Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    hiko_kougyoku

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 38

    hiko_kougyoku

    ☆quiet follow

    若やまささ+雨緒紀、乃武綱……他
    「希望という名の罪」④
    ※続・雨緒紀の物語
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブ有。

    希望という名の罪④  6

     瀞霊廷内に設けられた拘禁牢。主に隊士の謹慎や処罰のために設けられたこの場所に、明確な罪人が入れられることはほとんどない。頭を冷やすどころの反省ではすまない騒ぎを起こした作兵衛がここに入るのはいささか不釣り合いかもしれないが、ここ以上に適切な場所はない。そんなことを思いながら、雨緒紀は牢への階段を降りる。
     自分に付いてくる二人分の足音を聞きながら、背後に意識をやる。憔悴しきった作兵衛は、あれから暴れることも恨みを紡ぐこともなく、自らの罪を掘り下げるように静かに連行されている。一方で取り乱しながらも作兵衛の助命を必死に嘆願していた長次郎も、今は無言のまま。悄然とした空気の中、平然なのは自分だけだと改めて実感した雨緒紀は、今度は死覇装の腰に目をやった。出てくる時に持って来た笠は、未だ下げられたままだ。
     じっと視線を下ろしていれば、没収した作兵衛の斬魄刀が、雨緒紀の持つ行燈の光を浴びて鈍く光る。おそらくこの刀が作兵衛のもとに戻ることはないだろう。そんなことを予想しながら雨緒紀は一番奥の牢まで歩を進め、木で作られた格子に手を掛け、ぎいと音を立てて入り口を開けた。
    「渦楽、入れ」
     うなだれた作兵衛は、身をかがめ、足を引きずりながら牢の中に入る。疲れ切ったような、精気が抜け落ちた顔がこちらを向き、すとんとその場に座り込んだことを確認した雨緒紀は、入り口を閉め、しっかりと鍵をかけた。罪人と追跡者。木格子を隔てて別たれたことにより、立場の違いが際立ってしまったことをあらためて感じてしまったのか、長次郎の目に沈痛が色濃くにじむのが見える。
    「しばらくはここで大人しくしていろ。まあ、その足ではどこにも行けないだろうが……」
     頭を垂れたまま小さく頷いた作兵衛を静かに見下ろしながら、雨緒紀は忠告のような含みで言う。目の前にいるのは傍から見れば罪の行いを自覚し、反省の意思を示した罪人。おそらく雑木林での爆発した怨恨を知らない人間から見れば、今の作兵衛は危険因子となりえない人間だ。更生の機会を与えようという声が上がるかもしれない……。
     しかし、雨緒紀はそうは思わなかった。痛みや恐怖というものは人の心を変える要素にはなりえない。なぜならそれらは時間が経てば癒えてしまうから。今夜のできごとが脳の記憶領域の隅で風化し、自分にとって取るに足らない記憶となった時、作兵衛の内懐で澱んでいた憎悪は再び目を覚ますだろう。
     人を動かすのは感情だ。善も悪も併せ持つ、人間にとって最も複雑で重要な部分。それだけはどんなに長く生き、考え方や物の見方が変化しようとも必ずそこに在り続ける。
     だからこそ、流されてはいけないのだ。
     雨緒紀は元柳斎の顔を思い浮かべる。あいつは出会った頃よりも丸くなった。他人への接し方、話し方、そしてあれほど付き纏われてうっとおしいと漏らしていた青年を見る眼差し……それら全てが、まるでかつての苛烈な化け物を真綿で覆い隠してゆくように見えた。そういうものなのだろう……何度も口の中で唱えた納得の言葉が、しかし重苦しく足元に沈む。
     自分はどうなのだろう。自戒を重ね、冷徹であり続け、他人とどこかでずれを感じながら頑なに生きてきた自分は、一体どこへ向かおうとしているのだろう。きっとどこへも行けない。変わることを恐れ、しかし変わらないことで自分だけ取り残された気分になり、どうすればいいか分からず泣くことしかできない子どものように、一人で生きてゆくだけ……。
