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    鰹節の進捗

    @ieiuuhunemu

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    鰹節の進捗

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    改稿中の進捗です。初稿と別物になりました。でも満足。

    #オリジナル
    original
    #一次創作
    Original Creation

    翼切1-1 人魚と天使の落ち星拾い 夕陽の黄色に浸るように私室へ足を踏みいれると、窓際にある机の上でポツンとしている手紙が黒々とした宛名を見せつけてきた。目を離さずに前方へ一歩踏みだすたび、表皮を包みこむ幽かな温もりに撫でられている。陽光の色に変わることを拒むものたちが作る陰影でも、とりわけ空間に沈んだ印象を与えるのはインクの青黒さだ。凝視し続けると陽の射さぬ絶壁の如き窪みが並んでいるように見えた。

     不動の黒へ近付くにつれ、一直線に疾駆するさまに似た筆跡を認められる。彼は急いて手を伸ばしたが、不意に幻惑を振り払うように瞬きをするとやめてしまった。閉ざされたばかりの扉の隣で、今や出番かと待ちかまえている暖炉の前を横切り、手紙が視界へ収まるように長椅子へ腰掛ける。ついでに持っていた上着を軽く畳み、脇へ置く。

     テーブルに両肘をつくと手を組み、短い嘆息とともにその上に額をつけた。水平に近い角度から再び見詰めている内、窪みに見えた青黒さが文字として判読できるように思われる。何しろ、あれは己の名なのだ。目を閉じると上体を逸らし、腕を広げて両手をついた。荒波に揺さぶられぬ巌のような落ちついた構えに、わずかにかしいだ頭部と童顔に似合わぬ眉間の皺があわさっている。

    「嫌だな」

     差出人への礼儀や未開封による不利益の可能性などに思い馳せた末に感情だけが際立って残った。見覚えのある筆跡が時候の挨拶など知りもせぬ帝都の友がせわしなく封書をしためたと知らせ、記憶に残る郵便馬車で届けられた日付が、例年通りなら彼の人に国家からの休暇はもう残っていないだろうと考えさせられる。

     そろそろ収穫を終えるとはいえ、あずかり知らぬ遠方へ呼び寄せられたくはなかった。まだ収穫祭の準備が丸々残っている上に、領地を任せられる家人も不在にしている為だ。加えて友の人となりを思えば、これは面倒ごとに類する頼み事だろうと思われるのだった。

     脳髄の袋小路から抜けでた言葉は一語切りで、夕陽の色に変化した空間の中では頭髪の黒さが渦巻く思惑を塗りつぶしてしまったように見える。そのまま、閉じた瞼の暗闇の中でじっとしていたが、はらりと頁をくる幽かな音が彼を夕焼けの世界へと帰らせた。

     落ちゆく陽に白樺林の梢がそろそろと手をかけつつある。室内を彩っていた黄色に少しずつ陰影が増してきた。微かな変化の絶えぬ中で青黒さも微動だにしないまま周囲に溶けこみ続ける。

     部屋の片側で長椅子に腰掛ける彼の正面には、右手で手紙の置かれた机が真横を向き、左手で暖炉と廊下へ通ずる扉が沈黙している。彼の目線はそれらを通りこした先の隅にとまった。壁一枚で隔たれた書斎の出入り口には扉がない。そこから洋燈の灯で一部を仄かに色付けた薄暗がりが漏れている。

     かっしたように口を開き、言葉を探すも胸のつかえに前屈みとなった。上目遣いに薄暗がりを睨みつけたが間もなく平生に戻り、テーブルから手を離す。足を組み、膝頭に両手を重ねながら微笑みで顔を整えると、穏やかに背もたれへ寄りかかった。玄関で靴の泥汚れを落とした時にズボンもはたいたことを思いかえす。急にワイシャツから草の微香が感じられ。

