軌跡① 刻は夕暮れ、夷陵のとある町外れからひっそりと延びる山道の片隅で、日除けの笠を目深く被った黒衣の男がひとり佇んでいた。遠目に揺れる金色の旗に綴られた『無上邪尊』の文字を一瞥し、乾いた笑みを口許に湛えている。
「おにいちゃん、まいご?」
ふと、幼い声が男を呼び止めた。
すれ違い様に側へと駆け寄り、舌足らずな口調で問うたのは、今し方母親と共に山を下ってきたひとりの幼い娘だ。大きな瞳、ふっくらとして赤らんだ頬に泣きぼくろがぽつりと添えられているのが印象的で、道中で摘み採った花や野草たちを小さな掌いっぱいに握り締めている。
母親は突然娘が得体の知れぬ男に話しかけてしまった事に慌てふためき、頭を下げてそそくさと立ち去ろうとするも、何故だか幼子は頑としてその場を離れようとはしなかった。どうやら問いの答えを聞けるまでは納得できないらしく、頭上にある男の顔をただ真っ直ぐと仰ぎ見ている。
困ったように視線を泳がせて頬を掻く男だったが、幼子の純粋な瞳を見据えると、その目の前にすとんとしゃがみ込んだ。目深く被った笠を軽く持ち上げれば、どこか妖艶な空気を纏わせながらも、人好きのする朗らかな笑みを湛えた青年の端正な面持ちが露になった。
「うーん、もしかするとお嬢ちゃんの言う通り迷子なのかもしれないな。俺はおうちのわからない、とってもかわいそうな迷子の羨羨! どうか帰り道を教えていただけますか?」
男はやたら芝居がかった口調で茶目っ気たっぷりに答えてやる。傍らで様子を見守っていた母親は、男がどうやら悪人の類いではなさそうだと察したのか、そっと胸を撫で下ろした。
「まいごの羨羨! どこからきたの?」
面白おかしく答えを返されたことで、すっかり気を許した幼子は更に問いかける。男は一瞬何かを考え込む様な表情を見せたが、「雲夢」と一言だけ返した。あの乱葬崗から下りてきた、とは決して言えるわけがないからだ。
「雲夢? ……どこ?」
幼子は自分の住む領地以外の名をあまり聞いたことがなかったようだ。
「雲夢はこの夷陵からずっと歩いた先にあるのよ」
母親が横から簡単な言葉で口添えするが、幼子にはその場所も距離もまったく想像がつかないようで、不思議そうに小首を傾げている。しばらくすると、雲夢、雲夢、と初めて聞く言葉を楽しそうに反芻して言葉遊びに興じ始めてしまった。
「お兄さんは雲夢からいらしたんですね」
「ああ。見聞を広めたくて、気儘な旅を始めたばかりだ」
肩を竦めて男は軽口を叩く。男の風采からして、きっと自由奔放な旅路なのだろうと思い、母親はふっと目を細めた。そして傍らでけらけらと大声で笑い転げる娘を優しく嗜めると、柔らかな胸の中へと抱き寄せてやる。幼子はそれでも言葉遊びをやめる気はなさそうだ。益々高らかな声を上げるその姿に、男と母親は思わず顔を見合わせ、揃って頬を緩ませたのだった。
「羨羨! みちにまよったらねぇ、あのまあるいひかりにむかってあるいていけばいいんだよ? そしたら、あったかいおうちにつくんだよ!」
幼子は帰路を赤々と照らす斜日を指差し、舌足らずな声で得意気に言い放つ。それは幼子の帰る家が日の沈む西の方角にあたるという意味を母親が分かりやすく言い聞かせた例え話なのだろう。
「それは良いことを教えてもらった。ありがとう」
男は幼子の純朴な優しさを受け取ると、丁寧な拱手と共に深々と頭を下げた。
「おうち、みつかるといいね?」
「そうだな。羨羨、早くおうちに帰りたいよ」
「だいじょうぶ! ちゃんとかえれるよ!」
満面の笑みで頷いて見せた幼子と、その小さな手を引いて足早に帰路を往く母親の背中を、男は大きく手を振り見送ってやった。
