逢瀬 仕事から帰ってきて玄関の扉を開けたら部屋の中に杉元が立っていた。
あ、なんだ、ここはお前の家か。
そう云ってこちらを見る。
杉元か。寿命が縮まった。遂に出たか。幽霊なんだろう。
気付いたらここにいた。
はっきり物を喋る幽霊だな。
なんか喋れるな。
土足だな。
幽霊のくせに足がある。なりは明治のあのときの服装そのままだった。
え、ああ、悪い、脱ぐわ、それで風呂を貸してくれるか。
そう云ってその場に座り込んで靴を脱ぎ始めた。
湯浴みをしたがる幽霊なぞ聞いたことがない。
お前、冷静だな、もっと普通、動揺しないか。
さあな、いつかこういう日がくるかもしれんと思っていたからかもしれんな。
そうか、とりあえず風呂を貸せよ。
風呂場のある方向を黙って指差す。そちらへ向かうと戸を閉めて中へと入っていった。暫くして浴室から杉元の声が響いてきた。
尾形ぁ、これ、どうやって使うんだ。なんか勝手が違う、手伝ってくれよ。
呼ばれて靴下を脱ぎ、スーツのスラックスの裾を捲りあげて洗い場に入る。湯の温度を調整してシャワーを出してやる。
助かる。ついでに背中も洗ってくれねぇか?
背中が流せる。体つきもそのままで、あのときと同じように傷だらけの背中だ。それにしても幽霊なのにこうして触れられるとは意味が解らない。
お前、背広似合うな。
お前は今は夏なのに襟巻きを巻いたままだったな。
さっき現れたときの姿を思い浮かべながら話し掛ける。
暑くも寒くもねぇ。
幽霊は気楽か。
いや、なんで自分がここにいるのか解らねぇから気持ち悪い。
出られている方が気持ち悪いんだが。
ちげぇねぇな。ああ、お前が触れたところだけ暖かいな。心地好い。
やめろ。
そう言ったら消えた。シャワーが捲りあげたスラックスを濡らす。迷惑な訪問客だった。
よう。
土足だ、脱げ。
こいつはいつも土足だ。暫く経ってまた杉元が現れた。とうとう取り憑かれたか。
靴だろ、解ってる、脱ぐよ。なぜここに来るのかなんか解ってきた。思い出してきた。とにかく風呂だ。
またか。
もうひとりで入れる。借りるぞ。
そういうと勝手に風呂場へ向かった。暫くすると、体を拭うもの無いか、と声が掛かる。脱衣場へ行き、バスタオルを出してやる。
柔らかいな。
バスタオルに顔を埋めて満足そうな声で呟いている。その足元に畳まれて置いてある杉元の衣服が目に入った。
あーあ、褌とか、もう懐かしいな、厭になるな。
ああ、そうだ、褌、綺麗なやつ持っていたら貸してくれねぇか、洗って返すし。
あるか、そんなもの。
買い置きの新しい下着を袋から出して渡してやる。 受け取って首を傾げながら杉元がそれを履く。幽霊に下着を貸す日が来ようとは全く意味が解らない。思わず俯いて首を振る。駄目だ、覚めそうにない。
これ、すぅすぅするな、落ち着かない。
杉元が不満そうな不思議そうな声を出す。
やかましい。早く消えろ。
消え方が解らねぇ。
何をしに来た。
風呂を借りに来た。服も貸してくれると助かるんだけど。
自棄になってそのへんに洗って掛けておいたワイシャツを投げつける。
小さいとか云うんじゃねぇぞ。
解った。あ、確かに釦が留まらないな。
早く消えろ。
この前どうやって消えたっけ。
背中を流してやって、やめろ、と言ったら消えただろうが。
じゃあ背中触ってみろよ。
云われてワイシャツ越しに背中を触ってみる。
触ったぞ、早く消えろよ。
やめろ、って云ってみろよ。
やめろ。
おかしいな、俺まだここにいるな。
いるな。
直に触ってみてくれよ。
釦が留められずはだけたままの胸に手を当ててみる。
ああ、やっぱりお前に触れられると暖かい。
だから、それをやめろ。
その瞬間ようやくふっと消えた。ただ羽織っていたシャツも下着も履いたまま消えた。持っていきやがった。
尾形。
三度目ともなると人間全く動じなくなるものだ。
靴は、脱いでいるな。
脱いだ。悪い、前に借りた物なんだけど気付いたら全部失くなっていて返せない。
今日も風呂か。
ああ、借りる。
勝手知ったる我が家のように杉元が風呂場を使い、湯浴みをする。タオルの置場所も新しい下着の置場所も学習したようで俺を呼ぶことなく髪を拭きながら居間に戻ってきた。
何故、風呂に入りたがるんだ。
なあ、匂いを嗅いでみてくれないか。
何故、俺が。
血の匂いが取れたか知りたい。
そう云って自分の左右の腕を交互に鼻に近づけて嗅いでいる。
お前は狙撃手だったから返り血あまり浴びていないだろう。染みついていねぇか。洗っても洗っても気になって仕方がねぇ。頼むよ。尾形。
仕方なく傍に寄って体の匂いを嗅いでやる。
風呂あがりの石鹸の匂いしかしねぇよ。
そうか、良かった、お前に確認して貰いたかった、俺、もう綺麗だよな、大丈夫だよな。
凭れるな。
杉元が寄り掛かってくる。
これでやっと触れる。お前、暖かいから、触りてぇ。
ははぁ、本格的に取り憑こうというのか。
お前が触ると俺、消えちまうだろ、だから今日は俺から触ってもいいか。
ああ、成る程、こうやって俺は取り憑かれて殺されるのか。
溜め息しか出ない。俺は何を言っているのだろう。
ただ、触りたいだけだ。
杉元に真面目な顔で乞われる。目を閉じて考える。考えたところで逃げ場はない。
土足だ。こいつはいつも土足で上がり込む。いつだって俺の気持ちなど汲もうとはしない。
何故、お前は幽霊のままなんだ。
解らねぇ。
生まれ変われよ。
俺だってそうしたい。
何故、幽霊なのに触れるんだ。
尾形に触れるようにかな。
やかましい。早く消えろ。
手ぇ、出すなよ。お前から何かしたら消えちまうだろ。
くそ、俺はまぐろかよ。早くしろ、早くして、そして消えろ、それで急に消えない肉体になってもう一度俺に逢いに来い。
約束する、待っていてくれよ、少しの間、大人しくしていてくれ。
そう云って杉元に抱き締められ、触られ始める。俺はただその間、抱き締め返したくなる自分の腕を杉元の背中に回さないよう必死で抑えつけていた。