     認めたくなかった。そんなふうに惨めに生き、死んでゆくのが。だから自分は長次郎と共にいるのかもしれない。完璧な右腕を作ることを自らの役目とし、そうすることで胸を染める不安から逃れるために……。
     そんなことをしても何も変わらないのに。残酷な声が耳の奥で響き、雨緒紀は作兵衛を見た。続いてこいつも同じはずだという言葉が浮かび、知らず知らずのうちに頬がひくつく。雨緒紀自身と同じ、変わることができない人間。醜い感情に呑まれ、足首を掴まれ、そのまま奈落へと落ちてゆくだけの生。そこに少しの親近感と多大な嫌悪の両方を見出した雨緒紀は、気付いた時には自分の負の部分をそのまま引き移した青年に向かって、静かに口を開いていた。
    「……最後に、お前に教えておかねばならないことがある」
     作兵衛が緩慢に顔を上げる。その黒々とした瞳の底に、自分が持っているものと同じもの――どうすればいいかわからないという、成熟した大人が持つにはおおよそ情けない思いを読み取った雨緒紀は、何も考えたくないというように自分の思考を閉じた。競り上がる冷たい感情にこれでいい、と言い聞かせ、無感情な声を石壁の拘禁牢に響かせる。
    「お前の父親を殺したのは私だ」
     闇を揺らした声は、その場にいる人間の耳にはっきりと届いた。斜め後ろで立ち尽くす長次郎が、息を呑んだのが分かる。一方で作兵衛はというと、目をこれでもかと見開き「……は?」と短い声を上げ、戸惑いを露わにした顔で言葉を返す。
    「嘘だ……山本をかばおうとしているんだろ。そんな嘘には騙されない……俺は、お前の顔など知らない」
    「……そうだろう。見られないようにしていたからな」
     雨緒紀は隊長羽織の下に隠した笠に手をやると、そっと目の前に掲げ、作兵衛に見せつける。
    「笠というのは、返り血を浴びないだけでなく、顔を隠すにもいい……特に、後ろ暗い任務では」
     言いながら被って見せると、雨緒紀の視界が急激に狭まり、顔が屋根状に形作られた笠の下にすっぽりと隠れた。雨緒紀の特徴ともいえる装いで、長次郎や他の隊長にとっては見慣れた光景。けれども護廷十三隊に入ったばかりの作兵衛にとっては驚きともいえる姿だった。
     それもそうだろう。雨緒紀は、自分の顔に喜悦が浮かぶのを感じた。
    「山本とは護廷十三隊ができる前からの顔見知りでな。ともに任務を受け、行動することがよくあった」
    「あっ……!」
    「あの時もそうだ。お前が話す、火付けの権兵衛の首を刎ねた手下というのは……私だったのだよ」
     作兵衛の口から「そんな……」と短い声が漏れた。
    「その笠は、山本の手下の……!」
     愕然とする作兵衛の顔が、脳裏にこびりついているあの日の記憶と見事に重なる。父と慕った人間が鮮血の海に倒れ、いびきにも似た呻きを漏らしながら息絶えるさまを目の当たりにし、絶望に汚染された顔で自分を見上げる子どもの瞳。あの日と同じ硝子玉を思わせる澄んだ目が一瞬で憤怒を帯び、全身の毛が逆立つのを確かめると、雨緒紀は自分に向けられた強烈な怨嗟に歓喜した。
     死と隣り合わせの恐怖を体験してもなお燃え上がる憎悪。変わらないこと、それを再確認することができた。あとは転がり落ちるだけ……。
    「お前……っ!」
     張り詰めた拘禁牢に怒声が弾ける。衝動のままにこちらへ向かって来た作兵衛は、牢の外と内を隔てる木枠に阻まれながらも体を密着させ、雨緒紀に襲い掛かろうと必死に手を伸ばす。その抵抗を一歩後ろに下がることで避けた雨緒紀は黙したまま作兵衛を見下ろしていた。
     行き場をなくした憤懣を示すように、空を掻いた手が木枠を掴む。爪を立て、その戸をなんとかこじ開けられないかと指先に力を込める様子は滑稽以外のなんの感想も浮かばなかった。雨緒紀の視線が鋭さを増したのを察知したのか、長次郎は獣の咆哮を繰り返す作兵衛を宥めるため、二人の間に割って入ってきた。
    「作兵衛、やめろ! これ以上は……」
    「お前は知ってたのか……こいつが俺の父を殺したことを……!」
