手を出してはならんぞ。」
そう念を押せば「わかっておる。」と口を尖らせて答えてきた。不安この上ないがこれも信じるしかあるまい。
それでは気を取り直してと手を差し出せば、向こうも同じようにしてくる。そっと鏡に触れて願う。
「そちらの世界で生きている妻に会いたい。」
気がつけば見知らぬ家のちゃぶ台の前にいて手には古ぼけた手鏡があった。
上手くいったのだろうか。
ふと、気づいた。…ここに妻の気配がある。
思わず駆け出そうとしたところに背後から懐かしい声が聞こえた。
「あなた?」
振り返れば、記憶のままの綺麗な女がそこにいた。
「っ、お、おまえ…っ」
溢れる涙をそのままに、妻に駆け寄り抱きしめる。柔らかい栗毛が頬に触れた。
ああ、そうだ、おまえはこんな声を、こんな香りをしていたんだったなあ。
ずっと、そちらを覗いていた。とうに荼毘に付され骨になってしまったこちらとは違い、あの男の暮らしは色鮮やかにそこにあった。
鏡を通して自分から見えるあちら側の居間で、水木は自分や鬼太郎と共に飯を食い、酒を飲み、自分の冗談や鬼太郎のイタズラに笑う。
ずっと焦がれた相棒の生き生きとした姿から目が離せなかった。
こうしてそれを見ることが叶ったきっかけはこの一枚の鏡だ。ねずみのに泣きつかれて渋々手伝った面倒事の報酬だった。
「いやあ、助かったぁ。」
なかなか骨の折れる仕事であったが、諸悪の根源のくせに悪びれる様子のないねずみのを少々懲らしめようと思った。
「これは解決料を貰わねばなあ。」
そう言って睨みをきかせれば、誤魔化して逃げていくだろうと踏んでいたのだが、違った。
「へ、へえ!なんなりと!…いや、今素寒貧なもんで、だいーぶおまけして頂けると…、あっ!これなんか如何でしょう?」
「なんじゃ、これは。」
渡されたのは、古ぼけた手鏡と、ボロボロの紙。
「なんでも、別世界を覗ける代物らしいが、書いてあることもわからなきゃ使うにも、相応の妖力や霊力が必要だそうで、俺には扱えなくてですね。どうか、これで何卒勘弁!!」
それだけ言って今度こそ走って逃げていった。その後ろ姿を黙認し、手元に残ったものを見た。所詮ねずみのが持ってきたもの、一見するとガラクタの類かと思ったが、確かな力は感じる。紙には映し見ることができるものの内容や、行き来する方法が書かれていた。
何もかもが安直であり、やはり子供騙しの代物かと思ったが、驚くことに鏡の力は本物であった。
並行世界と言われる世界を、自分がずっと見たいと願ってきたものを、鏡は映した。
生きている。あの男はそこで生きている。
仕事から帰宅し、真っ先に鬼太郎を抱く水木の、この世の幸福を全て集めたような笑顔のなんと微笑ましいと。
その姿が見れて幸せだった。
たまに見ることができるだけで幸せだったのに。
あちらの妻は亡くなっているようだった。どれほどの悲しみだろうかとあちらの自分に心底同情した。
自分であれば人を恨み、祟りでも起こしてもおかしくはないと思ったが、あちらの日々は穏やかなものだった。
鬼太郎という忘れ形見を育てているからかとも思ったが、それだけではないようだ。共に鬼太郎を育て、寄り添い慰めてくれる水木の存在が、倅と同じくあちらの自分を明るい方に留めている。
ずっと覗き見ていると、二人はもう友という関係だけではないことを知った。
交わされる目線や会話にもしやと思い、ある日晩酌を共にした二人が口付けあったのを見て確信した。その関係はずっと続いているようで、恋人として慈しみ合う姿は自然だ。
二人の関係に負の感情の方が大きかった。妻亡き後、すぐに親友の男を恋人に据えた、自分の浅ましさが許せなかった。
しかし。
鬼太郎を寝かせた後、居間で睦み合う二人の姿を見て気づいた。自分は嫉妬をしている。
自分ではない自分に抱かれる水木はどこもかしこも熟れていて、艶かしく、目が離せない。嫉妬心をメラメラと燃やしながらその姿をずっと見ていた。
事後、タバコを分け合い、笑い合う二人の羨ましいこと。
ワシも水木を美しいと思っていた。もっともっと深い仲になりたいと思っておった。
覗き見るだけの日々に満足できなくなった。
あちらの世界に行こう。
そのためにはあちらの自分と入れ替わる必要がある。
あちらは妻に会いたい。こちらは水木に会いたい。
利は一致するはずと機会を待って持ちかけ、怪しまれはしたが、なんとか入れ替わることに成功した。
気がつけば今までずっと鏡で見てきた居間にいた。逸る気持ちを抑えて襖をそっと開けるとそこには、鬼太郎と並んで眠る水木がいる。
かがみ込んで、そっとその髪を、頬を撫でる。ああ、温かい。またも溢れる涙が、水木に降り注ぐ。パタパタと顔を濡らす感覚に意識が呼び戻されたのか水木が目を開けた。
「ゲゲろう?泣いてんのか?」
懐かしい名を寝ぼけた声が呼ぶ。伸ばされた手によって胸元に引き寄せられた。ああ、この男はこんな香りがするのか。柔らかな感触に顔を埋めていれば、手で髪を鋤かれる。
「っ、水木、みずき、」
「どうした?」
「みずき、」
「なんだよ?」
「どうしても呼びたかったんじゃ。ずっと。」
「はあ?なんだそりゃ。」
「水木がいなければ呼べぬからのう。」
「意味がわからん。」
「わからんで良いわ。」
「…そうかい。じゃあ、まあ、好きにしろよ。」
「そうする、水木。」
「おー。」
「水木。」
「うん。」
「水木、」
「ああ。…なあ、泣き止んだならもう寝ねえか?」
「ならこのままここで寝ても良いか?」
「流石に身体が痛くなると思うぞ。」
「よい。」
「隣に来ればいいだろ。」
そう言って体を起こすと、隣の鬼太郎ごと奥につめてくれた。居間にあった布団を持ってきて寝そべり、水木を抱き込む。その行動も普段から当たり前なのか、水木の腕も自然とこちらに回ってきて自分の鼓動が速くなる。
「おやすみ、ゲゲ郎。」
それだけ言って、そのまま眠りの世界に戻ってしまった男の顔を、朝日が照らすまで見つめ続けた。
「ゲゲ郎、ゲゲ郎!起きろ!!」
ふわりと浮上し始めた意識の向こうで、自分を呼ぶ声がする。ああ、懐かしい、水木の声だ。水木の…、水木?
