◆◇今夜もウサギの夢をみる◆◇ Scene.11Scene11. 夢のつづき ◆◇◆◇
眠れなくて、枕元のスマホを手に取る。画面を点けると藍良のSNSが現れた。『今日もお店で待ってまァす!』という、薄紫色のウサギのぬいぐるみで顔を隠した写真が、今朝アップされているのが最後の投稿だ。
それを見て、本当なら今藍良に会っているはずだったのにと肩を竦める。
一昨日のライブの後、大雨に濡れたのが良くなかったのか、昨日の夜あたりから体調が優れなかった。幸い熱は高くないが、身体がだるい。拗らせないよう、今日は大事をとって大学も塾も休んだ。勉強も仕事もしなかった日に、藍良のお店に行くわけにはいかない。
お店には先ほどキャンセルの連絡をした。僕が空けてしまった穴に、知らない人で埋め合わせられるのが悔しくて、思わず兄さんに代わりにお店に行くよう頼んでしまった。
兄さんなら藍良を困らせることはしないだろうし、知らない人に藍良との時間を取られるよりはいい。特に、藍良の投稿の返信欄にいつもいる「あのおじさん」にだけは取られたくなかった。こんな張り合い、キリが無いし意味もないのだけれど。
何度スワイプして更新しても、新しい投稿はない。今藍良はお店で接客中なのだから、当たり前だ。
過去の投稿を見返すと、衣装や小物の写真がまめにアップされている。僕は手持無沙汰な時はこうして、藍良がアップする写真を眺めてしまう。
藍良は自分の顔が写っている写真をSNSにアップしない。必ず手やぬいぐるみ等で顔を隠している。
僕はそのままスマホに保存してある画像一覧を開き、これまで藍良と一緒に撮った写真を眺めた。SNSでは顔を見ることはできないけれど、僕のスマホには藍良と一緒に撮った写真がある。それを度々確かめては、僕の一方的な想いに浸った。
「眠れない……」
思わず天井に向かって独り言を吐いた。スマホをいじっているから余計に眠れないのだと分かっているが、今日一日ずっと家にいたのだからこれ以上は上手く休めないのも無理はない。僕は起き上がり、温かい飲み物を淹れて、ダイニングテーブルの椅子に放置していた鞄から手帳を取り出す。飲み物と手帳をテーブルの上に並べて、僕は今日休んだことで少し狂ってしまった予定を立て直すことにした。
今日休んでしまった塾のコマは他の先生が埋めてくれただろうけれど、大学の授業については自分で取り戻さなくてはならない。そして、今日会うはずだった藍良に会いに行く時間もつくらないと。
手帳には、藍良と初めて撮影した、ポラロイド写真が挟まっている。この写真を撮った頃はまだ、お店で会う藍良のことしか知らなかった。思い切ってお店の外で会いたいとお願いして、会ってもらえて、キャストとしてではない藍良の姿を知れば知るほど好きになった。
夢ならいつまでも浸っているわけにはいかない、なんて考えていたのに、藍良が見せてくれる夢を、僕は現実まで引きずってしまっている。
一緒にライブを見た日の夜、藍良と同じ部屋で、同じベッドで眠ったことですら夢のような気がしているのに。スマホのトーク画面にいつまでも残っている、藍良の『昨夜はごめんなさい』というメッセージが、それが夢ではないのだと、よりにもよって忘れた方がいい感情を肯定する。一瞬でも藍良を僕のものにできると思った、その独りよがりな感情を。
気まずい雰囲気のまま別れずに済んだのは、藍良が次の日明るく僕のことを起こしてくれたからだ。予定にない外泊だからさっさと帰らなくてはと、二人でバタバタと準備してホテルを飛び出した。
『気にしないで。今度お店でね』
『ごめん藍良、体調を崩してしまって今日は行けない』
日付は違うものの、すぐ前のメッセージを自分で否定しているのが悔しかった。
今日はお店で藍良に会って『いつもの感じ』を取り戻したかったのに。僕の気分も体調も、あのライブの夜の、延長のようになっている。
ゆっくり予定を見直していると、マンションのインターホンが鳴った。来客の予定はないし、心当たりのない人だったら居留守を使おうと思ってモニターを見る。しかし、エントランスの映像には、僕の良く知る人が映っていた。どっと心臓が高鳴る。
鳥の子色のまあるい頭が、不安そうに揺れている。僕は思わずマイクのボタンを押して名前を呼んでいた。
「藍良……?」
声をかけると、モニタの中の藍良がぱっと顔を上げる。
『あっ! ヒロくん? ごめんねェ突然』
「ど、どうしてここが……? とりあえず開けるから、上がってきて!」
僕はボタンでエントランスの鍵を開けて、藍良をマンション内に入れる。
彼がエレベーターを使って上がってくるまでの数十秒の間に、僕は慌てて顔を洗い、広げていた手帳を閉じる。
