◇◆インターネット越しのウサギ◇◆「天城先生、ありがとうございました!」
熱心に勉強の質問をしてくる女子生徒たちをようやく窘めて、僕は仕事から解放された。
中学生が対象の塾講師のアルバイト。同じ大学の先輩に勧められて始めたバイトだけれど、どうやら僕に向いているみたいで楽しくやれている。
他の先生方からも「天城くんの授業は人気があるから」とか「冬期講習の申し込みが増えたから」とおだてられて、コマ数を増やせないかと相談されている。
お金に困っているわけではなかったし、大学の講義もあるからとほどほどにかわしていたが、最近は自分の力で稼いだお金が必要な事情が出来てしまった。
ピーク時の半分以下の人口密度の電車へと乗り込む。座席は好いていたが座らずに壁を背に立つ。暇ができるとすぐにスマホでSNSをチェックするクセも最近ついた。目当てのアカウントが投稿しているのを確認した途端、心拍数が上がるのを自覚する。
『十分後から配信はじめまァす!』
その投稿がされた時間を確認し、現在の時刻も確認。あと一分ほどでその配信が始まるのだと理解するまで一瞬だった。僕は最近購入して使い方を覚えた無線のイヤホンを片耳だけつけて、配信ページを開く。そこには、ウサギの耳のヘアバンドをつけた私服姿の『あいら』が居た。『あいら』が私服として配信によく着用してくる肩出しの白いニット。肌着の黒い肩紐がちらと見えているのが『あいら』の中性的な容姿によく似合っている。
かわいらしい表情はもちろんだが、やや上からのカメラアングルのせいで、上目遣いと襟元の鎖骨から目が離せない。
「こんばんはァ! ヒマだったから急遽配信することにしちゃった。皆来てくれてありがとォ!」
聞いているだけで笑顔になるはしゃいだ声。どういう仕組みなのか、『あいら』の瞳の中でハートマークがきらきらと光っている。
コメントに挨拶を書き込んでいる人は五人ほどいて、同時に視聴している人は十五人と表示されている。これが多いのか少ないのかは正直分からないけれど、この人たちも同じように『あいら』に興味があるのだと思うと複雑な心境だった。
配信の内容は他愛のない雑談。最近お店にどんなお客さんが来たとか、食べて美味しかったもの、飲めるようになったお酒の種類や、欲しいものや気になっているもの。こうしてさり気なく欲しいものをアピールしているのだろうかと思うといじらしいと思う。
お店に行ったときに「配信でこんな話をしていたね」「最近これが気になっているんだよね」そんな風に話題を振ることができるので、『あいら』の配信はできるだけチェックしている。リアルタイムの視聴は無理でも『あいら』は二十四時間限定でアーカイブを残しておいてくれるので、必ず視聴していた。
僕はコメントを書き込むためのボックスを開いて、『あいら』にあげるプレゼントアイテムを選ぶ。これは配信している人物に投げ銭を行うことができる機能だ。『あいら』の配信ではアイテムが金額の低い順番に「粒チョコ」「板チョコ」「チョコレートケーキ(ピース)」「チョコレートパフェ」「チョコレートケーキ(ホール)」に設定されている。
僕は『あいら』が配信するたびに一回ずつ「板チョコ」を贈ることにしていた。時々ケーキやパフェも贈ってみるのだけれど『あいら』本人から「投げ銭も嬉しいけどそのお金貯めてお店に来て」と言われているのでほどほどにしている。
これが僕が、最近バイトに精を出している一番の理由だ。兄に相談したらお金を出してくれようとしたけれど断った。自分の力で稼いだお金じゃないと『あいら』に堂々と顔を見せられない。僕は『あいら』のいるコンセプトバーに、月に二、三度のペースで細々と通っている。
僕は今回も「板チョコ」を選択して、メッセージを書き込む。『今日は何をして過ごしていたの?』と無難な質問をして、投げた。僕のコメントが色付きで表示される。『あいら』がそれに反応して、こちらに手を振ってくれた。
『ヒロくん、チョコありがとォ! 今日はねェ、大学のレポートをやってた。家だと集中できないからカフェに行ってねェ』
にこにこしながら、今日一日あったことを話してくれる『あいら』は、画面越しだけれど僕に直接話しかけてくれているみたいだった。自然と頬が緩んで、慌てて口元を引き締める。電車内でスマホを観ながらニヤニヤするようなだらしないことはしたくない。
彼の配信を観るために登録したこのサービスの使い方は、お店で『あいら』本人に教えてもらった。だからアカウント名も『あいら』が付けてくれたあだ名から『ヒロ』になった。
お店に頻繁に通えるわけじゃないから、こうして配信で『あいら』の顔を見れるのは嬉しい。連絡先も教えてもらったから直接雑談もできる。あまりしつこくならないように気を付けながらメッセージを送り、返信を待つのも至福の時間だ。
それでもやっぱり、直接会って話したい。顔を見たい。
僕の投げ銭に呼応してか、他のユーザーも『あいら』に「板チョコ」を贈る。その人物のコメントに反応する様子を見ると、なんともいえない気持ちになった。これは僕と『あいら』との通話などではない。『あいら』とその『お客さん』の集まりなのだ。
『あいら』の雑談配信は二十分と少しの時間で終わって、僕は最後に「粒チョコ」を贈った。「声を聴かせてくれてありがとう」とコメントを添えて。配信終了ギリギリに送信したのでそれには返事はなかったけれど、最後のは返事を期待して送ったわけではないから別にいい。僕は暗くなった画面と「配信は終了しました」の文字を見て、イヤホンを外した。
電車がホームに滑り込むために減速し、次の停車駅を告げるアナウンスが流れる。
僕は開いたドアからホームへ降りて、呆然と駅名の看板を見上げて、スマホで現在時刻を確認する。そのままメッセージアプリを立ち上げて『あいら』のトークルームを開いた。
「藍良の配信見てたら電車を乗り過ごしたよ」
『こんな時間までバイト? お疲れ様! 配信きてくれてありがと!』
何気ないやりとりとウサギのスタンプ。
僕は口元に手をあてて咳払いをして、反対側のホームへ向かうためのエスカレーターに乗った。
おわり