「み、水木!?なん、なんでここにいるんじゃ!?」
「なんでいるっているだろうよ。一応家主だぞ。」
「あ、ああ、そ、そうじゃったの。」
そうだった。昨日入れ替わったのだ。一晩中水木の寝顔を見つめて過ごしたが、朝日が昇ったのを見届けて、結局自分も寝てしまっていたようだ。
「お前、昨日から少しおかしいぞ。」
その言葉にギクリとした。
「寝ぼけておったんじゃ。」
「そうかよ。ほら飯だ、行くぞ。鬼太郎がとっくに起きて腹減らせて待ってるんだよ。」
取り繕ってそう言えば特に怪しむような様子見せず、水木は先に行ってしまった。ほっと息を吐いて、起き上がる。手早く布団をたたんで、追いかければ、水木の言葉通りすでに鬼太郎が朝餉の並んだちゃぶ台の前に座っていた。
「とうしゃ、おはよーざいます。」
「おはよう。鬼太郎。」
こちらの倅も挨拶がとても上手だ。愛らしい声に返事をして自分も食卓につく。
「鬼太郎待たせたな。さあ、食べような。」
「いたきまーす!」
元気よく自分の前の茶碗に手を伸ばして食べ始める鬼太郎を微笑ましく見ていれば、「ほら、お前もさっさと食っちまえ。」とせかされたので、自分の椀にも手をつけた。
「ああ、…美味いのう…。本当に美味い。」
記憶にあるより格段に美味くなってはいるが間違いなく水木の作ったものの味だ。懐かしい。臥せっていた自分と妻に毎日せっせと運んできてくれた食事を思い出す。ああ、いかん。
「泣くほどか?いつもと変わらん味噌汁なんだが…。」
溢れる涙にズッと鼻を啜れば、水木が不思議そうに言う。
「…そうじゃのう。いつも、いつも美味いと思っておるよ。のう鬼太郎。」
「うまーい!」
誤魔化すために鬼太郎に話しかれば元気な返答がくる。
「へえ、へえ。そりゃ作りがいがありますよ。」
照れ隠しに苦笑いと皮肉という体をとっているだけで、本心は嬉しそうな水木はそれ以上追求してはこなかった。それにほっと安心して食事に戻り、まるで母親のように鬼太郎の世話を焼く水木を見る。おかずを食べやすいようにほぐし、口元を拭いてやり、茶碗に残った米粒を匙で集めてやりと、自分の食事も器用に口に運びながらもずっと鬼太郎の世話をしている。改めて間近で見ると、その様子は妻よりもかなり過保護だ。
「ごちゃま!」
「よーし、よく食べたな。お粗末さま。ゲゲ郎、悪いが皿を洗ってる間、鬼太郎の相手をしててくれ。」
「あい、わかった。」
まるで水木の連れ子のような扱いに思わず笑いそうになる。
これはこちらの自分も夢中になるのも頷ける。先妻との子にここまで愛情を注ぎ、懸命に継母業を全うする恋人なんぞこの上なく可愛い存在だろう。あまりに倅にばかり構うのでたまに嫉妬もしていたようであったが。
鬼太郎もよく水木に懐いている。母親のいない子ではあるが悲壮感はなく、子どもらしく育っている。
妻という存在を亡くしたこちらの親子に向けられる水木の愛を微笑ましく思うと同時に、羨ましいとも思った。
しばらくした後に戻ってきた水木に鬼太郎が飛びついていく。
「みじゅー!」
「待たせて悪かったな、鬼太郎。」
「みじゅだけ、いってきますない?」
「そうだ、今日は休みだぞ。後で買い出しがてらアイスでも食いに行くか?」
「あいしゅ!」
「そっか、じゃあもう少ししたら三人で行こう。」
「わーい!」
もう『少ししたら』の意味がわからず、このまますぐ行けると思ったのだろう。いそいそと帽子を被り始めた鬼太郎に、水木が苦笑して「まだ行けないぞ。」と声をかければ途端にウエーンと泣き出してしまった。叫ぶような泣き声の勢いはそのままに、ひっくり返って四肢を投げ出し、バタつかせてと見事な癇癪である。ちなみにこの癇癪、ここ一ヶ月で急に始まったらしい。引っ越しておいて本当に良かったと、こちら側の二人がしみじみと語っていたのを聞いていた。
さて、はなかなかに迫力がある姿にどうしたもんかと思っていたが、水木の方は慣れたもので、戸惑いなく近づいて、暴れる鬼太郎の頭を優しく撫でる。
「よしよし、きたちゃん。泣くなよ。悪かったな、すぐに行きたかったんだよな?」
「あいしゅううう!!!」
涙も鼻水もそのままに抱きついてくる鬼太郎を抱き止めて、揺すってやりながら水木は甘ったるい声で話しかけ続けた。
「すぐに食べたかったよな。でもまだ店が空いてないもんでな。少しだけうちで水遊びしてから行こう、な?ほら、ぱしゃぱしゃーってさ。」
「ぱしゃぱしゃ?」
「そうだ。パシャパシャ。一緒に水を汲みに行こう。」
「…うん。」
素直に水木の手をとる鬼太郎に笑顔が戻ってきている。
お見事。お見事だが…。
始終、愛おしくてたまらないといった表情を崩さない水木を見ていると少々複雑ではある。いや、心配か?そんなことを考えていれば甘い表情のままで水木がこちらを向く。
「お前さんも水汲み手伝えよ。」
「承知した。」
自分が起きる前に水木が済ませたらしい洗濯物が竿に並んだ家の小さな中庭。たらいに張った水に、ブリキの金魚を浮かべて遊ぶ鬼太郎を、縁側に二人並んで見守った。これから昼にかけてどんどんと暑くなってくるのを予想させる日差しが、水面に反射してきらきらと光っている。