    「知らない! 私だって……!」
     作兵衛の腕が長次郎へと伸び、死覇装の襟を掴んで引き寄せる。一直線に向けられた殺意に、蒼白になった長次郎は何度も首を横に振り、壊れたからくりのように知らないと繰り返すばかりだった。
     うっすらと血が滲んだ作兵衛の手を弾き、雨緒紀は長次郎の首根っこを掴んで引く。作兵衛から引き離された長次郎は、細い呼吸を繰り返しながら牢へと目を据えたままだった。その目には驚愕と、そして信じられないという心情がありありと浮かんでいた。
     その長次郎に言い聞かせるように、雨緒紀はゆっくりと口を開く。
    「……やはり人の心は変わらない。人を憎むことだけを頼りに生きてきた人間が、まっとうな道に戻ることなどできるはずがないのだ。憎しみを忘れたように見せかけて、普通を装って生活することができたとしても、裡に潜む狂気はいつか必ず牙をむく。そうならないために、こいつはあの時に殺しておくべきだったのだ……!」
    「王途川殿……」
    「山本も馬鹿な男だ。自分がほんの少しまともになったからと言って、他人にもそれを期待するとはな。それがこのざまだ」
     自分の口角が不随意的に吊り上がってゆくのを感じる。笑みとは違う。冷徹が臨界点を超え、狂気に足を踏み入れた男が見せる、歪んだ表情だった。鈍化した心が凍り付いて温度を失うのが手に取るように分かる。場の陰惨さとは裏腹に落ち着き払った脳内に自身でも意外だと感じながらも、雨緒紀は訥々と言葉を紡ぐ。
    「さあ、どうする。真実を知っても山本を憎むか、私を狙うか、それとも……いっそのこと本性を知ってもなおお前を信じ続ける長次郎を殺すか……怒りの矛先がたくさんあって迷うなあ?」
    「殺してやる……お前も、山本も……!」
     涙で濡れた目で雨緒紀を射抜きながら、作兵衛は絞り出すように叫ぶ。その肩が小刻みに震え、えづくような嗚咽が反響するのを耳にしていると、目の端で長次郎が身を乗り出すのを捉えた。
    「作兵衛、そんなことを言うな! そうでなければ……」
     雨緒紀は、この期に及んで作兵衛の肩を持つ長次郎をねめつける。
    「良い、言わせておけ。こいつの処遇を決めるのは私でもお前でもなく山本だ。山本の前で媚びを売って忠誠を誓えば、助けてもらえるかもしれんぞ」
     次には奥歯を食いしばり、叫びたいのを懸命にこらえる作兵衛の方へと向き直る。
    「安心しろ、渦楽。ここでお前が言ったことは山本には伝えない。そんなことをしたところで私に利はない。せいぜい明日まで頭を冷やすとよい。反省したふりだけでも見せれば、誠意ととらえてもらえるかもな」
     そこまで言うと雨緒紀は、長次郎に行くぞと短く言い放ち、作兵衛から顔を背けた。牢から離れ、もと来た道を戻る。待て、行くなと恨みに満ちた慟哭が響き渡り、こちらまで届いたが、もう振り向くことはしなかった。
     外へ出たところで、おそるおそるといった声色で長次郎が口を開く。
    「王途川殿、作兵衛は……」
    「さあ、これからどう振る舞うだろうな」
     そっけない返事に、長次郎はゆっくりと顔を伏せる。「だが、もし助命されたとしても、奴は再び山本を狙うだろう」付け足した言葉は長次郎にとっては残酷なものだったらしく、「元柳斎殿を」と漏らした声には苦悩が滲み出ていた。
    「そうだ。それはお前も避けたいだろう」
     身をかがめて長次郎の目を覗き込む。縋り付くように向けられた両目から迷いを受け取った雨緒紀は、その肩にぽんと手を置いた。
    「見極めねばな……渦楽の本心を」
    「作兵衛の、本心……」
    「そうだ。これはお前にしかできないことだ……山本のためにな」
     長次郎の顔からぬくもりがそぎ落ちてゆく。冷たい夜闇に同化するように、渦巻いていた感情の全てを臓腑の底へと追いやった青年は唇を引き結び、次の瞬間には瞳に決然とした光を灯していた。
     ああ、この目だ。雨緒紀の心臓がどくりと音を立てて鳴る。
     そこにあるのは理性で答えを選ぶことを余儀なくされた人間の、虚無を灯した目だった。

