rainy turn / クロアス----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
天から降り注いだ滴は、しとりしとりと石畳に吸い込まれていく。湿った街の匂いに包まれたアステルは、傘の下から覗いた城下の景色に目を向けた。馬車や移動魔法の呼び込みは活発となり、順番を待つ列は次第にその長さを増していっている。露店は晴れの日とは一風変わった品揃えで、服を乾かすための魔道具や天気の悪い日にだけ咲く珍しい花が並んでいた。早々に店仕舞いを始めた馴染みの屋台は、売り切ってしまうつもりなのか軽食の値下げが行われている。そのうちの一袋を応援と共に渡されたアステルへ、先を歩くクロービスから小言が降ってきた。
「君、歩くのが遅いぞ。こちらに来たまえ」
「すみません、すぐ行きます!」
急いで追いつこうとしたところで、突如として強い風が吹く。煽られ飛ばされそうになった傘を押さえると、鈍い音と共にアステルの身体は雨空の下に放り出されていた。
「ああっ!?」
慌てて傘を確認するも、逆方向へと反れた骨は力なくぷらぷらと揺れ、支えを失った布は役目を終えている。これは今日の視察に付いて行くのは難しそうかも、と濡れて帰る覚悟を決めたアステルへ、前を歩いていたはずの傘が差し掛けられた。
「まったく、何をやっているのだね」
「うう、すみません。今日はもう帰ります」
「では、これは君が使うといい」
「ええっ、でもそれじゃ、クロービスさんが」
「……君に風邪をひかれでもしたらレースに支障が出る」
「私もクロービスさんに風邪をひかれたら困ります!」
互いの主張を一歩も譲る気がない二人の視線がかち合った。いいから意地を張らずに受け取りたまえという圧と、自分の身体を労わってくださいという想いがぶつかり、しばしの沈黙が流れる。勝者は今回も、ひたむきな新緑の瞳だった。
結局、手短に視察を済ませ帰還する事にしたクロービスは緩やかに歩みを進める。すれ違う人々は皆一様に傘を広げ、時折満員となった馬車がゆったりと駆けていく。そんな中道の中央側を見ていたアステルは、片側だけ黒を濃くした魔道士の衣装に目を留めた。
「……言いたいことがあるなら言いたまえ」
「クロービスさん、肩が濡れてしまっています。私のことはいいですから」
「この傘の所有者は私なのでね。好きにさせてもらおう」
先ほどのやり取りを根に持っているのか、忠告はいらぬと言わんばかりに不機嫌そうな返事が返ってくる。このままだと提案は取り合ってもらえそうにない事を悟ったアステルは、実力行使に打って出ることにした。
「ちょっと、失礼しますね」
歩く邪魔にならない最大限まで、アステルはクロービスの側へと身を寄せる。そして傘を持つ手に手を重ねると、ぐいと真っ直ぐな位置へ引き戻した。手袋越しに伝わる体温に僅かにどきりとしつつクロービスを見れば、淡い紫がアステルを見下ろしている。
「君、距離が近いぞ」
「でも、あのままだとクロービスさんがどんどん濡れてしまうじゃないですか」
「いい加減勇者としての自覚を持ちたまえ。妙な噂を流されては困るだろう」
「傘で隠れていますし誰も見ていませんよ。それに私はこの方が安心です」
目下最大の懸念事項であったクロービスの肩が、雨を遮る位置に移動した事にアステルは安堵の笑みを浮かべる。対するクロービスは、むぅと唸ると傘を持つ手から目を逸らした。
「あ、すみません」
もうちょっとだけ繋いでいたかったかも、という名残惜しさを振り切りアステルは手を放す。跳ねる水の音はいやに響くようになっていた。
前方の大きな水たまりを先に見つけたのはアステルの方だった。指摘された補修箇所をクロービスが見分していると、気づかわしげな声がかかる。
「クロービスさん、足元に気を付けてくださいね」
「子供ではあるまいし、転んだりはせぬぞ。……そういえば、このような場所で薬草を駄目にした者がいたか」
「そ、そういう油断が命取りなんです!」
以前クロービスと出かけた時の件を掘り返されたアステルはムキになって反論を開始した。クロービスが口角を上げ更に忌憚のない意見を連ねようとしたところで、馬車の車輪が一直線に水たまりへと進む光景が目に入る。
「危ない!」
ふわりと、投げ出された傘が宙を舞う。クロービスはアステルの背に右手を回すと強く引き、バランスを崩した身体を胸で受け止めた。もう片方の手で引き寄せたマントがすっぽりと二人を包んだ直後、水しぶきがびしゃりと襲いかかる。
「クロービスさん、大丈夫ですか!?」
「私は問題ない。君は?」
「庇ってもらったので濡れませんでした、けど……」
すぐ目の前に迫る顔に目を丸くしたアステルは頬を朱に染める。触れた部分からとくとくと、速まる柔らかな鼓動が伝わっていく。見上げる瞳が帯びる熱にクロービスは何事かを得心したように頷いて、ゆっくりと身体を離した。
「今日の視察はここまでとしよう。帰るぞ」
くるりと背を向け傘を拾ったクロービスの耳はアステルと同じく色付いている。緊張からそれを見落としたアステルは、はいっと裏返った声を上げ、均等に割られた空間へと飛び込んだ。
ひしゃげたサンドイッチとぬるい紅茶によるアフタヌーンティーは、昨日よりもひときわ得難い時間となることだろう。