「思ったんじゃが、お主、鬼太郎に甘すぎはせんか?」
「甘い?どこがだよ。」
「先ほどの癇癪も、なんというかもう少し、厳しく、諭すくらいしてもいいと思っての。躾のためにも…。」
「躾って言ったってなあ。まだ二歳だし、こんなもんだろ。別に他所様に迷惑かけたわけでもなし。泣いてるのに叱るなんて可哀想だろ。」
甘々だ。あの村の子達のイタズラにはゲンコツを振り上げていたというのに、なんという変わりようだろうか。自分たちの鬼太郎も同じく二歳だが、妻はしっかり諭している。水木がこれからもこんな様子なら、こちらのワシによく言っておかねばならん。
「そうか…。」
「急にそんなこと言い出してどうしたんだ?」
「あ、いや、その、」
こちらの自分は、特に苦言を呈すなどということはしなかったのだろうか。さてどうしようかと口篭っていれば、水木が口角を片側だけ上げた。
「さては、また鬼太郎に妬いたな。」
二人の間をグッと詰めてきた水木が口付けてきた。柔らかな唇に、ふわりと甘く香る、タバコ混じりの匂い。焦がれ続けた熱い熱。
そっと目を閉じた矢先に唇は離れていってしまった。
「続きはまた夜な。」
そういたずらっぽく笑う水木のなんと婀娜っぽいこと。己の顔が火照り、鼓動が早くなる。それをすべてこの日差しのせいにするのは少々苦しかった。
結局水遊びを終えた鬼太郎がそのまま疲れて寝てしまい、皆で家を出れたのは昼飯を済ませてからだった。丁度真上に登った太陽からの日差しをもろともせずに、ご機嫌に歩く鬼太郎の左右の手を自分と水木でそれぞれ繋ぐ。ねだられて、水木と息を合わせて腕を上げてやれば、倅の体はグッと宙に浮く。それに合わせて出るきゃらきゃらと喜ぶ声が可愛らしい。その様子に張り切って二人で何度も付き合っていれば、あまり汗をかかない自分とは違い、水木の開襟シャツから出る小麦色の首筋に汗が流れた。
それをついつい目で追ってしまう。「続きは夜に。」と水木は言っていた。もしあの宣言が本当になれば、言い逃れなく浮気になってしまうのだが。
…正直に言えばものすごく期待している、すぐにでもその熟れた体を暴いてしまいたい。
普段であれば思いも浮かばないであろう、浅ましい浮気心に悩まされた。
邪な気持ちを抱えて歩いていけば、商店街に着いた。活気のある店とたくさんの人間の気配に囲まれたことで、茹っていた思考も冷静さを取り戻していった。
一通りの買い物を終えて、鬼太郎がお望みのアイスを買うために、少し外れたところにある駄菓子屋に入る。薄暗い中に所狭しと並んだ子ども向けの菓子と玩具。目当ての箱を覗き込めば、色とりどりのアイスキャンデーが並ぶ。水木がお前も好きなものを選べと言われて、目に付いた色をとった。
店先に肩を並べて、甘い氷菓を口に入れる。まるであの夏の日に戻ったようだった。
いや、あの日ではないことの証明に、隣で溶け出した氷菓と格闘する息子を水木が見守っている。ここにあるのは間違いなく自分が見たいと願った未来の一部だった。
夕飯も済ませ、鬼太郎と風呂に入った。散々遊んで疲れたのか、水木に服を着せてもらった鬼太郎は、そのまま抱き着いてその肩に顔を擦り付けている。
「よしよし、眠たいなあ。」
水木はそう言って、鬼太郎を抱き上げて揺らしながら、襖を開けて寝室に入っていき、あっという間に戻ってきた。
「もう寝たのか。」
「ああ。暑い中あんだけ動きまわったんだ。限界だったんだろ。俺も風呂に入ってくるよ。」
そう言って風呂場に向かっていた男を見送る。はてさて、本当に昼間言っていた「続き」はあるのだろうか。それならば、布団はこちらに敷いておくべきか。そう思い至り、鬼太郎を起こさぬよう、慎重に隣から布団を持ち出したとき、自分の声がした。いやもう一人の自分の声か。
「おい!おーい!」
「おお、どうした。」
「どうしたではないわ!こうやって会話できるようになるまでワシがどれほど苦労したか!」
「…ああ、そう言えば何も説明せずすまんかったのう。ようあの鏡の使い方がわかったな。」
「呑気なこと言うな!ワシが使えなければ、ワシたちは永遠に元の世界に戻ることはできんかったのじゃぞ。あの紙、せめてもっとわかりやすいところに置いておかんか。」
それはそうだ。その点に関しては自分が悪い。こちらの世界に来ることだけに意識が行っていて完全に失念していた。
「悪かったな。苦労をかけた。」
「まったくじゃ!!無計画がすぎるわ。」
よほど焦っていたのだろう。しばらく肩で息をしていたが、それもようやく落ち着いた頃、改まった表情をしてあちらが作る。
「…まあ、しかし、妻に会えた。それは感謝しておる。ありがとうな。」
「そうか、よかった。」
「ああ。お陰で思い出せたわ。妻の声、匂い、笑った顔。」
共に幸せに暮らしていた過去を懐かしく思っているのだろう。愛おしむ声だ。
「うむ。」
「一度も見ることが叶わなかった、鬼太郎を抱いているところを見れた。それに短い時間とはいえ彼女と再び暮らしを共にすることまでできたんじゃ。」
