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    hiko_kougyoku

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    hiko_kougyoku

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    若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」④
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。

    世のため人のため飯のため④  4

     逆骨の霊圧を辿ろうと意識を集中させるも、それらしき気配を捕まえることは叶わなかった。そういう時に考えられるのは、何らかの理由で相手が戦闘不能になった場合――そこには死亡も含まれる――だが、老齢とはいえ、隊長格である逆骨が一般人相手に敗北するなどまずあり得ない。となると、残るは本人が意識的に霊圧を抑えている可能性か……。何故わざわざ自分を見つけにくくするようなことを、と懐疑半分、不満半分のぼやきを内心で吐きながら、長次郎は屋敷をあてもなく進む。
     なるべく使用人の目に触れないよう、人が少なそうな箇所を選んで探索するも、いかんせん数が多いのか、何度か使用人たちと鉢合わせるはめになってしまった。そのたびに長次郎は心臓を縮ませながらも人の良い笑みを浮かべ、「清顕殿を探しております」とその場しのぎの口上でやり過ごしているうちに元いた部屋から離れてゆき、広大な庭が目の前に現れた。どうやら表である門の方ではなく、敷地の裏手へと出たようだ。
     思わず立ち止まってしまったのは、目の前に広がる庭がかつての繁栄をそのまま残そうとしているような、見事な造りの庭だったからだろう。縁側から等間隔に続く、ふちに苔が貼りついた飛石の間には、風に吹かれて転がって来たらしい枯れ葉が溜まっており、空の色を引き写した薄い青に染まる池まで伸びている。野外での茶会なども開かれていた場所なのだろうか。周囲には良く手入れされた植木や石灯籠、蹲居と見られる石が品よく配置され、計算しつくされた荘厳さに長次郎はしばらく見入っていた。
     庭の隅々まで目を走らせていたところで、池の右奥に大きな建物があることに気付いた。それが蔵だとすぐに分かった長次郎は目を凝らし、外壁を観察する。扉には千日の予想通り錠前が付いていた。鍵はどこかと思いつつ今度は反対側に視線を移すと、そちらには離れらしきものが見えた。
     その時、離れから親方と男が出てきた。まずいと背を向けようとしたのと、親方がこちらの姿を視界に入れたのはほとんど同時のことだった。
    「忠息殿、こんなところでどうされましたかな」
     男を下がらせた親方が、軽く手を上げながら長次郎に近寄ってくる。逃げるわけにもいかず、親方と真正面から向き合うこととなった長次郎は、
    「厠から戻ろうとしたら迷ってしまいまして……そうしたら見事な庭を見かけたものですから、つい足を止めてしまいました」
     咄嗟の話であったものの、庭のくだりは決して嘘とは言い難い。先ほどの逆骨のように事実を混ぜたことが功を奏したのか、親方は長次郎の話を少しも訝しむことなく聞いていたか思えば、やがてふっと頬を緩ませ、口を開いた。
    「四楓院家の方にそう仰ってもらえると儂も嬉しいです。この館はこんな辺鄙な場所にありますから、今や誰も訪れるものもおらず……」
    「見てくれる人はいないのですか?」寂しげな響きに思わず言葉を挟むと、親方は口元に微笑を刻む。
    「そうですなあ、あまり……」
    「こんなに美しいのに」
     小さな笑い声が聞こえた。何かを諦めた人間が持つ独特な虚しさが感じられる、弱々しい声だった。親方は長次郎に据えていた目を逸らし、庭へと向ける。
