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    hiko_kougyoku

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    hiko_kougyoku

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    若やまささ+雨緒紀……他
    「顔は感情の舞台と言うけれど」
    ※雨緒紀の物語。
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。

    顔は感情の舞台と言うけれど 頬を撫でる風にほんの少し枯草の香りが混じるのを知覚して、雨緒紀は顔を上げた。顔をすっぽり隠せるよう屋根状に作られた笠の間から頭上を見ると、ついこの間まで入道雲が浮かんでいた空の色は薄い。これからひと月の間に葉は鮮やかな紅や黄に染まり、その極彩は地面を美しく彩り、落ち葉を踏みしめる音を楽しむようになるのだろう。そう思うと、雨緒紀は疲労で重くなっていた足が少しだけ軽くなるのを感じた。
     そうした秋の訪れは、瀞霊廷に戻った時にも目にすることとなる。
     門をくぐり、護廷十三隊の隊舎が立ち並ぶ敷地内に入ると、庭の方から声がした。聞き覚えのある声がどこか弾んでいることに何事かと違和感を持った雨緒紀は、元柳斎の部屋に行くよりも先にそちら行くことを決め、庭へと足を向けた。
     庭の隅には白い隊長羽織が数人、何かを囲むように集まっていた。雨緒紀がゆっくりと近付いて何をしているのかを見れば、ひときわ大きな体躯が二つ、せわしなく動いているのが確認できた。
     それは乃武綱と有嬪だった。二人はどうやら落ち葉を掻き集めているらしく、さっきからあっちこっちを行ったり来たりしている。その働きっぷりを横目に、しゃがみこんだ弾児郎と長次郎が、手元に視線を落として何か作業をしている。
    「いいか、こうして濡らした紙を巻いてから焼くんだぞ」
     話し声が聞こえる距離まで歩み寄ると、弾児郎の声が耳に入ってきた。弾児郎は持っていた紙を傍に置いておいた桶の水で濡らし、何かにぎゅうと巻き付けている。
    「楽しみですね」
     長次郎も弾児郎の手元に目をやりながら見よう見まねで手を動かしている。
    「数はあとどんくらい焼いた方がいいかねえ」
    「先ほど志島殿と鹿取殿が戻って来たのを見ました」
    「じゃあもっと焼かないとな。あいつら、たくさん食うから」
     弾児郎たちが持っているのは芋だった。大ぶりの芋は長次郎の手の中ではその存在感を増していたが、弾児郎が持つと小さなものに見えた。二人の足元には乃武綱たちが集めたのであろう落ち葉の山があり、皆が今から何をするつもりか予想できた雨緒紀は、無意識のうちにふっと口元を緩ませた。
     離れたところで眺めていると、落ち葉拾いから戻ってきた有嬪が進行方向から目線をずらし、こちらに気づく。有嬪は雨緒紀を見ると口の端を上げて笑って見せ、落ち葉をばらばらと落としながら手を振ってきた。
    「雨緒紀、今任務の帰りか? おめえもこっち来いよ! あったまるぜ!」
     その声で他の三人も弾かれたように雨緒紀を見た。あ、と声を漏らした長次郎と、へらっと笑う弾児郎、そして、不審を顔に滲ませた乃武綱。三者三様の反応に苦笑するしかなかった雨緒紀は、ゆるりと首を振ると、
    「いや、私はいい。山本に報告があるから」
    とだけ答えた。その返しにわずかに眉を下げた有嬪は、次には何かに気付いたように目を見開くと、どかどかと巨体を揺らしながらこちらに近づいて来た。
     有嬪の視線を辿るように自分の左腕を見れば、前腕がざっくりと切れ、白い肌に赤く太い線が引かれているのが目に入った。任務の途中、相手の攻撃を受けてできた怪我だ。血はすっかり渇き、傷口はかさぶたになりつつあったが、有嬪はまるで重傷者を目の当たりにしたような声色で「おめえ、怪我してるじゃんか!」と叫んだ。
    「痛そうだな。すぐに見てもらえよ!」
    「いらない」
    「そんなこと言うなって! 治療が怖いなら俺も行ってやるから」
    「いいと言っている。私はもう行くぞ」
     これでは転んで足を擦りむいた子どもではないか。内心で気恥ずかしさを感じながら雨緒紀は有嬪から視線を引きはがし、元柳斎の部屋へ行こうと踵を返す。
     だが、背後から不満げな声を投げかけられ、雨緒紀の足は止められることとなる。
    「けっ、素直じゃねえやつ」
     乃武綱のものだった。あからさまに不機嫌を表出したその声に何も感じないわけではなかったが、喉まで競り上がった感情を唾液とともに飲み下し、雨緒紀は平静を装い返す。
    「……何とでも言え」
     それだけ言うと、今度こそその場から離れた。


     元柳斎の部屋にて一連の報告を終えた雨緒紀は、「ご苦労だった」という労いの声が聞こえると、伏せていた顔をゆっくりと上げる。雨緒紀の前には元柳斎が、その斜め前にはちょうど居合わせた金勒が座っており、固い面持ちでこちらを見つめていた。そういえば護廷十三隊の隊長の中でも、この二人は特に感情を出さないな。ふいにそんな考えが浮かぶと次には先ほどの弾児郎たちの様子が脳裏によみがえり、その落差に顔に笑みが浮かびそうになるのを必死に抑え込むと、雨緒紀は無表情を張り付けて金勒に書類を手渡した。