鏡の向こうの自分の目からボロボロが流れる。我ながらとんだ泣き虫だ。
「そちらも、水木に会えたか?…おい、」
「なんじゃ。」
「…なぜそこに布団を持ってきておるんじゃ。」
しまった!ギクリと肩が揺れる。鏡の向こうの自分はついさっきまでの泣き虫はどこへやら。一切の表情を削ぎ落とした顔でこちらを見ている。
「ワシとの約束を反故にしようとしているわけではあるまいな。」
「水木から誘ってきたんじゃ。断って怪しまれるわけにはいかんじゃろ。」
「ぬけぬけと良く言うわ!上手いこと躱せばいいだけじゃろう!」
鏡越しなのに唾が飛んできそうな勢いであちらが激昂している。その様がなんだか面白くなってきてしまった。口の片端を持ち上げて煽ってやる。
「ほう、そんなことが言えるのか。あの色香を浴びて躱すなんぞ男盛りのワシにはできん。アンタは相当枯れておるんじゃのう。」
「全然枯れとらん!許してもらえれるならば毎晩だってありつきたいわ!っと、そういうことではなくワシは妻子ある身で不貞をするなと言うとるんじゃ!」
「……。」
痛いところを突いてくる。考えないようにしていたと言うのに。こちらの動揺を見抜いたのか、戦況一変、小馬鹿にした表情で畳み掛けてきた。
「アンタはどうやら相当な浮気者のようじゃのう。ワシは一途な性分故、もう一人の自分とも思いたくわないわい。こんなこと妻が知ったら悲しむじゃろうなあ。」
「……。」
その言葉に悲しむ妻の顔も浮かんできて、煩悩はしおしおと萎んだ。そういうアンタだって、妻亡きあとにすぐに水木と恋仲になっているではないか。そう言い返したいが、立場的にはこっちの方が分が悪いのは明白なため黙るしかない。
「まったく。まあよい、どうせもう戻る。」
そう言って鏡の中の自分が手を差し出してくるので慌ててた。
「待て!こちらはまだ満足しておらん!」
「その満足など、誰が許すか!」
「そっちはもう良い。頭が冷えたわ。ただもう少しだけ水木と過ごしたいんじゃ。紙にあった通り、行き来できるのは今回きりなんじゃぞ。」
「…気持ちはわかる。しかし、ワシたちは別世界にいるんじゃ。長居は禁物、無闇矢鱈に居座れば影響が出る。」
「……嫌じゃ」
腕を組んで、鏡に背を向ける。
「我儘言うでない。ほれ、さっさとせんとこちらも妻たちが来てしまうし、そちらも水木に見つかるじゃろう。」
「嫌じゃ。」
「アンタなぁ、」
「もう機会はないんじゃ。のう、お互いもう少しそれぞれのの暮らしを味わって、見ることのできなかった未来目に焼き付けておかんか。」
これを逃したらもう二度と水木に会うことはできなくなるのだ。まだ帰りたくない。もう少しだけここにいさせてほしい。
しばしの沈黙の攻防の後、あちらが口を開いた。
「…はあ…。仕方ないのう…。」
良かった。もう少しだけこちらにいれる。まだまだ話したいこと、一緒にやりたいことがある。
「絶対に水木に手を出すなよ。」
「…あい、わかった。」
「こちらから見張っておるからな。」
「…わかっておる。」
「浮気は最低じゃからな!!妻を悲しませるな!!」
「わかっておる!!」
念を押されて、頷けば、あちらとの繋がりが途絶えてただの鏡台に戻った。映るのは間違いなく自分の姿だ。
もう一人の自分の言葉を思い出す。手元の布団を見てため息をついた。確かに不貞はいけない。自分には愛する妻がいるというのにおかしくなっていたわ。肩を落として、布団を寝室に戻した。
自己嫌悪でちゃぶ台に突っ伏していれば、頭上から声がかかった。
「ゲゲ郎?寝るなら布団で寝ろよ。」
「寝とらん。」
顔を上げれば、湯上がりの肌けた色男。この魔性め、お主のせいじゃ。華麗に責任転嫁して睨んでやれば、「何怒ってんだよ。」と 肩をすくめる。そんな仕草も様になる。はあーっと聞こえよがしため息をついてみせた。
「手を出されたくなくば、その胸元もしっかり隠すんじゃ。」
「はあ?」
訳がわからんという顔をする男の柔らかそうな胸元、触れてみたいが鏡の向こうで見られているような気がしたのでやめた。ガリガリと頭を掻く。そこで水木の手に徳利があることに気づいた。
「酒か?」
「ああ。縁側で一杯やろうかと思ってたんだが、お前はなんか疲れてそうだし、やめとくか。」
「疲れとらんわ。早く飲むぞ。」
「おう。つまみ運ぶの手伝え。」
水木が徳利とお猪口を、自分があたりめの乗った皿を持って、縁側に出た。二人並んで座れば吹いてくる生温い夜風。酒が注がれたお猪口をカチリと合わせた。酒を口に含み、ふと水木を見れば、酒を持ったままこちらを見ていた。
「なんじゃ?」
「あ、いや…。」
問えば、目を逸らして黙り込む。しばらく手元の酒を見ていたかと思うと、また視線がこちらへ戻ってきた。甘い目元が警戒するように鋭くなった。
「なあ、お前、一体何者なんだ?」
「…どういうことじゃ?」
「ゲゲ郎だけど、少し違う気がする。」
「…、」
「お前は誰なんだ?」
「…、鋭いのう。お主の言うとおりじゃ。ワシはいつもの“ゲゲ郎“ではない。じゃが、ワシもまた親友に“ゲゲ郎“と名付けられた幽霊族の男であり、鬼太郎の父親じゃよ。」
