群青 / クロービス-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
夢が終わる瞬間というのは、いつも突然だ。暗い意識の底から這いあがると、見慣れていた天井があった。枕元の目覚まし時計で時間を確認すれば、設定した時刻の少し前を指している。
アラームを解除しベッドに腰掛けて、ぼんやりと頭を働かせる。何かを忘れている気がする。なにを、忘れているんだっけ。首を捻っていると、ドアの向こうから母さんが声をかけてきた。
「×××××、今日はお父さんと出かけるんでしょう? 早くいらっしゃい」
そうだった。今日は父さんと薬草を集めにいくんだった。ベッドサイドのチェストに置いた普段着のローブの上には、虫除けの魔法薬を染み込ませた衣服やおろしたての厚手の靴下、防水魔法を施した特殊な手袋がきちんと畳まれている。霞んでいる目を擦りながら一つ大きく伸びをしたけれど、思考の鈍りは完全には抜けきらず、いずれ覚めるだろうとそのままのろのろ着替えていく。
楽しみにしていたはずなのに、いざ行くとなると気が進まないこともあるのか。そんなとりとめのない感想を抱きながら、仕上げとして数日前から書き溜めた予習ノートをナップサックに入れる。誕生日にもらった図鑑はなくしてはいけないから家に置いていくし、被っていく帽子は玄関にある。もう忘れ物はないはずだ。そう確認して杖を手にしたはずなのに、妙に後ろ髪を引かれるものがある。山歩きに必要な物のリストを諳んじても、特に心当たりはなかった。朝ごはんを食べるうちに思い出すといいけど、と一旦保留して自分の部屋を後にする。
リビングに着くと、父さんは既に食事を終えて紅茶を飲んでいた。まだ湯気の立ち上るカップを口元へと運び、涼しい顔で傾けている。上品に落ち着き払った様子はそれだけで威厳があって、自然と背筋が伸びていった。
「父さん、おはようございます」
「……おはよう、×××××。昨日も遅くまで起きていたようだな」
夜更かしはほどほどにしなさい、と窘められながら、朝食の用意された席につく。パンにサラダ、ゆで卵、スープと珍しい料理ではないのになぜだか手をつけることが躊躇われた。原因のわからない感傷に戸惑いながら、いただきます、と唱えフォークを手に取ると、ずきん、と頭が痛む。なんだ、寝不足で体調が悪いなんて情けないな、と反省しつつ料理を頬張っていく。
今日はどんなことを学べるのだろう。優秀な黒魔道士である両親から教わる物事は、どれもこれも勉強になることばかりだ。もちろんすぐに理解できないこともあるし、新しい知識を授けられる度に自分の未熟さが身に染みて理想は遠ざかっていく。けれど、敬愛する父や母の元で研鑽を積んでいけるのなら、立派な黒魔道士となってみせる自信がある。
そんなふうにこの後の予定に期待で胸を膨らませ、頭の中で昨晩の内容を反芻していたら、気が付けば朝食はあらかたがなくなっていた。それを見た父さんはポットから紅茶を注ぎ、カップとミルクポットを目の前へと差し出す。
「飲んだら出かけるぞ。準備はできているな?」
「はい!」
張り切って返事をすれば、元気のよいことだ、と父さんは薄く笑う。気まずさを隠すためにつられて笑ったら、鈍い痛みが増した気がした。
玄関先で山用のブーツの紐を結んでいると、母さんが庭への水やりを終えて家の中に入るところだった。抱えている籠には木苺が山盛りになっている。よく熟れた紅い色にどことない既視感を覚えつつ、父さんを待たせているんだからと思い直して目をひきはがす。
「×××××、帰ってきたらジャム作りを手伝ってくれない? そうしたら、あなたの好物のカップケーキも作ってあげられるわ」
このジャムを使ったお菓子は母さんの十八番だ。もう今年もこれが食べられる時期になったんだ、と思いながら頷くと、頭を揺らした影響か痛みが増して、うっかりこめかみを手で押さえてしまった。母さんがそんな様子に気が付かないわけはなく、心配そうに顔が覗き込まれる。