    「これは報告書だ。帰りにまとめてしまったから、今提出させてもらう」
    「お前は仕事が早いし手が掛からないから楽だな」
     嘆息しながら漏れたぼやきに今度こそ可笑しさを覚えてしまった雨緒紀は、こらえきれず噴き出してしまった。
    「なんだそれは。まるで他の連中が子どものようではないか」
    「実際そうだから頭が痛くなるんだ」
     護廷十三隊の中で、基本的に報告書や書類は金勒のもとへと集まってくる。実力で内容を割り振られる実践とは異なり、そういった事務仕事はどの隊にも求められるため、提出先である金勒はある意味では多くの隊士と関わる立場にあると言っても過言ではない。
     頭を押さえた金勒の顔は、手が掛かる厄介な隊士の顔を思い出していたらしく、険しいものへと塗り替えられていた。
     その厄介者は、何もこの場にいない人間だけではない。雨緒紀は元柳斎を見やる。実践ばかりに足を運び事務仕事を後回しにしたり、無理な日程での書類確認を頼むという無茶ぶりを繰り返す元柳斎も、金勒の悩みの種の一つだ。自覚があるのか、元柳斎は厳めしい顔にほんの少しの焦りをにじませると、居心地悪そうに金勒から目をそらし「そういえば」と何気ない疑問を装い、無理矢理話題を変えた。
    「あやつらはやけに静かだが何をやっておる。まさか、またろくでもないことを……」
    「尾花たちなら、さっき庭で芋を焼いていたぞ」
    「芋?」
    「ああ。尾花がどこかから貰ってきたんじゃないか? そういえば長次郎も一緒だったな。欲しいならお前も行けばいい。もうすぐ焼ける頃だろう」
     芋と聞いた元柳斎の目の奥が、鈍い光を宿したのを雨緒紀は見逃さなかった。そういえばこいつも芋好きで、時折流尽若火を使って焼いているな。そんなことを思い出しながら眺めていると、元柳斎の膝がそわと動いた。すぐさま傷だらけの手が押さえつけるが、好きなものを前に弾んだ心情を表しているかのように、元柳斎は落ち着きというものをなくしてゆく。気が付いた金勒も、見る人が見れば神経質そうな顔を僅かに緩ませて元柳斎を見ている。
    「そんなに気になるなら行けばいいじゃないか」
     思わず声を掛けると「いらん」と厳とした声で答える元柳斎。全く、何を意地になっているのだか。雨緒紀が呆れた目を向けたところで、廊下から無遠慮な足音がこちらへ近付き、部屋の前で止まった。
    「邪魔するぜ」
     言いながら足で乱暴に障子戸を開けて入ってきたのは乃武綱だった。その振る舞いに顔をしかめた元柳斎が「行儀が悪い」と激を飛ばす。しかしそよともしない乃武綱は「お前に言われたかねえよ」と飄々と返すと、持っていた包みを元柳斎に突き出した。どうやらそれは、先ほどの焼いていた芋のようだ。それが分かったのか、乃武綱の振る舞いに渋面を作っていた元柳斎は目を丸くし、次には近しい人間しかわからないほどほんの少しだけ口角を上げ、芋を受け取っていた。
     乃武綱は次に金勒に手渡すと、最後に雨緒紀の前で芋をちらつかせる。
    「私にもあるのか?」
    「有嬪のやつがどうしてもお前にって言うから仕方なく持ってきてやったんだよ。あいつはほんとにお人よしだなあ」
     いじけた子どもを思わせるあからさまな言い草に、苦笑いを浮かべた雨緒紀は「すまないな」と言ってから芋を受け取る。
     その時、「失礼します」と凛とした声が聞こえ、その場の人間が一斉に廊下の方へと目を向けた。膝をつき、静かに一礼したのは長次郎だった。長次郎の脇には湯飲みと急須が乗った盆が置かれており、どうやらお茶を持ってきてくれたようだと一目で分かった。
    「執行、長次郎を見習え」
     金勒がそう苦言を呈すると、「うっせえ」と乃武綱。ばつの悪そうな顔で金勒と雨緒紀の間にどかっと胡坐をかくと、芋の包み紙を剥がしはじめた。そのやりとりに笑みを浮かべた長次郎が皆にお茶を配り乃武綱の横に座る。
    「そうだ、山本。明日長次郎を借りてもいいか?」
     周りと同じように包みを剥がしていると、場に声が投げかけられた。金勒のものだ。「何じゃ、珍しい」元柳斎が目を丸くする。自分の名前が出たことに驚いたのか、長次郎も芋を口に放り込もうとした手を止め、金勒を見つめている。
    「明日、流魂街のとある家に届けなければいけない大事な文があるのだが、俺は隊首会議があるから長次郎に頼もうと思って」
    「儂は良いが、お主はどうだ?」
    「やります!」
     長次郎のはつらつとした声が部屋に響く。その目を見ると、期待に応えようとはりきる若者特有の爛漫さがあり、雨緒紀は微笑ましい気持ちになった。
    「一人で不安なら俺の隊から何人か出すが……」
    「いえ、一人でやり遂げます!」
     長次郎の声に、力強いものを感じたのか、興味ありげに身を乗り出した乃武綱が口を挟む。
    「おっ、やる気満々じゃねえか。どうした?」
    「王途川殿のように、一人で何でも完璧にこなせるようになりたいのです」