水木の鋭くなっていた目元が緩み、ポカンと口が空く。これだけではそうなるだろうな。
「この世にはいくつもの分岐した世界があるのじゃ。並行世界とも言う。――――――。」
説明してやれば、水木は眉間に皺を寄せて頭を抱えている。
「俄かには信じ難い話だが…、」
「そうじゃろうな。」
「まあ、お前らならなんでもありか。」
そう言って上げた顔の眉間の皺はなくなっており、至って平常の表情だ。もっと怯えるなり、困難するなりするかと思ったが、あっさりと受け入れたようであった。あの村では叫んだり、気を失ったりと忙しかった男が随分と染まっている。
「ほう。信じてくれるか。」
「それしかできんし、そう言われると妙に納得もする。朝からいろいろ変な気がしたが、全く別人とは思えなくてな。鬼太郎のことはいつもと変わらず可愛がってたし、危害もないようだったから様子を見てたんだが。」
「お主、ちょっと怪奇慣れしすぎじゃないかの。」
「あいつらと一緒にいると嫌だってそうなるんだよ。それで、それが本当だとして、入れ替わったってことは、こっちのゲゲ郎は、」
「ワシが元いた世界にいる。」
「そうなるよな。しかし、なんだってそんなことを?」
「ワシたちがそれぞれ望んだんじゃ。こちらのワシは妻に会いたいと。そしてワシは水木、お主に会いたかったのじゃ。」
最後の方の言葉は、水木の上擦った声によってほとんどかき消された。
「は?妻って、お前の奥さん、」
見開かれた目の中、紺碧の瞳が揺れている。
「ワシが元いた世界では妻は生きておるのじゃ。」
袖を思い切り掴まれて、視線を移せばその指先は真っ白で震えている。
「っ、なあ、それじゃあ、あいつは奥さんに会えているのか?」
「そうじゃ。」
「ああ、…そうか、そうか。よかった…、本当によかった。」
揺れていた瞳の中にはみるみるうちに涙が溜まってきた。
「なんとかして会わせてやりたかったんだ。あいつが寂しがるたびに、ずっとそう思ってた。でもその術は俺にはなくて、どうにもできなくて…。ああ、そうか。本当に、本当によかった…。」
泣き笑いしなが流す涙のなんと清らかなこと。しかしその、『自分とは別の男』への直向きな真心を見せつけられると、こちらを見てほしいと、そんな涙を流すなと言いたくなってしまう。グッとその肩を抱いて引き寄せ、耳元で囁いた。
「のう。ワシは、このワシはお主に会いたかったんじゃぞ。だからここまで来た。」
「…ん?そりゃまたどうしてだ…?」
潤んだ碧い瞳をキョトンと丸くして、こちらを見る。やはり聞いていなかったな。自分の男のことばかり気にかけて、薄情なもんじゃ。
「ワシの世界では水木がおらのじゃ。ワシら夫婦を助けるために無理をし続けて死んでしまったからのう。ワシはずっともう一度水木に会いたかったんじゃ。また一緒に語り合い、笑い合えたらと思ってた。」
「…そうなのか…、」
自分が死んでいると聞くのは複雑な気持ちだろう。涙は引っ込み、なんとも微妙そうな顔になった。気分を変えてやろうと、さらに引き寄せてもたれ掛かって告げてやる。
「こちらではもうただの友ではなくなっていたようじゃがの。今晩『続き』があるかと一日中ソワソワしてしまったわ。」
その言葉に一度耳まで赤くなったかと思えば、みるみる青ざめていく。可哀想だか面白い。
「すまん!気持ち悪かったよな…、申し訳ない。」
距離を取ろうと突っ張ってきた腕を取り、逆に引き寄せる。
「構わんよ。むしろ『続き』を待ち望んでおったわ。」
「冗談言うなよ。」
「冗談ではないわ。あちらからずっと見ておった。お主たちがどんな関係でどんなことをしてるかを。羨ましかったよ。」
口付けようと顔を近づけるが手で阻まれる。なんじゃ、朝は自分からしてきたくせに。
「待て!!お前、妻帯者だろ!不貞はやめろ!」
「なんじゃあ、お堅いのう。あんなに助平なことを何度も何度もこちらのワシとしていたではないか。」
「っ!はあ?なんで知ってんだ!?」
「ずっと見ていたからのう。」
「最低だ!趣味が悪すぎる!!」
真っ赤になって怒り、腕の中でバタバタと暴れる水木の可愛らしいことよ。血が昇っているからか、触れている体がどんどん熱くなってくる。
ああ、生きている。水木が生きている。
衝動のままに抱きしめる腕に力を込めれば、徐々に動きが小さくなってくる。丁度よく収まってきたところで、目の前の肩に顔を埋めて鼻を啜った。
「みずき、あいたかったよ。」
「また泣いてんのか。」
やれやれという感じではあるが、その腕は優しく背に回り、ゆっくりと撫でてくれる。
「すまんかった、ワシらの、ワシのせいで、あんな…。…お主の生きていくところをずっと見ていたかったのに…。」
謝るべきはこの水木ではないが、それでも口にせずにはいられない。
「なあ、ゲゲ郎。俺はそっちの俺が羨ましいよ。」
低く、心地のいい声が残酷なことを告げてきた。
「な、なぜじゃ。なぜそのようなことを言う。」
思わず責めるような声色になったが、先ほどと変わらない静かな声で続きが紡がれる。
