お土産なんてなくても インターホンの音を聞いて、藍良は読んでいた雑誌をローテーブルに置いて立ち上がり、ドアモニターを確認する。マンションの一階のエントランスには、見慣れた赤髪の男が立っていた。この部屋を訪れる可能性のある「お客様」の中で一番来訪頻度の高いこの男を、藍良はボタンひとつでマンション内に迎え入れてやった。彼が上がってくるまでの少しの時間に、読みかけの雑誌をラックに戻し、ケトルに水を入れて湯を沸かす準備をする。一分ほどして男が玄関に到着した。
「よー藍ちゃん! 元気してっかァ?」
「昨日もESで会ったでしょォ」
沸いたお湯で、客人のためのお茶を用意する。ダイニングテーブルにそれらを並べていると、燐音が持ってきた紙袋をテーブルの端に置いた。
「ほれ、土産。仕事でもらったんだけど一人じゃ食いきれなくてよ」
袋の中には片手で持つには少し大きい、ずっしりとした箱が入っていた。中身を確認すると沢山の焼き菓子が入っている。一彩が好きなブランドの、卵をたっぷりと使ったフィナンシェやマドレーヌだった。
「ヒロくんが居るときに来てあげればいいのに……」
「しょうがねーだろ。たまたま今日がオフなんだからよ」
燐音はこう言っているが、一彩の仕事が急にキャンセルになった時以外、燐音と一彩はこの部屋で遭遇していない。だいたいこの菓子だって、一人で食べきれないと言いながら箱の中にぎっしり詰まっている。同じユニットのメンバーによく食べる男がいるのだから、余った菓子の譲り先には困らないはずなのに。
藍良は分かっている。この菓子は、燐音が弟とそのパートナーである藍良のためにわざわざ買ってきてくれたもの。そして一彩が居ない時を狙って届けに来てくれているのだ。不器用な兄の気遣いを、藍良はいつも一彩の代わりに受け取っている。
藍良はもらった焼き菓子のうちマドレーヌを二つ取ってそれぞれのお茶の横に置いた。同棲相手の兄との二人きりの茶会という奇妙なイベントにもすっかり慣れた。
燐音は藍良に、ALKALOIDや藍良の近況に織り交ぜて、一彩の様子を探ってくる。それが分かっている藍良は、一彩のことを中心に近況報告をしてあげる。さりげなく一彩が困っていること、一彩が欲しがっているものを伝えると、数日後にはそれが解決していたり、贈り物が届いたりするのだ。
「じゃあいつまでも邪魔してちゃ悪いから帰るぜ」
弟が帰ってくるまでゆっくりしていけばいいのに、という問答は何度目かの来訪で諦めた。どうせこの男は弟に鉢合わせないようにさっさと退散する。たまには直接会って話して、素直に近況を聞けばいいのに。一彩に言わせれば「兄さんは照れ屋さんだから」ということらしいが、毎度間を取り持つ身にもなってほしい。
「お兄ちゃん、ハイこれ」
「その呼び方やめてくんね?」
「お兄ちゃーん、スピーカー買ってェ」
「うるせェやめろ、うっかり買っちまうだろうが」
「えへへェ」
冗談を言い合いながら、藍良はキッチンの戸棚に大事に用意してあった、ビールの入った紙袋と、もう一つある物が入った紙袋を取り出した。既に帰り支度をして玄関に向かっている燐音に、その二つを突き出す。
「お土産。ヒロくんから」
「一彩から?」
片方の紙袋は、一彩がCMに出演したスポーツ用品メーカーからの差し入れだ。中にはスポーツタオルや制汗スプレーなど、その類の消耗品がたくさん入っている。撮影の日にサンプルをもらって帰ってきた上、発売日には事務所を通してたくさん送られてきた。事務所の皆に配るには足りなく、二人で使うには多い。ALKALOIDの先輩二人に分けた後は来客用にと持ち帰っていたのだ。
「そうか、ありがとな」
燐音はふっと表情を和らげて笑った。弟想いの兄の顔だ。その顔、一彩にも見せてあげればいいのにと思う。