     その言葉を聞いた瞬間、乃武綱の顔が苦虫を嚙み潰したようなものに変化した。不愉快を露わにした目に射抜かれ、雨緒紀は自分の顔から表情が抜けてゆくのを感じる。何が気に入らない。そう目で訴え返すと、乃武綱は雨緒紀から目を離し、長次郎に言った。
    「雨緒紀みたいにか? やめとけ。お前はこうなるんじゃねえ。こいつ、俺らを冷めた目で見て全然可愛げがねえんだもん」
    「お前は私に可愛げを求めてるのか?」
     即座に返せば「冗談じゃねえ」と吐き捨てるように告げる乃武綱。
    「もっと素直になれって言ってんだよ」
    「素直じゃないか」
    「どこがだ。お前は……」
     「お主ら、喧嘩をせずに食えぬのか」長次郎が困ったように事の成り行きを見守っていたのを視界に入れた元柳斎が、ようやく口を出す。その声にまだ言い足りないといった不満を顔に滲ませていた乃武綱は、最後にもう一度雨緒紀をねめつけると、手元の芋に目を落とした。雨緒紀も乃武綱から視線を引き戻す。
    「喧嘩をするのはいいが、執行は王途川の職務態度は見習え。お前は全体的に仕事が雑だ」
     金勒が日ごろの鬱積をため息交じりにこぼしたところで、眼鏡の向こうの目つきが鋭くなった。手を止め、それまで剥がしていた紙を睨みつけるという表現そのままに見ているのを不思議に思った長次郎が「厳原殿、どうしましたか」と尋ねる。
    「……おい、この紙、誰が巻いた?」
    「尾花殿ですけど……」
     長次郎が答えると、隣にいた乃武綱がまずいと言わんばかりに顔を引きつらせたのを、雨緒紀は見逃さなかった。金勒は低い声で続ける。
    「じゃあ誰がこの紙を持ってきた?」
     その声に強烈な怒気が含まれているのを感じ取ったのか、長次郎の顔から血の気が引き、顔が青ざめた。答えに窮し、困惑を隠しもしない目で乃武綱を見上げる。その様子を見て雨緒紀は、なんとも分かりやすい反応だと呆れてしまった。あれでは何も言わずとも、自分たちが事情を知っていると教えているものではないか。
     雨緒紀は自分の手元を見る。幾重にも芋に巻かれていた紙にはところどころが黒く焦げ、触れるだけで塵と化してしまったが、その破片を摘まんで光に透かすと、もともと何かが書かれてようだというのは分かった。しかしいかんせん一度水に濡らしたものだ。くしゃくしゃにしわが寄り、滲んでいることもあり、とてもじゃないが読めたものではない。
    「長次郎、答えろ」
     たっぷりの憤懣を込めた金勒の声が、長次郎を追い詰める。
    「わ、私の口からは……申し上げられません!」
    「はぁ……すまん、山本。手伝ってくれ」
     金勒が背後を一瞥すると、元柳斎が頷いた。
    「長次郎、言え」
    「執行殿がどこかから持ってきました」
     長次郎にとって元柳斎の言葉は何よりも優先されるべきものだ。掛けられていた梯子をあっさりと外した長次郎の答えに、「おい、言うなよ!」と乃武綱の口から細く悲鳴が上がるのが聞こえた。長次郎の見事な変わり身に思わず声を上げて笑いそうになった雨緒紀は、咳払いで何とか誤魔化した後、普段の冷然とした笑みを顔に張り付ける。
    「それはそんなに重要なものだったのか?」
    「明日の隊首会議で皆に配る予定だった書類だ。俺の部屋に保管してあったはずだが……まさか勝手に入ったのか?」
    「いやあ、紙がたくさん置いてある場所なんてお前の部屋くらいしかねえから……」
    「せめて内容くらい確認しろ」
     無表情の下に蠢く爆発寸前の憤怒に、乃武綱は今度こそ身の危険を察知したのか、座ったまま後ろに後ずさり、金勒から距離を取った。当然のことながら、それで状況が好転するはずもなく、金勒は険のある目を向けたまま、じっと乃武綱を見つめている。
     重苦しい沈黙に最初に音を上げたのは乃武綱の方だった。金勒の視線から逃れるように立ち上がり、障子を勢いよく開けると部屋を飛び出し、そのまま瞬歩を使ってどこかへ行ってしまった。「逃がさん」金勒も彼にしては珍しく急いだ様子でその後を追う。
     男二人がいなくなり、ひどく風通しが良くなった部屋の中、雨緒紀はぽかんと口を開けて外を眺めている長次郎を目に入れると、ふ、と短い笑いを漏らした。
    「羨ましいなあ、山本。素直で忠実な右腕がいて」
     自分のことだと理解したのか、長次郎は困惑したような目で元柳斎と雨緒紀を交互に見つめている。その視線を受けた元柳斎は何が言いたいと言わんばかりの訝しさを瞳の奥に宿し、こちらを睨みつけた。自分の目にも他意はないと込め、軽く頷くと、元柳斎は納得したように目を閉じ、ふんと鼻を鳴らした。
    「こやつはまだまだじゃ」
    「ああ、確かにまだ足りないところが山ほどある。だが磨きがいがあるではないか。それに長次郎には気骨があるぞ。何せお前に怒鳴られようが吹っ飛ばされようがしつこくついてくるのだからな」
    「ただの頑固者じゃ」
    「頑固者同士お似合いじゃないか」
     お似合いと言われたのが意外だったのか、元柳斎はわずかに瞠目して長次郎を見る。視線を向けられた長次郎も目を丸くして元柳斎を見つめており、まるで鏡写しのようなしぐさに口の端が上がるのを感じた雨緒紀は、身を乗り出して長次郎の顔を覗き込んだ。
    「お前は本当に、山本を慕っているのだな」
