◆◇今夜もウサギの夢をみる◆◇Scene4・5Scene4.アプローチ ◆◇◆◇
白鳥藍良と連絡先を交換してから数週間が経った。僕は控えめに、しつこくなりすぎないように気を付けながらメッセージを送っていた。毎日送るのは鬱陶しいだろうかと考えて、たまにはメッセージを送るのを我慢してみるのだけれど、そういう日は決まって日付が変わる前に藍良からのメッセージが届く。
『今日はどんな日だった?』
僕がお客さんだから、こうしてまめに連絡をくれるのだろうと分かってはいても嬉しくなってしまう。
兄さんに「メッセージの返信もSNSの更新と同じで、仕事のうちだぞ」なんて釘を刺された。分かっている、そんなことは……でも。
『バイトだったよ。今日から冬期講習が始まったから少し忙しくなる』
僕は塾の講師のバイトを増やすことにした。冬季講習はコマ数が多く、クリスマスや年末年始を返上して勉強する子供たちのために塾もスタッフを充実させる。バイトの僕にもボーナスが出るし、藍良に会いに行くためならと気合いを入れた。
『ええ~、じゃァお店には来れないのォ?』
『週末は絶対に行くから、待っていて』
自分の時間は減ってしまうけれどきちんと対価を得れば堂々と藍良に会えるし、実家からの仕送りに手をつけるわけにはいかないからこれが最良だ。もともと藍良には週に1度会いに行けたら良い方だ。毎日連絡もできるし、良い方へと向かっているはず。
『本当? 約束だよォ!』
にこにことハートを振りまくウサギのスタンプが送られてくる。それが藍良の感情をそのまま表現してくれてるように見えて、どうしても嬉しくなってしまう。
『今週はクリスマス限定のメニューとかあるから。ヒロくんは絶対おれ指名で来てよねェ』
『もちろん。僕が指名するのは藍良だけだよ』
夢中で返信を打ち込みながら、僕は少しだけさっきまでの前向きな気持ちが揺らぐのを自覚した。やっぱり、藍良はクリスマスは仕事なんだ。お店に行けば藍良に会えるけれど、こうして連絡先を交換してしまったから急に距離が縮まったような気がして、勝手にクリスマスに食事にでも誘えないかと図々しいことを考えてしまっていたのだ。
僕の頭の中で、兄さんに言われた「学生の細客なんてなんとも思われてないのがオチ」という言葉を反芻する。相手は接客業だ。客の僕にはいい顔をするに決まってる。耳心地の良い言葉をくれて、かわいらしい表情を見せてくれる。僕に好意があるように勘違いさせてくれる。でもそれは、僕が客だからだ。兄さんに念を押されたことを何度も頭の中で繰り返す。兄さんは僕がここまで店のキャストに入れ込むと思ってなかったみたいで、お店を紹介した負い目があるのか時々様子を聞いてくれる。
頭では分かっている。理屈ではこうだと納得できる。それでも僕の感情が、心が、どうしたって藍良に惹かれてしまうのだ。
これがいつか終わる夢なら、早く僕の目を覚ましてほしい。
週末、いよいよ藍良に会える日。
いつもは夜に1コマのバイトも、冬休みの期間は昼間も合わせて2コマ、3コマと増える。大学の課題もこなしながらのバイトは思ったよりも大変だけれど、この日のために頑張った。
「ヒロくん、待ってたよォ」
藍良が甘く響く声で僕の名前を呼んでくれる。僕のすぐ隣に座って、早速手を握ってくれた。仕草のひとつひとつに合わせて揺れる黒いウサギの耳と衣装のフリル。紫色の照明の中に点在する淡い孔雀色の提灯。それらが僕を一歩ずつ、非日常へと引きずり込む。今週はクリスマス限定のメニューがあると藍良が言っていたが、店内にもそれらしく大きなクリスマスツリーが飾られていた。
「お飲み物、レモンサワーふたつ頼んじゃったけどいいよね?」
「うん、ありがとう。君も好きなものを飲んでいいのに」
「ヒロくんと同じものが飲みたいのォ」
にっこりかわいらしく笑う藍良。店に入るまでは冷静に、キャストと客の距離感を保とうと意識するのに、いざこの半円形のソファ席で藍良と二人きりになると気持ちが舞い上がってしまう。