    「前の主人は庭づくりが趣味でして……よく客人を呼んではこの庭を自慢しておりました。儂にはそんな才がないので、今ではこうしてさびれてしまっておりますが……ほら、目の前に池があるでしょう? 昔はあそこに鯉を飼っていたのですよ。灯籠の近くの、一番突き出た岩場から餌をやると鯉たちが一斉に足元に来て、水面から我先にと口をぱくつかせて……」
     そうして細められた目の底にやわらかな光が灯ったのを、長次郎は見逃さなかった。どうやら親方は、この庭に人並みならぬ愛着を持っているようだ。
    「前の主人というと、質屋の……」
     親方の目がわずかに見開かれる。すぐに何故質屋のことを知っているのか驚いているのだと察した長次郎は「先ほど清顕殿が話しておりまして」と付け足す。再び素直に受け取った親方は、ああ、と合点がいった声を上げると、くしゃりと顔を歪め、はにかんだように笑ってみせた。
    「実は、前の質屋は儂の母の実家でした」
    「え?」
    「母の父、つまりは儂の祖父が質屋の主人でして、その縁もあってこの館を譲り受けたのです」
     はじめて聞く話だった。もしかすると千日も清顕も知らない話なのかもしれない。目を池に向けながらも、長次郎は内容を聞き逃すまいと親方の話に聴覚を集中させる。
    「祖父は生真面目で几帳面。質に出されたものの値打ちを見る目は一流で、それよりも多い金額を貸すことも少ない金額も貸すこともない、とにかく四角四面な人でした。金が絡むということもあって粗暴な輩を相手にすることもありましたが呑めない要求はきっぱりと断り、理不尽には断固として対処する……質屋の主人としてはまさに見本のような人間でした。ただ、他の人間には祖父の態度は厳しいものに見えたようで、銭乞食だとかケチだとか悪態を吐く輩も……。しかし、金で身を滅ぼす人間を知っていた祖父は、客にもそうなってもらいたくなかったのでしょう。
     そうして祖父の周りには人が集まっていきました。増えてゆく奉公人の面倒も祖父が見ており、儂にはそれが大きな家族のように見えました」
     親方が祖父の人となりを心の底から慕っていたというのは、内容だけでなく話しぶりからも容易に想像できる。血が繋がっているとはいえ、祖父と孫。世間というものをろくに知らない若い頃ならば特に、一つ天秤が傾けば祖父の厳然さを頑固だと誤解し、他人と同じように非難する立場にもなりかねない関係性だ。
     にもかかわらず祖父という人間を身内としての狭量な色眼鏡で判断せず、質屋の主という客観的な目で見ていた親方は、文字通り人を見る目を持っているのだろう……そんな男には、突然現れた自分たちがどう見えているのだろうか。背中に冷たいものが走るのを知覚した長次郎の耳に、しかし、と続く声が流れ込み、再び話に集中する。
    「……祖父は病で倒れ、後を継ごうと気負っていた母も同じく亡くなり、質屋の経営は停止。奉公人たちも新たな働き口を求めて離れ、ここには誰もいなくなりました。その頃の儂は街で米屋を営んでいたのですが、なにぶん北流魂街には米屋が多い。なかなかうまくいかず……心機一転のつもりでこの館に移ったのです」
     そこである疑問が、長次郎の頭をかすめた。
    「親方殿は、何故米屋を? この館で質屋を継ごうとは思わなかったのですか?」
    「若い頃、こんな山奥に引きこもるのは嫌だと言ってしまいましてね……若気の至りというやつです。後悔しています」
     汚点とも言える後ろ暗い記憶は、鋭い針となって親方の胸に刺さっているのだろう。その痛みすらも大切に抱くような声色は、長次郎の脳に沁み込むようにじわりと、やさしく溶け、ぬくもりを植え付ける。
    「正直言うと、祖父が羨ましかったのです。多くの人間に慕われて、店も活気づいておりましたから。そんな店を自分も作ってみたいなんて思った次第です」
     長次郎は親方を見る。どこかすっきりとした様子で池を見るその顔には遊びに満足した子どものような幼さが浮かんでいた。無垢と愚鈍。どちらとも取れる瞳が突然こちらを向き、長次郎が思わず息を呑んだところで、遠くから人間の声が、不明瞭な音となってこちらまで聞こえた。 
     蔵の正面、母屋の隣に当たる場所にある長屋から数人の男が出て来て、どこかへ行くのが見えた。
