ワンライ『気まぐれ』『困惑』(第112回お題拝借) 放課後、部活のある生徒はとうに姿を消し、用がない生徒も各々の場へと去っていった教室。
そのクラスの日直当番であった司は、迅速にかつ美しい文字で端から端まで余すことなく日誌を書き記していた。
最近忙しく授業の合間は仮眠してしまっていた為、すっかり忘却の彼方へ追いやってしまった付けが回ってきてしまったのである。
「別に、そこまでしっかり埋める必要はないと思うのだけれど」
「いや、だめだ。このオレが記しているのだから、完璧でなくてはならない…!」
忘れていたからという理由で、普段きっちりとこなしている日誌の手を抜いてしまえばいつか後悔するのは目に見えていた。
そもそもとして元々手を抜くという事をしない司にとって、日誌と向き合うことは確定事項だった。
「別に、お前がここにいる必要は無いんだぞ。帰らなくて大丈夫なのか?」
「……うん、今日は台本を読みたかったから…場所はどこでもいいのさ」
隣の席を借り台本に目を通している類は、時折野次を飛ばしてくる。
最近は忙しくて二人きりになる時間もあまり取れていなかったので、会話するだけで口許が緩んでしまいそうになる。
「…いかんいかん!日誌に集中せねば…」
「………」
思考が逸れ手が止まってしまっていた自分を叱咤し日誌へと意識を戻す。
これで五時限目は記し終えた、残すところは六時限目と一日の振り返りだ。
六時限目の授業は確か……――
「嘘…だろ……」
「司くん?」
「オレは……オレは、虫について書かないといけないのか!!??」
思いもよらないところから降り掛かった唐突な試練に頭を抱える。
授業について記そうとして頭を過ぎるのは教科書に散りばめられていた数々の虫の写真。
数分前必死に脳内から排除したはずの光景が再び蘇りそうになるのを、必死に頭を振り払う事で抗う。
「……成程、生物か。とはいえ、さすがに虫以外の話題もあるだろう?」
「…そ、それがだな……突然視界に飛び込んできた知らない虫の写真が………頭から離れなくて…………授業の記憶が無い……………のだ………………」
状況を説明しようとすればするほど光景が蘇る手助けになってしまう。
体中に汗が浮かび始め、どうしたものかと頭を回転させるが焦りのせいか上手く思考がまとまらなかった。
「……はい、出来たよ」
「…………は?」
声が聞こえたので視線をあげると、そこにはどこかで聞いたことがあるような言葉が枠にびっしり埋まっていた。
筆跡も司のものと酷似しており隙間もない。
「これを……類が……?」
「うん。僕も昨日生物あったから、虫の写真があったページの内容を思い出した限り書いてみたよ」
「…丸写しは流石に、まずくないか」
「司くんが虫について苦手なのは皆知っているだろう。多少は大丈夫じゃないかな」
類の助けをありがたく受けとり日誌に向き直す。
日誌の最後に待ち受けているのは特に広い一日の感想を連ねるスペースだった。
先程記した一時限目からの記録を元に、感想を埋めていく。
そっと六時限目を飛ばそうとすると、隙間が残ってしまうことに気がついてしまった。
なにか変わりに書けるような出来事は………仮眠しか取っていなかった為何も思い浮かばない。
やはり六時限目に触れるしかないのだろうか…躊躇していると、右肩に温かな感触が届いた。
「……類?」
「…………」
「…どうしたんだ」
「………………」
いつの間にか近くに椅子を持ってきていたらしい類の頭が、右肩に温もりを運んでくれている。
しかしその温もりとは対称的に、その顔は不服そうだった。
「………おそい」
「む。…別に、帰っても良かったんだぞ?」
「………だって……久しぶりに…時間が合ったと思った、から」
今にも消え入りそうな声で零された言葉に息が詰まる。
気合を入れるため勢いよく両手で頬を叩き、シャーペンを走らせる。
かろうじて思い出した動物の種族の違いについて空白に書き詰め、どうにか隙間をなくすことに成功する。
「ふう……何とかなったな。類、オレは日誌を提出してくるから……離してくれないか」
「……まだ、期限まで時間…あるでしょう。それまででいいから…」
日誌を手に立ち上がろうとすると、全力を持ってしがみつかれ身動きが取れなくなる。
勿論こちらも全身全霊抗えば抜け出すことは可能だろうが…そこまでして抗う理由は無かった。
大人しく力を抜き類の方へ体を寄せると、拘束の力が弱まる。
無言で顔を俯かせている類の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「類、この後お前の家に行ってもいいか」
「…え…?」
「家は咲希が人を呼ぶと言っていたからな…オレの家ではあまり落ち着けないだろう」
「……でも、もう時間が」
「これから急いで日誌を出して、走って類の家へ向かおう。多少遅くなるくらいなら、家へ一報入れれば大丈夫だ」
答えあぐねている類を横目に立ち上がる。
顔に手を添え頬に口付けると、ようやく表情が和らいだ。
「ということで、だ。オレは日誌を提出してくる。すまないが下駄箱までオレの荷物も持って行ってくれないか」
「……うん。待ってるね」
立ち上がり椅子の片付けを始めた様子を見届け、早足で教室を後にした。