二人分のレモンサワーが運ばれてきて、僕は藍良と乾杯をする。テーブルにも小さなクリスマスツリーが置いてあって、藍良の胸には柊とベルのブローチが飾られていた。今日はクリスマス当日ではないけれど、そうだと勘違いしてしまいそうなくらいに充実している。
少し大きめのBGMが演出するほどよい閉塞感。僕はそれに安心して、最近あったことを一通り話した。店で会った時に話すことが無くならないよう、普段のメッセージのやりとりではあまり詳しいことを話していない。藍良自身があまり自分のことをSNSでは話したがらないのは、客に店に来てもらうためなのかもしれないと気づいたのは最近のことだ。それが本当に藍良の戦略なら、僕はまんまと掛かっている。
ふたりで2,3杯のドリンクや、フルーツやデザートの盛り合わせなどを頼んで90分ほどを過ごす。クリスマスケーキも、藍良にねだられて注文した。
けして長い時間ではないし、その割に安くない。けれど、藍良と一緒に過ごせるのならこれでいい。兄さんが、見栄張って大金使うよりも通い続けろって言ってたし、藍良の普段の言動からも、多分そういう客のことを好ましいと思っているだろう。
僕は藍良と同じ学生だ。相手に気を遣わせるお金の使い方はしたくない。
しかし今日僕は、ひとつ「賭け」に出ようと思っていた。僕はここで会う藍良のことを好きになってしまっている。藍良に会うために、他のすべての時間ややるべきことをこなしているくらいに。けれど、僕の脳はそれが健全ではないことを理解してしまっているのだ。
藍良にとっては仕事なのに、僕に勝手に一方的に好意を寄せられては、藍良だって迷惑なはずだ。だから。最近ずっと平行線である僕らの関係を自ら揺さぶってみようと思った。
「藍良、今日はひとつ……君にお願いしたいことがあるんだ」
僕がそう言うと、藍良が「なァに?」と首を傾げた。顔は笑顔だったけれど、どことなく「下手なことを言わないだろうな」と僕をけん制するような空気を感じた。
「君の信念に反することを言うと思う……」
僕が免罪符のようにそう前置きをすると、藍良の口元に寄せられていたストローの位置が下がった。表情は怖くて見れないが、何かを覚悟するような、でも真剣に聞いてくれているような沈黙があった。
「何? 言ってみて」
藍良の声は優しい。僕は俯いたことでずれた眼鏡を直して、顔を上げた。藍良の目をまっすぐに見て、膝の上で拳を握る。
「ここじゃない所で、君に会ってみたい」
藍良の瞳が大きく揺れた。「やっぱり」「そうきたか」と言いたげな複雑な表情だ。持っていたグラスを置いて、少し考える仕草をする。
「そっかァ」
表情は笑っているし、声も明るい。けれどそれは「接客用」であるのを僕は知っている。……というより、兄に「本気にするな」と釘を刺されている。この店は客に夢を見せる場所。騙されることも含めて楽しめないなら通うなと、最近の兄からは考えられないような真面目な口調で言われた。
いま目の前にいる藍良が本当の藍良でないのなら、本当の藍良を知りたい。僕の勘違いなら、それを正して欲しい。ここでの出来事が全部夢なら、現実の君を見せて欲しい。
こんな甘美な夢を見続けることは、今は幸せかもしれないけれどいつかきっと辛くなる。それならば今のうちに、僕の夢を覚まして欲しい。藍良を困らせると分かっていても、僕は言わずには居られなかった。
僕は藍良の返事をじっと待った。見つめていたグラスについた水滴が、一筋の線を描いて滑り落ちる。時間にしたら1分も無いほどの沈黙だっただろうが、僕はとてつもなく長い時間に思えた。膝の上で握った僕の手に、柔らかくて温かな手が重なった。
「いいよ、会ってあげる」
僕は顔を上げて、もう一度藍良の顔を見た。藍良が少し困ったように笑って、氷の溶けてしまったドリンクを一口飲む。
「い、いいの……?」