思ったより早くドアベルが鳴って、藍良が僕の部屋にやってきてしまった。
ドアを開けると、お店にいる時に感じるのと同じ香を纏った藍良が立っていた。お店からそのまま来てくれたのだろう。
部屋着を着替える余裕はなかったが、部屋はいつも掃除をしているから大丈夫なはずだ。僕は藍良を部屋の中へ招き入れた。
「僕、家のこと教えたっけ?」
「ううん。今日、お兄さんに無理言って教えてもらっちゃった」
僕の家という、僕にとって特別ではない場所に藍良がいる。友人を呼ぶ機会も少ないので、この部屋に兄以外の人がいることも不思議な感じがした。
「兄さんに……?」
お店に代わりに兄を行かせたことが、まさかこんな展開に繋がるなんて。
僕は藍良にダイニングテーブルの椅子を勧めたが、藍良は座らずに持っていた買い物袋を僕に見せた。
「これお見舞い。夕飯はもう食べた?」
「いや……」
今日は一日中家にいたので、昼間変な時間に食事を摂ったきりだ。食欲はあまり無いが、藍良が今からやろうとしていることを躊躇わせてしまう気がして、僕は余計なことは言わないでおいた。
「キッチン使ってもいい?」
藍良が照れたように笑う。袋の中身は一食分にしては明らかに多すぎるけれど、お見舞いという行為に慣れていない感じがして、とても嬉しい。
「う、うん……」
「ヒロくんは座ってて」
僕は藍良のために椅子を引いた席の、向かいの席に着いた。さっきまで手帳を眺めていたいつもの席なのに、兄以外の者がキッチンをうろうろしている様子に落ち着くことができない。そもそも兄は酒を冷蔵庫から取り出す以外のことでキッチンには立ち入らないので、誰かがキッチンに立つ姿というのは僕の目に新鮮に映った。それが、よりにもよって藍良というのも。
藍良は野菜や飲み物を冷蔵庫へ入れ、レトルト食品は僕に入れる場所を聞いてから戸棚にしまってくれる。
一通り片付けながら調理道具がしまってある場所を確認し、鍋などを取り出していた。
そこまでなんとなくぼーっと眺めていて、僕は改めて今の状況を頭の中で認識しなおす。藍良が僕の部屋に居るというとんでもない状況であることは、いくら考えても揺るがなかった。しかも今はまだ、本来なら僕が藍良の接客を受けている時間。藍良は兄さんへの接客を途中で切り上げてここに来てくれたということだ。これも兄さんが気を利かせてくれたような気がして複雑だった。後で電話しておかないと。
「あんまり上手じゃないけど……」
藍良が作ってくれたのは、卵とチーズのおかゆだった。真ん中に細かくパセリが振りかけられているので、リゾットという方がそれらしいかもしれない。藍良には上手ではないという自己評価のようだが、チーズの香りが無かったはずの食欲をそそるしとても美味しそうだ。付け合わせは、サラダチキンとプチトマトを使ったホットサラダ。栄養価も申し分なさそうな良いメニューだった。
「思ったより元気そうだし、大袈裟だったかなァ?」
「ううん。藍良の作ったご飯が食べられるなんて、得したよ」
消化に良いものを食べるに越したことは無いし、何より藍良が僕のために作ってくれたという事実だけでお腹がいっぱいになりそうだった。
僕と藍良は向かい合って食事をとる、藍良もさっきまでお店にいただろうから、夕食はまだのはずだ。二人で思いがけず、一緒に夕食をとることになる。キャンセルの連絡からこんな展開になるとは予想していなかった。
「心配かけてごめんね。全部休んだ手前、遊びに出かけるわけにはいかなくて」
「それはそうだよねェ。でも本当によかったァ」
藍良がほっとしたように笑う。ほかほかのチーズリゾットの香りと藍良の笑顔に、僕は自分の身体が回復していくのを感じる。
「はァい、食べたら歯磨きして寝ましょうねェ」
食べ終わるや否や、藍良がそんなことを言いながら食器を下げてしまった。食後はお茶を飲みながら話でも、と思っていたところだったので拍子抜けする。自分は今日は病人で、藍良はその看病に来てくれているということを忘れていた。
「片付けはいいよ、藍良」
「いいから。寝る用意してきて」
藍良が頑なに片付けを譲ろうとしないので、僕は仕方なく歯磨きをするために洗面所へ向かう。せっかく藍良が作ってくれた料理の味をすぐにかき消してしまうのはもったいないと思ったが、言われた通り歯磨きをして、寝支度をした。
「良いお部屋だねェ、お布団もあったかそう」
歯磨きをしてから戻ると、藍良が僕の寝室のベッドを整えていた。藍良が来る少し前までゴロゴロしていたベッドは、僕の抜け殻のような状態になっていなかっただろうか。自信がないが、藍良によって綺麗に整えられてしまった後だったので確かめようがない。