    「はい。私は元柳斎殿のために、これからも精進していく所存です」
    「良い心がけだ」
     こちらに向いた目に、頑強な意思が燃えている。その灯はあの戦争で見た世界の全てを焼き尽くさんとする激情ではなく、長次郎の内奥でひっそりと燃え続けているだけの、ほんの小さな炎だった。だがそれは、元柳斎の心を溶かすのに十分な光だった。
     自分の後ろをしつこくついてくる若者に向ける眼差しが、いつのまにか穏やかさを湛えるようになったことに元柳斎自身は気付いているのだろうか……いや、自覚はないだろう。雨緒紀は内心で反駁する。きっとこの男は、自分が変わっていることを知らない。
     そういうものなのだろう、と思った。変わろうとして変わる部分と、知らず知らずのうちに何かの影響を受けて無意識のうちに変わる部分。川底の石が、長い時間をかけて水の流れで研磨され、滑らかな表面の石になってゆくように、人も少しずつ変化をしてゆく。その最たるものが、目の前の主従だ。
    「長次郎、山本は前よりも丸くなったとはいえ、まだ荒くれ者の名残がある。何かあったらお前が歯止めになれ。おっかない顔をしているが、山本だってお前が必要だと思っているぞ」
     そう告げると「そんな大袈裟な……」と長次郎が戸惑いをにじませた声で言う。
    「大袈裟ではないぞ。そうだろ? 山本」
     今度は元柳斎に尋ねれば、うむ、という唸り声が返ってくる。全く、お前が必要だと言葉にしてやればいいのに。苦笑しながら目の前の二人を眺めていると、ふと自分は何かが変わったのだろうかという疑問が頭の端によぎり、雨緒紀は笑みを凍らせた。
     与えられた任務を粛々とこなしていくうちに冷徹と呼ばれ、周りから避けられていたかつての自分。そんな自分が護廷十三隊の一員になり、血の通った人の中で生き、何かが変わったのか……いや、何も変わっていない。その証拠に、乃武綱からは可愛げがないと言われ、あからさまに嫌な顔をされるではないか。
     それが答えだ。自分が昔から変わらぬ自分のまま、自戒を重ね怜悧に生きているという……。
     そこまで考えたところで芋を食べる手をすっかり止めていた長次郎と目が合った。長次郎は思考の渦に飲まれていた雨緒紀を案ずるように、その細い眉を八の字に下げ、物憂げにこちらを見つめていた。いかん、こんなことでは……胸の奥でそう律すると長次郎を安堵させるために笑みを浮かべ、もう大丈夫だと言わんばかりに芋に口を付ける。
     笑顔が上手く作れたかは、雨緒紀自身も分からなかった。

      *

     頭上に広がる夜空に星が瞬くのが見え、雨緒紀は足を止めた。縁側からわずかに身を出して見上げれば、下弦の月の周りを無数の光がきらめき、闇の中で控えめに、けれども確かにその存在感を放っている。
     あの頃は、星など珍しくなかったのにな。感傷が記憶の淵に手を伸ばしたその時、首筋を撫でた冷気に背中の毛がぞわりと立ちあがるのを感じると、雨緒紀は空を見るのをやめ、再び歩き出した。
     元柳斎たっての希望により一番隊隊舎のすぐそばに設けられた入浴場は、護廷十三隊の人間であれば誰でも利用できる。各隊舎にも入浴場所はあるものの、疲れを取るというよりは体の汚れを落とすという用途で作られているためかなり狭く、落ち着いて利用することができないのが現状だ。そういうわけで雨緒紀は、時折広い入浴場を使って体の疲れを癒している。
     夜ももうだいぶ更けている。この時間ならば誰もいないだろう。そんなことを考えながら廊下を進み、角を曲がった時だった。
     目の前にぬっと割り込んできた顔に、心臓が飛び出しそうになってしまった。
    「おお、雨緒紀。悪いな」
     現れた弾児郎はへらりと笑うと、雨緒紀に詫びを入れた。
    「私の方こそすまない。こんな時間に珍しいな。風呂か?」
    「いんや。長次郎に渡すもんがあったんだけど部屋にいなかったからさ……また明日にする」
     頭を掻きながら間延びした声で答えた弾児郎は、雨緒紀の顔をまじまじと見ると、思い出したと言わんばかりに手を叩き、目線を下げた。その視線が自分の左腕に注視されていると気づいた雨緒紀は、とっさに体の後ろに腕を隠す。すると動きを不審に思った弾児郎は顔から笑みを消し「お前、怪我の手当はしたのか?」と訊いてきた。
    「そのままだが……」
    「なんでだよ」
     雨緒紀としては正直に答えただけなのだが、弾児郎は不満だったようで、むっとした表情でこちらに詰め寄ってくる。
    「手当てするからこっち来いよ」
    「今からか? 風呂に行くから良い。後で自分でやる」
    「お前、いつもそう言ってそのまんまにするじゃんか。風呂よりも怪我の方が先だ。いいから来い」
    「いらん」
    「来いって」
     他人のやることを捻じ曲げるようなことはしないはずの弾児郎が怪我をしていない方の腕をなおも引いてくるので、雨緒紀は思わず顔をしかめた。こんなことで食ってかかるなんて、珍しい。考えると同時に昼間有嬪が見せた心配そうな顔が浮かび、自分が感じた転んだ子どものような気恥ずかしさを思い出し、顔が熱くなる。
     感情に火が付いたのを自覚したときには弾児郎の手を振り払っていた。