      *

     どのくらい経っただろうか。うとうととしていた作兵衛は薄く目を開け、壁の上部に設置された小窓を見やる。さっきまで黒く塗り込められていた空はぼんやりとした白に変わっており、もうすぐ日が昇るころになるということは想像できた。死覇装越しに感じる肌寒さが、牢に満ちる空気が夜の終わりのものであると物語る。
     入り口に背を向け、石壁のほうを向いて横になっていた作兵衛は、少しだけ首を動かして牢の中を見回した。物という物は置かれておらず、全方面を壁に囲まれた、部屋と呼ぶにはあまりにも簡素な牢の中に自分がいることを再確認すると、罪人になってしまったこと、そしてほんの少し前に自分が起こした騒動の重大さをあらためて実感した。
     同時に、失敗したという言葉が頭に浮かんだ。父の仇を取ることも、元柳斎の首を掻き切ることも叶わず、無様な泣きっ面だけをさらして生き延びてしまった。作兵衛は横になったまま斬られた左踝を見る。足袋を濡らしていた鮮血は時間の経過とともに色がくすみ、乾燥し、足に硬い布が纏わりついているだけといった感触になっていた。わずかに足首を動かそうとするも、痛みばかりが際立ちなかなか思うように動かない。
     こんな足では仇討ちどころか逃げることすらできるかどうか。そんなことを考えていた作兵衛の耳に、足音が聞こえたのはその時だった。
     誰かがこの牢に近付いてくる。それが分かると全身の神経を入り口に向けたままの背中に集約させ、相手の出方を待った。
    「作兵衛」
     牢の前で立ち止まった気配に名前を呼ばれ、誰が来たか理解した。長次郎だった。しかし振り向くことはしなかった。今更どんな顔をして会えばいいのか分からず、作兵衛は返事もしないままじっと石壁を見つめている。
    「食事だ。ここに置いておく」
     床に何かを置いた音が、地面を伝って聞こえてくる。無視していると、背中に突き刺さる長次郎の視線が戸惑いに揺れ、牢に沈黙が降りた。気配は離れる様子はない。まだ何かあるのか。牢の隅に滞留する闇の残滓を見つめながら黙っていると「お前が過去に辛い思いをしていたのは、今日よくわかった」という声が重ねられた。
     荒れに荒れ、疲れ切った胸はその言葉を理解ではなく、遥か高みの玉座からの憐憫としか感じることはできなかった。お前に何が分かる、と怒鳴りそうになる口を強く引き結ぶと、作兵衛はただじっと耐え忍ぶように長次郎の言葉に耳を傾けている。
    「だけど、たとえ元柳斎殿と王途川殿……憎むもの全てを葬り去れたとしても、その先はどうする。お前は、今度は何をよすがにいきるんだ? そうやって一生何かを恨んで、憎んで、苦しんで生きるのは辛いだろう。過去を忘れろとは言わない。しかし、これからの生き方を変えることはできるんじゃないかと私は思う」
     そんなの綺麗ごとだ。作兵衛の中に一種の軽蔑が浮かぶものの、しかし長次郎の話を遮ろうとは思わなかった。つっかえながらも紡がれる言葉が、空っぽになった心に一粒の光となって落ち、胸の辺りがじわりとあたたかくなったような気がしたからだ。
    「お前は霊術院でも良い成績だったし、鬼道の使い方も上手だ。なんでも学ぼうとする姿勢もあるし、根性もある。このままいけば、きっと良い死神になる。だから……」
     言葉が切れたところで、この先を言ってもよいものかという逡巡が張り詰めた空気に混ざり漂って来た。やめろ、それ以上言うな。聞きたくない……口内で駄々をこねるように繰り返した作兵衛だが、次の瞬間には迷いから抜け出した長次郎が、再び口を開いていた。
    「そうやって、生きるのはどうだろうか」
     復讐しかなかった頭に生きるという選択肢が浮かび、作兵衛ははっとした。目的を果たせようとも、失敗しようとも、死以外の道――自分がどうなるかなど、それまで少しも考えたことがなかったからだ。
     渦楽作兵衛と名付けられた全てを憎悪に明け渡し、自分自身を客観視できなかったことに今更ながら気づかされ、作兵衛は自分のこれまでは一体何だったのだろうと自問した。父の仇討ちのために生きてきた。それが自分の生きる意味。ではもし、その仇討ちがなかったならば……自分はどうやって生きていたのだろう。
