ワンライ『海』(2023/06/07) 何も、無い。
普段であれば時間を忘れるほどに湧き続けるはずの、何かが。
(……どうしたものか)
明日からは新しい演目へ向け動き出す大事な時だというのに。
皆、自分の考える演出を楽しみにしてくれているというのに。
(こんなことは、これまであっただろうか)
何も生み出さない脳内に焦りが募り始める。
何が思考を妨げている?
将来世界へ羽ばたく彼らの為には――
(尚の他こんなことで立ち止まる訳には……)
己のエゴのためにも、まずはいつも通りにこなしていかなくてはならない筈だというのに。
考えれば考えるほど何かが遠のいていく感覚に、血の気が引いていく。
(――)
『いいと思うよ』
明日の為に簡単に書き起こした演目の概要を送り、漸く返事が来たと思ったら何だか珍しく素っ気ない内容で。
いつもの彼は、こうすればああすればと早くショーをしたくなるような案を返してくれるのだが。
少しの思考、メッセージアプリを閉じると通話履歴を開く。
コール音が鳴り響き暫くすると、その音が途切れた。
「……もしもし?」
向こうから声がしなかったので恐る恐る問いかける。
返事がなかったので、切られてしまったのだろうかと慌てて画面を確認するも表示されているのは『通話中』の文字。
正体の分からない違和感に落ち着いて耳を澄ますと、何かが聞こえてくる。
――複数の人の声?
「類、今どこに――」
ブツ、と拒絶を知らせる音が響く。
『通話終了』の文字を流し見しながら、家を飛び出した。
(なにを、しているのだろう)
働かない頭で反射的に電話に出てしまい、言葉が出てこないまま立ち尽くしてしまった。
最後に聞こえてきた言葉、自分が今ガレージに居ないことはバレてしまっただろう。
(迷惑を掛けたくない、はずなのに)
自分の思考と自分の行動が一致しない。
自分が自分で無い様な感覚に、酷く気分が悪くなる。
人の流れに抗うことの出来ないままいつの間にか辿り着いていた世界最大級の交差点は、歩く力の無いはずの自分をどんどん対岸まで運んでいく。
何がしたいのか分からないまま人の波に流され、喧騒に包まれながらただ時間だけが過ぎていった。
対岸に漂着し、隅で壁に凭れ掛かる。
大したことはしていないはずなのに何故か感じる疲労感に、頭を抱えて倒れてしまいたかった。
「類!!」
呆然と床を眺めていた所に響いた己を呼ぶ声に、自嘲する。
どうやら恋人の幻聴を聞いてしまうほどに、自分は壊れてしまったらしい。
もうどうにでもなってしまえばいい……幻聴が聞こえた方へと視線を向けると、太陽のように眩しい光がこちらへと迫っていた。
「る、類!?」
思わず光に手を伸ばそうとして体制を崩し、倒れそうになった体を支えられる。
さっきまでどうやって動かしていたのか分からなくなるほどに、体は言うことを効かなくなっていた。
「熱……は、無さそうだな。ベンチのある公園に行くぞ、もう少しだけ頑張ってくれ」
何か声を掛けられたような気がして取り敢えず頷くと、ゆっくりとした足取りで進み始めた。
先程は抗うことも出来なかった交差点の波を掻き分けて目的地へと運ばれる。
辿り着いた公園のベンチには運が良く人が居なかったようで、横になる様に降ろされた。
「固い枕ですまないが……まあ、無いよりはマシだろう」
仰向けになるとこちらを見下ろしてくる司と視線が交差した。
状況が分からないまま呆然と見上げていると、頭を優しく撫でられる。
その眉は困った様に曲がっており、つい視線を逸らしてしまう。
「……おこらないのかい」
「叱って欲しいのならお望み通り叱ってやらないことも無いが、今のお前には違うと思ったんだ」
「そう、かい」
きっと聞きたい事や言いたい事が沢山あるだろうに、彼は何も言わずにただ頭を撫で続ける。
目を開けているのにも疲れたような気がして、瞼を下ろした。
―――
「……すまなかったね。迷惑を掛けてしまった」
「これくらい別に構わん。ただ、家を飛び出すより先に相談して欲しかったがな」
「……うん。次は、気をつけるよ」
膝の上で小さな寝息を立てながら仮眠を摂っていた恋人が目を覚ますと、開口一番に謝罪が述べられる。
その声の細さに身構えるが、先程のような暗く濁った状態は乗り越えたようで表情は穏やかだった。
「自分でもよく分からないくらい苦しくて、何も考えることが出来なくなってしまったのだけれど。司くんの声を聞いて、司くんに体温を分けてもらって……今、君にやって欲しい演出がもう湧いてきているんだ。さっきまでの苦しさはなんだったのかって程に」
心境を話してくれた類は体を起こし、体の向きを変え隣に座る。
彼はそのまま空へと手を伸ばし、地球を照らしている太陽を眩しそうに見上げた。
「司くんは本当に眩しいね。濁流に呑まれていた僕を引き上げて、目標を照らし導いてくれる」
「何を言っている。類がオレを照らしてくれるからこそ、もっと輝くことが出来るんだ」
「……そう言って貰えるのは、とても光栄だね」
類は呟くと視線を太陽から逸らしこちらへと寄りかかって来た。
ベンチに置かれた彼の手に己の手を重ねると、指が絡み付いてきたので迎え入れる。
日が落ち再び人の波に立ち向かうその時まで、暖かく流れる風を感じながら穏やかな時を共有した。