    「おいで」

     ……はらり……と心のない声が応えた。

    「待っていたんだろうに」
    「いいえ」

     か細いけれど夜空に瞬く星のように明瞭で涼やかな響きだ。

    「ただ、探しているだけ」
    「良いから、おいで」
    「見つからないの」
    「じゃあ、そこにはないのだね」

     梢の隙間から斜日が放射状に煌めいた。

    「ほら、おいでよ」

     書斎の灯が翳る。

    「あ」

     女の顔から肢体が一瞬で夕陽の色に染まった刹那、その瞳を灼かれ、暗がりへ身を翻した。不意打ちに成功したことで喜色を帯びた顔はすぐに整えられる。

    「君だろう。僕への手紙を引っ張りだしてきたのは」
    「いけない?」

     膝頭の上で欠けた爪に目がとまる。不恰好な曲線を目線まで持ちあげた。

    「忘れているのだと思って」
    「私信だからね」

     背後のチェストに爪切りがあったろうかと考えながら、返答として不足がないように気を配る。

    「後回しにしただけだよ」

     指先を見つつ、静かにチェストの引き出しを開けにいく。そこに目当ての品はなかった。振りむきざまに左右を見渡す。私室には置いていないと思え、邸宅内の他の部屋へ意識が飛んでいく。扉へ視線を移すとそっと歩き始めた。

    「心無い人よ」

     見咎められたかと書斎へ顔を向ける。

    「ムト」

     まだ日没には遠い陽射しを一面に受ける壁際で、黄色に染めあがった妻が空間へ溶けこんで立っているかと思われた。白鳥が両翼を頭上に広げ、天地を違えたような半円の頭飾りと白いスカーフが結いあげた髪を隠し、実母の忘れ形見が首元と手首に宝石の輝きを与えている。細身の彼女には不釣りあいの装飾品は、時に高貴な枷にも見えたがそれを本人に伝えたことはない。

     そこに立っていたのなら夕陽に煌めく貴石が否応なく目についたろう。常とは変わらぬ姿は脳裏に浮かんだにすぎなかった。

    「向こうは気にすまいよ」

     尖った爪を撫でていた指の腹を離し、手紙を尻目に立ちどまる。落ちついた呼吸で机を回り、肘掛け椅子をはすに引くと書斎へ背を向けて腰をおろした。

    「君だって良く知ってるじゃないか、イェルミニア。本当に重要な手紙なら催促にもう一通ぐらい届くさ……」

     書斎から硬質なものを落としたような物音が聞こえた為に言い訳を中断し、大きく振り返る。

    「どうした」

     言葉が返るより先に足を踏みだしていた。立ちあがった際に押された肘掛け椅子が、机から離れたまま捨ておかれる。

    「目が眩んで……」

     表皮を素早く撫でる冷たさは夜が近付いている為ではない。足早に書斎へ踏みこむと途端に浴びるほどの陽光を途絶され、思わぬ暗さを感じてつんのめってしまった。中空に放りだされる寸前で踏みとどまったような姿勢だ。

     はめ殺し窓からの採光を背景に、イェルミニアが立ったままテーブルの上に突っ伏していた。限定的な陽射しはかえって影を濃くし、宝石の輝きをもひそませる。調度品ばかりがはっきりとした明暗に彩られている訳ではない。

     伸ばした片腕へ預けていた頭が足音に応え、物憂げに顎をあげると出入口付近へ視線を彷徨わせる。そしてすぐに姿勢を戻し、目を閉じた。

     朧気おぼろげな指示に従い俯くと、すぐ足元に横倒しになった洋燈が転がっていた。合点し、暗がりの中で小さな光の点になってしまったものを拾いあげる。わざわざ両手で持ってから近付いていったが、彼女は瞼の上から明かりを感じても目元を指先で隠しただけだった。しばし立ちつくした後、灯をそのままにテーブルの下へ置く。イェルミニアの脇でしゃがみ込み、天板へ手を揃えた。

    「顔を見せておくれよ。ごめんな」

     しずしずと開かれた指の間から一眼が現れた。掌には隠れぬ小さな口を結んだまま、見つめかえしてくる。黒瞳に力強さが戻ってくるさまを確認できても胸中の強張りは消えない。木目の上で欠けた爪が露わになっていることが気にかかり、指の下へ上手く隠そうと視線を外す。

    「君には陽が強すぎたね。意地悪をしたよ」

     目の動きを追随されないようにと、急いで上目遣いになったムトを悪戯っぽく笑う唇が応えた。思わず体の重心がずれ、よりだらしない恰好になったがそれを改めようともせずに苦笑する。膝の上で腕を組んで姿勢を安定させた。

