オメガバースばじふゆ「千冬ぅ、行くか」
「場地さん!はい、行きましょう!」
団地の踊り場で制服から特攻服に着替えて壱番隊の隊長の場地さんを待っていれば、カンカンという足音と共に場地さんが降りて来る。
学校生活ではガリ勉スタイルを徹底する場地さんの髪は、少し結んでいた癖を残しつつも、綺麗なウェーブの黒髪を揺らしながらオレの近くまでやってくる。
これから東京卍會の集会場所へと向かう為の待ち合わせだ。
どうも今日は、重要な知らせがある、との通達までされている。
オレたちはバイクが置いてある駐輪場へと歩きながら場地さんへと問いを投げかけた。
「場地さん、今日の重要な知らせってなんでしょうね?」
「あ?あー……多分最近動きがデカくなってるチームのことじゃね?そんな事言ってたかもしれねぇワ」
隊長の場地さんたちにはあらかじめ先に通達、というよりも話があったようだがおそらくあまり興味がない話だったのだろう。気だるそうな返事が場地さんから戻ってきた。
いつものように場地さんの愛車であるゴキの後ろに跨って、チームの集会場所である神社まで向かった。
集会場所に到着すると、既に特攻服に身を包んだチームの奴らが集まり、ワイワイと話をしながら集会の号令があるのを待っていた。
「時間だ。これより東京卍會の集会を始める!」
オレたちが到着してそう時間も経たないうちに、総長と副総長が前に立つ。集会の始まりを聞けばその場でワイワイとしていた人物たちも姿勢を正して腕を後ろに組み総長の言葉を待った。
「今日集まったのは、あらかじめ通達していた件に関して、総長から話がある」
副総長ドラケン君の言葉の後、総長であるマイキー君が一歩前に出て口を開いた。
「皆に知らせたい事についてだが、最近ここらでデカい動きを見せ始めてる新しいチームについてだ!チーム自体は大きくないが、そこに厄介な噂が出始めてるらしい」
(噂?)
他のメンバー同様に後ろに腕を組みながら総長の話に耳を傾け噂について思考を巡らせてみたが、心当たりがなくオレの耳にはまだ入ってきていないようだ。
「新しいチームだ、力自体はそんなに警戒するチームじゃねぇ。問題なのはその噂で、第二の性に関係して出回ってる噂らしいってのが厄介だ。どうもΩを狙っている噂と、変な薬まで使ってるっていう噂まで立ってる」
「!」
第二の性というのは、男女の性別とは別にあるもので、αβΩの三つの性に分かれている。
カリスマ性に優れていると言われるαと社会的地位が低いと言われているΩがこの世の中では希少で、βが最も多く存在している。
Ωは差別の対象となっていることが多くあるが、最近ではΩであっても才能を発揮している人も少なくないとテレビなどで取り上げられる。差別も昔ほど酷いものは無くなったらしい。
ただ、Ωには他とは違う大きな特徴があった。それは男女問わずに子どもを妊娠することができること。
だが、社会的地位を下げている原因にもなっていると言われているものがある。
それは定期的にやってくるヒートという、言ってしまえば動物の発情期のようなものがやって来るらしい。ヒートの時に特殊なフェロモンを発して自分以外を誘惑してしまうことが問題とされ、αはヒート中のΩを前にすると自分の中の欲を抑えることができないらしい。
らしい、と不確かな説明なのはオレ自体は最も多いと言われるβであること。今ではヒートを抑える薬があり、コントロールができるようになったことで昔は頻発していたヒート絡みの事件も少なくなっているからだ。
「……ゅ、千冬?」
「っ……あ、なんすか?場地さん?」
俺は総長の話を聞いて頭の中で思案していたが、どうやら没頭してしまっていたらしい。眉間に皺を寄せて俺の方を振り向く場地さんの顔が目に入った。
「なんすか、じゃねぇワ。ちゃんと話聞けタコ」
「……っス。すいません!」
オレはあらためて気を引き締め、総長の話を最後まで聞いた。
「東卍としては変に突くつもりはねぇが、動きが読めねぇ。お前らなら大丈夫だと思うが、警戒はしとけ」
「今日の話は以上だ、解散!」
「……なんで奇襲かけないんすか?先に潰したほうが」
「お前は昔から……途中話聞いてねぇからそうなんだろーが」
「き、聞いてましたよ!聞いた上で、考えてたんで……っ痛!」
集会が終わり、場地さんの隣に立つ。未だ眉間の皺の取れない場地さんに軽くゴツン、と殴られる。
「裏にやべー所が絡んでるって噂まであンだよ、大人の。いわゆるヤクザってヤツ」