    「あの長屋は……」
    「使用人の寝所です」親方も長屋の方を見ながら答える。
    「ここで面倒を見ているのですか? 清顕殿も……」
    「街に家族がいる者は通っておりますが、ほとんどが家も家族もいない者ばかりです。親代わり、と言うのはおこがましいかもしれませんが……年齢関係なく、儂が面倒を見ているのです」
     意外な事実に、長次郎は頭がくらりとした。嘘やでまかせを言っているそぶりは見られない。他人にここまで目をかけることのできる人間が、果たして本当に金のために買い占めなどをしているのだろうか……混乱しかけた頭がろくな結論を出せるはずもなく、煩悶で息苦しくなっていると、頭の上で再び親方が苦笑する音がした。
    「失礼、つまらぬ話をしました。誰かに部屋まで案内させましょう。少しお待ちくだされ」
     離れようとする背中に、長次郎は「あの!」と声を投げかけた。動きを止め、振り向いた顔は驚きで彩られている。
    「……親方殿も、使用人の皆さんに慕われていると思います。前の主人のように……」
     清顕を含めた使用人たちの振る舞いが良いのは、決して生まれや育ちだけではない。ましてや、誰かが強制しているようにも見えない。ここに来るまでの道すがらで、一人ひとりが自分たちが世話になっている親方の顔に泥を塗らないようにしなければという心構えに衝き動かされている空気を肌で感じて来たからこその言葉だった。
     すっきりとしていた顔に、一抹の動揺が浮かんだ。しかし言葉を返すことはなく、親方は人を探すために廊下を歩き出してしまった。出過ぎたことを言ってしまっただろうか。鎮まりかけた頭で内省していた、刹那。親方が向かったのとは反対側からばたばたと騒がしい音が響き、長次郎はすぐさまそちらへと向いた。
     必死に探しても見つからなかった逆骨が小走りで駆けてきたのだ。
    「おお、長次郎、来ておったか。やはり蔵には鍵がかかっておったぞい」
     こちらの姿を確かめるなり重要な情報を伝達してくれたものの、それに返事するどころではなかった。見るからに逃げている様相とは裏腹の明るい表情に、追いやっていた杞憂が爆発的に膨張してゆくのを自覚しながら、長次郎は逆骨に尋ねる。
    「あの、何故そんなに急いでいるのですか?」
    「使用人たちが追いかけてくる」
    背中に嫌な汗が流れる。
    「何をしたのですか?」
    「別に。蔵の鍵はどこにあるか聞いただけじゃ」
    「ちょっと、本当に何をしているのですか!」
     精一杯の叫び声を上げると、耳が複数の足音が近付いてくるのを拾うので、長次郎は逆骨に続いて走り出す。にわかに騒がしくなった屋敷内を駆け抜け、部屋の戸を勢いよく開くと、何事かと目を見張った二組の目がこちらを向いた。
    「千日、すまぬ。蔵の鍵の場所を聞いたら怪しまれたわい」
     内容の重さにそぐわぬ陽気な声に、千日の堪忍袋の緒が切れた音が聞こえた気がした。「当たり前だ馬鹿野郎!」の怒鳴り声とともに千日が猫を思わせる俊敏さで部屋から抜け出してくると、部屋には何が起こっているのか理解できないという顔をした清顕が、呆然と取り残される形となった。
    「あの、どういうことですか?」
     理解しているのは、何か騒ぎが起きているということだけだろう。その原因が目の前の老人とは思いもしないのか、清顕は三人に向かってそう尋ねるも、逆骨はそれには答えなかった。ただ一瞬、それまで饒舌だった口を真一文字に引き締めると、すぐに意を決した顔を作り、
    「お主の飯、美味かったぞい」
     それだけ告げた逆骨は、清顕から目を逸らす。
    去り際、長次郎は部屋の様子を盗み見た。一人座り込む清顕は、親に置いて行かれた子どものような心もとなさを顔に滲ませながら、逆骨の背中を見つめている。あまりの切実さにこれ以上見ていられなくなった長次郎は、逆骨と同じように清顕から目を背けると、千日を追って外へと飛び出した。

      5

    「こうなったら多少の衝突は避けられねえ! 長次郎、お前はジジイと一緒に蔵の鍵を探せ! 俺は俺で調べる!」