     歪みそうになった口元を結ぶために、作兵衛は唇を強く噛んだ。だが意思に反してこみ上がるものは止めることはできず、目の前がぼやけた。
     今までこんなふうに声を掛けてくれた人などいただろうか。自分が生まれ育った場所にも、放浪していた時も、その後入った霊術院にも、自分が心を通わせた人間は父以外、誰一人としていなかった。誰かと親しくなるなど億劫だ。失って、これ以上憎しみや悲しみといった感情を引き受けるのは疲れる。だから人と距離を置くようにしていた。
     今はどうだろう。すっかり冷え切った体とは逆に胸の奥が熱を持ち、頑なだった心を溶かし、それが目からとめどなくあふれ出したのが答えだった。
    「……じゃあ、また後で来るから。それまでは……頼むから大人しくしていてくれ」
     作兵衛の反応を知ってか知らずか、長次郎は最後に一言そう言い残すと衣擦れの音が追従し、拘禁牢に足音が響く。気配が遠ざかるのを今か今かと待っていた作兵衛は、無音となり、長次郎が完全に去ったと判断すると、ずる、と小さく鼻をすすった。
     身を起こして振り向く。木枠のこちら側には、長次郎が隙間から差し入れた小さな包みが、ぽんと置かれていた。足を引きずりながら近寄り、包みを開くとそこにあったのは歪な形をした真っ白な握り飯だった。ぐう、と腹の虫が小さく唸るのを感じた作兵衛は、二つあるうちの一つを無造作に掴むと、大きな口を開けて頬張る。
     腹以外の何かを満たすように口いっぱいに詰め込み、無我夢中で咀嚼していると目から涙がぽたりと落ち、握り飯を持つ手を濡らした。一口、また一口と食べ進めても涙は止まらない。やがて最後の飯を飲み込んだ喉が痙攣したようにひくつくと食べる手を止め、作兵衛は死覇装の袖口で顔面を擦った。
     たった一晩で自らの存在意義を失い、途方に暮れる青年の咽び泣く音が石壁に染みる。飯をひたすらに胃に流し込んだ作兵衛が再び静寂の中へと身を浸すと、熱を持った眼球がちりと痛みを感じた。小窓から日差しが差し込んでいる。朝が来たのだ。
     そのぬくもりが何度も擦ったせいで腫れぼったくなった瞼に触れると、作兵衛の体にどっと疲労感が沸き上がった。父が死んでからの長い間、ずっと抱えてきた感情。そのどす黒い闇から解放されるかもしれないという安堵と不安が四肢を脱力させ、作兵衛は床に手を付き、平伏するような体勢になった。
     ――そうやって一生何かを恨んで、憎んで、苦しんで生きるのは辛いだろう。
     ああ、辛いさ。辛かったさ。ようやく認めることができた本心に涙がぶり返してきそうになったのを感じると、作兵衛は心を落ち着けるために大きく息を吐き出す。肺の中の煩悶が少しだけ薄れた気がした。そうしてもう一度眠ろうと床に体を横たえようとした時、作兵衛はきい、と高い音を耳にした。
     金属が擦れるようなとも、何かがずれる音とも言い表せる音だった。一体何だと思いながら音の方を見る。音は通路の方から聞こえたが、目の前に佇む木枠はただ静かにこちらを見下ろしている。気のせいかと思い一度はそのまま流そうとしたが、引っかかった疑念はそうそう払拭することはできず、作兵衛は体を起こして格子へと近付く。
     脳内で渦巻いている、もしやという予感。ひやりと首筋を伝う冷気から逃れるように牢の入り口に手を掛けた作兵衛は、恐る恐るといった感じで指先に力を込め、四角に形作られた戸をゆっくりと押す。
     それはあっさりと動いた。動いてしまったと言うべきだろうか。一瞬何が起こっているのか理解が追い付かず、思考が白く塗りつぶされた感覚に陥った作兵衛は、自分の手から離れた戸が開いてゆくのをぼんやりと眺めていることしかできなかった。
     隔てるものがなくなった視界に、見覚えのある刀が入る。通路の向こう側、石壁に立てかけられていたのは先ほど雨緒紀に取り上げられたはずの斬魄刀だった。小窓からの朝日を浴びた黒い鞘の、鈍い光沢を目にした瞬間、臓腑の奥に薄れかけていた闇が再び蠢く不気味な感触が走った。
     ぽっかりと空いた胸の穴に、禍々しい汚泥が容赦なく流れ込む。差し込んだ魔が思考を奪い、自分の意思が澱みに足を取られ、溺れ、沈みゆくのを感じた作兵衛は緩慢な動きで牢を出ると、立てかけられていた斬魄刀をしっかりと掴んだ。