「そ……そんなの東卍の敵じゃねーっすよ!」
「あーうるせぇ、いいからお前も大人しくしとけよ」
場地さんはそれ以降オレに釘を刺し話を終わらせて「帰ンぞ」と愛機の元へと歩みを進める。オレも場地さんの後を急いで着いていった。
団地に着いていつもの踊り場り。
場地さんと駄弁って、小腹が空いたとカップ焼きそばを半分こする。学校のことや今日のペケが腹出して寝てたとか他愛のないことを話す、オレの好きな時間だ。そして時間を見て明日も学校がある、と解散する時間になって二人して重い腰をあげる。
「千冬ぅ」
「はい?」
階段を上がるオレは、後ろにいる場地さんに呼ばれて振り返る。雲の少ない夜空からの月明かりに照らされたその表情は真剣だった。
「お前の性って、なに」
「へ?オレの性……ですか?」
性、と言われてあげられるものなんて二つしかない。男女か……もしくは。
「オレはβっすよ?」
「……ふーん。悪かったな変なこと聞いて」
オレの答えを聞いて心なし安堵の表情を浮かべる。
本来第二の性に関してはデリケートな部分が多いから、他人に簡単に教えることはないが場地さんに聞かれれば答えないことなどあり得ない。
そういえば、場地さんは……?
聞いたことはないが、おそらくαだろう。場地さんはカッケェから。
「……狙われてんのはΩらしいが、お前も副隊長なんだから気ィ抜くんじゃねぇぞ」
「任せて下さいっ!奇襲が来たら追い返します!」
負ける気なんてサラサラない、と拳を作ってニカっと笑って見せたら、ため息一つついてゆっくり階段を上がってきた場地さんに、無言でポカン!と殴られた。
場地さんはそのまま家まで帰ってしまったので「おやすみなさい!」と背中に頭を下げて、オレも自宅へと足を向ける。出迎えてくれた不機嫌丸出しのペケに、ペシペシと足を叩かれ飯をねだられれば謝りながら抱き上げて飯を用意してやった。
チームに敵意が向いている、ということもなかったし第二の性に関しては、βである自分からしたらどこか他人事だった。
ヒートを起こすこともなければヒートによって欲情することもない。副隊長として務めはしっかり果たすが、身近にΩがいた事も事件を見た事をないオレにとって現実味を得ない話だったのだ――。
▽
あれから日が経つ毎に、勢力を上げたチームの噂はオレの耳にも入ってくる程、大きくなっていた。周りの小さなチームに手を出しながら、じわじわ自分達の力を周囲に知らしめるような、そんな動きは正直気分が悪い。そんな思いをしてるのはオレだけではなく、東卍全体がイラ立ちからピリついていた。
昨晩も開かれた集会では、今すぐ潰せ、全面抗争だ!と騒ぎ立てたヤツらが総長のひと声で鎮められたばかりだ。
かく言うオレも、東卍が煽られているようでイラついている。つまらない文章を淡々と説明する国語教師の話を聞き流しながら、席替えで引き当てた窓際の席からなんとなく窓の外を眺めた。
マイキー君が決めて、場地さんが何も言わないならそれが全てだ。
授業が終わるまであと少し、これが終わったら場地さんと昼飯。考えたら腸が動いたような気がして、途端に空腹を覚える。
「はやく終わんねーかなぁ……」
なにが、なのか。自分でも分からない問いは誰にも聞かれることなく澄んだ空に溶けて消えた。
チャイムが鳴り、オレは腕を上に伸ばして固まった体をほぐしてはすぐに立ち上がる。
早足で向かったのは、学校の屋上。ここでいつも場地さんと待ち合わせて昼飯を食べている。本当なら教室まで迎えに行きたい気持ちでいっぱいだが、学校では真面目な優等生を貫こうとしている場地さんの邪魔はしたくない。
屋上の少し重い扉を開いたが、そこにはまだ場地さんは来ていなかった。おそらくまだ一生懸命黒板の板書をノートへ書き写しているのだろう。
のんびり待っていれば、ギギィ……と扉が開かれて入ってきたのは待ち望んだ人の姿。
ガチャン、と扉が閉まったのを確認した場地さんは、黒縁の眼鏡を外しきっちりしまったネクタイを緩めて、第一ボタンまで閉めたシャツのボタンを外しながらオレの側までやってきた。
「あ?早くね千冬」
「お疲れ様です場地さん!そっすかね?なんか腹減っちゃって」
「ふーん。先食ってて良かったのに食わなかったン?」
「ご飯は誰かと一緒のが美味いんすよ?」
二人して弁当を並べて手を合わせ「いただきます」と忘れず、しっかり挨拶をしてから弁当をかきこんだ。
(ヴヴッ……!)