     左右に視線を走らせながら、千日が指示を飛ばしてくる。切迫感に煽られた声だった。考えるよりも先に「わかりました!」と返した長次郎は逆骨をとともに千日とは反対側、敷地の西の方へと向かおうとする。
    「千日、あまり傷付けるでないぞ」
     逆骨が、千日のうなじに大声を放つ。目だけで振り向いた千日は「分かってる! こいつらには聞かなきゃならねえことが山ほどあるからな!」と息せき切った声を発すると地面を蹴立てて走り出し、軽々とした身のこなしで母屋の角を曲がってゆく。
    「ヒヒッ、まだまだ青いのう……」
     喜悦混じりの呟きは、方々から聞こえる喧騒のうねりに押し流され、乾いた土へと落ちていった。足元から、大勢の人間が動くことによるかすかな振動が這い上がってくるのを感じ取った長次郎は、早く動かなければという焦燥が心臓を殴りつける音を聞いたような気がして「逆骨殿、行きましょう!」と悲鳴に近い声を出す。
     が、逆骨はそれでも動こうとしない。何故と自問する間もなく、長次郎は逆骨を脇に抱えると母屋沿いを遮二無二走り出す。
     米屋の要ともいえる蔵の鍵の保管場所となれば、やはり使用人が立ち寄りやすい場所に設けてあるのだろうか。しかし貴重品であると考えれば親方の部屋か、あるいは使用人たちが使う長屋か……頭の中で先ほど記憶した館の見取り図を紐解き、狙いを定めようと脳を回転させているものの、いかんせん情報が少ないせいで少ないせいで見当もつかない。効率は悪いが、ここは一つ一つ部屋をしらみつぶしに探すしかないのか。そう思い手近な部屋へ足を踏み入れようとした時だった。
    「長次郎や、次の角を曲がってくれ。そこに……」
     抱えられたままの逆骨が、前方を指さす。ここで指図される理由など、一つしか考えられない。
    「まさか、鍵が?」
    「いいや、厠じゃ。食べ過ぎてしまったようで、腹が……」
     見れば、逆骨は皺だらけの顔を苦悶に歪め、額に脂汗をびっしりとかいているではないか。上官であることを忘れ、思わず「さっき行っておけば良かったではないですか!」と咎める声を出せば、逆骨は弱々しく首を振る。
    「動いたから急に……」
    「も、もう少し辛抱してください!」
     とにもかくにも、ここで問題を増やすわけにもいかない。できるだけ動かさないよう、細心の注意を払いながら逆骨を運ぶ。そうして言われた通りに角を曲がると、敷地の端、塀の傍にこぢんまりとした小屋が建っていた。どうやらあそこが厠らしい。
     脇から這い出た老体が一目散に厠へと駆けてゆくのを見送った長次郎は、逆骨をここに一人置いていくとまた何をしでかすか分からないという懸念から、仕方なしに用を足し終えるのを待つことにした。せめて周辺を探るだけでも……きょろきょろと見回していると、どこからか「こっちを探せ!」とわめく声が聞こえ、そこら中を駆け回る音が続き、背中が粟立つのを感じた。
     追っ手だ。動転のあまり数瞬、挙動不審でその場でたたらを踏んでしまったが、足音が近付くにつれどうするという自問ばかりが思考を占有する。まともに働こうともしない頭に、無意味とは分かっていながらも苛立ちがこみ上げてくるのを実感していた長次郎だが、厠から少し離れた場所に見えた古びた建物が、意識を現実に引き戻した。
     中に誰もいないことを一身に祈りながら、長次郎は建物に転がり込む。戸の影に身を潜め、音を立てないように細く息を整えつつも、耳だけは外に向けながら様子を探っていると、こちらに気付かぬまま壁一つ隔てた向こう側を過ぎた足音は建物から遠ざかってゆく。
     ひとまずの難は去ったか。ほっと息を吐いた長次郎は、あらためて建物の中を見た。かび臭く、そこかしこが埃っぽいその空間は、造りから考えるに馬小屋のようだ。しかし、壁や天井に染みついているはずの獣の匂いはすっかり抜けており、代わりに迎え入れられているのは荷車や梯子、薪といった日用品の類ばかり。もうずいぶんと長く本来の役割からは遠ざかり、倉庫となり果てた馬小屋は日が入らないこともあってどこか悄然として、もの悲しさが滞留していた。