    「しつこいぞ、尾花。私のことなど放っておけばいいだろう」
     自分を子ども扱いするな。そう伝えようとしたつもりだが、言葉は違う方向へと転がってしまう。まずい、と思ったときにはもう遅かった。弾児郎はみるみるうちに口をへの字に曲げると、こちらをまっすぐに睨みつけ、どうしてそんなことを言うんだと叫び出しそうな衝動を抑えるように言葉を詰まらせた後、
    「雨緒紀の馬鹿! 意地っ張り!」
    とだけ言い残してどたどたと足音を立てて脇をすり抜け、廊下の向こうへと走り去ってしまった。
     去り際の弾児郎が見せた、悲痛な面持ち。疼くような胸の痛みを覚えた雨緒紀だったが、追いかける気にはならなかった。追いかけて何を言うというのだ。取り繕ったところで変わるものなどないし、それで弾児郎の機嫌が直るとは思わない。
     その場に立ち尽くしてしばらく逡巡していた雨緒紀だったが、弾児郎の気配が完全に消えたところで我に返り、当初の予定通り風呂へと向かうことにした。胸に刺さったままの棘を、見ないようにしながら……。


     入浴場は天然の露天風呂になっている。脱衣所の籠の中に誰かの死覇装が脱いであるのを見つけた雨緒紀は、浴室へと足を踏み入れると誰がいるのかと湯けむりをぐるりと見回し、人影を探す。すると、ごつごつとした岩に囲まれた湯舟に見知った後ろ姿を見つけ、思わずその背中に声を掛けた。
    「お前もいたのか、長次郎」
     何があったのか、弾かれたように振り向いたその顔は憮然としていた。その表情が先ほどの弾児郎のものと重なり、一瞬だけ胸の痛みがぶり返してきた雨緒紀だったが、頭を振って雑念をかき消すと普段の冷笑を口元に刻み、長次郎に尋ねる。
    「どうした、その顔は。何かあったのか」
     すると長次郎は、体ごと雨緒紀に向き直り、飛びつくように言葉を発した。
    「王途川殿、聞いてくださいよ! 先ほど元柳斎殿のお背中を流そうと思い急いで来たら、入れ違いになってしまいまして……」
    「なるほど。それでしょぼくれていたわけか。残念だったな、意気揚々と来たのに」
     浮かべていたぶすっ面は不機嫌というよりも未練を停滞させていたものか。納得すると雨緒紀は、近くの椅子に腰を落として長い髪を上げ、桶を手に取り、体に湯を掛ける。元柳斎が入っていたせいか普段よりも温度が高くなった湯を浴びると、胸郭の中で蠢いていたもやまでもが流された心地になる。
     雨緒紀はふう、と人知れず息を吐くと、こちらを見る長次郎の視線に応える。
    「だったら私の方を頼もうか」
     何の気なしに発せられた言葉の意味を自分自身が理解したのは、ひと呼吸あとのことだった。何を言っているのだ、私は。そう自問して、顔を上げた時にはもう遅かった。湯船から人が立ち上がる気配がし、こちらに近づいてくるので、雨緒紀は「冗談だぞ?」と付け足した。
     けれども長次郎は雨緒紀の後ろに椅子を置くと、どっかりと腰を下ろす。
    「お背中、流します!」
    「おい、冗談だと言っているだろう」
    「ええと、確か石鹸は……」
     人の話を聞け、この頑固者め。自分の言葉が発端ではあるものの、一向に引く気のない長次郎に内心で呟く。肩越しに見ると、長次郎は手拭いを濡らし、石鹸で泡立てているところだった。目を輝かせ、すっかりやる気を出した姿を見ると今更湯船に押し込む気にはなれなかった雨緒紀は、もうどうにでもなれと半ば自棄になり、まっすぐ前を向くと、長次郎を待った。
     背中に手拭いが押し当てられる。普段元柳斎にそうしているからか慣れた手付きで、力加減もちょうどいい。思った以上に気持ちよく感じた雨緒紀は、無意識のうちに「あぁー……」とだらしない声を上げていた。それを聞いてか、長次郎から忍び笑いが聞こえる。
    「王途川殿もそんな声を出すんですね。執行殿みたいです」
    「それは私がおっさんだと言いたいのか? 勘弁してくれ」
     脳裏にあくどい笑みを浮かべたあの男の顔がよみがえり、雨緒紀は顔をしかめた。その様子に長次郎がふふふと声を上げて笑うのが聞こえる。
     そこではじめて雨緒紀は、自分の冷笑がすっかり剥がれ落ち、口元が緩んでいることに気付いた。いかん、これでは。自分に言い聞かせて唇を引き締める。
    「背中、傷がありますね」
     ひとしきり笑った長次郎が、不意に言葉を投げかけてきたのはその時だった。
    「いつのものですか?」
    「……さあ、忘れてしまった。怪我など珍しくないからな」
    「痛くなかったのですか?」
    「このくらい、どうということはない」
     「へえー!」長次郎の弾んだ声を聞きながら、雨緒紀は床に目を落とした。紙の上でじわじわと墨が広がるように、鬱屈としたものが思考を少しずつ侵してゆく。それが何なのか分からないわけではなかったが、雨緒紀は知らぬふりをして奥へ奥へと追いやり、素知らぬ顔で長次郎の話を聞いていた。
    「王途川殿も、やはりいろんな敵と戦ってきたのですね!」
     自分を心から信じ切っている明るい声が、ひどく遠いものに感じた。


    「まだ何かあっただろう」
     揃って湯船に入るなり見れば、長次郎はまだ思い悩んでいると言わんばかりの顔をしていることに気が付いた。この若者のことだから一人で抱え込んでしまうだろう。長次郎の頑固さは雨緒紀にも十分分かっていた。話すきっかけを与えてやればいい、と。
