氷炭1 物心が着いた頃には、奴隷として売りに出されていたと思う。多分優しかった父と母は、確か戦争に巻き込まれそうになった時に…銃弾の雨から守ってくれた代わりにその命を落とした…と思う。
大臣に奴隷として買われた時はまだ子供だった。
ただ、両親が研究者であるということだけ頭にぼんやりと残っていたので、隙を盗んでは書庫を漁っていた。
奴隷として買われた子供は徹底的に暗殺術を叩き込まれ、定期的に殺し合わされていた。
気が付いたら皆死んでしまい、最後の一人と殺し合った結果自分独りになった。
大臣からの暗殺任務をこなす為、ありとあらゆる手を尽くした。スパイはもちろん、物好きな人間に取り入りやすくするために体も使った。
十七になり元服するまでの約十年間は人殺しと書庫漁りの繰り返しだった。
元服したと思ったら急に大人達の中に放り込まれ、只管に知識を詰め込まされた。元々本を読んでいたため周りよりも文字を読む速度が速かったからか、何歳も離れた大人達を追い抜いて大臣の参謀役の地位を勝ち取った。
そして、齢が二十になるかならないか、といった頃、大臣から司令が下る。
『森に眠っているという”黒い油”と呼ばれる物質を入手する手段を確保すること』
計画をより実行しやすくするため、王から別の依頼を受け件の森付近に拠点のある将校の参謀役となった。
将校の参謀役に慣れ始めてきた頃、異変が起こる。
どうやら「町の民」と「森の民」の関係が修復されつつあるようだった。
執務に追われ上手く状況を把握出来ていなかった己の失態だった。
状況を取り戻そうと原因を探ると、将校と見知らぬ少女を目撃する。
何らかのきっかけで知り合った二人は、どうやら仲を取り持つ関係になっていたようだった。
「和平条約を……?」
「町の民」と「森の民」の代表が、それぞれの宝を交換することにより成り立つ和平条約。きっと条約が出来てしまうと”黒い油”を入手するのは格段に難しくなるだろう。町の宝を持った将校を捕らえることで、邪魔者の将校を追い出し条約を破綻させる計画を考え、計画に移す。
「―――お気の毒ですが、貴方にはここで大人しくしていてもらいましょう」
「お前は……」
今殺してしまうのは危険なので夜を待つ為に部屋に閉じ込める。この館で誰も寄ることの無い場所があの部屋しかない為だ。森の少女が木の枝から乗り移って来たのを見ていたため、木の枝は取り除いておく。
夜まで見張って居たいが、自分がいつまでも姿を表さないのは返って怪しまれる。
この作戦唯一の不安を残しながら、部屋を離れた。
何事も無かったかのように姿を見せると、館内は騒然としていた。将校が姿を消したのだ、当然だろう。
自分は何も見ていない事、館の奥を探す事を伝えると、部屋へ戻る。
部屋は、もぬけの殻だった―――
「本当の敵は誰なのか、私達は知った。それは――私達を恨みあわせようとする、お前だ!」
嗚呼、私は最期まで独りのままだった。
―――………―――
牢屋に入れられてから三回日が昇ったある日、牢屋に足音が響き渡った。
判決が下され、執行に来たのだろう。そう思って顔を上げると目の前に立っていたのは、将校だった。
「単刀直入にいう。お前は今日から正式に私の部下だ」
「…は、?」
「大臣は先日処刑された。その際に大臣が行っていた悪事が明るみになってな…大臣に買われていたお前は私が引き取ることになった」
何を言っているか、全く理解できなかった。
大臣が処刑された…自分は情報を吐かなかったはずだが、別の場所から情報が漏れてしまったとでも言うのか。
そして…将校の部下?実行犯は私なのだから、私も処刑されるのでは無いのか。なのに、どうして。
「私は貴方を陥れようとした。加えて、これまで様々な人間を殺めてきたのですよ?そんな私が、処罰もないなど…!」
「……罪を感じているのなら、今のお前に必要なのは私に仕えることで贖罪することだ」
「そんな、事で!?」
「そんな事…とはな。なんと言おうが殺してなぞやらん。生きてその罪を償え」
将校は牢の中に入ってくると、拘束を解いた。
今なら逃げ出せる絶好の機会のはずだったが…何も起こす気になれなかった。
――――――
私が改めて正式に将校の部下として将校の参謀役になると、何事も無かったかのように元の生活が戻ってきた。
私が執務を行うのが将校の執務室のせいか、私に文句があっても将校の執務室に出向いてまで文句を言うほど馬鹿な人間はそうそういない。
まるで私が将校の威を借る狐のようで嫌だったが、無理に争い事を起こす理由も思い浮かばなかった。