渡したスポーツ用品は、一彩が燐音のためにとっておいたものという訳ではないのだが、燐音が喜ぶ嘘は吐いたっていいだろう。ビールは藍良が用意したものだが、それもわざわざ言わない。
結局燐音は、「一彩によろしく」という一言を残していつも通り帰って行った。いつも滞在時間は一時間もない。藍良は燐音を見送った後、もらったお菓子を大事に元通りしまって紙袋に入れ、一彩が帰ってきた時によく見えるよう、ダイニングテーブルの真ん中に置いた。中身は二つ減っているけれど、できるだけもらった時のまま一彩に見せたいのでいつもそうしている。
夕食の支度をしている時に、一彩が帰宅した。今日はドラマのプロモーションの仕事があると言っていた。明日の朝のニュースでPRの様子が報道されるらしいので、藍良はしっかり録画予約をしている。この部屋のレコーダーは、芸能番組や歌番組、アイドルが出演するドラマなどを録画するため、大容量のハードディスクを積んでいる。一彩が出演するドラマは全話録画するつもりだ。
「お帰りィ、ヒロくん」
「ただいま、藍良」
玄関のドアが閉まるのを確認してから、藍良は一彩を出迎える。預かろうとした荷物を一彩が床に置いて、藍良を抱きしめてきた。藍良は当たり前のようにそれを受け入れ、背中をぽんぽんと撫でてあげた。
「今日お兄ちゃん来たよ」
「そうなの? むぅ、また僕がいない時を狙ったね」
ただいまのハグを済ませた一彩は荷物を持って部屋へと入る。藍良はキッチンカウンターの上にある燐音のお土産を見せた。
「お礼に余ってたタオル、ヒロくんからってことにしてプレゼントしたけど、いいよね? あとビールもあげたよォ」
「ウム。ありがとう。今度僕からもちゃんとお礼しとくよ」
一彩は兄からの土産を出して、藍良が丁寧に包み直したものをまた開いた。本当はこの部屋で兄と話したいという気持ちが表情に出ていた。少し寂しそうな一彩の気を明るくしようと、藍良がとっておきの食事を一彩に見せる。
「じゃーん! 今日のごはんはヒロくんの大好きな、ハートのラブ~いオムライスだよォ」
今日は既に二人分のオムライスが用意されていた。食事の時間が違う時も食卓が華やかになるようにと購入したガラスのフードカバーを、藍良はふたつ一度に外した。卵とチキンライスの香りがふわっと広がる。一彩が帰ってくる時間を狙って作ったので、できたてだ。
「わあ、上手にできているね。最近で一番幸せだよ」
「昨日もそう言ってたよォ」
「いつだって昨日より今日が幸せなんだよ」
目を輝かせて着席した一彩の目の前で、藍良はふたりのオムライスにケチャップでハートマークを描く。
向かい合って「いただきます」と声を揃えて食事をはじめた。最初の一口を大きく頬張って、一彩が頬を染めてウムと頷く。「おいしいよ」と告げるとどんどん食べ進め、あっという間に半分がなくなった。
「兄さんともこの部屋で、一緒にご飯をたべたいのだけど」
「だよねェ。今日もヒロくん帰ってくるまで引き留めたかったんだけどォ」
弟とプライベートで顔を合わせるのが照れくさいらしいが、それにしても一彩が可哀想だ。仕事で会えるからと言い訳されたと前に言っていたが、仕事とプライベートでは全然違う。何より一彩は、燐音が融通を利かせてくれて住む事が出来ているこのマンションに、藍良とともに兄を招待したいのだ。
「何とかして、僕が家に居るときに兄さんに遊びに来て欲しいな」
「あ、それならいい考えがあるよォ」
実は前から考えていたことがあった。燐音は一彩と藍良の仕事のスケジュールを把握しており、一彩がいなくて、藍良がいる時間を狙って訪ねてくる。藍良がたまたま出かけている時は、宅配ボックスにお土産が入っていることもあった。