     何食わぬ顔で話を振ると、前に目を向けていた長次郎がこちらを見上げた。どうした、言ってみろ。視線にそう込めれば、澄んだ瞳がわずかに見開かれ、雨緒紀をじっと見つめる。
     やがて、「昼間王途川殿が言っていた私の磨きがいとは、どこでしょうか」と、長次郎にしては弱弱しい声が耳に入ってくる。もしかしてずっとそれを考えていたのか。雨緒紀は少しだけ考える素振りを見せると、「長次郎、お前は感情を顔に出し過ぎだ。もう少し落ち着け」と言った。
    「元柳斎殿のようにでしょうか?」
    「あれは仏頂面というのだ。お前に厳つさは似合わん」
    「では厳原殿のようにでしょうか?」
    「愛想がなさすぎる。おそらくすでに顔の筋肉が凝り固まっているだろう。いずれ頬が弛むぞ、あいつ」
    「では執行殿……」
    「駄目だ。絶対に許さん」
     なんでそこであの男が出てくるんだ。思わず口にしそうになって、やめた。どういうわけか長次郎は乃武綱に懐いている。傍目から見ている雨緒紀にもそれがよく分かっていたが、それにしてもあの男のどこがいいんだと常日頃から思っている。
     荒れくれものの護廷十三隊の中でもとりわけがさつで無神経。そのくせ周囲の心の機微に触れるのが人一倍上手い乃武綱。正直言って雨緒紀は、乃武綱と話すのが苦手だった。自分の心を見透かさんばかりの、あの蛇のような視線。そうして発せられる、人の内奥に鋭く切り込むような致命的な言葉……。
     そんな目で私を見るな、と何度思ったことだろう。あの視線に絡めとられると途端に息苦しさを感じ、雨緒紀は自分の敗北を掘り下げられたような気持ちになり、逃げ出したくなるのだ。
     自分が素直じゃないのは百も承知。しかしこの修羅の世、本音を曝け出したりしたら恰好の餌食になってしまうというのも、長い経験の中で嫌というほど味わってきたし、清も濁も知っているつもりだ。今更変えることなどできない。
     自らを内省していると、「ならば私は」という凛とした声が聞こえ、雨緒紀は現実に引き戻された。
     隣を見る。こちらを向く長次郎の目がきらきらと輝いているのを確かめた雨緒紀は、次に紡がれた言葉に驚くこととなる。
    「私は、王途川殿のようになります」
     心臓が大きくはねた。一瞬だけ感じた高揚感を顔に出さないようにしながら、雨緒紀は静かに言葉を落とす。
    「……私のような嫌われ者になりたいなんて、お前も奇特なやつだな」
    「でも王途川殿は嫌われていませんよね?」
    「何を言う。私はあまりいい顔されていないだろう。特に執行などには」
    「だって、本当に嫌われていたら……芋なんて分けませんよ」
     振り下ろされた純粋な言葉に、それまで信じていたものがぶち壊された気分になった。あまりの衝撃に言葉を忘れた雨緒紀だったがすぐに平静を装い「それは山本や厳原もいたからだ」と落ち着いた声色で答えた。しかし長次郎はまっすぐに雨緒紀を見たまま、断定的な口調で言った。
    「執行殿は嫌いな人間のためにわざわざ足を運びません。私もいたんですから、私にやらせるはずです」
     その言葉に、確かに、と納得する声が聞こえたような気がした。庭には長次郎だけではない、有嬪も弾児郎もいた。なにも乃武綱が来ることはない……。
    「善定寺殿だって、ずっと王途川殿のこと気にしてましたし……」
     重ねられた声にやるせなさを感じた雨緒紀は、目のやり場に困り、滑らかに揺らめく水面に顔を向ける。
    「あいつは優しいやつだからな」
    「……素直になればいいのに」
     ぶすくれた子どものようにぼそりと呟かれ、雨緒紀は苦笑することしかできなかった。
    「お前まで執行のようなこと言うのか? 最近あいつに似てきたのではないか?」
    「以後気をつけます」
    「そうしろ」
    「……前々から思っていたのですが、王途川殿はどうしてそう冷静でいられるのですか?」
     投げこまれた疑問に、雨緒紀は脳をゆるりと回す。私の冷静さ? 自分自身でも明確な答えが出ず、曖昧模糊に答えることしかできない。
    「長年の経験、といったところか。いろんな場所に行って、いろんな人間と出会えば、感じることも多くある。お前もあと百年もすれば物事の見方が変わるだろう」
     雨緒紀は目を閉じる。瞼の裏には自分の瞳が捉えた光景の数々が浮かんでは消え、ざわついていた心が凪いでゆく。幼いころの自分、はじめて刃物を扱った自分、他人の命を奪った自分……長い年月をかけて作られた精神の成れの果てが、今を生きる王途川雨緒紀という男なのだと思う。それは乃武綱も、弾児郎も、元柳斎だってそう。無数の自分の屍の上に立つのは、ここにいる誰もが同じ。
     長次郎も、そうなってゆくのだろう。
    「……長次郎、お前にはこれから多くの困難が待ち受けているだろう」
     この先時間を掛けて、雀部長次郎という青年は練磨され、さらに変化をしてゆく。そうして長次郎が立派な成長を遂げたころには、おそらくその傍に自分はいないだろう。乃武綱も、弾児郎も……。