「本当はおれ、お客さんとは外で会わないって決めてこの仕事始めたんだけど……」
藍良がポーチの中から自分のスマホを取り出して、綺麗に整えた爪でこつこつと何も映っていない画面を突いた。
「お店に来て、直接顔を見て誘ってくれたことに免じて、ヒロくんとは会ってあげる」
藍良の話によると、連絡先を交換した途端、お店に来ないでキャストと外で会おうとするお客さんもいるという。それはこのお店のキャスト全員に共通するあるある話なのか、藍良自身にそういう客が居るのかまでは分からなかったけれど。少なくとも僕はそのタブーを犯さずに済んだらしい。
藍良がスマホの画面を点けて何かを操作する。スケジュールを確認してくれているのかな、と淡い期待を抱いていたら次の瞬間にとんでもないことを言われた。
「早速この後はどう?」
「え、この後!?」
僕は危うく、鞄から取り出したばかりの自分のスマホを取り落しそうになってしまった。
「声でか。この店、店外禁止されてないけどいい顔はされないと思うから、お店には黙っててよねェ」
「も、もちろん……でも僕、今日は何も用意していないよ」
「そんなのいいって。おれ今夜は22時で上がりなの」
僕は時計を見る。もうすぐ21時。僕がこの店を退店する時間。藍良がお店を出るのが22時すぎ。いつか、近いうちにとぐるぐる考えていたことが、突然1時間後に約束されてしまい僕は戸惑った。
「いつも駅前を適当にブラブラして帰るからさ、付き合ってよ」
大学の友人同士が帰り道の暇つぶし相手を誘い合うような、そんな気さくな物言い。僕は、僕の発言と行動ひとつで何かが変わってしまうような覚悟で誘ったのだけれど、藍良はあまり重要なことと捉えていないように見えた。それはなんだか、安心するような、切ないような。僕ばかりが君に惹かれているんだという現実を早速思い知らされたような、そんな気がした。
Scene5.アフター ◆◇◆◇
藍良の仕事が終わるまでの時間を潰すのは容易だった。駅近くの本屋ならこの時間でも営業している。しかし、手に取った本の内容に集中することはできなかった。
閉店時間に追い出されるように本屋を出た僕は、藍良に指定されたコンビニに向かう。
思い切って、藍良に店の外で会いたいと伝えたら、今日の仕事の後はどうかと言われた。面倒ごとをさっさと済ませたいだけかもしれないし、日を改めるのが煩わしいからわざわざ仕事の後にしたのかもしれない。それでも、藍良が僕のために時間を作ってくれたのが嬉しかった。
深夜だから、終電に余裕を持って送ろうと思うとあまり時間はない。何を話そう、どこで何をして過ごそう。心の準備をする時間はあまり無かった。
「おーい、ヒロくーん」
待ち侘びた声にはっとして顔を上げると、藍良の鳥の子色の髪が視界に映る。長い前髪のかかった瞳は僕のことを不思議そうに見上げてくる。
「あ、藍良……ごめん、お仕事お疲れ様」
「外から手振ったのにぼーっと突っ立ってるんだもん」
「少し緊張していて」
コンビニの店内の明るい照明の下で見る藍良は、どこにも紫色を纏っていなかった。深緑色のジャケットを着て紺色のマフラーに深く顔を埋めている。ふと、それ以外にいつもと違うことに気づいて、僕は藍良の額のあたりに手を翳した。
「藍良って、こんなに小さかったっけ……?」
「店ではヒールとウサ耳で盛ってるから」
藍良がふてくされたように顔を赤らめる。かわいい。少しの間だけど、藍良を独り占めできるのが嬉しかった。
「僕はこっちの方が好きだな」
「そォ? じゃあ今度から厚底じゃない靴にしよっかなァ」
藍良は軽い足取りでコンビニ店内を踊るように歩き、ガムを一つレジへと持って行った。買ってあげると言うと、これくらい自分で買うからと断られてしまった。
「で、これからどこ行くの?」
コンビニを出て、藍良が僕の顔を覗き込む。店で隣同士で座っている時にはあまり感じない身長差をより感じて、僕はどきりとした。
「えっと、この時間でも入れる良い店を知ってるから……」
