世のため人のため飯のため① 1
寒さが日に日に厳しさを増し、いつ雪が降ってもおかしくはないとの囁きを耳にするようになってからどのくらいの日数が経っただろうか。長かった秋が終わり、季節は冬になろうとしていた。
日が昇ったばかりの透明な空気が、背筋をぴんと伸ばさせる。首筋を撫でる鋭さがまるで刃のようだと感じた長次郎は、そういえばここしばらく斬魄刀の手入れをしていないことを思い出した。思い立ったが吉日。長次郎は朝餉を終えた足で一番隊舎の自室へと向かい、押し入れから道具を引っ張り出すと、職務までの時間を手入れに充てるべく縁側へと座り込んだ。
周りに人がいないことを確かめて鞘から引き抜くと、厳霊丸は光と言うには頼りない、曇り越しの淡い朝日を受けてやわらかく輝いた。慎重な手つきで柄を抜き、鎺を外しながら確かめれば、刃の表面に皮脂や汚れが付いているのが見て取れる。その向こうに眉間に皺を寄せた自分の顔が朧に映ったのを確かめると、思うところがあった長次郎はふと手を止め、刀を見つめた。
厳霊丸をはじめて手にした時よりも幾分か成長したとはいえ、周囲と比べれば若輩者に過ぎない自分。元柳斎の役に立ちたいと門戸を叩いてから長い年月が過ぎたものの、思い描く完璧な右腕にはほど遠い。
その要因はなにも若さだけではない。精神の脆弱さだったり、単純な経験不足だったり、あるいは情に囚われ組織としての判断を鈍らせる自らの甘さといったもので、事あるごとに未熟さが浮き彫りになってゆく。そのたびに、自分は変わることができているのだろうかと自問しながら、元柳斎の背中を追いかけている。
あのお方は、今の私のことをどんな目で見て、そしてどう考えているのだろうか……。
足元から這い上がってきた不安が、思考を昏く染めてゆく。際限のない負の雑念に引き寄せられようとしている自分に気付いた長次郎は、これではいけないと我に返る。気を取り直して、刀を拭うべく紙に手を伸ばした、その時。肌に視線が刺さるのを知覚し、長次郎はふと顔を上げた。
いつの間に現れたのか、寒風が吹き抜ける庭に一つ、人の姿があった。太陽を背にしているためか、逆光となったその表情を伺い知ることはできない。こちらに伸びた影は細く、そして小さかった。ぬう、と立哨するさまは隊長羽織の裾が地面についていることもあり、人から影が伸びているのではなく、影から人が伸びているようだった。
目の前の人物が、ゆっくりと顔を上げる。影の落ちた金壺眼と目が合った瞬間、長次郎は皮膚にぞわりとするものを覚えた。
そこにいるのは、護廷十三隊十三番隊隊長である逆骨才蔵その人だった。口元に笑みを刻んだ逆骨は、何をするわけでもなくこちらをじっと見つめている。その異様さにすっかり思考を攪拌された長次郎は、どうすればいいのか分からず、手を止めたまま相手を見ていることしかできなかった。
神出鬼没、奇々怪々。隊首会議にも滅多に顔を出さず、年が離れているということもあって会話という会話をしたことがなかった長次郎は、逆骨に一方的な苦手意識を持っていた。何を考えているか読めないという意味では卯ノ花と似ているが、どことなく滲み出す得体の知れなさが、いつからか長次郎に近寄りがたい印象を植え付けているのだ。
つまりは、どう接すればいいのか分からない。だが、目上の人間を無視するわけにもいかない。しばし考えた長次郎は、やがて「逆骨殿、どうされましたか?」と恐る恐る声を掛けた。
逆骨は笑みを浮かべたまま歩み寄って来る。
「長次郎、お主は今日も頑張っておるのう」
濁ってはいるものの、明瞭で聞き取りやすい声だった。思わぬ言葉に一瞬返答に困った長次郎は、遅れて、
「あ、えっと……ありがとうございます」