弁当箱が空になって、食後にダラダラと喋っていれば、不意に場地さんの携帯が震えた。場地さんは慣れた手つきで内容を確認すると顔を顰めては、手短に返事を済ませて携帯を閉じる。
表情からして良くない連絡なの場目に見えていた。
「今夜緊急集会があるらしい」
「なんかあったんすか?」
場地さんの眉間の皺の具合的に、ただごとではないのだと悟った。
「うちのヤツがやられた」
「っ……――!」
その言葉にオレは息を呑んだ。
ついに、東卍に手を出してきた――。
オレ達は学校終了後、自宅に帰り学生服を脱いでトップクに腕を通した。
とうとう手を出してきやがった。
オレは自然と握った拳に力が入る。でもこれで潰す理由は十分だ、奇襲をかけられる。
オレはそう思って、通ったばかりの扉をもう一度潜って場地さんと共に集会場所へ向かった。
「うちのチームのヤツがやられた」
総長のその言葉に、一気に騒つく。予想通りだったのだろう総長は淡々と続けた。
「相手に関して、分かったことがある。おおよそ噂通り、やべー組と手を組んで薬を使ってるクソ野郎だった」
「そんなヤツ、今すぐにでもぶっ潰しましょうよ!」
「そうだそうだ!やってやろーぜッ!」
ガヤガヤと、鬱憤の溜まったチームメンバーからの声が溢れかえる。
「うるせぇっ!まだ総長の話は終わってねぇぞ?」
ヒートアップしていきそうな程、口々に今までの苛立ちをぶつけるが副総長であるドラケン君の一声でその場は一気に鎮まった。
「……。皆の気持ちは分かる、オレも同じ気持ちだ。慎重に動きたい理由があるがそれはもう少し待って欲しい」
「東卍もこのままにする気はねぇ。被害が出てんだ、全員気ぃ引き締めてけよ」
総長、並びに副総長の言葉にその場にいる全員の気持ちが今一度引き締まった。
最後まで、どこの隊のヤツがやられたと告げられることはなく集会は終わる。その後隊長のみが再度招集されて話し合いが行われる。オレはと言えば、場地さんの愛機の側で話が終わるのを待っていた。
(慎重に動きたい理由……か。ヤクザが関わってるからか?)
まん丸の月を見ながら考えてみても、全く答えは出ない。オレはそのまま月を捕まえるみたいに伸びをした。
「ん〜!わっかんねっ、やっちまいたいけど、絶対怒られるし……」
「おい」
「ッ……!ば、場地さん!お疲れまです!」
話し合いはもう少しかかると思っていたけど、思ったよりも早かったらしい。場地さんはいつの間にかオレの後ろに立っていた。
「お前なァ……ゼッテー大人しくしてろよ、いいな?」
「う……うす」
大きな独り言を聞かれてしまっていたらしい。まだなにもしてないのに、釘を刺されてしまった。
「あ、話なんだったんですか?」
「……団地着いたら話すワ」
既にバイクに跨る場地さんは、辺りに視線を配りながら言葉を濁した。オレもその言葉を受け大人しく場地さんの後を追うようにゴキに跨って、いつもの定位置へ。
夜風が気持ち良い。見慣れた団地まで場地さんは見事なバイク捌き、時折エンジンを吹かしながら走っていれば団地まではあっという間だった。
いつもの踊り場に行けば「小腹が空いた」と一度家に帰った場地さんは、わずか五分で片手にカップ焼きそばを作って再度踊り場にやってきては座った。二人で一口ずつ交互に口に運んでは、深夜に食べる事で更に美味しく感じた。
「場地さん、ほんとプロみたいっすよね。無駄がないっす」
「何言ってんだ?お湯入れて抜いてきただけだぞ?」
「いや、麺の固さ具合が絶妙というか……」
ズルルッと麺を啜っていると、「食い過ぎだ、タコ!」と横から手が伸びる。
「……ッ、そういえば集会後の話ってなんだったんですか?」
オレはゴクンと口に入ったものを飲み込んで疑問を口にする。(以前場地さんに口に入ったまんましゃべんな、と怒られた事があったからだ)
「……。被害にあったのは、Ωだった」
「ッ……オ、メガ?」
「どこの誰か、は伏せられてっけど狙われてるのは第二の性関連の可能性が高ェ」