    「からかったのかい?」
    「起こして。自信がない」
    「なら、まだ座っていた方が良いよ」

     立ちあがりながら膝をはたくとまだ片目を覆っている手を取り、肘掛け椅子を引いて座らせる。イェルミニアは頭飾りが乱れぬようにもう片方の手で支えていた。

     テーブルに浅く腰掛けると、今しも白樺林へ沈もうとする太陽が見えた。今日という日の残滓を前面に受ける。一日の終わりを思い、影になった木立をぼうっと眺めていると横から妻に袖を掴まれた。

     微かに首を回し、目にする手首の煌めきが快い。いじらしく服を摘まんだまま肘掛けより倒れ、頬を彼の腕へ触れさせた。ムトの後ろむきに座る身体の半分は影に沈んでいる。

    「開けないの」

     見上げる相貌に陽の名残りが射し、黒色と暗紅色の異なる瞳の色を照らしだす。だが、即答せぬに斜光は陰り、双眸の差異はほとんどなくなった。正面を向くと夜の青が降るように淡く広がり、夕の黄はゆっくりと、だが確実に地上へ下っていく最中さなかだった。

     そういえば、イェルミニアは何を探していたのだろうかと思いだし、振りほどくように優しく身体を反転させる。今更、古びた紙とその隙間に付着する埃を思わせる匂いに包まれていることを意識した。

     テーブルのそこここに二、三冊の本が重ねられている。しかし、刻一刻と失せていく明かりの中では題名がはっきりとならない。文字は革張りの上でかすれ、誕生からの歳月を物語るばかりだ。過去のそのままに存在する本を集めた書斎が気持ちを落ちつけてくれる場所と知りながら、彼は部屋を与えられてからまともに使ったことがなかった。

     徐々に濃くなっていく影がぬぐいがたいインクの染みのように思われてくる。はっきりと身体をイェルミニアへ向けた。

    「何を」
    「手紙」

     距離をとるように肘掛けで頬杖をつき、ムトの上から下までに視線を走らせている。もう片方の掌を上へ向け、彼の言動を促した。

    「開けるよ」

     明後日の方向を見つめつつ答えると視線をくっつけたまま大きくテーブルを回り、放置された本を手に取った。

    「適当にしまって大丈夫か」
    「手前から順にいれて」

     洋燈を取りあげ、かざしながら黙々と片付けを始める。それとなく本の題名を確認しても、大昔ではないが自分たちの世代には親和性のない時代の話だということしか共通点は見受けられない。

    「もしかしたら」

     背中で彼女の言葉を聞く。

    「ムトは手紙の内容を知っているのかもしれない。誰にも見せたくないけれど、自分で対応するのも煩わしい……例えば、痴情のもつれとか」

     ぎょっとして振りかえるとイェルミニアは頬杖をついたまま窓の外を眺めているようだった。暗がりが書斎を覆う中、窓枠で切りとられた薄暮の空に彼女の姿が影絵のように写る。今しも、ちらっと輝いて見せたのは足を組んだ彼女の動きに震えた宝石だ。それは星の瞬きに似ていた。

    「私に見つけられて決まりが悪いのかしら」

     じっと見つめても妻の姿から何が示唆される訳でもない。手元へ視線を落とし、本を無造作に置いた。

    「なら、俺一人で封を切ってしまおう。早々に捨て去る為に」

     わずかに口を開き、両の肘掛けをそれぞれの手で握った彼女が足の裏をしっかりと床につける前に、洋燈をその手にする。笑顔だけを残し、素早く退出した。

     完全に暗闇とはならない初昏しょこんの藍色が壁に並んだ窓を透過する。明暗の違いによらず、ムトは目に入るものを意識できない。彼は身体の背面に神経を集中させている。感覚の先鋭化とは裏腹に、暖炉のある部屋に戻ってからはゆったりとした様子で歩幅を広げた。

    (イェルミニアめ)