「そんなに畏まらずとも良い。山本も、お主のようにひたむきな若者が傍におってさぞ助かっていることじゃろう」
真正面から称賛されることなど、実生活の中ではほとんどない。なんのてらいもなく言われた言葉に、長次郎は自分の頬が熱を持つのを感じた。先ほどまで感じていた暗鬱がすっと降りてゆき、むず痒いもので上書きされる。恥ずかしいやら嬉しいやらで赤くなった顔を見られないように俯いていると、「そうじゃ。頑張り屋さんの長次郎にはこれをやろう」という声が聞こえ、枯れ枝の腕が伸びて来た。
懐紙に包まれた何かが手の上に置かれる。開いてみると、そこには大福が入っていた。
「とても美味しい店のものじゃ。固くならぬうちに食べなさい」
それだけ言い残し、逆骨は門の方へと去って行った。緩やかに歪曲した背中が、年相応の緩慢な足取りに揺れるのを見送った長次郎は、今度は自分の手元に目を向ける。懐紙の表には店の紋らしき印が描かれており、それだけで相当良い店のものだと推測することができる。自分より長く生きている逆骨のことだ、菓子の美味い店の一つや二つ知っていてもおかしくない。そう考えた長次郎は、求肥にまぶされた粉が落ちてもいいよう膝の上の刀を脇に寄せ、大福をつまむと、そのまま一気にかぶりついた。
歯を立てるというよりも唇で食むという表す方が適するほど、大福は柔らかかった。中の餡も舌に残るものではなくすっきりとした甘さで、あまりの美味さに長次郎は目を見開く。これほどまでに美味い大福を今まで食べたことがない。
ついさっき向けられた、親の手伝いをした子を褒めるようなあたたかな視線を思い出した長次郎は、もしかすると自分が抱いていた苦手意識はとんでもない思い違いで、本当の逆骨は見かけによらず慈悲深い人なのかもしれない、などと逡巡する。だとしたら、考えを改めなければならない。一人頷きながら咀嚼を終え、二口目を口に含む。
瞬間、背中に冷たいものが走り、動かしていた口が止まった。
「長次郎、お前だったのか」
頭を掴まれる。大福を喉に詰まらせそうになったのは、無理矢理後ろを向かされたからだけではない。見上げた先に、両目を吊り上げた千日が立っていたからだ。
「……俺は残念だ。普段から目に入れても痛くないほど可愛がっていたお前が、悪い子になっちまったんだからな」
「あの、一体なんの話で……」
「とぼけても無駄だ。その大福、俺の部屋からくすねたものだろ!」
千日の言葉に驚いた長次郎は、口の中の大福をごくりと飲み込んだ。
「ちょ、ちょっとお待ちください。それは誤解です!」
「懐紙を見ろ。そこに描かれているのは四楓院が御用達にしている老舗和菓子屋の家紋だ。そこいらの人間がおいそれと買えるような代物じゃねえ。例えお前が山本の右腕だろうとな。それが何よりの証拠」
まくしたてた千日は、今度は長次郎の襟を掴み、ぐいと引っ張る。
「さあて、選ばせてやるよ。俺の説教と山本の説教、どっちを先にするか……」
「四楓院殿、落ち着いてください!」
「落ち着いてられるか。俺がその大福をどれだけ楽しみにしていたと思ってやがる!」
「私が隠密である四楓院殿の部屋に忍び込むなど、できるとお思いですか!」混乱のあまりまとまらない思考の中、長次郎がやっとの思いでそう絞り出すと、千日はそれは気付かなかったと言わんばかりに動きを止めた。怒りのあまり冷静さを欠いていた頭を冷やしているのか、しばしの間中空を見据えていた千日は、やがて襟首を掴む手を緩めながらこちらに視線をやった。
「言われてみればそうだ。長次郎がどれだけ優秀でも、二番隊の連中に見つからずに俺の部屋に来るなど不可能……お前、その大福どうした?」
すっかり棘が抜けた目に、とりあえずの安堵を覚えた長次郎は締められかけた喉をさすりながら「逆骨殿に頂きました」と答えた。すると、千日は「あ」と声を漏らし、次には肺の酸素をごっそりと入れ替えるような盛大な溜息を吐いてみせた。
