仕方ないさこれで終わりエスカレート、していくもんなんだなきっと。
よくは知らないけど、だいたいなんでも、そうだ。
少しだけだからと言ってギャンブルに突っ込み、一本だけだからと言って酒を飲み。結果、止まることなどできずに己を壊していく。
依存症になっても、害をきたしても改善するどころか、悪化の一途を辿る。
そのような感覚。
刺激はどんどん少なくなり、ひとつ、またひとつと強めていく。増やしていく。
だからと言って、剃刀が引き出しにしまわれていたことに動揺しない理由にはならなかった。
人間の一般的な生態を考えたところで、落ち着きなどできなかった。
ビニール袋ごと無造作に突っ込まれた、フェイス用のガードなし剃刀。三本入りのお徳用パック。
絶対顔の手入れするならあんたは安全ガードが付いてないとだめだろ、とは思う。危ないから。
だけどきっと、本来の用途で使われることがないとわかっていた。これは経験則。経験に基づいて、たどり着いた答え。
勿論オレが買ったわけではない、この家にはあとひとりしかいない。
推理するまでもないし、考えるまでもない。
最初に気付いたのは腕についたひっかき傷で、そのときまではまだ聞けた。
「怪我でもしたのか?」
ただ心配で、それでいて深い意味はなかった。怪我でもしたなら、絆創膏でもあるけど。
多分、そんなテンション。またあんたなんかやらかしたんだろって、たったそれだけ。
不自然な、静寂が訪れた。
返事がなかったので不審に思い、要の顔を見た。
しまった、と色濃く出ているあんたの表情。そして、不安そうな、顔。この世にたったひとりだけ残されたような、そんな顔。
こんなわかりやすいこと、あるか? と思った。何も言っていないのに、一から十まで理解しちまうのはオレがあんたを知りすぎたせいなのか、あんたがわかりやすすぎるのか、その判別はつかない。
だけど、はっきりと後ろ暗いことがあることを全身で証明していた。
「えっと……あの、さ、さざなみには関係ないのです」
絞り出された言葉は、もううまく言い訳が思いつかなかったんだろうなというやつで。
触れるな、という棘を放ってあんたは強がった。意味のない虚勢。それをわかっているのかわかっていないのか、それでも張らずにはいられない、虚像。
それでもまだ一割くらいはその傷が故意ではないことの可能性はあった。無理矢理でもなんでも、その一割に縋ってしまう。
もっとも、その一週間後にはベッドの横に接したサイドチェストの引き出しに文具用のカッターナイフが不自然に加えられていたが。
触れていいものなのか、どうするのがいいのかオレにはわからなかった。
だから、早朝にそっと確かめることにした。
相変わらず眠りだけは困ることがないようで、電気を消したらすぐ寝入る。そして、朝まで起きることはない。
それを知っているから、まだ太陽も半分も昇らぬ薄く幻想的な光のなかでそっと要の左腕を捲る。
「……」
この前見たひっかき傷はぱっと見わからないまま消えていた。代わりに線で引いたような傷跡がかさぶた混じりになってはっきり残っていた。
まだ治りきってもいないのに同じところでも切ったのか、二本くらい、交差していたり大きく変色してる部分すらある。
赤いような、黒いような、その中間色で止まっている、ぐちゃぐちゃな傷。
「……」
オレは黙って、要の袖をもとに戻し、布団をかけてやった。
アップして、まだ肌寒い外へと飛び出した。いつものトレーニング。ただの日課。それなのに、逃げ出してなどいない、なんて思ってしまう。
それから日課に加わったかのように毎朝、要の袖を捲り上げるようになった。
確認しようが、しまいが何も変わることがないのにも関わらず、毎朝、毎朝、それをする。
治っていく傷もあれば、新しく増えている傷もあるし、ずっと残り続ける傷もある。あまりずっと同じところに消えずにあると、オレが不安になってきてしまう。
このままだったらどうしよう、そんなよくわからない当惑。どうしたらいいか途方にくれてしまう感覚。
不安で、縋りついてしまいそうになる。だけれど何にもつかめることはなく、その手はいつも宙を舞う。
見たところで何も言えないし、何もできないのに、確認しないと落ち着かない。
「よく寝てるな……ほんと」
あんたの寝顔だけはとても安らかで、まるでオレの見たものはすべて幻想なんじゃないかと思ってしまうほどだ。
壊れるあんたなんてもう見たくないけど、壊れそうなあんたも怖かった。
だけど、それで保っていられるあんたなりの対処法だとしたら。あんたが瀬戸際に考えた最後の手だとしたら。
このままでも……いいのかもしれない。無駄に騒ぎ立てるような真似をしたら、あんたの逃げ場はなくなってしまうのだろうから。
「弱虫なのはどっちだよ」
ぼんやりとした太陽光が、同時に影も連れてくる。
それでも、漫然とした苦痛の中にいるあんたを幸福の中に連れ出したかった。それだけは確かだった。
弱虫でごめんな。