「俺は、ずっと後悔しているんだ。お前の奥さんを助けられなかったこと、鬼太郎を母のいない子にしてしまったこと。なぜ、もっと早く思い出せなかったんだとな。何もできなかった自分が情けない。奥さんが帰ってくるのなら俺の命くらい喜んで差し出すのに、いくら望んでもそれは叶わなくてさ。だから、お前たち三人を助けることができたそっちの俺が羨ましい。その身をかけてやり遂げたんだ。これ以上ない幸せな死に様だったと思うぜ。」
「そのようなこと言うな。あの男にはもっと、もっと未来が、幸福があったはずなんじゃ。」
「いや、それ以上の望みはないさ。自分のことなんだ。わかるよ。」
これ以上ないくらいに深い愛に溢れた冷たい言葉だった。ワシはお主にも生きていてほしかった、ずっと側にいてほしかったと、そう伝えることすら許してくれない頑固な愛だ。
「うわっ、すごい顔してるぞ。」
グシャグシャになっているであろうワシの顔を覗き込んで、水木が笑う。失礼なやつじゃ。
「こひむ涙の色ぞゆかしきだな。あいつが奥さんを想って流す涙は綺麗だったから、もし俺を想って流してくれる涙があるとしたらどんなもんかと思っていたんだが。そんな風に思ってもらえて、喜んでないはずがない。絶対だ。そっちの俺は幸せ者ものだよ。」
胸が引き絞られるような切なさでいっぱいになり、ただただ目の前の熱い体温を掻き抱いた。
「ゲゲ郎、会いにきてくれてありがとうな。」
抱きしめ返してくれるこの水木はワシらの水木ではない。わかっている。それでも、彼にそう言ってもらったようで、嬉しくて切なくて。
まるですぐ側にいるようで、その実、あまりにも遠くて、近寄ることができない我が友を想って泣き続けた。
次から次に溢れる涙がようやく止まってきた。もう少し水木と暮らしてみたかったが、知られてしまったからには帰らねばならん。抱き合っていた身体を離し、それを告げる。
「別にまだ居りゃいいじゃねぇか。」
「いかんよ。別世界を行き来すること自体、本当はあまり良い事ではないのじゃ。他者に知られてしまったからには、何か影響が起きる前に、元に戻らねばならぬ。」
「そうか…。またいつか会えるか?」
寂しそうな顔をしてくれるのが嬉しい。水木に会うために自由に行き来できたらどれほどいいだろう。一緒にいろんなところに行きたい。楽しいことをしたい。
「この世界に来れるのは一度きりじゃ。水木、たった一度でも会えて良かった。」
自分で言いながら悲しくなり、再び目から涙が溢れ始める。その様子を水木は黙って見ていた。
「……なあゲゲ郎、人って本当に生まれ変わったりするのか?」
しばらくの後、呟かれた言葉に思わず涙が止まる。
「いきなりじゃのう。まあ、かかる時間もカタチもまちまちじゃがあることにはあるぞ。」
「じゃあ、向こうの俺もいつか生まれ変わるかもしれん。そしたら、ゲゲ郎、また友達になってやってくれよ。お前が本当に会いたかった奴に会いに行ってやってくれ。」
お前長生きなんだろと言われて頷く。
そうだったな。長い時が経てば、また会える日が来るかもしれない。その時は水木が守ってくれた、我が家族揃って、彼を迎えたい。お主のお陰で幸せだと伝えたい。
そしてまた友になったら、何をしたいだろう。何ができるだろう。何をしてもきっと楽しい。
早く見つけ出して、今度は子どもの頃から共に在ろう。たくさんのことを共有して、そしてこちらの二人よりもずっとずっと強い絆にしよう。
大切な妻と鬼太郎、そこに水木が加わって四人で過ごせたら、どんなに素晴らしいだろう。
そう考えれば、すぐに帰りたいと思った。
『水木』が生かしてくれた、『自分の家族』と共に誕生を待ちたい。
居間へ戻り、鏡台の前に二人並んで座る。呼び出すにしても「あちら」が、「こちら」を覗き見していなければ意味もないが、きっと見張っているはずだ。声をかけようとして、ふと思いついた。
それだけではつまらない。鏡に向かってニヤリと笑いかけた。
あの鏡を通して聞き取ることができるのはせいぜいこの居間の範囲まで。ヤキモキしていたであろう男がどれだけ怒り狂って出てくるかと思うと胸がすく。
「………さて、向こうのワシを呼び出そうかのう。水木、こちらを向いておくれ。」
なんの疑いもなく、こちらを向いた水木の顔を引き寄せ、口付ける。見開かれた目。距離を取ろうと突き出してきた腕を掴んで、逆に引き寄せた。頑なに弾き結ばれた唇をペロリと舐める。
最後なんじゃ。これくらいいいじゃろう。
「なにをしてくれとるんじゃ!!!」
案の定、鏡越しに出てきたもう一人の自分の焦り様にほくそ笑んだ。どんな顔をしているか拝んでやれば、燃え続けてきた嫉妬心も、もう会うことができない寂しさも少し収まるかもしれない。
「こうすれば出てくると思ったんじゃ。」
できる限りの不敵な笑顔を作り、鏡を見遣った瞬間、その余裕は崩れ落ちた。
焦る男の隣にもう一人居たのだ。
最愛の妻が。
「あなた。随分楽しそうでしたね。」
きっと妻は全て知っている。鏡の向こうにいるのが自分の夫であることも。