「あのジジイ、またか……」
凛々しく伸びた眉が寄せられ、眉間に皺が刻まれる。滲み出た辟易に「また?」とおうむ返しにすれば、千日はがしがしと頭を掻きながらわけを話した。
「逆骨はちょっとばかし手癖が悪くてな……しょっちゅう俺の部屋からおやつを盗み出すんだ」
一般隊士からならいざ知らず、隠密である千日の部屋に侵入するのはちょっとばかしの範疇を超えているのではないか。出掛かった言葉をすんでのところで飲み込んだ長次郎は、内心では大人しそうに見えた逆骨の意外な一面に軽い衝撃を受けていた。そういえば、先日元柳斎が茶会の菓子がなくなっていると不思議がっていた。もしかするとあれも……。
「疑って悪かったな」
千日の謝罪が降ってくる。疑いが晴れてほっとした長次郎が受諾の笑みを返したが、千日はこちらを見つめたままその場を動こうとしない。矯めつ眇めつ、品定めするように眺める目に嫌な予感がした。
「あの、まだ何か……」
戸惑いと不穏が混じった弱い声で尋ねると、千日はうん、と大きく頷いた。
「お前の無実は分かった」
にっと口の端を上げた笑みに、わだかまっていた嫌な予感が一層濃くなるのが分かった。
「だが、お前が俺の大福を食っちまった事実は変わらねえ。その罪はちゃあんと体で償ってもらわねえとな……」
罪と償いという言葉が、耳の奥でやけに大きく反響する。 恨み言でも囁くようなおどろおどろしい響きに戦慄した長次郎は、思わず半分残っている大福を落としそうになってしまった。
「というわけで山本、次の任務は長次郎を借りるぞ」
やけに上機嫌な千日の声が、元柳斎の部屋に響く。訪れたというよりは連行されたと言うに近い状況の長次郎は叱られる子どものように正座をし、身をこわばらせながら、隣で胡坐をかく千日と上座に座る元柳斎の顔を交互に見ていることしかできなかった。
「なにが『というわけ』じゃ。肝心のわけを話せ」
笑みを浮かべる千日に対し、元柳斎の顔は普段の厳めしいもののまま。不服すらも感じ取れる声色に千日がからりと「長次郎が俺の部屋からくすねた大福を食っちまった」と答えると、黒眉から見える目がわずかに見開かれ、呆れとも憐れみともとれる瞳が長次郎に向けられた。
「……お主がそこまで食い意地が張っていたとは」
「元柳斎殿、誤解です! 私は無実です!」
「おい、その言い方だと俺がまるで嘘を吐いてるみたいじゃねえか。お前が俺の大福を食ったのは事実だろ? ほら、唇にまだ粉が付いてる」
長次郎の訴えに、千日がすかさず意地の悪い問いかけを投げてくる。完全に面白がっているにやけ面に、こちらが悪いわけではないのに追い詰められた悪人の心地になってしまった長次郎は、自分の眉が情けなく下がるのを自覚した。
「いえ、そういうわけではなくてですね。確かに食べたのは私ですが、盗んだのは……」
自分の潔白を証明しようとしどろもどろの弁解をはじめた長次郎だが、次の瞬間には部屋の戸が開かれ、口を噤むこととなる。
部屋を覗き込んできたのは、乃武綱と弾児郎だった。
「お、決まったか」
乃武綱の声に、千日が「ああ、長次郎にした」と返すと今度は人のいい笑みを浮かべた弾児郎が残念そうな声を上げた。
「おれか知霧か長次郎で迷ってるなんて言ってたから、期待してたのになあ」
「悪いな、また今度頼む」
話の内容から、どうやら自分が何かに選ばれたということは分かるのだが、何をやらされるのか皆目見当もつかない長次郎からしてみれば、薄気味悪いことこの上ない会話である。千日が言っていた次の任務とは何なのか。尋ねようと口を開きかけた時だった。
「……で、そのジイさんは何したんだよ」