「あら、具合が悪いのなら、今日はやめておいた方がいいのではないかしら」
「大丈夫です。少し夜更かしをしたせいなので」
「そう? 無理をしては駄目よ。……いつも言っているけれど」
「『魔道士は常に冷静であれ』でしょう。本当に、大丈夫です。もしも駄目そうなら、父さんに言って引き返しますから」
必死に出かけるための言い訳を見繕っていると、しょうがない子ね、と母さんは苦笑いして行くことを了承してくれた。外出の許可が下りたことにほっとして、靴のつま先をとんとんと床に打ち付けてなじませる。そうして最後に黒い帽子を被れば、出発の準備が全て完了した。
「いってらっしゃい。気を付けるのよ」
「いってきます!」
母さんの声を背に、玄関のドアを出る。外の世界の眩しさのせいか、また一段と頭の痛みは強まった。
父さんの背を追って、採集場所へと山道を登る。基本的に薬草の生息地への道は、通る人が少ないこともあって獣道じみた辛うじて踏み均されたような道が多い。無数に生える木々の細かな違いから現在位置を把握して、どこからどこに分岐するかを覚えることが立派な黒魔道士への一歩だ。周りの風景を脳内の地図と照らし合わせながら道を記憶していると、父さんが不意に話しかけてきた。
「×××××。お前はどんな黒魔道士になりたいか、答えは出たか」
「ええと、そう、ですね……」
両親が誇れるような立派な黒魔道士になりたい。それは幼い頃からずっと持ち続けている夢だ。ただ、世間一般では黒魔道士という職業は忌み嫌われるものなのだと初めて知って、一度だけ反抗してしまったことがあった。その時、父さんから『私の力は人の為にあるのだ』という言葉と共に、ある宿題が課されている。それが、先ほどの問いだった。
人の為、というのはハッセンの人々だけを指すべきだろうか。里の外では黒魔道士が嫌われていることもあって、大半の黒魔道士は里の中で一生をかけて黒魔道の研究に邁進する。他の皆と同じように過ごすのなら、月並みに黒魔道を極めることができるだろう。常道に従っている限り、綿密に計画を立てていれば想定した順序通りの未来が手に入る。けれど。
「この力が人の為だというのなら。多くの人の希望を灯せるような黒魔道士になりたい、です」
「……それは『この里を出たい』という意味か?」
「……はい」
言っておきながらなんとも具体性に欠ける目標に、返事は尻すぼみになり、行く手を遮る草をかきわける音に消えていく。今の実力からすれば、馬鹿な事を、と一蹴されてもおかしくはなかった。魔道の力は使い方次第で、人を癒すことも傷つけることもできる。黒魔道は一般的には後者の印象が特に強く、魔法を扱えない人々にとっては歓迎するどころか恐怖の対象だ。国によっては入国が禁止されているし、父さんにも母さんにも必要以上に心配をかけてしまうかもしれない。そんな逆風を乗り越えて、世間にこの職業が認められるだけでは飽き足らず、希望を灯したいとは大きく出たものだと自分でも思う。
「それが、お前が目指す姿なのだな」
念を押すような肯定でも否定でもない単なる事実の確認に、控えめに、はい、と答えれば沈黙が下りる。やはりもう少し力をつけてからの方が説得力があっただろうか。軽率な言動を省みながら気落ちして、道を覚える作業に戻ろうとしたところで、少しだけ愉快そうな声で父さんが続けた。
「では、より一層弛まず精進せねばならぬな。私の指導は厳しいぞ」
「……いいのですか?」
「いいかどうかは、お前の努力次第だ。……自分の使命を果たせるよう努力しなさい」
期待しているぞ、と降ってきた声に応えようとして、軋むような頭の痛みに言葉が詰まる。歩みを緩め大きく深呼吸をしても、その痛みが収まることはなかった。