藍良に促されるままベッドに入る。藍良が僕の眼鏡を外して顔を覗き込み、額に手をあてた。手のひらが柔らかい。気持ち良くて、僕は全身の力を抜かれてしまった。
「ヒロくん、何かしてほしいことはある?」
「……え?」
「ヒロくんは、おれが何をしたら喜んでくれる?」
顔が近い。僕は思わずかっと顔を熱くしてしまった。むず痒い熱が身体の芯を炙るような感覚に焦る。藍良の手のひらに、僕の熱が伝わってしまうのではないか。
「も、もう充分よくしてもらったよ」
僕は藍良を傷つけないよう、そっと額に触れた藍良の手をどける。藍良はベッドの側にある僕の勉強用の机から椅子を持って来て、側に座った。眠るまで側で見ているつもりなのだろうか。これでは、中々眠れそうにないけれど。
「藍良。今日はお店を抜けさせてしまってごめんね。週末必ず行くから」
食事を作ってもらって、ベッドに入るところまで面倒をみてもらった。
これ以上甘えるわけにはいかない。まだ側にいて欲しいけれど、これ以上情けないところを見せたくない。相反する感情を闘わせていたら、藍良が目を伏せて呟いた。
「あのね、ヒロくん。聞いて欲しいことがあるの」
「なに? 藍良」
一瞬で考えを頭に巡らせる。ライブの日のことか、今日のことか、それとも。藍良にこんな神妙な面持ちで話を切り出させるようなことに、僕は心当たりがなかった。
藍良は額からどけられた手でそのまま、僕の手をぎゅっと握った。柔らかな感触が今度は手に触れる。藍良がそっと、指を絡めて握ってくれた。ドキドキと心臓が波打つ。
藍良の言葉が空気を震わせ、僕の耳に届いた。
「おれ……ヒロくんのことが好きみたい」
「え……」
心臓がさらに高鳴った。思いがけない言葉に、脳が混乱する。思わず身体を背けそうになったが、藍良に握られた手と、彼の見つめる視線がそうさせてくれなかった。
「お店を抜けてここに向かう途中、ずっと考えてた。ヒロくんはもう、おれの「お客さん」じゃない」
藍良が僕の手を両手で包む。触れられているのは手だけなのに、全身が温かくなるような心地がした。藍良の僕を見つめる瞳が、揺れる。
「今日はおれの方が会いたかったの、ヒロくん」
いつも僕ばかり君に会いたくて、僕のほうが君に夢中だった。僕の方から手を伸ばさないと、藍良はどこかに行ってしまうような気がしていた。だから今日も、僕が空けてしまった穴をどうにか埋めようと、兄を頼った。
しかし思えばそんな不安は、今日ここに藍良が訪ねてきてくれた時点で、すべて吹っ切れていたのだ。
「だから、週末とかお店にいくとか言わないで、いつでもおれのこと呼んで」
藍良が両手で包んでいた僕の手を、布団の中にいれて掛け布団を肩までかけてくれた。
恥ずかしそうに両手を膝の上で握って俯いている。ああ、かわいい。今こんな状況じゃなかったら抱きしめてみたかった。
「藍良がそんなことを言ってくれるなんて。……夢みたいだ」
藍良の顔が真っ赤になる。いつも僕がからかわれてばかりだったから、藍良のこんな表情が見れたことを嬉しく思った。
「……じゃあ、起きた時に夢だったって思われないように」
そう言って、藍良が一度立ち上がって寝室を出ていき、手に何かをもって戻って来た。それは、薄紫色のウサギのぬいぐるみ。手のひらほどの大きさのそれを、藍良が僕の枕元に置いた。
「これ、置いてく」
藍良がSNSに自分の写真を上げる際に、顔を隠すのに使っているぬいぐるみだった。藍良がお店で着ている衣装についているリボンと同じ飾りがついている。いわば藍良の分身のようなもの。
「本当は泊まっていきたいけど、ヒロくんを困らせたくないから帰る。……元気になったら顔見せてくれる?」
「もちろん。明日すぐに連絡する」
耳まで真っ赤にした藍良が立ち上がり、椅子をもとの位置に戻す。
「じゃあ、今日は大人しく帰るから。明日、連絡待ってるからね」
それだけ早口で言って出ていき、リビングに置いてある鞄を持って来て、寝室にもう一度顔を出してくれた。
「ごはん、タッパーに入れておいたから!」
「うん、ありがとう藍良。おやすみ」
僕が伝えると、藍良は今にも泣き出しそうな顔で笑って「おやすみ」と呟いて出て行った。遠くで玄関のドアが開け閉めされる音、そしてガチャリとオートロックがかかる音がした。
部屋が再び、静かになる。
僕のベッドの枕元には、藍良が置いて行ったかわいらしいぬいぐるみがあった。それを片手でそっと抱くと、ふわりと藍良の匂いがした。
もう今日はこれ以上眠れないと思っていたのに、僕はふと降りてきた眠気に抗わずに目を閉じた。
僕は夢の中で、藍良の想いに応える言葉を探す。
つづく
次回、最終回です。