燃える焔の色をした斜日の光、その先には帰りを待つあたたかな家があるという幸せ。繋がれた手に込められた優しさとぬくもり。それは男にとって泣きたくなるほどに羨ましいものだと、久方ぶりに胸を打たれた瞬間だった。
先程、母子に向けた言葉をふと思い返す。気儘な旅路だと、男は咄嗟に嘘を吐いてしまった。
本当は戻らねばならない場所がありながら、偽りの中に滲み出た己の浅ましい願望に思わず舌打ちする。――このまま誰にも行方を知らせず、何のしがらみも背負うことなく、自由奔放な旅路を往けたのならば――と、ほんの一瞬でも思い浮かべてしまったのだ。
(……彼らを見捨てられるわけがない。そう決めたのは、俺自身だ。)
再び笠で目許を隠し、暫く立ち竦んでいると、あんなにも目映かったはずの陽光はすっかり色を隠してしまったようだ。辺りには寒々とした夜の気配が這い上がり、男が戻るべき山道を黒く黒く塗りつぶそうとしている。
――あの幼子が示した優しい光は、もうどこにも見当たらなかった。
「太陽射つべし、これぞ『射日』!」
高らかに宣言され、奮起した者たちが揃って腕を掲げたあの戦乱の日々で、男もまた渦中のひとりとなり、血も涙もない邪道の力を行使して争いに没頭していた。
自らを玄門の頂と称した畏怖の象徴である太陽がついに射たれ、地獄の業火へ沈み落ちたと聞いたときは、宗主である義弟と共に狂喜の歓声をあげたものだ。多大な功績を残した男は戦乱における英雄のひとりと讃えられ、ついに故郷への凱旋を果たしたのだ。そうして男の身は美しき蓮の水郷を離れることはなく、その生涯は蓮花塢の主へ捧げるものと誓うべきはずだった。
しかし世は移ろい変わりゆくもの。男の在り様もまた然りである。
太陽は既に沈み落ちたが、わずかな火種を世に残していった。男は己の義の為、彼らを掬い上げる道を選択したのだ。
医術の知識で弱きを救い続けた良心の灯火ではあったが、賊としての汚名は拭えず、ひとつ間違えれば呆気なく焔は消し潰されてしまうだろう。それを食い止めているのは誰にも真似出来ない圧倒的な鬼道の力という盾であり、乱葬崗へ身を寄せる太陽の残火たちの生殺与奪は今や男の手中にあるも同然だ。ならばこそ、この身ひとつで温の焔を守り抜かねばならないのだと、男は自ら枷を負った。
かつての恩を返すためなら、為さねば成らぬ義のためなら、何と蔑まれようとも構わない。男は彼らの為に命を掛け、彼らもまた小さな灯火を掲げて男の背を見据えている。先の見えないこの道が何処へ向かうのか皆目検討もつかないが、手探りで進み続ける他に方法はないのだ。
「……やっぱり俺は迷い子だな」
この手を強く握りしめ、温かな胸の中へと抱き、確かな場所へと導いてくれる者はどこにもいない。
(誰か俺に道を示してくれないか?)
かつて男が投げ掛けた言葉に、『あの男』は決して答えを与えてはくれなかった。
示せる道などないことは、互いにわかっていたことだ。
「……俺は、どこに帰ればいい? どこに向かえばいい?」
力なく零れ落ちた男の泣きごとは、誰にも届きはしない。
世の人々は男を異端と呼び、崇拝、畏怖、軽蔑、嫌悪、様々な感情渦巻く檻でじわりじわりと取り囲み、光の当たらぬ墓場へと追い詰めてゆく。まるで、お前は其処から抜け出せまいと言わんばかりに。
男は胸中に不穏の影を残したまま、宵闇迫る山道をただひたすら駆け上がってゆく。苦々しく噛み締めたその唇からは、薄らと血の味が滲んでいた。
――男は請い願う。太陽の残火たちが生き抜く先に、己が行き着く道の先に、どうか、どうか優しい斜日の光があることを。