「言っとくけど、変なトコ連れ込んだらぶっ飛ばすから」
「ちゃんとしたお店だよ! 駅前に兄さんとよく行くバーがあるんだ」
君に出会ってからは一度も訪れていないのだけれど、と心の中で呟いて、僕は店の名前を検索したスマホの画面を見せた。
その店は表通りから裏道に入ってすぐという、アクセスのしやすさと静かさが人気のバー。暗めの照明とゆったりとした音楽が、一日の終わりに癒しの時間をくれる。……と、兄さんが言っていた。
このバーは、兄さんがパチンコに居酒屋にと僕を連れまわした後、最後に寄ることが多い場所。少しの時間、ゆっくりと話をするのにはうってつけの店だ。
「うわ、雰囲気がカッコいい店」
店内に入った瞬間、藍良が僕だけに聞こえる声でそういった。今日ばかりは色んな店に僕を連れまわしてくれた兄に感謝する。
僕たちはカウンター席の端に並んで座る。バーテンダーが、小さいがよく通る声で来店を歓迎してくれ、細長いメニュー表を手渡してくれた。僕はあらかじめ決めておいた注文をして、メニュー表を側に置いた。
「普段からこういうお店によくくるの?」
藍良が、カウンターの向こうに並んでいるカラフルな酒瓶を興味津々に眺めながら言う。藍良の働いている店にも同じような設備はあるだろうけれど、この反応は専らホール担当だからだろうか。
「うん。兄さんが飲み会好きな人で、僕もよく誘われるから」
「ああ、だから最初の来店のときお兄さんと一緒だったんだね」
僕は笑ってそれを肯定する。兄さんも時々あの店には行っているようだけれど、兄さんにとっては「よく行く店のひとつ」であり、来店ペースはほどほどらしい。僕がここまで夢中になるとは思っていなかったようだ。今では僕のほうがあの店のシステムに詳しく、それをよく兄にからかわれる。それを藍良に話すと笑ってくれた。淡い照明に照らされる藍良の横顔がかわいらしくて見惚れていたら、僕たちの前にカクテルが二杯置かれた。
片方はレモンが飾られた黄金色のカクテル。もうひとつは藍良にと頼んだ、さくらんぼ入りの桃色のカクテル。見た目がかわいらしいというだけの理由で、予め目をつけておいた。
「じゃあ、乾杯」
お互いのグラスを軽くぶつける。レモンの黄色とさくらんぼの赤のコントラストが綺麗で、悪くない。
「初めての店外デートだねェ」
藍良がそう言っていたずらっぽく笑って、不意を突かれた僕は顔がかっと熱くなるのを感じた。変な顔をしそうになるのをごまかすように、僕はカクテルを一口飲む。藍良もそれを見て、自分に出されたカクテルを一口含んだ。その様子を、僕は横目で盗み見る。中に入っているさくらんぼが転がって、藍良の唇に触れる。
そのひとつひとつの所作から、目が離せない。あのお店ではない別の場所で藍良といるということだけで、僕の頭はいっぱいだった。
「……これ、アルコール入ってない」
一口飲んで、藍良が不思議そうにグラスを眺める。
「ノンアルコールカクテルだよ。ただのさくらんぼジュースだから、安心して飲んでね」
お店でお客さんに付き合って飲んでるだろうし、実際僕もさっき一緒にレモンサワーを飲んだ。藍良がどれくらいお酒に強いのかは分からないけれど、僕なりに気を遣ったつもりだった。すると今度は藍良のほうが頬を赤らめて、何故か悔しそうに額に手をついて項垂れた。
「はァ~、ヒロくん絶対モテるでしょォ」
「そ、そんなこと無いよ」
今その話題になるとは思ってもいなかった僕は、咄嗟に否定することしか出来ない。
なんでこんな、いや、うーん、と何やらぶつぶつ言いながら、藍良が僕の選んだカクテルを飲んでくれる。何かに迷うようにグラスの中を転がるさくらんぼ。酔う心配が無いと分かって安心したのか、藍良のジュースはもう半分ほどまで減っていた。
「お客さんとお店の外で会うの初めてだから、一応警戒してたんだけどねェ」