     手紙の主をわからないはずがないのだ。あれは彼女の兄なのだから。窓際へ到達するより以前、背中に衝突するもので呼びとめられる。

     足早に近付いてくる気配を堪能しつつ、勿体ぶって振りかえるムトの背後へ回るようにして、イェルミニアが横を通りすぎた。我知らず、彼が足下へ落ちた頭飾りを目視した瞬間、見えぬ方向から洋燈を引っ張られる。床へ叩きつけてしまうことを恐れ、抗わずに身体を後ろへ半回転させながら手渡した。

     引かれた方向へ伸びた腕が、弾みで彼女の肩より長いスカーフの内側へ入る。当人の温もりが伝わらぬ衣類を物足りなく思い、とっさに指へ絡めるようにしてそれを掴んだ。前方へかざされた灯から尾を引くようにして、白で統一された衣装からスカーフがこぼれ落ちていく。

     生まれつき色を失っている髪が露わになり、二本の三つ編みを頭部に巻く髪型が見てとれるようになる。しかし、イェルミニアは構わずに進んだ。多くの民族を抱える帝国でも彼女のような者は特異だ。

    「そんなに早く動くとまた目が眩むよ」

     ムトは軽く手を振り、指に残ったスカーフを巻く。床に引きずらない程度の長さに調節する為だ。その場で腕を組む。

    「構っていたら走れないじゃない」

     イェルミニアは手紙を取り、彼と向きあうように机の一端へ腰掛けた。洋燈を後ろ手に置き、幽かな放射状の光に輪郭を彩られる。夕陽にも薄暮にも染まる妻が、何故か生まれながらの白さを保って見えた。そのまま、引き出しを開けようと横着をする。ようやくペーパーナイフを取りだし、封筒に差しいれると彼を見た。

    「何が嫌なの」
    「聞こえてたか」

     ちょっと目を見開くと俯きかげんで自分の頭を撫でる。色ばかりが鮮やかな空はムトの顔色を明らかにはしない。

     もっとも、イェルミニアは日月のどちらの下でも良人の望みを理解したと感じたことはなかった。それが日常的に大きく表情を動かすことのない彼の民族性によるものなのか、興味を持ちつづけている。

    「俺はいつもの生活が好きなだけだ」
    「お兄さまが手紙を下さることだってあるわ」
    「それは帰郷する時だけだ。年に二度もない」

     ムトは顔を背け、窓のそばへ寄った。初めて屋敷を訪れてから敷地内を縦断する並木道の樹木の数すら変わっていない。宵闇に近付きつつある夜空の下では、まだ事物の影の方が濃かった。

    「永遠に四季は繰りかえされるけど、寸分違わずに同じ季節とはならないでしょう? 作物の実りに気を配るなら、良くわかるはず」
    「それでも曙に陽が昇り、宵には月が出るように、日常が変わらぬものでなければ穏やかではいられないだろうよ」

     カーテンのタッセルを指一本で弄ぶ。

    「でも、星降る夜を願う時もあるわ」
    「イェルミニアが?」

     わずかに笑いかけたが再び外を見た。すでに口角はあがっていない。変化を望む彼女が手紙の封を切ることに不安を覚えたので……。

    「気になる? 星に願えば叶うかしら。私はあなたを知りたい」

     イェルミニアへ向きなおったが言葉はでなかった。幾度いくたびか唇を離しては引きむすぶ内、知らずにタッセルを握りしめていることに気がつく。目立たぬようにその手をポケットにしまい、そのまま自然な動作で机に近付き始めた。

    「俺の願いか?」

     暗がりの中、一々を確認するように目を動かしていたが、距離が縮まると逡巡せずにスカーフを巻いた片手を差しだした。半端に垂れた白い布が見てとれる。ムトは視線をあわせた。

    「返して欲しいね」

     上目遣いの視線は暗がりに浮かぶ掌を通りこし、双眸を捉えて離さない。見つめかえしながら手の届く距離まで進むとイェルミニアが無言の内に片足をあげ、それを制した。靴の裏が彼の腹にあたる。