もう一人の自分の表情の意味がわかった。恋人に手を出されたことよりも、自分より圧倒的な強者を怒らせてしまったことを、今は焦っているのだ。
「ご迷惑になりますから、そろそろ帰っていらっしゃい。」
笑顔で、淡々と――
「……はい。」
一刻も早く戻りたいというように、急いで手を差し出してくるあちら。いや、やっぱり今は帰るのをやめたいと、助けを求めるように水木を見れば、青い顔をしていた。目があった瞬間、「早く帰れ!」と怒鳴れる。泣き出したい気持ちになりながら、手を鏡へ向けた。
できる限り自分を騙して「あちらの世界に行きたい。」と願う。
瞬間、ぐるり視界が変わった。
気がつけば、一日ぶりの我が家。手にはヒビの入った手鏡。目の前に仁王立ちの妻。
いつか来る友との再会に思いを馳せる前に、まずは目の前の妻にひたすらに土下座することにする。
そして、謝り倒してしばらくした後、もう一人の自分に、鬼太郎にもう少し厳しくするように言付けるのを忘れたことを思い出すのであった。
全く随分と身勝手なもんじゃ。さっきまでの自分の奮闘はなんだったのだ。
もう少し、妻と暮らせる。来る前の自分であれば夢のようだと喜んだかもしれないが。
こちらで妻が生きている姿を見れたのは、本当に嬉しかった。妻が生きていたら、鬼太郎と三人、こんな生活を営んでいたのかと思いを馳せた。しかし、これは、自分の現実ではない。目の前にいるのは妻であって、妻でない。
こちらに来て実感した。自分の妻はやはり亡くなった彼女だけだ。そして、我が子も、彼女が命を懸けて産んでくれたあの鬼太郎だけなのだ。
忘れ形見の可愛いあの子を大切に育てていく。相棒であり、恋人として支えてくれる男と共に。それが自分の現実で、使命で、生きる道だ。それがはっきりとわかったことが、妻の姿を見ることができたのと同じくらい大きな収穫だった。
自分の世界に早く帰ろう。そう思ったのだ。
帰り方を聞いていないと気づいた時は肝が冷えた。鬼太郎にも水木にももう会えないかもしれないと、とてつもない焦燥に駆られた。
鏡を前に試行錯誤したが全く使えず、どうしたもんかと頭を抱えたところに、こちらの鬼太郎からおやつをねだられた。そうして開けた戸棚の中にあったのだ。この紙が。
焦りで滑る目でなんとか読み、こちらの妻や鬼太郎の目を盗んで、やっとのことであちらに接触したというのに。
あろうことか呑気に一週間の期間延長を提案されてしまった。何やらあちらは何やらウキウキと布団など準備して、水木とどうこうなるつもり満々で……。浮気男に釘は刺したが、恋人の貞操が危ない。自分に成り変わった男などこれ以上ない危機だ。頭が痛い。
はあ。こんなにも苦労したのに、結局あちらの都合で戻れず。ドッと疲れてしまった。
ため息をついて手鏡を置く。
「あら、まだ夫は戻って来てないのね。」
振り返れば、この世界の妻。
「何もわからないとでも思った?」
優しい笑顔でも有無を言わせないこの迫力。普段かかない汗が背中を伝う。冷や汗だ。
「隠してるつもりのようだけれども。私は何百年も夫と一緒にいて、そしてあなたたちよりずっと長生きなのよ。その鏡がどんなものなのかも、あなたが何者かもわかっているわ。」
……、どうして彼女相手に隠し通せると思ったのだろうか……。妖力を探知・識別することに優れ、夫のことを誰よりも理解し、なおかつ女の勘というものさえ持ち合わせているというのに。迂闊の極み。止まらない冷や汗を拭いつつ、苦笑いを浮かべる。
「もう少し上手くやらないとね。こういうのって知られると何が起こるかわからないものよ。さあ、よくないことが起きる前に早く戻りなさい。」
「そ、そうじゃのう。」
ワシもそう思ったんじゃ!すぐに戻ろうと苦心していたのに、あなたの亭主ときたら…。しかし、これを話すのは憚られる。二重不倫の告発のようで頂けない。黙り込んでいれば、心配そうに聞かれる。
「もしかして、戻り方がわからないの?」
「いや、そういうわけではないのじゃが。……、あの、そのな、」
そこで閃いた。彼女に夫を呼び戻してもらえばいいのだ。事が露見してしまったからには戻らねばならんし、愛する妻から声をかけられれば、浮気な心も改めてきっと素直に戻ってくるに違いない。名案だと本気で思った。鏡であちらの世界を彼女に見せるまでは。
「あらあら。随分鼻の下伸ばしちゃって。」
ほんの一瞬繋げて、すぐ切った。
ちょうど彼女の夫が、水木に口付けを迫っているところだったのだ。
気まずい。とても気まずい。
恋人の身の安全も非常に気になるが、目下一番の問題は、この最悪としか言いようのない状況をどう切り抜けるかである。しかし、なんの言い訳も浮かんできてはくれない。焦りばかりが募って、思考がまとまらない中、気がつけば、自分の口は余計なことを、ペラペラと洗いざらいに話してしまっていた。
「なるほどね。」
こめかみのあたりをグリグリと押しながら彼女が言う。