第二の性に関してはとても秘密性が高いもので、そう易々と他人に公表するものではない。あの場で被害にあったヤツの報告もなかったのも頷けた。
「相当クソ野郎ってことっすね」
「あぁ。東卍は性で差別したりしねェ、もちろん全ての性が揃ってンだ。だから今すぐに潰しにいけねーンだとよ」
場地さんの言い分は分かる。ここで一気に潰しに行くことは今の東京卍會なら可能だろう。でも万が一、第二の性を調べられた上で狙われてるなら話は変わってくる。チーム内全員の安全を考えれば今警戒しながら待機するのが最善なのは嫌でも理解できた。
正直、今すぐにでも気持ちは殴り込みに行きたい。でもそれでチームに危険を持ち込むなんて、副隊長であるオレがしちゃいけない。グッと拳に力が入るのが自分でも分かった。
すると、無意識に下に向いていた視線の端からカップ焼きそばが視界いっぱいに広かった。
「ん、お前の番。準備できた時にはぶっ潰そうな千冬ぅ?」
「……はい!もちろんっすよ!」
場地さんの言葉だけでオレの士気は爆上がりする。単純と言われても良い、場地さんからの信頼がこの世で一番オレを高めるのは確かだ。
オレの言葉に場地さんは口角を上げ、いつもは隠れている八重歯を見せる。
場地さんと一緒なら、例えバックにやばいヤツがいても大丈夫。
敵がなんだろうとぶっ潰してやれる、そう思っていた――あの日までは。
②
それは雲一つない空だというのに、朝の天気予報では夕方から雨雲がかかって雨が降る、とお天気お姉さんが言っていた日で、場地さんが補修の日だった。
オレは「待ってます!」と場地さんに伝えたが、うっかり自宅で留守番をしている飼い猫の事を思い出す。
ペケに飯を入れてくるのをすっかり忘れてしまった。
場地さんに向かって直角にお辞儀をして、先に帰路に着き、とある公園を通りかかった時だった。
割と人通りの少ない道、夜になると高校生が数人で話す程度で、人が寄り付かない公園というよりは広場に近い場所。
いつも人が集まらない場所に、人がいれば気になり視線は勝手にそちらに向いた。そこには地面に倒された男と、複数人の明らかにガラの悪い野郎どもが視界に入ってくる。
「へへっ……お前さぁ、トーマンてほんとかよ?こーんな弱くて?トーマンも大した事ねぇな?」
「まーじで弱々じゃん!さっさとやっちまおうぜ?ほら、実験すんだろ?」
耳に聞こえた言葉は胸糞悪いものばかりで、眉が自然とピクリと動く。東卍を侮辱され、副隊長であるオレが黙っていられるわけがない。気づいた時には、足が勝手に動き蹴り上げた自慢の足は先頭で熱り立っていた男にヒットしていた。
みっともない声を出して倒れ込んだ男には目もくれずに、ボロボロにされていた方に手を伸ばす。
「おい、立てるか?」
「ッ……はい、ってあんた!」
男はオレを知っていたらしい。そりゃそうか、オレ東マンの副隊長だし。だが答えている時間はなく、地面に転がした男は起き上がり怒りを露わにして、こっちを睨んでいた。
助けた東卍の構成員である男を見れば他勢にやられたせいで、ボロボロだ。とてもじゃないが一緒に戦えそうにないのは目に見えていた。
「おい、お前もういいからとりあえずどっか行け。んで傷見てもらえよ」
「そ、そんなッ松野君置いてく訳にはッ……」
「やってくれんじゃんかよ?そもそもどっちも逃す気ねぇんだけど」
「人が話してる時に、入ってくんな。一人に複数で喧嘩仕掛けて、ダセェな」
「……?今なんった?」
ダセェと言われたことが癇に障ったらしい。普通に考えてやってる事がダサいと気づかないのか?
オレはあえて、もう一度口にする。
「だから、ダセェつったんだよ。お前らなんかオレ一人で十分だわ」
「上等だ、じゃあ相手してもらおうかねッ……!」
「松野君ッ!」
「いいからお前は早くここから離れろよ」
教科書なんて全て置き勉。入ってるのはだいたい愛読書と弁当箱くらいの平たい鞄を地面に放って、制服のブレザーから腕を抜いた。
『ゼッテー大人しくしてろよ』
場地さんに言われたから大人しくしてるつもりだったけど、目の前でチームの仲間がやられてたらそんな事気にしてらんねぇっスよね?