     この小屋にいたのは、おそらく質に出され、もとの飼い主から預かる形となった馬たちだと推測できる。ということは、少なくとも館が米屋となってからは住んでいないはずだ。果たして最後の馬がここを出てからどのくらいの年月が経っているのだろう。
     長次郎は思考を巡らせる。記憶と呼ぶには曖昧で、昔と呼ぶには遠い日々――かつてここが質屋と呼ばれていた頃、あの親方もこの馬小屋に足を運び、前の主人やその奉公人と一緒に馬の世話などをしていたのだろうか。金のために手放され、もう戻ることがほとんど叶わない飼い主を思う馬たちを慰めるように背中を撫で、元気づけようと笑いかけ、そうして暗い夜を少しでも和らげる子守唄を聞かせるように、精一杯の優しさで語り掛けながら。先ほど目を輝かせて池の鯉の話をした時の顔を見るに、もしかするとそんな日々があったのかもしれないなどと勝手に想像した長次郎は、薄暗い馬小屋に年若い青年の姿を幻視する。
     そうだとしても、買い占めが罪なことに例外はない。事実であるならば護廷十三隊は親方を罰しなければならない。その時は、自分はそれが正しいとはっきり言えるのであろうか。元柳斎や他の隊長が決めたからと言って、親方の首が刎ねられるのを、清顕や使用人たちが牢に繋がれるさまを、冷静に受け止めることができるのだろうか……。
     いや、情に流されてはいけない。自分は元柳斎の右腕なのだから、尸魂界の秩序を乱す人間を見過ごすわけにはいかない……湿気を含んだ地面から伝わってくる冷たさが、尻の感覚を奪いかけた時だった。ぎゃあ、と蛙がひしゃげたような叫び声が空気を切り裂き、長次郎ははっと顔を上げた。しわがれたそれは逆骨の声に間違いなかった。
     小屋を出て見れば、男によって背後から首に腕を回された逆骨が、すり抜けようと必死にもがいているのが見えた。まずい、と長次郎が近付こうとするも、男の精悍さも相まって少しでも力を加えれば首を折られかねない状況に足がすくみ、一定の距離を保ったまま動かなくなってしまう。闇雲に飛び出せば逆骨の身に危険が及ぶ。しかし、見過ごすわけには……逡巡のさなか、こちらが感じている緊張感をまるで無視した声が、長次郎の耳に入って来た。
    「長次郎、すまぬ。そこの井戸で手を洗っておったら捕まってしもうた」
     見ると、逆骨は男の小袖の袖の部分で手を拭いているではないか。呑気というよりは間の抜けた光景に、何が起こっているのか分からなくなった長次郎がぽかんとしていると、男が逆骨の首を絞める力を強めた。
    「じいさん、下手に動くと痛い目見るぜ?」
    「こんなか弱い老人に乱暴なんてひどいのう」逆骨はあからさまな泣き真似をするも、男の顔には同情どころか怪訝が色濃く浮かぶばかり。
    「……あんた、本当に四楓院の人間か?」
    「信じられぬというか。ほれ、この目を見よ」
    「目を見ても怪しいことには変わりねえよ」
    「こんなにつぶらな瞳をしておるのにか?」
    「どこがだ! 全く、どうも胡散臭いな」
     吐き捨てるように言われると、そこではじめて逆骨は不服とばかりに唇を尖らせ、男に向かって昂然と反論する。
    「何を言う。胡散臭いというのは顔色が悪くいかにも悪人という笑みを浮かべ、仰々しい口髭で毛皮やら黒頭巾やら奇妙ないでたちをしている上、態度だけは尊大でろくでもない人間のことを言うものじゃよ」
    「良く喋るじいさんだな。人質の自覚あんのか?」
     「まあいい」男は逆骨の相手をするのをやめ、どうすることもできず立ち往生している長次郎へ視線を移すと、余裕とばかりに哄笑を噴き出した。
    「そこの若いの。このじいさんを泣かせたくなかったら刀を捨てろ」
     相手は刀も持たない人間とはいえ、人質を取られているこの状況では明らかにこちらの分が悪い。逆骨の安全を優先するならば従うよりあるまい……瞬時に判断した長次郎が、腰に差している斬魄刀を地面に置くために鞘を掴む。
     その時だった。
    「……やれやれ、儂も見くびられたものじゃ」