彼女は何を思っただろうか。怒っている?悲しんでいる?俯いてしまってその表情は読み取れないが、夫の不貞願望など聞くに耐えないだろう。彼女は笑顔が似合うのに。それを曇らせてしまった不甲斐なさで、ぐるぐると後悔していれば、突然彼女が頭を下げた。
「夫がご迷惑をおかけしてすみません。どうかもう少しの間だけ、あなたの水木さんと夫が一緒に過ごすことをお許し下さい。」
「顔を上げて下され。一応はワシも了承したのじゃ。しかし、その、奥様は嫌では、」
「……複雑ではありますよ。でも今は彼の思いを叶えてあげたいんです。」
顔を上げた彼女は真っ直ぐにこちらを見ていた。その目は自分の夫への愛がある。妻は知っているのだろう。夫の亡き友人への想いがどれほどか。そうか、お前はこういう女だったな。本当に優しい、愛に溢れた女だ。
「ただし、不貞は許したつもりはありません。しっかりとこちらから見張りましょう。」
自分の記憶に違わない、意思の強い眼差しを緩めてニコリと微笑みかけられた。あまりの眩しさに胸がドキリと高鳴る。
「そ、そうじゃの。」
なんとか持ち直して返事をする。早速見張りを始めようと鏡を手に取った。しかし信用ならん男じゃ。こんなにも思い遣ってくれる妻がいて、先ほどのあれはなんじゃ。釘を刺したと言うのに。
再びあちらに繋がる鏡を、覗き込む彼女に見せる。
そして――そこで映し出されたのが、アレであったのだ。
部屋の温度と、元より低い自分の体温がグッと下がったような心地だった。
あの恐怖は二度と味わいたくない。
気持ち的には命からがらといった様子で戻ってきた元の世界。その証拠に目の前には水木がいた。
「ゲゲ郎?戻ったのか?」
「ああ。ただいま。」
「おかえり。」
安堵の表情も束の間、水木が申し訳なさそうに俯く。
「俺が気づかないふりしてれば、もう少し奥さんと一緒にいれたのか。」
「…、お主もあやつから全てを聞いたんじゃな…。いやあ、あちらでもバレてしまっているからのう。どちらにせよ帰らねばいけない状況じゃったよ。ちょうど全て話し終わったところでな、故のあのように怒っていたんじゃ。」
「そ、うか。あっちのお前、大丈夫なんだろうか。」
口の端を引き攣らせる水木に、肩をすくめて笑ってやる。
「さあのう。妻は怒るとそれはそれは怖い。」
いい気味だ。妻が居て、その上水木とまでなんて、とんだ強欲者。こってり絞られろ。
「それより、こちらこそ、黙って出かけてしまってすまんかったのう。」
引き攣った頬を、宥めるように撫でてやれば、その手に水木の手が重なる。
「いや、いいさ。知られるわけにいかなかったんだろ。それに、」
――お前が奥さんに会えたことがすごく嬉しかった――
甘い目元に涙を溜めて、鼻を啜りながら男が言う。
妻がそばに居て、深い愛でもって思い遣ってもらっている、あちらの自分を羨ましく思ったが。
そうか。ワシもこの男に清らかな真心を向けられていたのだった。じんわりと胸がキュッと弱く引き絞られると同時に、温かさが広がっていく。
「あちらの妻に会えて本当によかった。じゃがのう、ワシはもう一目見れただけで納得してしまったんじゃよ。自分の妻は、愛する女は、やはり亡くなった彼女だけ。我が子も、『彼女』が産んでくれたうちの鬼太郎だけじゃと。あの世界は見たかったものを見せてくれたが、それは夢のようなものじゃ。あそこに長く居たとしても、芯から満たされることはない。彼女を想い、彼女の遺してくれた大切な鬼太郎を、お主と共に育てているこの世界が、ワシの生きていく、生きていきたい現実なんじゃ。水木よ、これからもワシと鬼太郎の側に居ておくれ。ワシと一緒に生きておくれ。」
肩を引き寄せて伝えれば、徐々に顔を赤くした水木は、視線を外してぶっきらぼうに返してきた。
「……なんだ、その求婚みたいな言い回し。」
「求婚じゃよ。水木、ワシの後添えになっておくれ。お主なしでは生きていけんよ。」
「…大げさだな…。」
真っ赤になって俯く男の顎を持って、顔を上げさせる。
「して、返事は?」
「っ!別にそんな仰々しい名前つけなくても今のままで、」
「ダメじゃ。永遠に共にいる誓いを立ててくれねば安心できん。」
――ワシが寂しがりなの、知っておるじゃろう。――
そう囁けば、目を逸らしながらも小さく頷く。それは肯定か了承か。まあ良い。好きなように取らせてもらう。
「祝言はいつにするかのう。」
「おい、まだ結婚するなんて言ってねえ!」
「さっき頷いたではないか。撤回は認めぬよ。」
知っているのだ。この男がこういう場面で照れ屋なだけで、満更でもないとうことに。「あれは、その、そういう意味じゃない。」と言い訳めいたことを言っている口を塞いでやろうと思って、顔を寄せて、はたと気づく。
「お主、先ほどのあれ以外であちらのワシと何もしておらんじゃろうな?」
「するわけねえだ、……あ。」
「なんじゃ!?何があった!?」
「あー、なんだ、その、事故だ。気にすんな。」
目を泳がせた後、追求を逃れるためであろう、水木から口付けられた。
こんなことでは誤魔化されん。
誤魔化されん、が、一先ず、丸一日離れていた愛しい後妻の温もりを堪能しようと、熱い身体を引き寄せて、目を閉じるのだった。