「ッおらぁ!っ……!」
相手は数えた所四人。辺りを見回しても増えそうな感じはなかった。普通にしてたら四人なんて余裕だ。足で薙ぎ払って、拳で殴りつける。
最初こそよかったのだが、相手は見た感じからしても年上なのだろう。体力の総量で押され気味になった頃、一発くらっちまったパンチにフラついたオレの腕を両側から捕らえられる。
「ッ……!はなせよッ……」
「ハッ、やっと捕まえたぜ……まつの、くん?だっけ?一人で四人本当に相手できると思ってたのか?」
リーダーっぽい男がオレに近づいて、意地悪く笑うのが視界に入る。
「余裕、だけど?ッグ……!」
「テメェ、調子乗ってんじゃねぇぞッ!」
腕を押さえつけている男の一人にオレは髪を掴んで引っ張られ、思わず言葉が詰まったがそのまま相手に言葉を浴びせ続けた。
「ッ……Ωばっか狙うクソ野郎なんか、屁でもねぇ……っ、そんな奴に東卍は負けねぇ」
「ふーん……もうそこまでバレてんだ?」
リーダー格の男はさっきまでの意地の悪い笑みを消し、視線をもう一人の男に向け視線を受け取った男は、オレのカバンを漁り始めた。
(なんだ……?)
「そこまでバレてたとは予想外だなー。ま、正確にはちょっと違うけど。なぁ、松野君はさ……Ωかな?」
「……お前に言う訳ねぇだろ」
「まぁそうだよな〜……あったか?」
「ありました……第二の性の記入はないっすね」
「……!」
男がカバンを探って見つけ出したのは、オレの学生証だった。もちろんトラブルの元になるような性別は伏せられている筈だが、男はつまんなそうにカバンの中を見る。
「見た感じ、抑制剤も見当たんねぇな?ってことはΩちゃんじゃないわけだ」
「……残念だったな、Ωじゃなくて」
この年頃ならいつヒートが来ても対応できるように最初のみ抑制剤が配られる、らしい。以前授業で言っていたような気がする。
「いーや?むしろ好都合だよ」
「……は?」
オレの目の前で用無しとなった学生証は虚しく地面に落下する。男の言っている意味が理解できず無意識のうちに眉間の皺が深くなる。
「なんかオレたちの情報つかんでるみたいだけど、正確にはちょっと違うんだなー。別にΩを見定めてる訳じゃない、まあΩのが都合よかったのは事実だけどね」
「……どういう意味だ」
「Ωはヒートさえ起こさせれば被害者はコッチになる確率が多いんだよ?あぁ、東卍に狙いを定めたのは、別の理由がある訳だけど」
笑顔で平然と並べられる言葉は同じ人間から出ているとは思えない程、腐った内容。
腕に力をグッと入れて殴りかかろうとした――でもそれは叶わず両腕を再度がっしり押さえつけられた。
「んで、本題はこっちな?これがトーマンを狙った目的」
「……な、んだそれ……?」
男が持っていたのは、自分の鞄から取り出したビニール袋に入った錠剤。そこで脳内にある会話が再生されるように思い出す。
『変な薬まで使ってるっていう噂まで立ってる』
マイキー君が言っていた薬とはあれのことだろうか?
