氷炭4 何も見えない暗闇の中で、何かがこちらに近づいて来る音が聞こえる。
体は何故か動かすことが出来ず、ただ近付いてくる音に怯えることしか出来ない。
音が間近に来ると、今度は手や足に何かが這い上がって来る感触。
『来るな』発しようとした言葉は音になる前に、首を締められてしまう。
見えない、動けない、呼吸が出来ない…恐怖は膨れ上がる一方でただ涙を溢れさせる事しか、許されなかった。
「――っ!?」
突然の衝撃に目を覚ます。
どうやらベッドから転げ落ちてしまったようだ。
戻らなければと思考するも体が鉛のように重くなっており、動くのが億劫になってしまう。
このまま寝てしまおうかと思案し始めると、乱暴な音を立て部屋の扉が開かれた。
「参謀!……大丈夫か」
「将校、どの?……何故ここに」
「……ここは私の部屋の一間だ」
「将校殿の、部屋…?」
床に伏したまま呆然としていると、将校に体を起こされる。
上官に何をさせているのかと脳が叱咤するが、体が応えてくれなかった。
「申し訳、ございません…」
「…気にするな。私の方こそ、救出が遅くなってすまなかった」
「…私の、不注意が招いた事態です…将校殿が謝る必要は御座いません」
面目の無さに顔を上げられずにいると、突然体を引き寄せられる。
将校に慰められていると気が付くのに、早々時間はかからなかった。
「………将校殿。私は、大丈夫ですから」
「……気丈に振る舞う必要は無い。こんなに震えて居る奴が大丈夫な訳があるか」
「………私は子供ではありません」
「…大人が慰みを受けてはならないと誰が決めた。このまま抱え込んでいてはいずれ壊れるぞ」
将校に声をかけられる度、子供のように背中をさすられる度、自分の中で何かが崩れていく。
視界が歪んだような気がした。
「……彼は…私のせいで、犯罪者になってしまった。私は、然るべき罰を受けただけです」
「確かにお前が犯してしまった罪は償わなくてはならないだろう。それでも、あのような目に遭っていい理由にはならない」
喉が、熱い。
呼吸が、乱れる。
どうしてこんなにも苦しくて…そして暖かい。
己が己では無くなる恐怖に、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「わたしを…ゆるさないで……」
「お前が本当に悪に堕ちるまでは、何度でも赦そう。お前を赦し続ける限り…私は必ずお前を救い続けると誓う」
「……どうして、…」
どうして、いつもそこまで。
私はただの奴隷で罪人で裏切り者で…将校にいい事なんて何一つとして無いはずなのに。
今回の事件も、元は参謀の過去の行いが原因で、将校らに原因は無い…ただ巻き込まれただけのはずだ。
だと言うのにこの男は、その原因たる参謀を赦し、救おうと言う……理解が出来なかった。
「参謀の事を大事にしたいと思っている。では、駄目だろうか」
「駄目に決まっています…さっぱり、わからない……」
将校から掛けられる言葉は、どれもこれも理解…したくなかった。
頭の中に昨晩の様子がフラッシュバックする。
笑顔で己を蹂躙した声が頭に響く。
自分に向けられる感情は、恐怖にしかならない。
悪寒が走り思わず体が大きく震えてしまった。
将校にも震えは伝わってしまっただろうと身構えていると、耳のやや上の生え際に柔らかい感触が届いた。
「…っ、……」
「わかってくれるまで…私は伝え続ける。お前は、もっと自分を大事にするんだ」
こめかみに口付けされたと頭が理解する頃には、将校によりベッドに寝かされていた。
咄嗟に起き上がろうとすると上から布団を被せられる。
将校は「体調の快復が再優先事項だ」と告げ、部屋を出ていった。
―――
体調も回復し日常が戻り始めていたある日、業務が終わったので自室に戻ろうとした参謀を将校が呼び止める。
「参謀、私の部屋へ来い」
「…は?」
「また、いい茶葉が手に入ってな。茶を淹れるのが得意ではない私の代わりに淹れてくれないか」