     ぼそりと呟きが聞こえたかと思えば、次には逆骨が足を動かし、踵を男のすねへとぶつける。出し抜けに泣き所を打たれ、あまりの痛みに男が拘束を緩めたその隙を、逆骨は逃さなかった。振り向きざまに親指を立て、素早く男の首筋に突き立てると、そのままぐっと力を入れ頸動脈を締め上げる。心臓から脳への血流を止められた男は目の焦点が合わなくなり、やがて二歩三歩後ずさると意識を手放し、ばたん、と勢いよく倒れ込んでしまった。
     瞬きする間もないできごとに理解が追い付かず棒立ちになった長次郎は、昏倒した男をそのままに「場所を移すぞ」と駆け寄ってくる逆骨にすぐには反応できなかった。あの男は生きているのだろうか。後ろ髪を引かれる思いで目をやり、離れることを躊躇う長次郎に、逆骨が「案ずるな」と至極穏やかな声を放つのが聞こえた。
    「ちと気を飛ばしただけじゃ。じきに目が覚める」
     その言葉を完全に信じることができないのは、逆骨が護廷十三隊隊長たるゆえんを垣間見てしまったからだろうか。その気になれば丸腰の一般人など簡単に屠れる。他の隊長に引けを取らない実力を兼ね備えてるという事実は、長次郎の中に留まったままの得体のしれなさを闇色に変えてゆく。
     だが、今はその怖気に浸っている暇などない。実力者の逆骨が言うならば男は大丈夫だろうと無理矢理自分を納得させた長次郎は、逆骨の細い背中を追いかけることに集中する。


     母屋と風呂場の間に入り込んだ二人は、壁に寄せられた薪の影に身を潜めながら耳と気配で周囲の様子をうかがう。建物の壁や塀に反響する声に女のものも混じっていることから、館の使用人が総出で自分たちを探しているらしい。数では圧倒的に不利。しかも蔵の鍵がどこにあるのかも不明。
     これでは顔を出すことすらできない。どうすれば……万事尽きたとばかりに長次郎が隣を見ると、何かを考えていた逆骨が懐に手を入れているのが見えた。
    「ふむ、仕方がないのう」
     言いながら取り出されたのは長い紐だった。その先には持ち手が錆びついた鍵と、『三』と書かれた木札がぶら下がっている。
    「それは、蔵の鍵……? 何故逆骨殿が……」
    「さっき儂を人質にした男がたまたま持っておった。実はお主らと合流する前に鍵の場所を聞いたのもあの男で、その時に自分の懐を押さえていたから目星を付けておってのう……調べてみたらやはり、というわけじゃ」
     なんのことのないように話す内容は、どこまでが偶然でどこまでが必然かは、長次郎からは判別することができない。しかしこちらの考えが及ばないほど長く生きて来た逆骨のことだ。培ってきた感覚が、鍵の在り処を導き出したのだろう。やはり経験の浅い自分は、まだまだ完璧な右腕には遠い……自問していると逆骨が背後に回り込んでくるのが目に映り、長次郎は現実に立ち返る。
     振り返ろうとしたところで、首筋を皺だらけの指がなぞり、くすぐったさに身じろぎする。何なんだ、と思っていると首元から紐が伸び、胸に鍵と木札がぶら下がった。逆骨が奪って来た鍵を、首から掛けている状態になったのだ。
    「あの、逆骨殿。何故私の首に鍵を掛けたのですか?」
     「これが一番良いじゃろうて」逆骨の目の奥に小さな光が宿ったのを見た長次郎が、競り上がる不安のまま「それはどういう……」と口にしたところで、こちらの気配を嗅ぎつけたのか、数人の使用人が建物の間を覗き込んできた。
    「いたぞ! やいじいさん、鍵を返せ!」
     一人の大声が壁に反響し、薄い影で満たされた空間を途端に騒々しいものに変える。その顔は逆光によって確かめることはできないが、怒りを孕んでいるということは想像に難い。が、真正面からぶつけられた憤懣を意に介さず緩慢に首を振った逆骨の顔には、場の雰囲気にそぐわない狡猾な笑みが浮かんでいた。
    「儂は持っておらん」
    「何ぃ? ならばどこへやった!」
    「ここにあるじゃろう。ほれ、長次郎の首に」
     逆骨が指差すのに合わせ、使用人たちの視線が一斉に長次郎を射抜く。これから起こることに顔から血の気が引き、逃げ腰になるのを感じた長次郎は、えっ、と短く発することしかできなかった。