    「でもな、お前は私と違って一人で生きていくわけじゃない。山本と一緒に歩むんだ。ならば抱え込まず、山本に話せ。あいつは、お前の悲しみも、苦しみも、喜びも、全部受け止めてくれる。おっかない顔しているがな、あいつはちゃんとお前を見ているぞ」
     仏頂面のあの男は、長次郎が来てから丸くなった。常に周りを漂っていたあのとげとげしさはどこかに消え、目の奥にやわらかなものを湛えるようになった。
     それを慈しみと呼ぶことくらい、雨緒紀も知っている。
    「それに山本の方も、お前がいないと総隊長ではいられないんだぞ。お前の役割っていうのはそれだけ重要なんだ。もしかしたら山本は千年後にはもっと丸くなって、孫を可愛がるおじいちゃんみたいになるのかもな」
     白髪だらけになった元柳斎を想像し一人笑みを漏らした雨緒紀は、そこではじめて長次郎がやけに大人しいと思った。相槌どころか一言も発しない。まさかと思い横を見れば、顔を真っ赤にして岩べりにもたれかかる青年の姿を目に捉えた。
    「おい、長次郎」
     その肩を軽くゆすると、ううん、と気の入らない唸り声が聞こえた。
    「……話しすぎてしまったか」
     そういえば少し前まで元柳斎が入っていたな。そんなことを思い出しながら、雨緒紀は立ち上がり、長次郎を湯船から引きずり出した。


     脱衣所に運び込み、長次郎を床に寝かせる。雨緒紀以外誰もいない室内に、長次郎の声だけが響く。
    「王途川殿、熱いです……」
    「気付いてやれなくてすまなかったな」
     近くにあったうちわで強くあおいでやれば、気持ちが良かったのか長次郎はふにゃりと顔を緩ませ、そのまま小さな寝息を立てる。「寝るな」と注意するも、入浴後の脱力感からか心地よさそうに目をつぶる様子にそれ以上何かを言うことはやめ、雨緒紀は長次郎の顔の赤みが引くまで風を送り続けることにした。
     そんな時だった。頭上から声が降ってきたのは。
    「お、長次郎、どうしたんだよ」
     声がした方に首を動かせば。入り口には有嬪が立っていた。その巨体の影から金勒が顔を覗かせるのを確かめると、雨緒紀は二人に向かって言葉を投げる。
    「のぼせてしまったので休ませているのだ。お前たちは?」
    「報告書やってたり刀の手入れとかしてたら遅くなっちまってな。来る途中で金勒と会ったから一緒に来たところだ」
    「厳原、結局明日の書類はどうなった」
    「間に合わんから諦める。内容は頭に入ってるから口頭で伝えることにする。だが、何故かさっきからくしゃみが止まらなくてな……温まってから寝ようと思ったんだ」
    「執行に手伝わせれば良かったのに」
    「あいつにやらせると余計に仕事が増える……それよりも、何か冷たいものでも持ってこようか?」
     金勒が長次郎を指さすので、雨緒紀もそちらに視線を戻す。手の甲で頬に触れると、熱はまだ長次郎に籠ったままのようだ。
    「そうしてもらえると助かる」
     雨緒紀の声に一つ頷きを返した金勒は、背を向けて歩き出し、姿が見えなくなってしまった。残された有嬪は目だけで金勒を見送ると雨緒紀たちのもとへ寄り、床に膝をつく。
    「そんなに長い時間入っていたのかよ」
    「というよりも、直前まで山本が入っていたから……」
    「ああ、釜茹で状態だったのか」
     得心した有嬪がそれ以上何も言わなくなってしまったので、不審に思った雨緒紀は俯けていた頭をゆっくりと上げる。すると、目が合った。雨緒紀の顔をまじまじと見つめていた有嬪は、にっと口元を歪めると「おめえは大丈夫なのかよ」と訊いてきた。
    「私は平気だ」
    「ホントか?」
     疑わしげな問いかけに、雨緒紀は笑みを返して見せる。すると、有嬪の目と目の間にしわが寄った。眉があれば寄せていたと呼ぶに相応しい動きに気に入らないという心情を感じ取った雨緒紀は、作る表情を間違えたか、と自問した。自分としては上手くやったつもりなのだが……考えていると、有嬪はずいと顔を近づけ、咎めるような声色で話しかけてくる。
    「雨緒紀よぉ、おめえ、いっつもみんなの輪から離れた場所で俺らのことをすました目で見てるけどさ、感情を出すっていうの? その綺麗な顔の筋肉をもっと使ってやれよ」
    「お前は私を何だと思っている。ちゃんと笑っているではないか」
    「それはみんなに合わせているからだろ。それに、笑うこと以外が極端に欠けてるんだよ、おめえは」
     「笑うこと以外、とは?」目の前の男の口から出た思わぬ言葉に首をかしげながら尋ねると、有嬪は表情を変えないまま応じる。
    「悲しいとか、苦しいとか、辛いとか、そういうの。いつかの時もそうだったじゃんか。虚と戦って背中を抉られる大怪我して、なのに痛くもかゆくもありませんって顔して、治療もいらないって突っぱねて……そうして一人で部屋で苦しんでたじゃんか」
    「そうだったか?」
     有嬪の言葉に、雨緒紀は背中の古傷が疼いたような気がして、思わず表情を崩しそうになった。先ほど長次郎にも聞かれた傷跡……とぼけたように誤魔化したが、その傷が付いた時のことはよく覚えている。