小休憩を挟みつつ歩いていくと、しばらくして目的地へと到達した。父さんの講義が始まる前に、ナップサックから筆記用具とノートを取り出す。
「この薬草は一晩干せば使えるようになる。明日はこれを使った魔法薬を教えてやろう」
父さんが指さす先には、むき出しの土の見える地面に赤い花が広がっていた。予習した中にこんな花はあっただろうか、とページを捲りながら記憶を辿る。そうしていると頭痛はひときわ増して、目の前の景色にあの日の光景が重なっていく。
寝ているはずの両親がいない荒らされた部屋。
獣が暴れまわったような傷だらけの床。
充満した鼻につく鉄の臭い。
広がる、赤い。
「どうした、何か予定があったか?」
「い、え。なんでも、な……」
ふらり、と上体が傾ぎ、世界が回る。こちらに駆け寄ってきているはずの父さんの顔は、酷くおぼろで曖昧だ。
そんな表情は一度だって見たことがなかったから、再現もできないということなんだろう。これが想像の限界なんだ。そう思ってしまえばもう見ないふりはできなくなって、意識が浮上するのを止める術はなくなっていた。
未練がましく伸ばした手が空を切る。痛みを忘れていられる時間は呆気なく終わってしまった。
だから、夢は嫌なんだ。
起き抜けの気分の悪さにはもう慣れ切っている。それでも幸せだった日々の断片は、眠る事への恐怖と焦りを掻き立てるには十分だった。震えて汗ばんだ手は、じっとりと仄暗い思いにまみれている。
今からでも痕跡を探し出し、父さんと母さんを襲った魔物を追い詰めて、その身に同じ、いやそれ以上の苦しみを刻みつけてやりたい。そうして贖える物であろうとなかろうと、生きている事を後悔するほどに、罰を、裁きを与えたい。懺悔も許す暇もなく、ただひたすらに怒りに身を任せたまま、思いつく限りの責め苦で苛んで、恨みを晴らしたい。そして、そうしたら、それから。どす黒い感情は、様々な復讐の算段を整えては膨らんでいく。
それでも、この身に遺された欠片は濁りを許すことはなかった。
『魔道士は常に冷静であれ』
『私の力は人の為にあるのだ』
かつて受けた教えは宵闇を照らす星のように、冴え冴えと行くべき道を照らしている。柔らかに優しいながらも、堕ちることだけは認めてくれないその光は、痛みを、苦しみを、己の使命を果たすための力へと変えていく。喪ったものを埋められずとも、叫びだしたくなるような激情を抑え込んででも、継いだ誇りだけは奪われるわけにはいかないのだ。両親に顔向けの出来ないような生き方は、他の誰に許されたとしても自分自身が許容できるはずがなかった。
深く息を吸い、ぎゅっと拳を握り込む。爪が手のひらに食い込んで、自分は生きているのだと思い知らされた。僅かに冷静さを取り戻して、まだ火照りの残る頭を冷やすために窓を開ける。一瞬ガラスに反射した顔にははっきりと隈が浮かんでいた。夜風が頬を掠め、体温と共に熱を失わせていく。厚く雲がたれこめる暗い空には、微かな光すらも瞬いていない。
もうすぐクロイツ魔法学園へと提出する論文が書き上がる。審査には各国の高名な魔道士が関わると聞いて、里長に頼み込んでようやく手に入れた外の世界への第一歩だ。里の外へ出る事はあからさまに反対されることもしばしばで、きっと旅立つ日になっても皆が皆は快く送り出してくれないのだろう。それでもこの道は黒魔道の発展に必ず繋がると、世界に平和をもたらして人々を救うのだと信じている。だから、あとは自分の使命を果たすだけだ。
大きく伸びをして、澱みの名残を振り払う。机に向かう頃には、澄み渡った思考が戻っていた。机の上には何冊にもわたるノートが重ねられている。この続きはもう更新されることはないけれど、確かな知識として理想を裏付けていた。
ふう、と息を吐き、為すべき事の計画を粛々と積み上げる。こうして難しい顔をしている姿は、あの威厳に少し近づけたのかもしれないなんてくだらない事を思いついて、小さく笑みが零れた。
では、本日の職務を始めよう。