     ムトは首筋に鳥肌がたつのを感じた。顔色を変えずに押し戻されてやるが、離れるよりも早く踵を掴む。再び自らの腹に押しつけ、脚を伸ばしたまま固定した。

    「頼むよ」

     懇願するように視線を送りつつ上半身を傾ける。その動きにあわせ、足首から掌を這わせると衣の下へ差しいれた。一瞬、イェルミニアの息がとまる。

    「嫌」

     無言で更に乞うて脚に頬擦りする。彼女の手が頭に触れ、引きはなそうと力を込めた。それを歯牙にもかけず、掴む手と脚をあわせてスカーフで巻く。

    「赦してくれよ」

     健やかさのない肢体に温もりはない。年々、細っていく妻の姿は地上から解きはなたれつつあるようにも見え、心が痛んだ。いつも、彼の無力さは自虐的な諧謔として表れるのだった。

    「足でも舐めようか」

     返事のかわりにもう片方の靴がムトの肩先を踏みしめる。頭から手が離れ、彼の眼前で衣が緩慢に持ちあげられていく。迷わず、暗がりへ舌を伸ばした。

    「駄目」

     笑みを含んだ拒絶と吸いつく前に遠ざかった脚が過剰な罰のように感じられる。ムトは勢い良く起きあがった。

     スカーフで一体化された脚を引っ張るようにして、前方で大きくはすに引かれた肘掛け椅子へ座りこんだ。反動で彼女は身体の向きを変えながら机の上から落ちかける。その勢いに任せ、腰へ片腕をかけるとさらうように膝の上で抱きかかえた。深く腰掛けたムトの片手と結びつけられた片脚だけが、肘掛けの上に引きあげられる。横向きに座らされたイェルミニアはとっさに手紙を持つ手を彼の首へ回した。

    「俺に読ませてご覧よ。何が起きてもいつも通りの生活で終わらせてみせるから」

     机の上では洋燈が変わることなく、静かに周辺を照らし続けている。淡い光が無機質な人形のように見せる彼女の肌を手の甲で撫でた。

    「私は」

     冷笑を浮かべる良人の首筋をペーパーナイフの切っ先でなぞりながら、もう片方の手も彼の首へ回す。感情を消した顔を近付け、言葉を続けた。

    「早く死ぬでしょうね」
    「そうかもしれない」

     思考よりも先に開いていた唇が無難な返事を選びだす。探しものをする時、書棚から重い皮張りの本を何冊かは取りだせても、それを片付けることのできないイェルミニアの虚弱さに思いを馳せていた。

    「だから、俺は寸分違わずに同じ生活を続けるんだよ。君を天へ帰さないように、俺のそばへ留めおく引力を強めるように。祈りを込めて」

     スカーフで結びつけられた彼女の脚と彼の手とが、肘掛けよりも外側で浮いている。

    「いつかは星降る夜が頭上へ落ちてくるのに」

     イェルミニアは首を横へ振った。

    「まるで自分を水生生物だと思いこんでいる両生類みたいなんだから」
    「まだ、地上を駆ける足をもらえないんだろうよ」

     背もたれの裏で封の切られる音がした。双方、目を離さない。

    「きっと、ムトを陸にあげにくるのよ」
    「退けてやるさ」
    「いつでも戦場で死ぬる為に、日々無謀さに磨きをかける軽騎兵の精神を根付かせたお兄さまが相手でも?」
    「誰がきても、何が起ころうともだ。だが、俺にはもう星は落ちてきたじゃないか」

     首元のネックレスを掴むと引きよせる。

    「読めるものなら読んでみるが良い」

     ぼんやりと闇に浮かぶ夫婦の顔が近付く。ペーパーナイフが落とされた。唇を重ねると、彼女の方が後から目を閉じた。

     ムトを名指しで体を空けておけと要求する手紙には、近日中に差出人が帰郷する旨も記されていた。嵐を予感しながら海へでるものではない。準備万端に整えたとしても、結局は己の無力を痛感することになるのだから。

    (でも)

     とイェルミニアは思考を進める。

    (人間を知る為に平時では十年かかるものが、非常時では一日で済むというそうね……)

     それでもまだ、己の願望よりも良人を哀れに感じる心が勝っていた。ムトの顔を押しのけ、愛撫を遠ざける。

    「何故?」

     自らの気持ちを自覚した途端、たちまちの内に憎らしく思われたので……。だが、問う彼は答えを必要としてはいなかった。
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