そう思った瞬間に、頭がどうにかして逃げろと体に告げる警告音が鳴る。
我武者羅に体を捻ってなんとか腕一本抜けて逃げる事ができそうだったが、相手は年上。そう上手いこといかない。着崩れたシャツの襟を乱暴に掴まれて後ろに引かれ、地面に磔にされるように二人がかりで押さえつけられた。
「ッ……!やめろテメェ……!」
「残念。あそこで出て来なきゃ、これ飲まされるのはあの弱々ちゃんだったのにな?」
「ッ……」
男は嫌な笑顔を浮かべてオレに馬乗りになっては、手に持つ袋から錠剤を取り出した。オレはせめてもの抵抗として顔を背け、口を噤む。
「可愛い抵抗しちゃって、無駄なのになぁ?」
「……んぐッ!?」
顎を掴まれ強制的に上を向かされたと思えば、見ていたもう一人がオレの鼻を摘まれた。
絶対開けてたまるか、と思っていたオレの心とは裏腹に体が悲鳴を上げて「はっ……」と酸素を求めて口を開けてしまった。馬乗りになる男がそれを見逃すはずもなく、待ってましたと言わんばかりに手に持つ錠剤を口に放り込まれて飲み込むまで顎を押さえつけられる。
「ッ……んんーっ!」
未だに呼吸は制限されたまま、飲み込むまで解放してはくれないらしい。苦しさにもがくようにみっともなく足がバタついた。だがオレの抵抗も虚しく口に放り込まれた錠剤はオレの意志を無視して喉を通り過ぎていく。
「っゲホ……ッグ……っテメェ……ッ」
飲み込んだのを確認し男の手が離れ、押さえつけてた奴らも離れていく。一気に酸素が入り込み咳き込むオレの様子を見て男は満足そうな笑みを向けてきた。
「飲んじゃったなぁ、まあすぐ効いてくんからさ?」
「ッテメェ、何飲ませやがった!」
「それは、効果が出てからのお楽しみってやつじゃん?」
「っくそ…!」
息が整うのも待たず、拳を握り男に振り下ろすも当たらず軽々と避けられた。散々好き勝手されて苛立ちと焦りが増していく。体制を立て直し、再度男へ殴りかかろうとしたその時だった。
ドクン……!
「……っ……ぁ……?」
全身の血がフル回転してるみたいに心臓までバクバクいっている気がして、一気に体の熱さを実感した。
「な……に……?ッ……!」
全力ダッシュで長距離を走るみたいな心拍。
勝手に息が上がって苦しくて、オレはその場に蹲って倒れ込んだ。
「お?効いてきた、苦しそうだな?松野君」
「ぁ……っは……ぁ……ッ」
「まぁ、性別が強制的に変えられてんだから苦しいか。んじゃ実験開始な?」
男の話す言葉がうまく耳から脳へ伝達されない、処理されず流れていく。
熱い、苦しい……。助けを求めるなんて嫌なのに、誰でもいいからと求めたくなってせめて口には出すまいと歯を噛み締めた。
そんなオレを気にすることなく、男がオレに向かって手を伸ばし蹲ったオレの顔を上げさせる。
「……ぁッ……!」
「お、やっぱヒートきてんの?これ。匂いはしねーけど」
感度上がってるね?と男は気持ちの悪い笑みを浮かべた。
(待て、今コイツはなんて言った?)
ヒート、と言った。ヒートはΩがなるはずのもの、自分はβでなるはずがない。
「んじゃ、実験は成功かな?報告しないとだけど、先に報酬から」
男たちは何やら話をして、オレを公園の用具入れの影まで引きずって行く。抵抗する余裕もないオレは成されるままに、引きずられ地面に転がされた。
今更こんな物影まで連れてこられて、いよいよ袋にされるのかと思ったオレの予想は、次の男たちの言葉で大きく裏切られる事となる。
「んじゃ、オレたち四人分の相手がんばってね?副隊長の松野君?」
「ッ……ぁ……んんッ……さわ、んなッ」
殴られる、と思っていた手はベタッとオレの顎から顔に触れなぞった。ゾクっと身の危機を感じたのに体は動かない。なんとか動く口を開けば自分の声じゃないみたいな声が悪態よりも先に出てしまう。
男はお構いなしにオレのシャツのボタンに手を掛け出した。そこまでされれば、信じたくないのに分かってしまう。
「ッ……」
息も苦しい、熱い……。
もう嫌だ、このまま眠ってしまったほうが楽なのに。
そんな思いがオレの中を駆け巡っているのに、千冬の意識を留めているのは最早意地だけだった。
もう見ているのも嫌で、目の前の男を存在ごと消すようにギュッと目を閉じた。
「おいお前ら……。うちのに何してンだ?」
「……は?なに――ッァ!?」
聞き覚えのある声、オレが一番カッケェと思う人の声がする。
いよいよ幻聴まで聞こえるようになったのか、と思っていればその後に地面に人が倒れる音が四つ、聞こえてくる。
おそるおそる目を開ければ、霞んだ視界のそこには制服に黒髪。いつも束ねられている髪は下ろされて、動くたびに揺れるのが見える。
「ッ……千冬!」
「……ぁ……じさ……」
すぐにでも場地さんの声に応えたいのに、場地さんを見た途端踏ん張っていた意地が消えて同時に意識まで遠のいて、オレの意識はそこで途絶えた。