    「白い髪の兄ちゃんが持ってるぞ! 捕まえろ!」
     興奮状態の使用人にとっては、誰がどう盗ったかなど関係ない。問題は誰が持っているのか、それだけだ。そしてその奪還を第一とし、全身全霊で臨む。例えどんな手を使っても……。
     使用人たちが長次郎目指して殺到し、細い空間を埋め尽くす。薄暗い中でもぎらぎらと煌めく目に、暴力と死臭が渦巻く戦闘時に感じるものとはまた違う、例えるならば自分たちの明日を守るために奮起する人間の底力を見た長次郎は、その迫力に短い悲鳴を上げると、使用人たちから逃れるべく一目散に駆け出す。
    「逆骨殿、助けてください!」
     建物の影から出たところで見れば、逆骨は長次郎を助けるどころか、別の方向へ体を向けていた。
    「お主ならできる。頑張って逃げるのじゃよ」
     気楽な声を最後にその場から姿を消した逆骨を恨む暇もなく、方々から使用人たちが押し寄せてくる。このままでは囲まれるのが関の山。母屋の庭先を横切った長次郎は勢いのまま木によじ登り、敷地を囲む塀の上へと乗り移ると、そのまま瓦屋根を走り出す。
     「塀の上に逃げたぞ!」「梯子だ、梯子を持って来い!」とわめく声を聞きながらも、長次郎は足元に神経を張り巡らせる。うっかり緊張の糸を切らせば足を滑らせ、運が良ければ使用人たちの上に、悪ければ堀に落ちかねない身の上に四肢の産毛がざわめくのを実感し、綱渡りをするように両手を広げて移動していると眉間に、こつ、と何かが当たった。塀の下にいる使用人たちが石を投げたようだった。
    がむしゃらに投げられた石のいくつかは長次郎の目の前を横切り、真下に広がる池に波紋を生む。しかしいかんせん数が多い。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるという言葉の通り、長次郎の体に当たる石もある。小さいながらも地味な痛みに耐えながら駆けていると突如横っ面に鈍い衝撃が走り、今度こそ体勢を崩されることとなった。
     よろめきながら見れば、風呂で使うような小ぶりな桶が乾いた音を立てて地面に落ちたのが見える。何とか踏みとどまったものの、足を止めたのを好機と見た使用人の「このまま引きずり下ろせ!」という叫びに焦燥を煽られながら拳を握りしめたところで、聞き覚えのある声が長次郎の鼓膜を激しく揺さぶった。
    「長次郎、こっちだ!」
     もたげていた頭を上げ、声の方を見る。母屋の屋根の上には千日がいた。返事をするよりも先に瞬歩で母屋に渡った長次郎は、いくらか安定した足場と窮地を脱した安堵に足の力が抜けてゆくのを感じた。皮膚の下が小さく震えている。膝を付き、瓦に視線を落としながら心臓が鎮まるのを待っていると、長次郎に目線を合わせた千日がこう問いかけてくる。
    「お前、その鍵どうした」
     千日が木札を掴み、描かれた番号を確認する。
    「逆骨殿が盗んできました」
    「なるほど、そういうことか。俺の方も、見ろ」
     そう言った千日も、袖から鍵を取り出す。こちらの木札には『二』と書かれていた。
    「炊事場の壁に掛かってた。あと一つは見つけられなかったが、仕方ねえ。ここまで来たら俺らの手で蔵を開ける」
     後方でことり、と小さな音が鳴るのが聞こえ、長次郎と千日は振り返る。屋根のへりから見えたのは、立てかけられた梯子の先端だった。細い縦材が小刻みに揺れ、ねずみの鳴き声にも似た木の軋む音に眉を寄せた千日は、こちらをちらと一瞥すると、目で長次郎に立つように促す。
     いくらか落ち着いた足に力を入れ、立ち上がった長次郎は、千日が全身を声にして叫ぶのを聞いた。
    「行くぞ!」
    「はっ!」
     返事に気合いを乗せた長次郎は、真っ直ぐに前方を見据えると、千日とともに敷地の裏手を目指して駆け出した。

      *

     壁越しに聞こえる喧騒は、その言葉を聞き取ることができないほど不明瞭なものだった。声と呼ぶにはあまりに遠い音と空気のざわめき、そして客人が敵へと変貌したという事実。それらは室内の静けさを際立たせるには十分な材料で、不穏な胸の裡がそのまま染み出たような物々しい空気に背中に一つ、冷たいものが走った親方は、使用人が出払った母屋を出ると離れの自室へと足を踏み入れた。