乃武綱が千日の後方を顎でしゃくると、弾児郎が部屋の中に首を突っ込んでくる。部屋に来てからあえて見ないようにしていた長次郎も、ゆっくりと首を動かしてそちらを見た。
千日の背後には来る途中で捕獲された逆骨が、簀巻きにされた姿で無造作に転がされていたのだ。隊長とはいえ、老人であることには変わりない。身じろぎ一つない痩身に生きているのかと気が気でない長次郎だが、千日の方はと言えば、逆骨には見向きもしないまま「俺の部屋から大福を盗んだ」と言葉を発した。
「そりゃあ重罪だな」
「で、それを長次郎が食っちまった」
乃武綱と弾児郎が、揃ってこちらに目を据える。どちらの瞳も本気で疑っているというよりは、厄介ごとに巻き込まれたことを理解したもので、だからこそ、注がれる生ぬるい同情が自分の未熟さを浮き彫りにするように思えてならず、長次郎はただただ項垂れることしかできなかった。
「長次郎、大福美味かっただろ」
長次郎を宥める声が聞こえる。弾児郎のものだ。
「はい、とても」
「千日はな、貴族だから良い店をたくさん知ってるんだ。選ぶおやつもどれも一流、もれなく美味い。それが分かっているから、逆骨はわざわざ千日からおやつを盗むんだ」
「おれも逆骨の盗みの片棒を担がされたことがある」弾児郎の意外な告白に、長次郎は自分だけではないという安堵から胸のすく思いがした。
「尾花殿は何を食べてしまったのですか?」
「干し柿だ。綺麗に粉が吹いて、とろりと甘いやつ。普段世話になっている人間に贈っている、なんて言われて疑うことなく受け取っちまってな……二個目を食べている時に千日に見つかって、真相が分かったんだ」
その時のことを思い出したのか、弾児郎が目尻に皺を作って悪戯っぽい笑みを浮かべると、つられて長次郎も頬の筋肉を弛緩させる。この口ぶりなら、巻き添えにあった人間は他にもいるのだろう。思いつつ渦中の二人を見れば、そこでようやく千日が振り返り、逆骨を睨みつけているところだった。
「おい、ジジイ。いい加減狸寝入りをやめろ」
千日が斬魄刀の鞘先で軽くつつくと、逆骨は芋虫のように身をよじり、わずかに頭を持ち上げ「こんなか弱い老人になんという仕打ちじゃ。山本もそう思うじゃろ?」と不満げに口を尖らせた。
「此度は完全にお主が悪いと思うが」
「何じゃ、山本もジジイだから同じジジイの気持ちを分かってくれると思ったのじゃが……」
逆骨の悪態に、元柳斎が「誰がジジイじゃ!」と声を荒げると、即座に乃武綱が否定の言葉を口にする。
「いや、お前はどこからどう見てもジジイだろ」
次いで弾児郎が「ジジイだなあ」と同意し、「まごうことなきジジイ」という千日の声が続く。最後に長次郎が「若くはないと思います」ととどめを刺すと、元柳斎は長次郎を睨みつけた後、茶を濁さんとばかりにこほんと咳払いをした。
「……ところで千日、これで準備は整ったな?」
表情を引き締めた元柳斎が問う。千日は自信ありげに「ああ、大方は」と応じた。
「明日にしようと思う」
「そろそろ雪が降る。その前に始末をつけた方が良いじゃろう」
「俺もジジイも同じ考えだ」
元柳斎が頷くのを確かめた千日は、表情を引き締めると居住まいを正す。両の拳を床につき、真っすぐに前を見据えながら「というわけであらためて……山本」と腹に力を込め、明瞭とした声を部屋に響かせた。
「次の任務での斬魄刀の携帯、そして一番隊の雀部長次郎の同行許可をもらいたい」
「うむ、許可する」
「ついでに、逆骨のジジイを川に沈める許可も……」
「ばかもん! できるわけなかろう!」
元柳斎の唾を飛ばさんばかりの勢いに、千日は「残念」と舌を出す。乃武綱と弾児郎の苦笑に混じって、逆骨の引きつった笑い声が場の空気を震わせた。
《続く》