藍良が僕の目の前で自分のグラスを掲げて、僕とそれを見比べるような目をした。僕から見ると、さくらんぼが藍良を装飾しているように見える。お店では紫色の衣装を纏っていることが多いけれど、きっと赤も似合うのだろうなと思う。
「なのにノンアルとか出してくるんだもんなァ、ちょっとは下心とかないわけ?」
「それはその……誘った以上は無いと言ったら嘘になるけど、僕はこうして君が外で会うことに了承してくれただけでも夢みたいなことだと思ってるから……」
気恥ずかしいのに、視線を外せない。フルーツカクテルの甘酸っぱい香りが、酔いとともに僕の意識に滲んでくる。
「……この後の予定は?」
「え? 終電までに……君を駅に送ってから帰る……」
「ほらァ、そういうとこ!」
真面目に答えたのに、藍良は噴き出した。ちょっとだけ心外に思っていたけれど、グラスの細いステムを指でくるくるといじりながら、藍良がほっと息をついたのが分かった。
「拍子抜けしたけど安心したなァ。おれ、ヒロくんのこと信用するね」
藍良がもう一度グラスを傾け、今度は転がっているさくらんぼごと口の中に吸い込んだ。
どうやら僕は、藍良の警戒心を少しだけ解くことができたらしい。藍良の仕事モードじゃないリラックスした笑顔を見ることができた気がして、僕は嬉しくなった。
「ふふ、ありがとう。グラスが空になったけど、何か飲む?」
「じゃあ、同じのをもう一杯」
それから藍良は、気を許してくれたのか自分のことをよく話てくれた。お店で聞いた話もあったが、より深堀りした内容を教えてくれた。
実家から大学に通っていること、趣味にお金がかかるから親に迷惑をかけないように今の仕事を始めたこと。
僕が「コンセプトバーで働くことについて反対されなかったのか」と聞いてみたら、藍良は図星なのか苦笑いをした。
実のところ、最初は少し反対されたという。コスプレをする以外は普通の店だなどと強く主張してなんとか説得したらしい。
小さいころからかわいい服にあこがれがあり、堂々とかわいらしい衣装を着られることに魅力を感じること。また、趣味のためにお金がいることを論点として説得したら、藍良の趣味や好みに理解のある母親が折れてくれたらしい。
外泊をしないこと、大学の勉強をおろそかにしないこと、就活を優先すること、等々の条件で認めてもらったそうだ。
藍良の趣味については『お金がかかること』意外は教えてもらえなかったが、藍良が話の途中で『推し活』という言葉を滑らせたのでだいたいどんな趣味なのかは察しがついた。しかし、藍良が夢中になっている『推し』については誰なのかは教えてもらえなかった。
もう少し仲良くなったら教えてもらえるだろうか。藍良の好きなもののことをもっと知りたい。
「そろそろ帰ろうか。駅まで送るよ」
「うん」
ジュースは空になって、さくらんぼは転がることができなくなって底に留まっていた。藍良はそれを細い指先で摘まみ上げる。お行儀が悪いよと窘めようとしたら、藍良は自分のそれじゃなく僕の唇にそれを押し付けてきた。「え」と声を出そうとして開いたところに押し込まれる。口の中に、甘いさくらんぼの味が転がり込んできた。
「サービス」
そう言って笑って、藍良がさくらんぼを摘まんだ指をぺろっと舐める。
「あ、ありがとう……」
「ウチの店じゃこんなことしないから、期待しないでよねェ」
僕はうまく言葉を返せなくて、口の中のさくらんぼを噛熟すことしかできなかった。悔しいような、藍良のペースに巻き込まれるのが嬉しいような複雑な気持ちになる。切ない興奮で体温が上がるのだけははっきりと分かった。
勝ち誇ったように笑う藍良の笑顔が、これまで見たなかで一番綺麗で、かわいらしかった。それはきっと藍良にとってはいつもと変わらない笑顔で、変わったのは僕のほうなのだと自覚した。
藍良にとって僕が、都合のいいお客さんで、藍良に転がされているだけなのだとしても。
ああ、僕はどうしようもなく、君が好きだ。
夢から覚めるどころか、ますます惹かれてしまっていた。
つづく