     敷地の北側にあるということもあり、この時間になると母屋によって日の光が遮断される離れの中はうっすらと暗く、そして冷え切っていた。八畳ほどの部屋の中心には仕事に使うと思わしき文机と燭台が置かれ、他に調度品と言えば床の間の壁に飾られた掛け軸のみ。物という物がなく、寂莫に沈むさまがかねてから頭の片隅にあった館の凋落を如実に物語っているように思え、顔を歪めた親方は足音を立てて部屋の奥へと進むと、床に面して設えられた小さな戸棚を開いた。
     そこには竹で編まれた葛籠が並んでいた。中でも一番小ぶりな葛籠を引き出し、両手で恭しく蓋を開ける。筆や硯、紙の底に隠されるようにして保管されていたのは、敷地の裏手にある蔵の鍵だった。木札に書かれた『一』の字を確かめ、ほっと胸を撫で下ろした親方は、しかし次の瞬間、背後から掛けられた声に心臓が止まる心地となった。
    「親方殿」
     弾かれたように振り向くと、離れの影を凝縮したような黒い人の形が、部屋の入口に音もなく佇んでいるのが見えた。声だけでわかる。先ほどまで四楓院の大爺様を名乗っていた老人だった。
     歪曲した背中も相まって一層色濃く影が落ちた金壺眼と目が合った親方は、何かを考える間もなく葛籠に収められていた硯を掴み上げると、老人めがけて思い切りぶん投げる。硯は老人の顔の横をかすめて部屋の外へと飛び出し、飛石に落ちると、派手な音を立てて真っ二つに割れてしまった。
     同時に、老人は年を感じさせない敏捷性で間合いを詰め、親方の目の前に立つ。尻をつき、無抵抗に見上げたこちらを嘲けるように、老人の口元がにやと歪み、笑った。
    「……あんた、四楓院の大爺様じゃないな?」
     問いというよりは確認の響きだった。影は、一度だけ頷く。
    「護廷十三隊十三番隊隊長、逆骨才蔵……親方殿、騒がしくしてすまなんだ。だが儂はお主と話がしたかったのじゃ」
     醸し出される薄気味悪さとは対照的な穏やかさに、親方は「儂と……一体何を」と震える声で聞き返すことしかできなかった。慄然とする親方を見下ろす逆骨はといえば、たるみきった頬の皮膚をこれでもかというほど吊り上げ、顔全体に喜悦を刻み込むと、冬の明け方に霜が降りるようにゆっくりと、声を落とした。
    「……これからの話、とでも言っておこうかのう」

    《続く》
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    hiko_kougyoku

    DONE若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」④
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。
    世のため人のため飯のため④  4

     逆骨の霊圧を辿ろうと意識を集中させるも、それらしき気配を捕まえることは叶わなかった。そういう時に考えられるのは、何らかの理由で相手が戦闘不能になった場合――そこには死亡も含まれる――だが、老齢とはいえ、隊長格である逆骨が一般人相手に敗北するなどまずあり得ない。となると、残るは本人が意識的に霊圧を抑えている可能性か……。何故わざわざ自分を見つけにくくするようなことを、と懐疑半分、不満半分のぼやきを内心で吐きながら、長次郎は屋敷をあてもなく進む。
     なるべく使用人の目に触れないよう、人が少なそうな箇所を選んで探索するも、いかんせん数が多いのか、何度か使用人たちと鉢合わせるはめになってしまった。そのたびに長次郎は心臓を縮ませながらも人の良い笑みを浮かべ、「清顕殿を探しております」とその場しのぎの口上でやり過ごしているうちに元いた部屋から離れてゆき、広大な庭が目の前に現れた。どうやら表である門の方ではなく、敷地の裏手へと出たようだ。
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