――それは、聞いた事のある誘い文句だった。
「あの後、自分でも淹れてみたのだが…ここまで美味しく淹れることは出来なかった」
「……また、同じ事をされるとは考えなかったのですか」
「現に今、何もされていないから何の問題もないだろう」
将校はさも当たり前のように言い放ち再び紅茶を啜る。
この男は何故ここまで自分の事を懐へ呼ぶことが出来るのだろう。どうして、そこまで信頼を…そこまで考えた時、視界が明滅し頭の奥から男の笑い声が響く。
医師からの診断結果に問題は無く、参謀自身も体調面での不調は無くなったと判断し職場への復帰を果たしたのであるが、ただ一つだけ…先の事件は参謀に傷跡を残した。何に起因しているのか不明だが、視界の明滅と共に幻聴が聴こえてくるのだ。
「……っ…」
「…参謀、何があった」
「………何も…ありません……」
復帰してから声を掛けられるまで多忙な将校とは会話する機会も無かった為、隠し続けることが出来ていたのだが…よりにもよって誤魔化しが効かないタイミングでの発作に呼吸が乱れ、冷や汗が浮かぶ。
頭に響く笑い声が、思い出したくも無い記憶を呼び起こそうとする。
何とか取り乱さないように努めていると、体が引き寄せられた。
「………やめ、て……ください……」
「…お前、隠していたな」
「………離して、ください」
「全て話してくれれば、考えてやらんでもない」
あの日のように背中をさすられると、呼吸が落ち着きを取り戻し……焦りを生み出す。参謀は恐れていた…自分の中で将校という男の存在が大きくなっている事を。年齢的にも大人な筈の自分が子供のようにあやされ慰められているというのに、振り払う事もせず受け入れているという事実を。
「…………声が、聴こえるのです………私を、嘲笑する」
「………あの事件からひと月は経ったと思うが」
「…ええ、あの夜…貴方に介抱いただいた時から、聴こえていました」
淡々と事実を述べると、将校の顔が険しくなる。
将校が顔を歪ませる必要など、無いというのに。
「…抱え込んでいては、壊れると言ったはずだが」
「壊れませんよ…私は強いので」
「強いやつが…心的外傷に囚われるはずがないだろう…!」
珍しく激昂したらしい将校にソファの背もたれへと叩きつけられる。衝撃で息を詰まらせ見上げると、将校はバツの悪そうな顔をしながら顔を逸らした。
「………そんな怯えた目で睨んでくれるな。何もしない」
「…………何もしないのなら、離していただいても?」
聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにする。無言で睨み続けていると、深く溜息をした将校が倒れてきた。ソファがキシ、と音をあげる。
「…いい加減離してください」
「……どうしたら、お前はお前自身を大事にする」
「………私には…己を顧みるということが、分かりませんので」
生き残るためなら何でもする、その上で一番最初に捨てた事だった。
実際そうすることで殺し合いからも生き残り、奴隷という身でありながら大臣の参謀という地位を手にすることが出来たのだから…後悔はしていない。
体を起こした将校が、此方を真っ直ぐ見つめる。
「ならば、私が大切にしている参謀を、大事にしてくれないか」
「…どういう、事です」
「参謀が傷付いている姿を見ると、私も傷つく。参謀が苦しんでいる姿を見ると、私も苦しい」
「将校ともあろうお方が、一部下相手に移入しすぎです」
「…お前、だからだ」
沈黙。
視線が交差し互いが互いの意志を示す。
先に逸らしたのは、参謀だった。
「……分からないものは、分からないので。出来るとは、言いません」
「…………」
「ただ、まあ……貴方の物を意図的に傷つける趣味は無いので……善処、致します」
「…物では無い。本当に分かっているのか……全く」
精一杯の譲歩を受け取って貰えたのか、漸く将校が上から退く。
いつの間にか幻聴は聞こえなくなっていた。