     あれはまだ、自分が隊長になったばかりの頃。部下という存在がいた手前、痛いと言うわけにはいかない。隊長の矜持と言えば聞こえはいいが、実際は弱った顔を見せれば侮られると、自分の品位が落ちると……そんな気がして、一人で痛みに耐えていた。誰にも気取られず、孤独に乗り越えた痛みだと思っていたが、まさか有嬪に見られていたとは……。
    「悲しい時は悲しい、苦しい時は苦しい、辛い時は辛いってちゃんと言ったり、そういう顔しねーと、自分にとって何が苦しいのか分からなくなるぞ」
     有嬪の口元からは笑みが消え、大真面目な顔になっていた。そう言わなければならないというような、伝えなければならないという必死さを言葉の端々に滲ませた有嬪は、雨緒紀の肩をがしりと掴み、こちらの反応をじっと待っている。この目は苦手だった。こちらが全てを吐き出すまで返さないという、真剣なまなざしは……。
    「……そんなもの必要ない」
    「おめぇがそういう顔しないと、いつ助ければいいのかわかんねえじゃんか」
     自分を見る目に、お人よしという言葉では収まりきらない感情が込められているのを感じると、雨緒紀は凪いだ心が波立つのを知覚した。どうすればいい……自分はどうすればいいのか。軽く混乱状態になった頭に「それに、おめぇは危なっかしいんだ」と畳みかける声がする。
    「危なっかしい? 私が?」
     乃武綱や長次郎でもあるまいし。水底に潜るように、有嬪の言葉の真意を探る。しかし悔しいことに、有嬪が何を言いたいのか理解できない。
    「そう。雨緒紀はさ、自分で自分を傷つけているように見えるぜ」
    「私にそんな趣味はない」
    「そうじゃなくて、上手く言えないけどよ、俺らを突き放したりきついことを言ったときのおめぇの目、すっごく寂しそうなもんに見える。わざとそういうふうに振る舞っているっつーか、本当は違うこと思っているんじゃねえかって思う時があるっつーか、そんな感じだ」
     寂しいなんてここ最近、感じたことがないはずだ。それなのに、自分が寂しい目をしているとは、一体どういうことだろう。
    「よく分からないな」
     率直に返せば、有嬪の口調がさらに強いものになる。
    「つまりはもっと自分を大事にしろってことだよ。おめぇ、そのうち自分がやったことで自分の心を傷つけちまうぞ。気を付けろ」
    「お前がそんなに一生懸命に言ってくれるなら聞いておこうか」
    「絶対話半分で聞いてるだろ」
     「真面目に聞いているさ」それだけ返すともうこの話は終わりだというように、腰を上げようとする。だが目の前が急に暗転し、体の平衡感覚が失われてしまった雨緒紀は、再び座り込み、そのまま崩れ落ちるように床に倒れ込んだ。
     ああ、これは……砂嵐のような黒い靄が少しずつ晴れてゆくと、上から覗き込んでくる有嬪の顔が逆さまに見える。
    「ほーら、やっぱり我慢してたんじゃねえか」
    「何を言う……このくらい……」
     自覚した瞬間競り上がってきた気持ちの悪さに眉をしかめると、喉から声を絞り出す。すると有嬪は、雨緒紀が持っていたうちわをひったくると、顔の上でぶんぶんと音が鳴りそうなくらい振り回し、強くあおいだ。吹き付けるという表現そのままの風が皮膚にぶつかり、気持ちの良さを感じた雨緒紀は、薄く目を閉じてその感触を味わう。
    「強がってんじゃねーよ、バーカ!」
     ししし、と悪戯っぽく笑う声が降ってきた。どこか楽しげなその声が耳に入ってくると、何故だか自分の心まで弾むような気がして、雨緒紀は頬を緩ませる。
     今日はいろいろなことを考えて疲れたな。何となくそう思うと、雨緒紀はそれ以上思考を巡らせるのをやめ、有嬪にだけ聞こえるような声量で「すまないな」と呟いた。

                 ≪了≫
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    hiko_kougyoku

    DONE若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」④
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。
    世のため人のため飯のため④  4

     逆骨の霊圧を辿ろうと意識を集中させるも、それらしき気配を捕まえることは叶わなかった。そういう時に考えられるのは、何らかの理由で相手が戦闘不能になった場合――そこには死亡も含まれる――だが、老齢とはいえ、隊長格である逆骨が一般人相手に敗北するなどまずあり得ない。となると、残るは本人が意識的に霊圧を抑えている可能性か……。何故わざわざ自分を見つけにくくするようなことを、と懐疑半分、不満半分のぼやきを内心で吐きながら、長次郎は屋敷をあてもなく進む。
     なるべく使用人の目に触れないよう、人が少なそうな箇所を選んで探索するも、いかんせん数が多いのか、何度か使用人たちと鉢合わせるはめになってしまった。そのたびに長次郎は心臓を縮ませながらも人の良い笑みを浮かべ、「清顕殿を探しております」とその場しのぎの口上でやり過ごしているうちに元いた部屋から離れてゆき、広大な庭が目の前に現れた。どうやら表である門の方ではなく、敷地の裏手へと出たようだ。
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