start over / クロアス------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
多忙な業務の合間を縫い、今日もクロービスの執務室には恒例となった休憩の時間が訪れていた。
「あっ、このクッキー美味しいですね!」
「その感想を聞くのは今日だけで五度目だな」
「お、美味しい物は何度美味しいって言ってもいいんですっ」
「……そうかね」
祝賀式典の最中に魔王の封印失敗の報を受けてから、アステルは気がそぞろとなっている。命がけの戦いを制して平和な世が訪れたと思ったのも束の間、終わったはずの戦いが再度幕を開けたのだ。それは、絆を十分に高めたグランスレイヤーと共に持ちうる力を全て出し切ってもまだ足りない、という認め難い結果を示している。ただの村娘から勇者へと成長し、ようやく使命を果たせたと喜んでいたアステルにとって、この事実は落胆するのも無理からぬ話だろう。
不幸中の幸いにもこれまで積んだ鍛錬のおかげでレースに支障は出ていないが、時折物憂げに揺れる瞳は暗く沈んでいる。このところぱったりと、人嫌いの耳に馴染んでしまった騒々しさは鳴りを潜めていた。
「君が落ち込んでいては全体の士気に関わる。しっかりしたまえ」
「すみません……」
見るからに先ほど以上にしょんぼりと、わかりやすくアステルが萎れていく。下手に口出ししては余計に悪化させそうだ、という己の予測を見事に的中させたクロービスは小さくむうと呻いた。こういう時あの赤い厄介な同僚ならば言葉巧みに宥めすかすのだろうが、それほどよく回る舌は生憎持ち合わせていない。慰めることも励ますことも得手とは言い難いが、どうにか気分を紛らわせてやれる手段はないものか。検討を続けていくうちにある事に思い当たったクロービスは、立ち上がると椅子から少し離れたところへとアステルを手招きした。
「こちらに来い」
「え?」
「……いいから早く」
「は、はい!」
じとりと睨む鋭い眼光に弾かれたように立ち上がったアステルは、おずおずとクロービスの前に立つ。そうしてさらなる厳しい言葉の数々を覚悟し強張った身体は、アステルの予想に反してふわりと優しく包まれた。ほのかに香る石鹸と紅茶の匂いに、抱きしめられている事を理解したアステルは頬を上気させ動揺し始める。
「く、クロービスさん!?」
「なんだ。私に抱かれると安心する、と言ったのは君だろう」
「それは、そうなんですけど……!」
緊張から驚き、そして恥じらいへ、くるくると変わったであろう表情を想像し、クロービスは口元を緩める。続いて更にゆったりと、言い含めるように落ち着いた声音を重ねていく。
「君は、よくやっている」
「…………はい」
「自分の役割を果たそうと、君は最良の決断をしたのだ。もう少し自信を持ちたまえ」
淡々と事実を告げる言葉が、先の見えぬ戦いへの不安で重く凝り固まった心を解していった。同時に幾分速まったクロービスの鼓動に、アステルは笑みを零す。世辞のように聞こえる事もあるだろう、と以前ぼやいていた黒魔道士は、今は大切な存在を癒そうと苦手としている言葉を紡いでいた。
「……ふふっ、ありがとう、ございます!」
眩い笑みを取り戻したアステルに、やれやれと溜め息をつきながらも満足そうにクロービスも笑みを返す。こうして二人の新たな土地への旅路は、希望と共に再開されたのだった。