       《続く》
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    hiko_kougyoku

    DONE若やまささ+千日、逆骨
    「世のため人のため飯のため」④
    ※やまささと言い張る。
    ※捏造あり。かなり自由に書きました。
    ※名前付きのモブあり。
    世のため人のため飯のため④  4

     逆骨の霊圧を辿ろうと意識を集中させるも、それらしき気配を捕まえることは叶わなかった。そういう時に考えられるのは、何らかの理由で相手が戦闘不能になった場合――そこには死亡も含まれる――だが、老齢とはいえ、隊長格である逆骨が一般人相手に敗北するなどまずあり得ない。となると、残るは本人が意識的に霊圧を抑えている可能性か……。何故わざわざ自分を見つけにくくするようなことを、と懐疑半分、不満半分のぼやきを内心で吐きながら、長次郎は屋敷をあてもなく進む。
     なるべく使用人の目に触れないよう、人が少なそうな箇所を選んで探索するも、いかんせん数が多いのか、何度か使用人たちと鉢合わせるはめになってしまった。そのたびに長次郎は心臓を縮ませながらも人の良い笑みを浮かべ、「清顕殿を探しております」とその場しのぎの口上でやり過ごしているうちに元いた部屋から離れてゆき、広大な庭が目の前に現れた。どうやら表である門の方ではなく、敷地の裏手へと出たようだ。
    12454

    recommended works