「将校殿、書類の確認が終わりました。問題ありません」
「あぁ、有難う。私が押印するから、今日はもう休んでいいぞ」
「…まだ、未確認の書類があるようにお見受け致しますが」
「数が多いだけだ、難しい物はこうしてお前に確認してもらっているだろう。問題無い」
「……はぁ」
無言で書類の束を抱えると、問答無用で自分の机に運ぶ。
ざっと目を通すと、確かに形式的に作られただけの書類の束だと分かる。確かに参謀としての仕事とは方向性が少し違うのかもしれない。
それでも、今は将校の部下である自分が上官に作業を押し付けのうのうとしている事は考えられなかった。
「頭を使うのは部下に任せて、将校殿は何も考えず腕を動かせば良いのです」
「…好きにしろ」
―――
「っ、ふぅ…」
「…すまないな。日が変わってしまった」
「日が変わった程度で済んだのです。あのまま一人でやっていたら、日が昇るくらいでは済まされなかったかと」
ずっと、感じていた。この上官は、何でもかんでも自分一人で抱えすぎる傾向がある。
……それで仕事を肩代わりしすぎた結果が先日の失態に繋がってしまった事からは目を逸らす。大臣…いや、元大臣は何かあればすぐ部下に回し何もしていない印象があったし、それが上官の当たり前なのだと思っていた。
しかし将校は真逆で、とにかく部下の負担を減らそうと身を削り続けているように見える。
加えてとても不器用なのだ。もっと上手く立ち振る舞うことも出来るはずなのに、それが出来ない。不器用なくせに人一倍身を削る将校の姿を見ていると、何故だかとても腹立たしかった。自分が将校の手伝いをするのは、腹立たしい姿をこれ以上見ないようにする為だ。
「参謀、私の部屋へ来い」
「…は?」
「最近いい茶葉が手に入ってな、私は茶を淹れるのが得意ではない。寝る前の力抜きに、代わりに淹れてくれないか」
こちらが反応に戸惑っていると、将校が執務室の扉に手をかける。上官に扉を開けさせる訳には…身体に染み付いた反射神経で動いてしまい、そのまま将校の部屋に行くことになってしまった。
―――
「やはり、参謀の淹れる茶は美味い」
「いえ…この茶葉のおかげかと……」
「私では、ここまで美味しく淹れることは出来ない」
…流れで将校の部屋に来てしまった。
スパイとして居た時は情報収集のために部屋に入ったことはあったが、正式に招待を受けたのは初めてだった。
どうしたものかと思考をめぐらせていると、将校が静かに語り出す。
「私はまだ、将校としては若輩者だ…部下にはいつも迷惑を掛けている」
「…別に、誰も迷惑だとは思っていないと思いますが」
突然吐かれた弱音に思わず慰めの言葉を掛けてしまう。
自分はもう執務室からは出ていないが…まだスパイをしていた頃、いつも部下達の間で語られていたのは将校への尊敬の念であった。皆、自ら望んで彼の下で働いているのは一目瞭然であった。
…本人には伝わっていないようだが。
「お前も、ここ数日休めているのか?不安だから今日は休めと言ったのだが」
「お生憎様ですが、私はこの程度で壊れるような人間ではありませんので。将校殿程は疲労していないかと」
ここでの生活は、これまでの生活と比べると寧ろ生温いのだ。
他人の心配をする暇があるのならもっと自分の体調を心配して欲しいくらいだった…現に将校の目は虚ろで身体が睡眠を求めているのは誰が見ても明らかであった。
「明日も普段通りなのでしょう。さっさと寝室へ行ったらどうです」
「まだ、片付けが」
「それくらい私がします。スペアキーは勝手にお借りしますので」
「お前、いつの間に鍵の在処を…」
反抗をしてくる将校を寝室へ押し込む。
何度も忍び込んでいたので、部屋の間取りから貴重品の在処まで頭に入っていた。
片付けついでに簡単な清掃をし、拝借したスペアキーで鍵を閉め部屋を後にした。
あれから、仕事が長引いた時は必ずと言っていい程部屋に呼ばれるようになった。
参謀が茶を淹れ、会話になるかならないか程度の言葉を交わし、将校が寝室へ行き、参謀が片付けをして部屋を出ていく。
正直、なぜ自分なのか皆目見当もつかなかった。
何度か他の人間に頼めば良いのではと提案した事はあったが、参謀以外の部下が呼ばれることは無かった。
将校には部下は沢山居るのだ、自分なんかより長い付き合いの部下など溢れるほどに居るだろうに…参謀は「解らない」という状態が頗る嫌いだった。
丁度いい…何故将校が自分をこのような形で生かしたのかも気になっていたのだ、この際全て吐かせてしまおうではないか。