藍良は親友であるこはくから、燐音のスケジュールをなるべく聞き出し、それに合わせて嘘のスケジュールを燐音に教える作戦を決行した。ALKALOIDとCrazy:Bの皆にも協力してもらい、さらには事務所の協力も得られた。事務所の協力といっても大げさなものではなく、一彩が「兄が会ってくれない」と嘘でも本当でもあることを言って、燐音に本当のスケジュールが伝わらないように口裏を合わせてもらうことにしたのだ。
その努力の甲斐があって、ついにその日が訪れる。
「ヒロくん、燐音先輩からメッセージ来たよ」
寝室でくつろいでいた藍良は、自分のスマホが通知音を鳴らしたのに気づいて、一彩が雑誌を読んでいるリビングに向かう。
「本当? なんて?」
スマホをいじりながら歩いていた藍良は、一彩が手を引いて膝の上に誘導してくるのに、素直に従ってしまっていた。気づいたら一彩の膝に納まっていたが、構わず用件を伝える。
「『今日藍ちゃん休みだよな? ロケの土産もってっていいか?』だって」
一彩にも見えるように傾けた画面には、一彩の兄からのメッセージが表示されていた。
「やった! やっと兄さんに会えるんだね!」
今日は一彩も藍良もオフの日。それが燐音には、一彩は仕事で帰宅が遅い日であると伝わっているはずだ。
「もォ、ヒロくん放して。お返事できないからァ」
好きな人同士が連絡をとりあっているのが複雑らしく、一彩は藍良が返信を打っている間、藍良の肩に頭をぐりぐりと押し付けていた。
燐音は仕事の帰りに二人のマンションに寄るという。一彩と藍良は大急ぎで買い物をしてご馳走を作った。一彩がたわら型のおにぎりをふりかけで彩り、藍良がボウルいっぱいにサラダを作る。メインは藍良お手製のミートボールと、一彩が野菜とチーズをたっぷり使って作った大皿のグラタンだ。
一彩がオムライスを作りたいと言ったのだが、それはいつものメニューだからと藍良が止めた。
そして夜、燐音がロケ帰りのその足でマンションに立ち寄った。
インターホンが鳴り、藍良が一彩と目を合わせて口元に指を立てて「しぃー」という合図をする。弟がいることに気づかれて、照れ屋の兄に逃げられたら作戦失敗だ。
「よォ藍ちゃん、お疲れ」
「お疲れ様。お土産なァに?」
「菓子だよ。ロケ先の駅で買ったんだ」
「ありがとォ! ねえご飯食べていかない? 夕飯作りすぎちゃったのォ」
言いながら、藍良は燐音の側を通り抜けて、玄関の鍵を閉めて、チェーンロックもかけた。
「食ってる間に一彩が帰ってくんだろ」
怪訝な表情をしている燐音に、藍良はにっこり笑って燐音を室内に押し込んだ。
「兄さんいらっしゃい!」
「あぁ? 何で一彩がいンだよ!?」
部屋に待ち構えていたのは弟の一彩。燐音がその気配に気づいた時にはすでに遅かった。
「兄孝行だよォ、ほら座って座って」
藍良に背中を押されてリビングに通される燐音。その背後で藍良が玄関へ続く扉をもしっかりと閉めた。燐音にとっては一彩と藍良を押しのけて逃走することなど容易いが、目を輝かせている弟と、にこにこと出口をふさいでいる藍良を前にそんな気は起こせない。
「兄さん、今日という今日は僕たちのおもてなしを受けてもらうよ!」
エプロン姿の一彩と、その後ろにはテーブルいっぱいのご馳走。そしてその横に並んで得意げに笑う藍良。それらを見ていたら、燐音は震えと共に口角が上がるのを抑えられなかった。
「この野郎~! お兄ちゃんを出し抜きやがって~!」
「ぎゃーやめてェ!」
「兄さん! 喜んでくれて嬉しいよ!」
燐音はかわいい弟たちの頭を両手で乱暴に撫でた。
三人で囲む食卓は、デザートに燐音のお土産のゼリー付きだった。
おわり